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2025-02-14 25:55

「引きこもり」と「孤立」【1136】

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おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1136回をお送りします。
7月14日、バレンタインで、あ、2月だ、ごめんなさい。2月14日、金曜日ですね。朝4時45分です。バレンタインで。
いい思い出があるわけがないのでですね、この話はすっ飛ばして、今日時間があまりないのでですね、軽く山崎孝明さんと新井さんという方と佐々木翔吾の3人でカナエ弾を
お話しする、提供するというイベントが3月14日?1月15日だな。3月15日にやります。土曜日ですね。
えっとですね、非常にありがたいことに部屋も埋まり始めておりまして、あの滅多にないことなので驚いてるんですけど会場参加が10名様までで、
残り6名といったところまで来ました。なので、この種の私のイベントは埋まらないだろうと思われていると思うんですけれども、多分埋まるので、本当に来たいという方はですね、急ぎご参加いただくといいかなと思います。
まだ一般告知っていうのかな、XとかFacebookの一般告知はまだしておりませんので、この段階でこうだということは、半数近く埋まってますからね。
あの今これを聞いている方、ごくごく少ないんで、本当にこれを聞いていらっしゃる方が、私の計算では最大で300人いないぐらいですからね。
300名様。プラス3ヶ月チャレンジと、タスクシュートの100日チャレンジには直接まだ告知しておりませんから、この段階でこの数字ということは、多分最終的には埋まるであろうということでですね。
興味ある方は是非、特に会場に来ていただくと、生のと言っても別に嬉しいか分かりませんが、山崎孝明さんに直接お話できるといった状態なので、これはですね、今はそんな大したことないと思われるかもしれませんけど、
例えば今生の遠畑海人さんに直接触れる機会ってどんどん減っていくと思うんですよ。僕はそれに順するんじゃないかと勝手に思っておりますんで、まあ僕勝手に思ってるだけなんですけど、一応貴重な機会かもしれませんよということです。
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その山崎さんの、直接スーパーバイザーではないと思うんですけど、当時、上智大学で指導教官だった藤山直樹さんという方の、今日は話をしたいなと思っております。藤山さんはですね、もちろん対象関係論で精神分析家でもいて、日本に精神分析家ってもしかすると2桁という話がありますから、現役でやってる方ほんと少ないんでね。
これも貴重な、精神分析的心理療法家じゃないですからね。精神分析家なので数少ない1人なんですけど、藤山さんに直接指導されている大学院とかでね、のが山崎孝明さん。
で、私は藤山直樹さんの本っていうのから精神分析に入ったわけでは全然ないんですが、やっぱり藤山直樹さんというのはなんて言うんですかね、すごい本ですけど独特なんですよね。本当に精神分析家みんな独特ですけど、本当にそれもなんかこう不思議な感じのものを書かれる方で、なんて言うんですかね。
私はほとんど理屈としては松木邦博さんとか、分かってはいなかったけどその前に土井武雄さんとか、さらに分かってなかったけど小乃木圭吾さんであり、さらにこれは違いますけど河合駿さんなんですよ。
そこに後半、藤畑海人さんが入っていらっしゃいましたけど、僕の中にね。でも藤畑海人さんは精神分析を藤畑さんで理解したって感じはしないんですよね。どっちかというと精神分析に対する私の純金コンプレックスというものを彼から学んだ気がするんですよ。やっぱり理屈を一番理解したのは松木さんの本ですね。松木さんの本だと思います。
決定打になったのは何なのかというと、すごい後から考えるとよくわかんなくなってくるんですよね。省令堂羅も結構ものすごく決定打になったような気もしますし、藤山直樹さんのそれこそ精神分析集中講義もすごいこう、やっぱり藤山さんの本ってすごい独特で、なんて言うんですかね、そんなことはないんだけど、あたかも藤山直樹理論を理解した感じがするんですよね。精神分析の対照関係論が彼の本によってわかったというよりは、
彼の本の話ばっかりしてた時期がこのポッドキャストで多分あると思うんですよ。なんかね、そういう引き付けられたをする人なんですよね。カリスマ感を感じます。後藤にはどういう意識っていうかわかんないですけど、すごいカリスマ感を感じるんですよ。松木さんの場合はあまりそういうのはないんですよね。でもすっごいこの人なくして私は精神分析はほとんど1ミリもわかんなかったんじゃないかという感じがするんですよね。
