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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日が当時だったと思うんで、この夜長い状況はそこを打ったはずなんですけど、
そこを打つんですけど、これはあれですね、未来予測の中でも数少なく、かなり決定的に正確に予測できる計ですね。
それだけ地球の時点とか光点速度って異常なほど安定してるってことですよね。
これはこれで自然現象なので、秒単位で見ると遅れとかずれとか出てるんですけれども、地球そもそも完璧な球体じゃないですからね。
赤道方面の方が膨らんでますよね、ちょっと楕円的で、軌道も完璧な円とかでは当然、そもそもこの広大な空間で完璧な円とかっていう
定義自体が無理なんで、まあそれはしょうがないと思うんですけど、でもそれにしては正確だなと。
無駄なことを喋っていると1分経つんで、昨日はカチマックスの話をしたんで、今日は
今ちょっと年末に向かって年始前までにそのグッドバイブスの基本形に沿っていこうと、まあ沿ってもすぐ脱線しちゃいますけど、
でも基本、出だしぐらいはそうっていう、私の中の勝手な習慣なんで、それをやっているわけですが、意味付けいこうと思ってます。
意味付けはすごい私の中では重要で、先日クラゾの平野さんと
鎌倉の小羽川というところでですね、 えっとグッドバイブス
のちょっとしたセミナーみたいな、レクチャーをそこで伺った、私も聞いたんですけど、
そこでクラゾンさんはもう少し先へ行く、ただし本当のことは分からないから、もう私の感じで半歩前へ向かうみたいな、
半歩も一歩も同じなんだけど、要するに本当のことは分からないんだけど、本当のことへ向かおうみたいな、そういう話も入ってきてたんですね。
私は今のところそこは保留なんですよ。 そこのところは大変いろいろややこしく私の中ではなっていくんで、
まずはその意味付けを手放すに徹している感があるんですけれども、
これ同じ話に多分なるんですけど、 意味付けを徹底的に手放すということが本当のことに近づくということと多分
私の感じではイコールに近い。イコールかどうかまでは分からないけどイコールに近いんですよ。
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で、意味付けを手放す、手放さないと少なくとも本当のことには決して近づけないと
いうことがあるんですが、これは私のこれまでの
考え方では2つあって、特に意味付けに関しては大事な方として、どっちが大事は言えないな、両方すごい僕の中では大事だったんですが、
不可知論というのがあります。 人には結局本当のことは決して分からないという哲学があるんですね。
で、これはもう哲学は近代以降全部これって言っていいぐらい、徹底的にこれで
ものすごい極端なところまで行くんですよ。 これ以上いけるのかっていうところまで行くんですね。
世の中は全部当てにならないとかいうレベルを遥かに通り越えて、例えば夜間が沸騰しているけどそれは本当に熱いかどうかは分からないみたいな話まで行くんですよ。
触ってみて火傷をしてもそう信じる根拠にはならないみたいな哲学があるんですよね。 私はそういうのが極度に好きで、それにも理由はあるんだけど、
喋ってると時間が経つので飛ばしますが、大学時代そればっかり、カントとかショーペンハウエルとかあの辺ですね、
とにかく会議的なものっていうものにのめり込んでた時期が長かったんですね。 つまり大学時代全域を組んでいて、
かつ大学を卒業して4,5年はもうひたすら会議主義なんですよ。 これここまで行くのはやっぱりですね、長寿がというものはすごくこう自分を苦しめていた
良い証拠なんですよね。この話との絡みがあるんですけど、要するに父じゃないんですけど、
起きてみたいな、世の中の起きてみたいなもの。もうちょっと軽いんですけどね。 というものがもう私に対して徹底的に的対的で、
それは自分の中にあるんですよ。この話も教授に何とかしたいんですけど、 その自分の中にあるこう自分を抑制しようとするという、抑止しようとするという、
