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2021-01-29 41:36

【GMV308】時間をかけて心の整理をつける

現代にはもう少し喪の作業が必要かと思います。
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
一転して二宮はですけどね、晴れ渡りまして、いい天気です。
何らお知らせするほどのことではないんですけど、いろいろ私の常時使っている、
例えばこのポッドキャストが、アイコン等、外観がすごくきれいになりました。
だいたいこういうことが起きると、あまり良いことは起きないという、
Evernoteとかもそうだったんですけれども、きれいになってきちんとなったなと思うと、
使いにくくなってたりするというのが、お約束みたいなところはありますけど、
まあまあ良いことが起きたと思いたいところですね。
これもそのうち、もう少ししたら使い始めて、ちゃんと喋ろうと、
ちゃんと喋ろうとは思ってませんけど、クラブハウスというのに
ありがたいことに招待いただいて入りました。
これはまだ私はさっぱりわかってないし、
わかる前になくなるんじゃないかとすら思っているんですけれども、
要するになんかよくわかんないんですけど、記憶を残さないで、
人と人が会話で出会うというようなSNSみたいです。
記録を残さないというのが私はとても不思議だったんですよ。
ちなみに記録を残さないということについては、
Now and Hereじゃないですか、今ここなので、
Good Vibes的には悪くないなと思ったんですけど、
記録を残さないものがSNSとして成立するのかなというのは不思議で、
最初僕Twitterの音声版だというから、
すごい奇妙なものを思ってたんですよね。
タイムラインで勝手につぶやいたものが記録に残っていくみたいな。
そんなものを聞く人いないだろうと、
おはようございます、おはようございます、おはようございますみたいに
この時間帯のタイムラインだとなるんでしょうけど、
まあまあでも聞いて面白いかなそれ。
何しろ時間かかりますよね。
テキストはいろいろ言われてますけど、
テキストの大きな利点として、
特に読むのが早い人とかは一画面一瞬だけど、
これ全部聞いて回るとなるとですね、
大変まどろっこしい話になっちゃうと思うんですよ。
たまにその中でトランプ大統領が今日何とか言うのを聞くわけじゃないですか。
それも前後の脈絡もなしに、
そういう変なものを連想してたんですけど、
全く違うみたいなんで、
これ使ってみてから喋ろうと思います。
ただこのクラブハウスだったんだよね、名前多分。
サンドイッチみたいな名前ですけど、
できればこのグッドモーニングバイブスと絡めてですね、
グッドモーニングバイブスイベントの
03:02
すごいちっちゃいバージョンみたいなのを時々予告もちょっとしかせずに、
だから要するに予告をしたらすぐその直後にやるみたいな感じで、
っていうのはですね、
これはそんなに重要なものではないんですよ。
これノープランでやってる上にネタもないんですね。
だからそうやってやってきたものなんで、
たぶんネタを募集したからといって、
この番組自体が良くなるというようなものじゃ、
性質的にないと思うんで、
クラブハウスができたから、
話題のネタにこれを使ってみましょう、
ぐらいな感じで考えてます。
ただ、
今日話したいことはですね、
モノ作業というやつなんですよ。
モノ作業のモは、
模復のモですね。
死んじゃった時の時間。
モーニングっていう発音のしにくいやつなんですけど、
要するにモですよ、モ。
そのモニフスっていうじゃないですか。
あれが必ずしもこれはですね、
Good Vibesと同じ話にならないんですけど、
停職するっていうことを先日、
クラズノケイドさんと収録していて気がついたんですね。
ただ、果たして同じような話にならないかもしれない
っていうのが一つあるのと、
クラズノさんに説明していただければ
きちんと説明されそうなんだけど、
多分これはですね、
自分で考えないとダメだなとちょっと思って、
そしてなんかGood Vibesっぽいところには
いけるなって感じが直感的にあるんですよ。
って話をしようと思ってるんですけど、
つまりモノ作業というのは、
つまりって言って簡単に説明すると
簡単になっちゃうと思うんですけど、
つまり私たちはですね、
イリュージョンに生きてるんですよ。
イリュージョンに生きているんだけれども、