すごくこう、わかるべきことは全部書くみたいな。なんかね、飛ばされてしまうんですよね。えっと、これはなんて言えばいいんですかね。できるワードとかってあるじゃないですか。ステップ1セットっていうか全部書いてあるやつ。できるワードみたいなやつ。松木さんのはできる精神分析なんですよ。もうなんか全ステップがここにできる対照関係論みたいな感じなんですよ。
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一方で藤川直樹さんの本当にこう飛ばすんですよね。語みたいなんですよ。この行間は、たとえ精神分析集中講義みたいにもう根絶丁寧な解説をしている本ですら、実は行間が飛んでるんですよね。最初からそういう感じなんです。もうこれスタイルなんだと思うんですよね。その飛ばしがまた非常に独特なんですよね。特に精神分析の営みとかは。
よくわかってる人が読めば別に行間飛んでないと思われるかもしれませんが、よくわからない頃に読んだ私としては、やっぱ飛んでるんですよね。なんか意味が全然わからなかったんだけど終わってしまいましたみたいなことが頻繁に起こるんですよ。でも心には残る。
松木さんのはどっちかっていうと、もう全行間がぎっしり埋め尽くされていて、それでようやくわかるんです。それですらよくわかんない時があって、その時には精神分析用語辞典みたいなの。これ松木さんの本なんですけど、引いて、しかもそれを電子で引いて、電子で検索をかけるということをやるとですね、非常にパーソナルなんとか辞典だったような気がするんですよね。不思議な本なんですよ。ある意味ではね。
あれも大きかったですね。非常に何かがそれによって急速にわかっていくみたいなものを感じました。私なかなかわからなかったものの一つに、ダメだ、こういう話をしていると、今日は20分で絶対終わらないわけにはいかない日なんで、すいません、ここはちょっとスルーしますが、要は私わからなかったの。機械な対象ってやつなんですよ。ビザレオブジェクト。
あれですよ。ATMが私を見張ってますみたいな時のATMとかそういうような、必ず統合主張症と言われている人に話をしていると、話し込んでいると急に出てきて、非常にこう不意をつかれる感じがするんです。
統合主張症の人って全然普通にごくごく本当に知的な人は、むしろ自分より頭はしっかりしているようにしか思えなくて、そういう人に言うなら突然、実はこの間火星人に襲撃されてね、みたいな話になった時になるんですよ。そういう印象で。
なんか私バカ、なんつったらからかわれてるのかなって思っちゃう時があるんですよね。相手の方が頭が良かったりすると、なんかこの人ジョークを急に真顔で言う人なんだなみたいな、そういう風になりかねないんですよね。私そういう風に、特にアメリカ人のそういう人と話している時に頻繁にありました。自分の言語力のせいなのか、何なのかがよくわからないんですよ。
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だって私、そういう聞き間違いを知るレベルでずっと留学してたから、しょっちゅう話の糸口を見失う人間でしたから、別に不思議はないんですよね。相手の人が言ってることを単に聞き間違えたのか、冗談を言ってるのか、あるいは何かふざけているのか、ないしはそういうことなのかを結局わかんないんですよね。
だから先に聞いておくことによってむしろわかるみたいな、キョトンとしちゃうってやつなんですよね。ダメだ、こういうことをやってると時間がなくなる。今日はだからその山崎さんの詩であるのかな、藤山直樹さんの藤山直樹対象関係論みたいに僕には思えているということなんですよね。だから喋ってたんですよ、いっぱい。
あの一時ドコンジョガエルの娘とかを山ほど喋ったり、イブブラックとイブホワイトの話を山ほど喋ったり、なんかすごく心に引っかかるから喋るみたいな。松木さんの話もめちゃくちゃしてた時期がありましたけどね。でも松木さんのって読んでわからんことはないと思うんですよ、一般的に言って。でも藤山さんのってやっぱり読んでもよくわからなかったから喋ってた気がするんですよね。
わかりきっているとすごく読んでも喋らないっていうことになりやすいんです。また脱線している。つまり何が言いたいかというと孤立ってやつなんですよね。で、この孤立ってのをウィニコットっていう人はいい意味で使っちゃってるんで、普通僕らの日本語で孤立って言ったら悪い意味じゃないですか。言語はアイソレーションなんだけど、いい意味で使っちゃってるんで。