それがもう本当ダメで、何としても全てを疑ってかからないわけにはいかなかったという 事情があって、その時たまたま一番私にとってこう
しっくりきたのが幻想学というやつで、だから私ずっと幻想学読んで大学時代を過ごしていたようなところがあるんですね。
エポ系って言うんですけど、とにかく意味付けと全く同じなんですけど、パッと見て、例えば空が青くて綺麗だと思ったら本当に青いのかっていうところで一つ
括弧に入れる。本当に綺麗なのか、もうこれは完全に括弧に入りますよね。 で本当に空なのかとかね
本当に見てるのかとか、夢かもしれないってやつですよね。 青くない空もあるわけじゃないですか。
綺麗じゃないっていうのはあんまないかもしれないけど、まあでも工業、 郊外時代の日本とか中国とかあるわけですよね。
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でいろいろ その空と言わない国もあるわけじゃないですか。
そういうことをやっていくんですよ。ありとあらゆることについてそういうことをやっていくんですよ。 そのうちですね、一度二度ですね、私感覚がそういうことを続けているうちに
おかしくなってしまってですね、上下が常に 安定しないっていう時期がちょっと大学時代にあったんですね。
普通に考えると、例えば部屋の中を歩いていると、それは足元は足元だから下じゃないですか。
ところがこの上下の感覚が反転してしまって、なんか天井を歩いているような気分になっちゃうんですよ。
そういう問題が起こるんですね、これをやり続けていると。 例えば下とは本当に下なのだろうかと。
ブラジルとか行くと逆転するじゃないですか、上下って。 だから上下っていうのは結局それは抽象概念であって、
上が上で下が下だということは疑う余地があるわけですよね。 あのそのちょっと後ぐらいだったと思うんですけど、マトリックスを見て大変感心しました。
あのやっとこういうことが世の中的に出てくる時代が来たんだなって思ったんですよ。
あのとにかくこのことは苦しかったんで、苦しいんですよ。 上下反転とかして生活してたらすっげーめんどくさいんですよ。
本当に頭おかしくなってるんじゃないかぐらいな感じがあるんで、戻るんですけどね、これは。
上下って感じを作ってるのは脳なんで、あんまり疑っちゃダメなんですね、そういうことっていうのは。
本当にあの、あんまり疑うとただ生活が不便になるだけで、私もこの上下反転するのを何度か経験して、あの反省してこれはやめようと思ったんですよ。
でエポケーっていうのはそういうものでして、だから私はその意味付けを手放すっていうのはものすごくあったんですよ、実は。
私はそこから一本も出なかったんですよね。ひたすら意味付けをこう疑うみたいな話をずーっとしてる、話じゃないな、そういうことをずっとただしてただけで、
別にこう、だからグッドバイブスにとかそういうのが一切なかったんで、だからただ辛いという、そういう、あのハマり込んでた感があるんですよね。
これよりかなりマシだったのが、その精神分析を知ってからで、
同じような考え方があるんですね。グッドバイブスにもあるし、ここ来るんですよね、どうしても。
理由は後ほど多分分析の話をしながら出てくるはずなんですけど、意味付けを手放すというのは結局ですね、あの特に
人間関係のことで出てくるんですよ。私はもう大学生だったから、まあ何度かお話ししている通りごく普通にですね、
彼女が欲しかったっていう言い方を当時すごいしてたんですけど、違うのかな、あれ。恋愛がしたくてしょうがなかったんですね。
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で、私はその恋愛ができなかったんですよ。これはね、非常に不思議なんですけれども、やっぱり超自我なんですよね。
で、2つすごい大事なことがここにありまして、例えば
可愛い女の子を見るじゃないですか。ここで可愛いを括弧に入りますよね。本当に可愛いのかと。
そして、本当に女性なのかっていう括弧もありますよね。
まだ当時そういう時代じゃなかったけど、すごいやっぱり女装の上手い男性とかいたから、女の子かどうかなんてわかんないですよね、外見からだけでは。