そのイリュージョンは多くのものがですね、
現実と関係があるんですよ。
で、そうすると、
私たちは現実世界の上に生きているじゃないですか。
地球上とか太陽の下とか、
大地の上とか。
でも私たちの生活って
イリュージョンに寄せるようになってるじゃないですか。
例えば外気は今、
外気温、4度か5度なんですが、
この部屋の中は17、8度あるわけですよ。
こういうふうに私たちはすることで快適な、
つまり自分の肉体に都合のいい世界を作り出してるわけですが、
これがイリュージョンを生むわけですよね。
恐れと不安も深く関わってるじゃないですか。
外は寒い、寒いのは嫌だ。
だから快適な部屋の中にいると。
で、こうやって説明すると、
現実もその通りだと思うかもしれませんが、
06:00
例えばアラスカとかに住んでる人から来ればですね、
多分外気ぐらいじゃないと暑いと思うんですよ。
これはだから、
一見したところこの言葉で定義しちゃうと、
確定した客観、
よくこれは倉園さんもお話しされますよね。
現実として確定してしまうという言い方をするんだけど、
主観が入り混じっているわけですよ。
肉体感覚であるにしても。
だんだんですね、しかも肉体感覚を離れて、
主観だけが一人歩きすることも多々あるんですね。
それが私たちの意味付けであり、
恐れと不安であり、
おかしな行動へと繋がっていくわけですけど、
私は多分人工的な生活をしてればしてるほど、
おかしな行動は増えていくだろうなっては思うんですね。
なぜなら私たちはやっぱり生き物ですし、
現実世界に生きてますから。
ただ一方で現実世界は過酷なので、
そっちはそっちで恐れに満ちているので、
結局そっちはそっちでおかしな行動が、
しかも過酷な形で今度現れるんですよね。
数は減ると思うんだけど、種類は。
でも過酷になっちゃうんで、
やっぱりそれはそれでよろしくないと。
だいたい戦争とかになると思うんですね。
だから結局こうやっている方がいいと思うんですけど、
小さくて奇妙なイリュージョンが山のように発生しても、
メディアとかを見ながら私たちが脳内に渦巻かせているような、
だいたいどうでもいいようなイリュージョンをたくさん持っちゃうんですけど、
という副作用があるにしても、
たぶんこうやって快適に生きている方がマシだというのが、
たぶん現在の人類のコンセンサスなんだと思うんですね。
その中で私がですね、
よく思うのが、この一つの問題は、
現実と内的現実というものがあって、イリュージョンがあって、
つまり私が生きている現実と世界の現実がずれるわけです。
これはありとあらゆる人がそうなるんですよ。
だから76億のイリュージョンがあるわけですね。
ものすごく分かりやすいところで言うと、
例えば私が自分の娘に抱いている感覚、
これがイリュージョンなわけですよ。
私は自分の娘が世界で一番出来が良くてかわいいと思っているわけですよ。
本当に思っているんだけど、
例えば昨日ですね、
あの方も生意気ですよね、黒柳哲子さん。
窓際のトットちゃんの哲子の部屋でテレビでやっていたんですね。
たまたまやっていたのを見たんですけど、
それは妻が見たくて見ていたんですよ。
妻は何で見たいかというと、
そこに登場している慶応大のイケメンのすごい人がいたわけですよね。
で、言うわけですよ。
黒柳さんは生まれてきた時、どんな人でも勝ちMAXだと言うけど、
明らかにこれを見るとそうじゃないじゃないかと。
慶応大の出ていて、お父さんは実業家で、
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慶応高校で、慶応中学か。
で、中等部、高等部で慶応大を出て、
しかもエグザイルに入ってすごいイケメンだと。
明らかに格差があるということを言いたいわけですよね。
素晴らしい人生を送れている。
とても羨ましい。
ところがですね、もちろんこれはイリュージョンなんですけど、
ポイントはですね、そうは思ってないでしょうって思っちゃう上ですよ。
まず第一に私は少しも羨ましいとも素晴らしいとも思わなかったんですよ。
うちの子の方がいい。
で、これはイリュージョンなわけじゃないですか。
うちの子がどうなろうと、慶応大のテレビに出ていた人の親から見れば、
知ったことじゃないですよね。
慶応大の息子の方がいいに決まっていますよね。
つまりそっちはイリュージョンじゃないですか。
現実ってのは1個だから、2つも3つも現実はないわけですよね。
でも実際には70何億個の現実があっちゃうわけですよね。