僕がまだ悩んでることがありまして、特に藤山直樹さんの本の文脈で読むと悩むのが、アイソレーションと引きこもり、つまり孤立と引きこもりって対の言葉なんですよ。引きこもりは悪い意味なんですよ。いいこと何もないみたいなことをウィニコット書いてるんで、まあでもあの人逆接的なんで、本当に悪い意味でのみ書いてるかどうか疑問なんですけど、でも引きこもりっていうのは要は偽りの事故という概念と似ていて。
要するに対人関係でやむなく使う。結局僕ら引きこもりって絶対使っちゃうし必要なんだけど、必要悪みたいな感じがニュアンスとしてあるんですよね。しますでしょ。私たち人前で引きこもりますよね。
完全に人前でツンツンしちゃったり、ツンデレのツンツンでしちゃうのは良くないんだけど、もうなんか笑顔で終始相手してくれてるけどこの人心引きこもってんなみたいなことって起こるじゃないですか。明らかに話し合ってないんだろうなっていう。価値観合ってないとか相性悪いとかそういうニュアンスで引きこもっちゃうわけですよ。これが引きこもりなんですよ。
心の中についた手を立ててしまって、やりとりは維持するんだけど、こなれた人は本当これ上手いんで、分かんなかったりもしますよね。でも社交事例ってやつですよね。引きこもってるんですよ。心の触れ合いはなくなってる。これは気づかないわけにいかないんですよね。それに対してアイソレーションっていうのはそうじゃないですよ。心から預けてしまっている孤立なんですよね。
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だから完全にオープンマインドな孤立なんですよ。雰囲気としては。赤ちゃんが一番あるんですよね。あのママ友が話してる間で安心してぐっすり寝てる赤ちゃんは、孤立してるじゃないですか。そこにいかなる交流も特に見えないんだけども、でもその赤ちゃんは引きこもってないですよ。完全にそこにいますよね。黙って。
だから完全にそこにいて、安心してそこにいて、要はオープンなんだけど、でも一人きりでいるっていうこの状態。僕はこのアイソレーションという状態をウィニコットはすごく重視しているという気がするというか、そういうことが藤山さんの本にも書いてあって、最近読んだウィニコットが、あの本も小説なんで、ウィニコットとの対話みたいな、でも死んでしまったウィニコットと対話しましたみたいな。
そういう独特の文学的な、精神分析的なたてつけの文学的なやつで、面白かったんですけど、アレンカーとかいう方だったかな。書いている。彼はウィニコット派の人ですよね。で、その、アイソレーション。私あれは非常によくわかる気がするんです。
大人がいっぱいいる部屋の中で、隅っこの方で一人で遊んでるんだけど、でも一人きりで遊んでる時とは心理状態が全く違う。経験が多い人とそうでない人で相当伝わる程度が変わると思うんですよね。
僕よくはと思うのが、学生食堂とかで、いろんな人と食べてるんだけど一人で食べてるような感じがする時。そういう時ってあるじゃないですか。別にそれは誰かと一緒にいたり、相席してないし、喋ってもいないから一人なんだけど、でもそこにみんながいるのとそこに他には誰もいないっていうのは全く感じが違いますよね。
みんなの中にいて一人きりになっている時。ここをすごくですね、ウィリコットは重視している感じがして、私もこの心理状態って人間には必須だなって思うんですよね。人の中にいるんだけど、人間の中で生きてるんだけど、自分は一人になっている。この時間がですね、すごい少ない人っていらっしゃるんですよね。
引きこもってばっかりいて、孤立になれないっていうタイプ。人とずーっと一緒にしちゃうタイプなんですよね。人とずーっと一緒にいるんだけど、その人は孤独なんですよ。逆の人っているんですよ。非常に恵まれてますけど。ずーっと孤立してるんだけど、常に人と一緒にいられる人。これはね、相当恵まれているし。
で、ここでちょっと僕わかんなくなることがあって、藤山さんが書いている中にウィリコット的なナルシシズムっていう表現があるんですよね。
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要は私はね、これはこの状態といわゆる孤立とどう違うんだろうっていうのをいつもちょっと考えてしまうんですよ。
ウィリコット流のナルシシズムってこういう感じなんですよね。周りをみんな環境の母親扱いしてしまって、自分は一人きりで安心しきってそこにいるみたいな、オープンマインドなんだけど、自分しかそこにはいないみたいなですね。
これはこれでナルシシズムなんですよ。他者というものが見えてないかっていう感じ。だから赤ちゃんはそれでいいんでしょうけれども、大人がそれを四六時中やってると、なんかちょっとあまりにも人を当てにしすぎて生きてるよねみたいな雰囲気がしてくるんですよ。