で、もう一つ当然、本当にこの人いるのかっていうのがありますよね。
夢を見てるかもしれないっていう。夢だって構わないっていう風に私考えるようになってから留学したんですけれども、
夢かもしれないという問題があるわけですよ。
で、夢だったら話しかけに行ったりするのすごい簡単じゃないですか。夢なんだから。
そこで私はまた考えることがあったわけですよね。この意味付けというのはつまり、自分発のものじゃないですか。
可愛いとかアプローチしたいとか全てですね、その女の子が私に向かって働きかけてはいないはずですよね。
いるのかもしれないけどまずいないと考えるのが妥当なんですよ。
つまり女の子の方は何にもしてない。私が勝手にそれを可愛いとか欲望の対象になるとか、全て私の側からくるものですよね。
ということはですね、この意味付けに強く人役かかってるのは要するに私の内部にあるわけですよ。
これは当然ですよね。ところが私たちはそれがよくわからなくなっちゃいますよね。
よく言うじゃないですか。今時で言うと、ケンタッキーフライドチキンを見て美味しそうって言うじゃないですか。
美味しそうなのはまるでフライドチキンが美味しそうな力を宿してるみたいですけど違いますよね。
あれは多分フライドチキンを100個ぐらい食べて、無理か、20個ぐらい食べて気持ち悪くなれば、あれ見て美味しそうには見えなくなるんですよ。
つまり美味しそうというのは括弧に入りますけど、括弧入れですけど、エポケの対象ですが、これを作り出してるのは自分の食欲なわけじゃないですか。
この構図と全く同じものが女の子だろうとiPhoneだろうと絶対当てはまるわけですよ。
ここは簡単なんですよね。すごくここは簡単だと僕は思うんですよ。
つまり外部の対象と内部の欲望が結びついた時、これを切り離すのは私にとっては病異だったんですね。
これは私の中にあるものなんだから、外にはないんだよっていうのを認識するのは比較的病異だったんですよ。
これがフロイトが言うところの異動なわけですね。衝動ってやつですよね。
欲動とか離微動とかも多分この辺の話なんですよ。
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ここは私にとって内部と外部を切り分けるということはできたんですね。
これが大事だったんですよ。こうすることでむやみに苦しまずに済みますよね。
手に入らないものをもうどうしても手に入れなければ幸せになれないと考えずに済むじゃないですか。
欲動の問題だから外にはないんですよ、もともと私が欲しているものは。
これの言い方すごい不思議に思われるかもしれませんけれども、さっきのフライドチキンの話からしてもそうだと私は思うんですね。
素晴らしいものが外にあるというのは私がそういうふうに思い込んでいるからなんですよ。
だったらこれを何とかすればですね、多分それを手に入れなくて済むようになるはずなんですが、
もう一つの問題が私をなかなか困らせたんですが、それが超自我ってやつなんですね。
超自我と異動の関係ってこれを言うと多分誤解の元にしかならないからあれなんですが、
でも今日は話を早めるために強引にいきますが、アクセルとブレーキだと思うんですね。
でも全部が全部そうじゃないんだけど、アクセルとブレーキという部分があるはずなんですよ。
異動はアクセルなんですが、超自我はブレーキなんですね。
で、これセットで働いちゃうんですよね。
このことをエリフスコンプレックスって言うんだと私は絶対思うんだけれども、今日ここまで行くのはやめにしてですね。
問題なのはこの超自我も私の中で働くわけですよ。
というかエリフスコンプレックスって全部セットで私の中でのみ働くんですよ。
お父さんと戦ってお母さんと恋に落ちて虚勢される怖さって、
つまりこれはですね、そんなことは現実に起きる必要はなくて、
そういうことが起きるケースも稀にはあるのかもしれませんが、少なくともうちではそんなこと起きてなくて、
ただ何かを手に入れたいと、それアクセルですよね。
お母さんと恋愛してお母さんを手に入れたいというのはアクセルですが、