で、その現実はどこかが現実じゃないからイリュージョンなんですけど、
私の目にはでもどう見てもうちの子の方がいいわけですよ。
どの面から見てもいいわけですよ。
別に頭がいいとかは関係ないし、慶応大はもともとね、
ほとんど男子が行くところ、女子も行けますけどね、
まあ男子が大体行くところですよね。
で、慶応に行ってほしいとも少しも感じないわけですよ。
妻はそう言うんだけどきっとですね、
妻も慶応大に行ってほしいとか、
この息子の方がいいとは思ってないんですよ。
うちの子の方が可愛いと思ってるんですよ。
みんなイリュージョン見てるわけですよね。
で、こういう風に私たちは実際にある現実、
それがどういう風に実際にあるのか知りませんが、
間違いなくずれてることだけは確かなんですよね。
このように世界を、うちの子のいる世界、
私がこう出来合いしているうちの子のいる世界に住んでいるのは、
私と私の妻ぐらいなもんなわけですよね。
で、そういうイリュージョンの中に、妻の中にはですね、
慶応大を出ていてエグザイルに入っているイケメンは、
素晴らしいというイリュージョンがあるわけです。
僕はそれを持ってないから、そうは見えないわけですよ。
このトットちゃんの番組も至って退屈に見えるわけですね。
うーん、なるほどね、みたいな感じでしかないわけですよ。
で、これイリュージョンというものは、
現実と当然ずれます。現実じゃないわけですから。
でも現実と無関係ではないわけですよね。
僕が見ているようにではないでしょうが、
娘は実際に生きているし、
僕が見ているのとは全く違いますけど、
あの慶応大の人もちゃんと生きていて、大学も行ってる、
どっか行ってるわけですよ。それは事実としてある。
76億人の脳内にあるのとはまた別に、
現実があるわけですよ。
で、この現実とイリュージョンはどうしてもずれる。
さっきからこのずれるを繰り返し言っているんですけど、
12:03
ずれは、はなはたしくなってしまうのを、
たぶんですね、このずれがひどくなっちゃうのを
精神障害って言うんだと、私は思っています。
ざっくり言ってしまうとそういうことだと思うんですね。
けれども、イリュージョンが全くほとんど見えなくて、
ほとんど現実の特に物ですね、
植物的な面にだけ目が行ってしまうのも精神障害だと、
人間社会は見出すと思うんです。
ここがポイントだし、
私はここを最も強調した人が
ドナルド・ウィニコットっていう人だと精神分析家の一人ですね。
フロイトから見ると孫弟子みたいな人なんですが、
の孫弟子、たぶん孫弟子みたいな人だと思うんですよね。
彼が言ったことだと思うんですよ。
人はそこそこイリュージョンじゃないと健全じゃないっていう感じがするんですね。
それがすっごく彼は分かりやすい文章で書いちゃうから、
さっぱり分かんなくなっちゃうんですよ。
当たり前のことしか書いてないように見えるんだけど、
実は相当ややこしいことを書いてるんですよね。
ああいう物書きっているんですよね。
大変面白いというか、大変読みやすいように見えて、
なるほど、うんそうだねって感じなんだけど、
そうやって読むと何にも読んだことにならないような書き手。
で、先日たまたま倉園さんが
おもちゃというキーワードを出されたときに、
非常に近いことを考えているんだなって思ったんですね。
Good Vibesに直結するかしないかさっき言った通り、
まだ僕の中で完全に整理つかない、
そもそもウィニコットの話ってよく分かんないんですよ、
さっきも言った通り。
ただそういうことを言っているっていう感じがありまして、
で、物作業って何かというと、
つまりモニフクスって何のためにやるのかというと、
このズレが認められないときに、
認められるべく心の整理をつける作業、
そのために必要とする時間のことを言うんですね。
これが私は、現代人はもっと取らないとまずいって、
割とこれは昔から思っていたことなんです。
ただこれを今みたいにだいぶ整理をついてきたんですよ。
喋れるようになったのは本当ここ最近のことです。
ウィニコットもよく分かってなかったしね、
今でもよく分かってないですけど、
Good Vibesでだいぶ分かるようになったんで、
やっぱり無関係じゃないと思うんですね。
で、つまりですね、
例えば娘が今亡くなったとしますね。
私は悲嘆に暮れるんですよ。
これが物作業なんですけど、
これは何をしているのか。
つまり私の心の中では娘が亡くなってないわけですよね。
これ起こるじゃないですか。
思い出があるとか、面影がとかって
必ず言い出せますよね。
でも現実にはいなくなっちゃいましたよね。