あまりにもその生き方は、多分あまり非難されないですよ。そういう人は好かれてるんで。ただなんかこうちょっとずるいっていうのとは少し違う感じがするんだけど、やっぱりこうずーずーしいというのともまたちょっと違う気もするんですけど、あまりにも舐めてないみたいな感じがちょっとしちゃうというね。
多分この生き方は悪い生き方じゃないんだけど、そしてそういう人ってなんかそれが痛い。僕なんか全然こういうことはできませんから、でもやってるのかもしれませんけどね。でもね、結構これは独特の面の皮の厚さみたいなものを感じる。
あのー、不遠慮。自然な不遠慮さっていう表現をですね。私、風雲寺達というコミックを愛読しておりまして、水本太郎さんがですね、大黒屋高大夫っていう人の、あのあれですね、井上康社が、井上康社だったと思うんだけどね、小説で卸屋国水無丹という映画化もされた作品に出てくるんですけど、ナンパするんですよね。船がナンパして船長なんですけど。
えーと、それがちょっとこう大変な雨にあってロシアをぐるーっと回ってくるという。鎖国時代の日本なんで、そういう経験した人ほとんど日本人っていないじゃないですか。卸屋国水無丹の、卸屋はロシアなんですけど、この高大夫の態度には自然な不遠慮さがありっていう、こういう感じなんですよね。
で、これって全然モテない人はモテないじゃないですか。悩まなく人に気を使っちゃう人っているじゃないですか。自然な不遠慮さっていうのが、あの、いつそれを指摘されて批判されるかと恐れているみたいな。
だから、その人は引きこもるんですよ。で、高大夫みたいな人は孤立され、孤立することができない。ミニコット流の表現ですからね。人と一緒にいて一人になれるっていう。人と一緒にいると絶対一人になれない人は常にもう耐えられなくなるので、人に気を使い続けることが限界を迎えるので消耗するとかっていうふうに表現をとる人ですよね。
引きこもるしかないんですよね。ついた手を立てて、あの、心は笑顔だ、あの顔は笑顔だけど心では泣いているみたいな、そういう歌みたいなのがありましたけど、なんかそういう感じなんですよ。分裂が起きちゃうんですよね。自然な不遠慮っていう人には分裂がないじゃないですか。態度そのまんまなんですよ。でもそれって人といるのに態度そのまんまって、ある意味こう、まあ大したものですよね。
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これができると人間はすごくこう楽になれると思うんだけど、結構これが難しいと。私も結構難しいと。つまり家にいるように、くつろぐように、外にいてもくつろげるみたいな、そういう感じなんですよ。
まあ一応目指してはいるんですけどね。だから私もアイソレーションっていうのをすごい意識はするんですよ。電車の中とかでは特にこうアイソレーション、頑張ろうみたいな、引きこもらないようにしようっていうね。見た目は何も変わらないんですよ、はっきり言って。見た目は一人でいて本でも読んでるんで、でも絶対にこれは違うんですよね。
これを、だから引きこもると分裂するんで。外と内に分裂するんで。だからウィニコットが考えるところのっていうのかな、ウィニコットの言うところのスキゾイドっていうのは現代社会ではすごいこう、現代社会的じゃないですか、ウィニコットの言ってることって、引きこもりとスキゾイドですよね。
内と外、内の顔と外の顔を分ける。で、そういう分裂をして内側に自分の心が引きこもっている。これを本当にあらゆる行動でやりだすと社会的引きこもりっていう現代の問題になってる社会現象に相当するんだろうと思う。
いずれにしてもできないことはその人にとって難しいのは、アイソレートできないわけですよね。特に外にいるとできなくなる。で、ある種の人はうちに入ってもできないから、もう本当に引きこもるしかなくて、本当にドアを使う、本当についた手を使う。部屋に入ってこないでくださいみたいになってしまう。起こさないでくださいのホテルにあるやつみたいになっちゃうわけですよね。そうしないとくつろげない。
で、この種の人にしてみると、電車の中とかでくつろげないのは常識なので、そういうところでくつろいでる人がいるっていうのは信じがたいわけですよ。要するにユニコット流のアイソレーションができるっていうのは信じられないって感じがあるわけですよ。しかも、なんかそういうことをやってる奴はただ大棒なだけだみたいな。
クラインの言うところの、パーソナリティ障害の厚皮のナルシシズみたいに、人を本当に見下してる。あれはアレで、アイソレーションできてないんだと思うんですよね。むしろね。
で、そうやって社会の中でうまく孤立になってうまく一人きりになるためには移行空間とか移行対象というものが必要になるわけですよ。小道具が必要になる。例えば本とかですよね。つまりそれを使うことによって自分のままごと空間をそこに設定していくわけですよ。