この欲望にはブレーキがかかるようにできている。
すべての人がそういうセットを持っている。
これがフロイトが言わんとしたことだと思うんですね。
ブレーキがかかる。そういう欲求を持ってはいけませんというブレーキがかかる。
こっちのブレーキ役が超自我。
この超自我をですね、自分勝ちだということがよくわからなくなってしまうケースがすごく多いと思うんですね。
忌みづけを手放す上で私が一番手放したいと、手放すべきだと、
当時思うべきだったのが、これはおかしいんだけど、思うことができなかったから超自我だったんですよ。
例えば女の子に声をかけるとかでもいいんですが、すぐストップかかっちゃうわけですね。
そういうことをしてはいけないような気がするわけです。
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これも私初なんですよ本当は。
だけど私はそういう捉え方をするのが結構困難で、
何かこれは他人に見とがめられているような感じがつきまとっていたし、
なんかそういうことをやると人からバカにされるような感じがつきまとっていて、
どうしてもですね、それが外部にあるっていう感じを拭いされなかったんですね。
私はHSPって全部基本はこれだと思ってるんですよ。
超自我をまず外にあるものだと誤解して忌みづけですよね。
その誤解を解くことが自力でできない。
大概の人がですね、あのケンタッキーのフライドチキンが美味しそうに見えるのは今がクリスマス前で、
しかもお腹空いてるからだ。つまり自分に原因があるんだって気づくじゃないですか。
ところが特にHSPという話が出てきた時に、
例えば外の物音でビクッとするって言った時に、
ビクッとさせてるのは自分だってことに気づけないんですよ。
まるで自分の近く花瓶だから、そういう大きな音にビクッとしてしまうというのは、
何て言うんだろうな、必然的に起こることみたいに思っちゃうんですよね。
僕がまさにそうで、なんかこう、
さっきの話で言うと、恋愛しようとするとそこに静止がかかるのは必然的に起きてしまうことのようで、
極端に言うとというかごくごく普通にですね、
私は女の子にバカにされるって思ってたんですよ。
これも外にあるんですよね。
そうかもしれないんだけど、この言い方があれですよね。
本当のことはわからないなんですけど、それよりも何よりも、
問題なのはそうかもしれないかどうかじゃなかったわけですよ。
そういうことがあってはいけないと思ってたんですよ。
抑止がかかってるわけですよ、ここには。
そういうことがあってはいけないからアプローチしてはいけないわけですよ。
で、アプローチをするんですよ。それでも無理やり頑張って。
そうするとものすごくギクシャクしちゃうんですよね。
それは何でかっていうと、抑止がかかりっぱなしだから、
ハンドブレーキを引きながらアクセル踏みまくってるようなもので、
ものすごくガクガクガクってなるわけです。
その自分が嫌なわけですよ。
ところが、これがどうしても私は、
自分がこのアクセルのブレーキをかけているんだとは思えなかったんですよね。
女性の目線にこの原因があると思い込んでたわけです。
本当はそうなのかもしれないですよ。
でも、つまり目線はきつかったのかもしれない。
でも、目線のきつさ自体は抑止力はないんですよ。
抑止力があるのはあくまでも私の心の中であって。
だから、エポケイをこういう時こそかけるべきじゃないですか。
女性の目線が冷たいのは本当なのかと。
カッコに入れるべきなんですよ。これができなかった。
自分の足元が下か上かまでカッコ入れするのに、
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こういうところでしない。
意味づけかどうかについてまともに考えようとしない。
自動的にそういうことに怯えてしまうという。
で、これがですね、私はよくわかったんですけども、
ずっと繰り返し繰り返しこのことで悩んでいるうちに、
これは母親の目線なんだと。
母は言ってくれたことがあるんですよ。言ってくれたらおかしいな。
あんたそんなことやってるとみっともないから。恥ずかしいから。
あれを聞いてね、ハッとしたんですよ。