この現実とイリュージョンとのズレがひどい時に、
修復作業を行わずに生きていると
15:00
狂ってしまうんですよ、その人。
それが精神障害っていうんだと私は思う。
いろんな形がありますが、
イリュージョンと現実は一致することはないわけですね。
イリュージョンだから。
だけれども、一致することはないにしても、
はなはな乖離しててはいかんわけですよ。
例えば私の祖父母はみんなもう亡くなっているのに、
みんな生きていると思い込んでいたら、
それは正常じゃないとみなされるじゃないですか。
でも私の記憶の中に、
少なくとも父方の父母は両方とも結構鮮明に思い出せるわけですよね。
イリュージョンなわけです。
このイリュージョンと現実世界はずれているんですよ。
このズレが、でも私は脳内では思い出せるけど、
これは記憶であって、現実にはいないということが
はっきり認識できる。
これはつまり生理がついているってことですよね。
気持ちの生理というよりは事実の生理ですよね。
気持ちの生理もついている。
こうして健常でいられるんだけど、
いや、死んでいては嫌だとか、死んでいては困るとか、
あのおばあちゃんに生きていて古いとか、そういうふうに思う。
僕はおばあちゃんっ子だった時期がちょっとあるんで、
そういう気持ちがないわけじゃないんですけど、
でもおばあちゃんは94で亡くなったんだよ。
これ、いつ死んだかとかも結構大事なわけですよね。
気持ちの生理がつきやすい。
そうすると物作業というやつは短くてもいいわけですよ。
でもないとおかしいと思うんですね。
やっぱり固執があるわけだから。
固執がなければですね、
たぶん全然関係ない人だったら、
私のおばあちゃんとほんのちょっとしか関係ないような人だったら、
死んだことを即忘れても不都合は起きないわけですよ。
その人の中ではいなくなった。
現におばあちゃんいない。
それで済むんだけど、
私みたいな人間が、
例えば娘が亡くなったというのにですね、
いや、もう娘死んじゃったからしょうがないじゃんって言ったら、
おかしいんですよ、それはやっぱり。
何か分裂症がたぶんそこで進行してるんだと思うんですけれども、
明らかにこれは正常な人の発言じゃないですよね。
生前そんなに出来合いしてたというのに、
死んだらなんかもう死んじゃったんだからしょうがないと。
次に行きましょうみたいな。
こういうふうに生きていく方がいいんだっていう主張はあるんだけど、
たぶんそうではないんですよね。
こうやって平気でいられるっていうのは、
どっかすごく心の機能に無茶をさせていて、
物作業がたぶん完了していない。
一方でですね、
死んだ人どうしても認められないと、
部屋もそのまんまにしてありますとか、
よくありますよね。
2年経っても3年経っても髭も剃れませんみたいな。
これはこれで問題なわけじゃないですか。
物作業がいつまでも続いてしまう。
つまり現実というものと、
自分のイリュージョンのギャップが、
何らかの形で整理されるはずのものなのに、
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整理がつかないわけですよね。
イリュージョンはイリュージョンとして、
ガンとして現実と違うものががっちりあって、
しかもそっちを現実にしようとしちゃうわけですね。
これがたぶん物作業にまつわる諸々なんだと思うんです。
私が現代社会では物作業が足りてないと思うのは、
一つは慌ただしいからです。
物作業をやる暇がないという言い方をする。
ここに一つグッドバイブスを持ち込みたいわけですよ。
時間はなくならないんです。
ついでにゆっくりじっくり丁寧にやりましょう。
これは物作業では必ず言われることなんですね。
だって複々に複数のものを、
現実社会の生産性に合わせて、
ちゃちゃっと済ませましょうって、
明らかにおかしいじゃないですか。
葬式というのはそういうものではないですよね。
これはたぶんよっぽど真珠主義的な人には
納得されないかもしれませんけれども、
普通の多くの人には納得されると思うんですよ。
なぜならば私たちは、
物作業が必要だということを知っているからだと思うんですね。
確かに彼らは特殊だと思います。
それを狂っているとは言えないですしね。
ちゃちゃっと済ませましょうってわけですよね。
死んだものをいつまでお考えでもしょうがないから。
例えば私が娘を失ったとしても、
交通事故で悲惨な死に方をした仮にしても、
葬式はインターネットで簡略的に済ませた方が合理的でしょうって言われると、