さすがに大人なんてね。お茶碗ですよとかってやってられない電車の中で。だからこの辺にね、頭が変っていうことと母親ってことが絡んで出てくる気がするんですよね。やっぱりね。つまりその本とかは親対象を心の中に呼び出すための小道具みたいな感じなんですよ。
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これを持ち出すことによって自分の移行対象として、そしてそこに自分の移行空間というものを、目には見えないですよ当然ね。作り出すわけですよ。その電車、あのほら、銀河鉄道39の星の鉄路ってすぐ自分の空間を作り出すの上手かったじゃないですか。
メーテルと一緒に、まるでそこが自宅みたいに電車の中をしちゃうじゃないですか。あの辺の感じだと思うんですよね。あの辺が移行空間っていうものだと思うし。
まあメーテルどう見ても母親ですから。そういう風にして、あの星の鉄路は孤立できるわけですよ。いろんな空間にいて宇宙にいるのに、まるで自宅で一人っきりでいるようにくつろいでいられる。あれはそういう主人公ですよね。そこに魅力を打ち出しているような主人公って感じがするんですよ。
これをね、要は3ヶ月チャレンジの一つの目標にしたいわけですよね。こういう空間を絶えず作っていくっていうことを、私と参加者さんで2人で、2人で各々1人になって、でも2人でいるみたいな、まあここはバーチャル空間なんでね。そこ難しいんですけれども、2人で1人でいる。
これをできるようになっていくと、その時はそれができても、社会に出るとできなくなったりもするじゃないですか。違う人と違う、もっとシビアな状況になるんで。この行ったり来たりの中で、その情緒的な振幅をですね、自分の中で測っていくっていうのが大事だと思うんですよ。
昔の言葉で言うと、というか自我心理学的に言うと、これは対抗と一時家庭と二次家庭、対抗と大人の行ったり来たりだと思うんですけど、そういうことよりも、孤立と引きこもりの行ったり来たりだなって思うんですよね。
そうすることによって、人間が生きていく時には分裂ってどうしても分裂ぶくみなんで、分裂と統一っていうのを自分のこの振幅の中で体験して、交互に体験していって、それを自分のものにしていくみたいな、そういうものにもしたいんですよね。
だからフロイトがやったのは本当、ある意味すごい正しいと思うんですよね。彼は狙ってやったのかわからないんですけど、でもこういうことは意識されてたと思うんですよ。彼はほら、見つめられるのには耐えられないっていう表現を取ってるんですよね。
そしてほとんどこれはこの辺は藤山直樹さんのお話なんですけど、カウチを使ってお互い見ないわけですよね。お互いの様子を必ずしもはっきりと見られるような位置関係にないわけですよ。
二人で一人、二人なんだけどそれぞれ一人きりになってるわけじゃないですか、それって。でも常に二人なわけです。一人は自由連想をずっとしていて、もう一人は要するに自由連想に対して時々解釈をしたりしなかったり、みたいな感じなんですよ。
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だから二人で交流しているように見えるんだけど、各々が各々の空間に入っていくみたいなところがあって、二人で一つの空間を共有するんだけど、孤立してるんですよね。それが望ましいわけですよ。当然、なんかこうね、言ってほしくないことを精神分析家が言うとかそういうことが起こるでしょうから、そうすると引きこもりたくなるじゃないですか。
だから患者さん、クライアントはあの精神分析中にしょっちゅう引きこもっちゃうと思うんですよ。そういう時にまたまずいことが起きるわけじゃないですか。非常に感じの悪い沈黙になったりするとかそういうことですよね。この行き来をしてるっていうことが割と大事なんじゃないかなという。
私これはですね、現代の私たちにはすごくこうあるなと。家の外と家に行ったり来たりするみたいな感じですよね。そうやって我々は生計を立ててるわけじゃないですか。家の外に行って仕事をし、僕は外に行ってませんけど、でも昨日池袋とかまで行きましたからね。
外に行って仕事をし、無事に戻ってきてくつろぐ。で、外でもできるだけくつろぎつつ、家の中でも家族といるときは完璧にそういうふうにアイソレートできないんで。で、家族の間でもお互いに対する意識の中で引きこもったりすると。
こういうことにセンサーがよく働くようになって、しかもその出し入れに慣れてきたりこなれてくるとですね、あんまり人といて消耗するとかいったことがなくなってくるんじゃないかなという感じがするわけです。
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