そうか、これは母が私に思い込ませようとしている力なんだということに気づいたんですね。
これで吹っ切れたんですよ、私は。
あ、そっかなんだ。恥ずかしいのは俺じゃないんだ。
母なんだと。
これを聞いて私は全く恥ずかしくなくなったんですね。
これは非常に不可解な話に聞こえるかもわかんないですけど、
私はそういうふうに解釈したんですよ。
これは文化的な遺産のようなものなので、
私の中にある、そこまで明確じゃなかったですよ、当時は。
私の中にある衝動と自我と超自我のセットが備わっているんですよ。
これはフロイトが言ったことです。
人間には生まれつき備わっていると。
多分そうなんじゃないかなと思いますね。
これをエディプスコンプレックスと言うんですと。
そういうことが起こるかどうか問題なんじゃないんですよ。
この超自我というものを外部の何かと結びつけてしまって、
極度になると。
同一化してしまって。
これを投影性同一視って言うんですけど、同一視してしまって。
まるでその目線が私を非難していると確信するようなシステムが働いている。
これはしかも欲動が、つまり衝動が働いた時にセットで反応して起こるというふうに。
あれは虚勢恐怖ですよね。
お母さんが恋し、虚勢される恐れが発生する。
セットで登場する。
まさにそのまんまじゃないですか、私のもの。
女の子にアプローチする。
それに対して超自我が刺激を受けて、女の子の目線という形をとって、
その超自我が私の欲動を批判する。
で、そういうものを刺激しようとしたのはうちの母だったわけです。
私にとってはね。
ぴったりなんですよ。
エディフスコンプレックスのマッシュグラって感じなんですよ。
これを何か理解した瞬間に恥ずかしくなくなったんですよね。
そして非常に面白いことに恥ずかしくなくなってから、
あんまりアプローチしたいという気持ちも薄れるようになったんですよ。
いろんな意味でこれはすごい精神分析的な話なんですね。
全部これはエポケイを頑張ればいけたはずなんですけど、
エポケイは私頑張れなかったわけですよね。
結局そのカッコイレ、カッコイレ、カッコイレで行けば絶対行き着けるところがあったはずなんだけれども、
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全ての女の人が私に冷たい目線投げかけるはずないので、
ところがそう信じるんですよね。
着ている服がイケてないとか顔がカッコよくないとか、
そういう理由を持ち出しては自分を攻撃するから。
で、この攻撃は自分が自分にしてるから、やむことが絶対ないわけですよ。
超自我は自分の中で攻撃してるわけですから。
この一つですね、この衝動と超自我のセットで別のバージョンがあって、
これつい最近思いついたというか考えついたんですけど、
これも倉園さんと話している中でですね、
バランス感覚っていうものにこだわる人いるよねって話をYouTubeだったかTVだったかでしたんですよね。
その時に倉園さんが、あれは人間が作ったものだからっていう話をされてたんですよ。
その頃に僕が考えたのは、これもエリプスなんだなっていうことなんですよ。
妙にバランス感覚についてですね、それが道徳かモラルかのように言う人っているじゃないですか。
行き過ぎはいけないよって。
あのところに僕はすごく超自我的なものがあって不思議だって思ってたんですけれども、
超自我なんですよね、それも。
結局私たちの心の中で感じていることは、行きたいアクセルですよね。
ダメ、ブレーキですよね。
このセットでしかないわけですよね、エリプスって、究極的には。
僕の言い方どうしてもシンプルすぎて批判の的だと思うんですけど、
でも究極的にそういうことだと思うんですよ。
アクセルを踏もうとするとブレーキがかかってくるみたいな。
そういう、なんて言うんだろう、ある一定の枠に自分をはめ込もうとする。
自然なんじゃなくて、自然なんだけど、生まれつき備わっているとすれば自然なんだけど、
脳にはそういうオーガナイズがあるみたいな言い方を多分フロイトはしてるんだと思うんですよね、心にはなのかな。
で、それと何か文化的な状況をセットにしないと変じゃないですか。