僕は到底受け入れられないですけれども、
そういう主張もあり得るわけですよ。
ただこれは、私の感じではですね、
物作業を限りなく短くする、
場合によってはゼロにしちゃうというのは、
多分、僕の感覚ですけどこれも直感ですが、
分裂症以外の何物でもないって感じはします。
今の事例は、
分かりやすくするためにひどくシンプルなものを持ち出したんですが、
現代社会というのはですね、
何を自分が内的現実の中で失って、
そのことの整理がついてないのかに、
自覚しにくいところがあるんですよ。
これもさっき言った通り、
慌ただしい性が一つあります。
もう一つ同じ理由ですが、
物作業必要だという認識が広く行き渡ってないからですね、
どっちかというと葬式もなるべくなくしましょう的な雰囲気があったりして、
物作業をやりにくいんですよね。
いつまで休んでいるんだみたいなノリになっちゃうわけです。
休んでるわけじゃないってことなんですけどね。
何よりもこれだと思うのがですね、
これが僕はウェニコットだと思ってるんですが、
ウェニコットが異向対象と呼んだ内的対象があまりにも多すぎる。
あまりにも多すぎるという言い方は、
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ある程度の数に留まっているべきだというニュアンスになっておかしいんですが、
とにかく多くなったので、
物作業を実は頻繁にしなきゃいけないという事情が僕はあると思うんです。
なのに物作業は重視されていない上に慌ただしいので、
一向にそれが行われないままどんどんどんどん先へ進んでいくので、
みんなそのことでよくつまずくように僕には見えるわけですね。
今の説明ではさっぱりわからんと思うんですけど、
ウェニコットは大変面白いことを言っていて、
ライナスの毛布っていうやつなんですけれども、スヌーピーのね。
どっから毛布が出てきたんだろうっていうようなやつなんですよ。
ライナス君はいつも毛布を持ってます。
まあお母さん代わりにですね、
僕はこれをむしろもっと興味深いなと思ったやつとしてですね、
風と木の歌という同性愛をがっつり書いたすごいヒット作があるんですけど、
あの中でジルベール君という少年がですね、
毛布を持ってママンって言うんですね。
あの人はすごい不幸な生い立ちなんですよ、ある意味。
その美少年なんですけど、要するに毛布はお母さんなわけです。
あれが意向対象です。
意向対象というのはつまりまさにイリュージョンじゃないですか。
でも最初に言った通りイリュージョンというのはどんなにイリュージョン度、
イリュージョン度っていうのは変だけど、
イリュージョンレベルが強くて濃くて、
要するに毛布がお母さんっていうのはもうイリュージョンレベルの鼻が強いんですけど、
でも全く無関係ではないわけですよ。
例えばその毛布は昔お母さんが使ってましたとか、
そういうことが全く無関係には出てこない。
必ずちょっとは関係がある。
それをうんと膨らますのはだいたい子供が得意とすることなんですが、
だからここで倉園さんがおもちゃっていうキーワードを持ち込んでこられたんですけど、
おもちゃすなわちイリュージョンの塊ですよね。
おもちゃとはイリュージョンをなんて言えばいいんですかね、
イリュージョンを成立させるための道具なんですね。
そのおもちゃを失うとき物作業はしないってウィニコットが言ったんですよ。
ウィニコットはおもちゃというものは物作業を必要としない対象なんだっていう言い方をするんですよ。
非常に非常に興味深いと思ったんですよね。
失うことを心の底から嘆くようなものではない。
なぜならば物そのものが内的現実を投影するための装置であって、
外的な現実はほとんど反映していないからだと思うんですね。
雨事の茶碗、それでご飯食べることは絶対ないですよね。
つまりそれは現実にもともとなかったようなものなんですよ。
現実的な意味ではほとんど存在してもなかったようなものなんですよ。
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それを失うことによって現実世界とイリュージョン世界のギャップはほとんど発生しないじゃないですか。
そういう意味で物作業を必要としないんですね。
今の言い回しは大変僕も複雑なことを喋ったなと我ながら思いました。
こういうことが延々書いているのがユニコットの本で、
分かったような気になって読んでいるうちにさっぱり分からなくなっちゃうやつなんですよ。
この意向対象が現代社会って多いと思いません?
私たちがそのものに現実を固くしているっていうのかな。
現実にはそのものは存在しているような、していないような程度のものなんだけれども、
ひどくそれを大事に使って遊んじゃっている。
例えばツイッター。
そうですよね。ツイッターっていうものがどこにもないじゃないですか。
もともとなかったものだし。
いつなくなってもおかしくないようなものでありながら、
例えば一国の大統領がそれを使うとかね。
すごく現実と関係しちゃってますよね。
問題なのは、問題っていうわけじゃないですけど、
おもちゃというものは何でもそうですけど、
どこまでそれを現実のものとするかは全くその人次第なんですよ。
すごくそういう意味ではイリュージョンなんですよ。
ツイッターなんてないも同然とみなしている人もいれば、
まさにツイッターで飯を食ってますという人までいますよね。
もっともこういうことはいくらでも人間社会にはあることではありますけど、
その中間の人もいくらもいるわけですよね。
四六時中ツイッターにいます。
ツイッターを読んでます。
投稿してます。遊んでますが、
ツイッターで食ってるわけではありません。
つまりおもちゃなんですよね。
おもちゃなんだけど、まるで現実みたいになっている。
僕はこういうものの扱いをどうするんだろう。
無くした時ですね。
無くした時、物作業が見るんじゃないんだろうかって時々思う。
仕事だったらば必要です。
仕事だったらば、それが無くなることによって、
現実に生きていくのが困難になるというケースがすごくあるので、
そういう人は必ずその仕事があって欲しかったって思うはずです。
ということは、さっきの私の娘を失った時のゆるいバージョンが必ず起きるので、
短い時間であっても、それほど深刻でないにしても、
物作業というものが必要になるはずであって、
これを一切しないでいくとですね、
きっと私が考えるに、軽度の鬱を発症し得る状態が続くんじゃないかと思っています。
よくあるじゃないですか。
あの仕事の、あの課長とやっていた、
あのプロジェクトの時が一番最高だったとかって言ってるおじさんが、
昔僕の会社にもいました。
私そんな話知りもしないのに、
そういう話を酒に飲むとするわけですよ。
これが物作業が終わっていないという証拠なわけですよね。
その人は過去のある状態、会社がこうであった状態に戻ってほしいって思ってるわけです。
完全にイリュージョンなわけですよ。
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すでに会社はそうじゃない状態に入っちゃってるわけですから。
だからダメになったんだとかって言うわけですよね。
これがイリュージョンなわけですよ。
で、おもちゃじゃないんですよ。
その段階に入っちゃったらすでにですね、悔やんでますから。
でも物作業ってしないですよね。
プロジェクトなくなりました葬式とかってしませんよね。
そんなことはしない。
課長だって死んだわけじゃないんですから。
どっか別の部署に行ったか、
もしかすると昇進して部長になっちゃったとかいう話だったと思うんで、
葬式とかはしないですよね。
でもその人はするべきなんですよ。
そうやって整理をつけないから、
その状態が居残っちゃうんですよね。
自分の心の中では現実であるべきだったイリュージョンになってしまって、
現実はそれよりダメになった現実とみなされる。
これが私は心理的な問題を発生させる一つのメカニズムなんだと思うんです。
で、こういうことはしかしよくあることなんですよ。
そして現代はそういうことが増えつつあると思うんですね。
これはもうほんと界隈でしか通じない話なんで、
こんなインターネットに誰がしたっていう議論が成立するんですね。
これは僕はごく狭い世界でしか成立しない議論だと思うんですよね。
例えばうちの妻の実家のお父さんお母さん、
そもそもインターネットをしていません。
これで生活できるんだなやっぱりって思うんですけど、
してないんですよ。
家に何にもないから。電話しかないんですね。
インターネットはないわけです。
そういう人たちに向かってこんなインターネットに誰がしたって
意味が全然伝わらないじゃないですか。
つまりこんなインターネットというのはイリュージョンなわけです。
で、昔あったこの界隈で語られている10年前は良かったインターネットというのもあるわけですが、
それもイリュージョンじゃないですか。今ないんだから。
そもそもその当時すらあったかどうか疑わしいと思う面もあるんですけど、
何を意味しているのかは僕は一応界隈周辺にいたからわかるわけですよ。
なんとなくは同じものは見えてなくても似たようなものは見えている可能性があります。
でも人のイリュージョンですからね。
それが見えるわけじゃないので本当はわかんないんですけれども。
だからそういう独特の表現によるイリュージョンというのはそうなんです。
差し示す対象が外在しないので、独特の表現によって共同原子を差し示すみたいな気配のものになってくる。
こんなインターネット、昔はこういう楽しいトラックバックとかも活発にしているブログ界隈があったよねっていう。