何でもかんでもアクセル入れた瞬間ブレーキがかかる必要はないわけで。
例えば、うんと食糧事情に乏しいところでどんどん食べるやつはダメですよね。
だからそういう時に食欲に対してブレーキがかかるように多分備わるんですよ。
そういう風に刺激を受けて、そのセット全体がアクティベートされる。
だけど今のアメリカみたいに、こと食べ物に関してはもう割と豊富にあるってところでは、
どんどん食べることに別にね、食糧事情を云々の理由で食欲を抑える必要はないですよね。
だからそういう時に多分エリプスみたいなものが必ずしも働かないんだと思うんですよね。
で、ファットな人がやたら増えるみたいなことは起こると思う。
で、今度はファットに対するエリプスみたいなのは発生すると思うんですけどね。
だからバランスっていうのも、これはバランスという表現をとってるだけなんですよね。
それはエリプスでしかないと思うんですよ。
行き過ぎはいけないと、頂点になってちゃダメだとか、あの辺HSPと似てきますけど。
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これもエリプスなんですよね、結局。
自分がリビルがすっぱしろうとする時に、それを抑止する力が自然と働く。
ここにその人が生きて生活している文化的なもの、つまりみんなが
ここではエリプスを発揮した方がいいよねと、みんながコンセンサスを持っているもの。
日本で言うと調子に乗ってるってやつですよ。
あれ日本ではコンセンサスを持っているじゃないですか。
別に調子に乗ってもいいんだけど、調子に乗ってはいけない社会的事情が昔の日本にあってですね。
みんながその時に調子がをアクティベートするんですよ。
だから調子に乗っていてはダメな気がするんですよね。
この辺にバランス感覚っていう言葉を現代で入れてくるのは、
それは現代の社会的状況が調子に乗っててもいいような感じになってきたんで、
違うものが欲しくなるんですよね。
要するにリビドウがグーッと行った時に必ずブレーキが働くんだけど、
それは何の根拠もないわけですよ。
生物にとって根拠って別にいらないですからね。
そこで根拠というのは文化的なものなんで、言葉で表現できるものがいいんで、
バランスとか引用とかそういうものを持ってきて、そこに当てはめておくわけですよね。
だからエリプスに対する言葉の一つなんですよね。
それがつまり虚勢恐怖では今どきの時代ほとんど全く意味をなさなくなってきたので、
何か違う言葉が欲しいというわけですよね。
それでこの虚勢恐怖とかお父さんにおチンチンを切られますという代わりに、
バランス感覚が大事ですって言うわけですよ。
ほらこっちの方が綺麗な感じがするじゃないですか。
ただどっちもただのエリプスなんで、
端的に言ってしまうとバランス感覚でもなんでもないということなんですよね。
これは私の長寿がを承認してくださいと言っているだけのことでしかないわけです。
で、これが正しさってものなんだろうと思うんですよ。
今のようにみんな長寿が働いちゃうわけですよね。
で、面白いはずないですよね、長寿がってのは。
例えば何かおいしいものが食べたい、ダメです。
綺麗な女の子と付き合いたい、ダメです。
いちいちダメなわけですよ。
で、この衝動が強くなれば強くなるほどエリプスは強く働いてくるので非常にフラストレーションがたまる。
その時に文化的なコンセンサスというものがあるかないかがすごく大事になってくるわけですよね、結局。
いろんなものがありますよね。
お金を稼がなきゃいけないみたいな話でも正しさって出てきますし、
正しさっていうのは本当にこういうグッドワイブズみたいなタスクシュートですらあるんですから、
ムーブメントでタスクシュートでやるといいよって言いたいみたいなのがあるわけですよ。
これはもうこれ自体がエリプスっぽいけどね。
とにかくタスクシュートで時間を管理するとうまくいきますよと。
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言い過ぎは良くないみたいな、これはバランス感覚的な話ですよね。