あったんだろうかみたいな感じの話を一応受け入れた上で、
それが今の時代ではグーグルアドセンスに毒されてひどいインターネットになってしまったねっていう話。
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僕はこれはですね、物作業だって思うんですよ。
物作業がどこかでなされるべきだったんだ。
なんならみんなで葬式めいたセレモニーをしてもいいと思うんですけど、
要はズレがあるわけですよ、そこには。
常に自分の内的現実と外的に合ってない現実があるわけですよね。
しかもそのせいで、ここが大事なんですけど、今ある現実の価値が下がったわけですよ。
これをするとその人たちの気持ちの中での苦しみを生み出す、しかもこれは永続的に生み出すわけですよ、ことの性質上。
どこかで一旦整理をつけてしまわないと。
多分この場合、特に今のような時代だとこれは技術的な話に聞こえるんで、
この場合多くの人はですね、もしそう思っている人がいるとすれば、
あの時代を取り戻そうっていう発想になるじゃないですか。
でもそれはそれもまた大きなイリュージョンじゃないですか。
あの時代を取り戻すとかいうことは私たちは決してできないですよね。
なんて言えばいいんでしょうかね。
過去を現在に移し変えることって不可能じゃないですか。
これはもう論理的に無理な話ですよね。物理的にも。何的にも無理な話。
つまりここに無理があるわけです。
これは一旦死んでしまった娘を蘇らそうっていう話とよく似ている。
それは無理ですよね。それは貞子ですよね。
それは無理なんで、無理かあの世にホラーになっちゃうんで、
それはやめてですね。ホラーになっちゃうという言葉から考えてもですね、
やっぱりモなんですよこれは。必要なものは僕が思う。
モに服さないからお化けが出てきちゃうわけですよね。
ところが我々はモに服すっていうニュアンスと合わないじゃないですか。
あの素晴らしいトラバのあったブログが死んでしまいましたから、
みんなでモは無駄物を唱えにしました。おかしいですよね。
何かしらでもそれに相当するような、僕が思うには時間だと思うんですけどね。
時間とそれについてちゃんと考えることと、じっくり時間をかけて考えることと。
しかしそんなことはしない。なぜならば慌ただしい。
そしてなんか雰囲気的にフィットしない。その上モは無駄だと思われている。
でも私が思うに内的現実、つまりイリュージョンの世界と外的現実のズレを修正していかないと、
こういったことは多分頻繁に起こるんだろうなというか、現実にやだら起こっているんだろうなと。
これは今の言ったのはほぼほぼ冗談です。ほぼほぼ冗談ですけれども、
会社での何かのプロジェクトとか成功体験といったものについてはですね、
たぶん冗談ではなくて、自分一人でもいいので何らかの形で物作業をするということが、
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しかも今は昔よりはるかに要求されている時代だと私は思う。
ここのところでですね、はっきりどうという結論がまだ物作業としても葬式とは違うと思うので、
なんかちょっと違う何かが必要だぐらいな感じなんですよ。
ミニコットなんですよ。なんかこううまいこと言うんだけれども、どうすればいいのかよくわからんみたいなところは、
僕の中でははっきりあります。
ただ、別に古き良きインターネットの葬式をするっていうのでは、
ジョークになっちゃいますけれども、
なんかですね、時間を作ってそれについて一定の結論を出しておくっていうようなことは、
多分しといたほうが、しておいて良くないことは何もないだろうなと。
やっぱりそう、いそに過ぎている。時間が足りないという意識に縛られすぎているということと、
なんかこうですね、最近多くの漫画によって描かれている通りなんですけど、
タイムスリップ的な、あそこが分岐点だったみたいな、
この考え方が、なんていうんだろう、受け入れられすぎているような気はします。
なんかこう取り返しをそこにいってつけることができるみたいな、セーブポイントみたいなね。
ありえないことなんですよ。
多分世の中が人工的になってきたから、こういう感覚が混乱をちょっと招いているんだろうなって感じが少しするんですけれども、
あの時点が分岐点で、あそこでやり直せばみたいな言い方をするじゃないですか。
それだからやっぱり貞子になっちゃうと思うんですよ。
人を蘇らせる的な話だと思うんですよ。
ビデオテープから人が出てくるみたいな。
そういうことは不可能なので、だからこそ物作業というのであって、
物作業というのは絶対に、たとえどれほど受け入れられないとしたとしても、
イリュージョンを現実にすることはできませんよということをはっきり理解するということで。
そんなこと分かってるってさらっと言うとすると、分かってないんですよ。
そういうふうに思う時が人は来ると思うんですね。
私は娘に先立たれれば必ずそういうふうに絶対思いますよ。
イリュージョンを現実に優先させる。
あの時娘と一緒にいればあんな事故には合わせなかったのにって絶対思うじゃないですか。
これがつまり分岐点に戻るという発想ですよね。
何ならばですよ。
亡くなった髪の毛とかを使って蘇らせようとまでしかねないじゃないですか。
それはつまり貞子じゃないですか。
そういうようなことを私たちは考える。
それはつまり、現実というものは受け入れられないものであり得るという発想なんですよ。
36:06
途中私が言った、死んじゃったんだからしょうがないじゃんで済ませるっていうのはなぜ分裂かというと、
現実はやっぱり受け入れられないものであり得るという恐怖感がその人の中にはっきりあって、
だから現実を受け入れないことにしちゃうっていう戦略が僕は分裂症だと思うんですね。
もうそんな現実は知らんと。
起きたことを全部受け入れているような顔をして何一つ受け入れないっていう戦略があり得るんですよ。
その人も現実世界と自分自身を分裂させてしまったので、
それはそれで一つの障害だと思うんですね。
私はこれに近いやり方をずっとしてきたんですね。
いわゆるカタストロフっていうのかな。
インパクトを受けたくないから自分が手に負えないようなことは一切なかったことにしちゃうみたいなそういう考え方。
これは総的防衛と限りなく近いと僕は思うんですけれども、
専門用語をバンバン出して勝手にぐっちゃめておりますが、
徐々にこういう話をコマゴマとしていければいいかなとそういうふうに思っています。
ついでにこういう話でさらに先また違う流れから聞きたいという方、
明日、私と蔵園さんでセミナーしますので、
よろしければそちらに3000円程度なのでご参加いただければ、
わからんというところは時間を気にせず丁寧にお伝えしたいと思います。
本当ですね、この作業は僕はいると思うんですよね。
ある種の事柄については自分一人だけでするしかありませんけど、
私も時々思うんですよ。
やる気君と通称されている先送りする人に何とか何とか50の方法、
あれ25万部類型で言ってるんですけど、
あの時代に戻りたいみたいに思うわけですね。
あそこでああしておけばとかって思うわけですよね。
仕事だから、おもちゃじゃないんで、
お金ももちろん深く関係してきますし、
自分の本だったわけですから、
なんであの時にもっとああいう風にしておいて、
例えばツイッターのフォロワー、10万フォロワーとか、
得られるようになっておかなかったんだろうとかいろいろ思うわけです。
全てイリュージョンですよね。
売れた物数はイリュージョンじゃないかもしれないけれども、
もうそこから何かこういう人生が歩めたと言っている人生は
歩めてない段階ですでに完璧にイリュージョンなわけですよ。
私はそれを失っているわけですが、
現実はそうじゃないという意味ですけどね、これはね。
現実がそうじゃないのに私の心の中では
そうであり得たという風に考える。
この考え方の中に
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物作業が未完了である部分があるわけです。
心の整理を完全につけきれていないから、
今の現実とは違う現実が現実としてあり得たというような
頭の混乱を生み出しちゃうわけですね。
それなりに売れたわけだから、
残念だと思う程度のことは絶対に起こると思うんですよ。
ある程度の時間とエネルギーを投入しなければ、
きっちり整理つかないこともあると思うわけですよ。
だからこそこの内的現実というもの、
つまりイリュージョンを強化してしまったようなことを
現実を紹介しながら、
つまり現実をよく見ながらですね、
調整をつけていくという作業が必要なんじゃないかと。
そしてですね、なぜ冒頭でクラブハウスの話をしたかというと、
つまりクラブハウスがこれからイリュージョンを作り出していくわけですが、
これはいつまで続くかわからないのでわからないんですけど、
おもちゃになるわけです、多くの人にとってね。
おもちゃ以上のものになってしまうかもしれない。
まさにこれがSNS時代のユートピアを作り出すものだと、
本当に心の底から信じる人も登場するかもしれません。
そういう人はいずれ裏切られることになるわけですが、
こういう時に物作業に近いことをしておかないと、
あの時Googleプラスが流行っていれば、
わからん苦しみに苦しむことになる気がする。
そして私たちは実はそういうものをいっぱい抱えているような気がするわけです。
自分が実際に何を失って残念に思っているかすら
自覚できなくなりつつあるほど、いろんなものに、
いろんなイリュージョンでどっぷり浸って遊んでいて、
どっぷりそれが現実だと思い込むようになっていたり時々していて、
そしてそれがパッといきなり消えてなくなっちゃうというようなことが
現に起こり、
いろんな現実にこれがなくなっていることが
受け入れられないちょっとですけどね。
柔らかくそういうことが混乱させている感じがするので、
これ、ウィニコットが言ってたことなんだなっていうことを
最近すごく考えるということです。
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