あるいはこう、Aがいいって言うばかりではいけない、AもBもいいって言うようにしなさいみたいな。
これもエリプスなんですよ、結局。
そこでみんなの長時間が戦い始めるわけですよね。
というよりは長時間を戦わせ始めるわけですよね。
要するに簡単に言うと、あいつら分かってないと、あれですよね。
あんなことを言い続けていると、ろくなことにならないみたいな。
これはまさに人のリビドを抑えたいという、実際にはですね、自分のリビドを抑えたいなんですけれども、
そういう形をとるんですよね。
その、自分のリビド、つまり、ある人が儲けでばっかりいると面白くないみたいな、
この辺はもう複雑すぎて単純なリビドでは済まなくなってくるんですけれども、
面白くないみたいな、あるいはある人ばかりが人気者になると面白くない、
例の調子に乗っているというやつですね。
それを抑えたいという、自分の中で抑えているわけだから、
自分が調子に乗っているのを抑えているわけだから、
当然、人のも抑えるのが正しいということでないと、ただのブレーキになってしまう。
ただのブレーキほどつまらないものないじゃないですか。
自分がただブレーキを踏んでいて、それがすごく楽しいという人はいないと思うんですよね。
ブレーキを踏むのは正しいという、調子があってそういうものなので、
ブレーキを踏むのは正しいという感覚とともにあるわけだから、
ブレーキ踏んでないやつを見ると、ブレーキ踏ませたくなるわけじゃないですか。
こういうふうになっているんだけど、それが全部自分発だということに気づくと。
気づくというのはつまり、耳づけに気づくというか、手放すということなんですけど、
つまり、外にある力のようなもの。
正しさとか、抑止するべきとか、いくべきとか、美味しそうとか、
そういうふうに、全部力が働いているようなものというのと、
それは外に力の源泉があるのではなくて、内側にあるんだということを分離することができると、
多分本当のことに半歩近づける感じが、また半歩言いましたけど、するし、
あと、最悪の場合、神経症的な苦しみにハマっていく、それを止めることができるわけですよね。
どうしても、欲動、自分の中で欲動が起きたとき、何しろそれとセットで正しさが起きているので、
欲動、悪だとみなしがちなんですよ。
女の子のアプローチがいい例で、それが恥ずかしいとうちの母が言ったわけですよ。
そうすると、欲動、悪じゃないですか。
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でも、欲動ってなくならないじゃないですか。悪だろうとなんだろう。
ここで一つのアプローチとして、私は上手いこと、タイミングよく言って、
ここに正しさが別にあるわけじゃないんだというふうにパッと切り替えることがたまたまできたんだけど、
それまで大変苦しんでたからとも言えますけどね。
この欲動は悪なんだから、外に出すっていうのが一番多いやり方なんですよ。
いやいや、私が女の子に欲求を抱いているんじゃない。
あいつらが自分を誘惑してるんだって、そういうことを言い出す人っているじゃないですか。
こうすると神経症が始まっていくわけですよね。
本当は自分の中にあるのに、それを外に出すわけですよね。
それは容易ですよね。
本当は自分の食欲がフライドチキンおいしそうに見せてるんだけど、
いや、フライドチキンがおいしそうな光を放ってるんだみたいな。
そういう感覚になるのは容易じゃないですか。
全部外に原因があるわけですよ。
こうして特に悪い欲求を外に出した時、自分の中にあるということが面倒だと、
恥ずかしいとかそういうことになるとですね、厄介なので外に出すわけですよね。
外に出すとどうなるかというと、あれですよね。
私がこの、読むセラピー1という中で取り上げた平気で嘘をつく人たちの出てくる
脅迫神経症とかになるわけです。
外に何か問題があるわけですから。
一番多そうなのがきっと今時の時代は特にですね、
例えばこれは欲動というのも変なんですけど、私たち自然に振る舞いたいですよね。
自然に振る舞っているとつい失言をしてしまうし、
何か失敗するわけですよね。つい言わなくていいことをメールで書いてしまったりすると。
これが欲動の自然な在り方だと思うんですよ。
書きたいことを書いていきたいように生きると。
でも、そうするとですね、リミドに対してはセットで必ずエリプスがあるわけですから、
長時間は、いやいやそれじゃダメだろうと言ってくるわけですよね。自分の中でですよ。
そうすると、このセットを自分の中に抱えていると疲れるわけですよ。
自分は自然に振る舞いたいのに、いちいちそれに文句をつけてくる奴が自分の中にいると。
このシステムがイライラしてくると、思い切ってですね、外に出すわけですよね。
失敗というのは自分の中に原因があるわけじゃなくて、外に原因があるわけです。
自分は完璧な人間で、そういう考え方があるわけですよ。
完璧な人間で、パーフェクトなんだけど、何か問題が外で発生するんだと、いうことにするわけですよね。
一番それがひどくなると、完璧なナルシストが出来上がって、すごい怖いことになってくるんですけれども、
中途半端にそれが起きるわけですよね。失敗をしているのは自分じゃないんだけど、
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もしかしたら失敗というようなものが外側にあるのかもしれない。
多分この考え方が脅迫神経症だと思うんですね。
いやガスコンロをつけ忘れる俺ではないんだが、なぜか火はついているみたいな。
これすっごい困るじゃないですか。必ず消えているかどうかを確認しに行かなきゃなんなくなるわけですよ。
手はいつも綺麗な自分なんだけど、ウイルスはなぜか蔓延しているっていうことになって取っ手に触れなくなったりするわけですよね。
すべて外にあるわけですから、悪いものを外に追い出してしまった関係上、もっと追い出した場合はですよ。
もっと追い出すとこのランクを超えていって、俺はガスコンロを消し忘れるはずはない。
家が火事になったのは妻が何か火をつけたからに違いないとか、そういう話になっていくわけですよ。
全部他人のせいになっていくんですね。外へ外へと追い出していくレベルが上がれば上がるほど。
だから多分、脅迫神経症というのはまず自分の肉体に出すんですよね。
体の何とかが悪いみたいな、そういう話にする。次に多分肌の表面に出すんですよね。
体というのはそれを恐ろしいことというか嫌なことに応えてくれて、妊娠とか発生させてくれるわけですよ。
悪いものは外にあるんだというのに応えてくれるわけですよね、ある程度。
だから肌の表面が汚いような気がするとか、手を洗うのはやめられない系ですね。
自分は悪くないんだけど、手が汚いわけですよ。
でもこれは相当まだまだ良心抵抗ですよね。
この次に来るのが多分ドアノブとか、鍵をかけ忘れるとか、コンロとかですよね。
この辺全部忌みづけを手放すということで、実は本当はいけると思うんですよ。
こういう失敗が本当にいけないのかと、かっこいい例ですよね。失敗なのかと、これもかっこいい例ですよね。
悪いことなのかと、かっこいい例なんですよ。
全部こうやって頑張っていくしかないと思うんですよ。
そうするうちに自分に原因があるということが、ことを突き止めることができる。
そうすれば、全原因が外だか内だかわかんないみたいな、そういうあやふやなところに置かれて、
何度も何度も確認するしかなくなるみたいな、そういうことにならずに済むと思うんですね。
かっこいい例を徹底して、本当のことに一歩ずつ近づいていくしかないと思うんです。
それをしないで外へ外へと出していくと、最終的にはやっぱり娘が悪いから、
火がつけっぱなしになっていたら全部娘を叩くとか、そういう話になっていっちゃうわけですよね。
これ、原因というものの話を以前したときに言っていたことですけど、
要するにこれは忌みづけであって、エポケにするべきところでしてないということですよね。
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全部私たちはリミット通りにいきたいわけですよね。
それが一番楽だから、何でも適当にやっておきたいし、ある意味では。
きれいな子がいたら全部アプローチして、おいしそうなものは全部食べる。
これをさせないために長寿がというものがセットで備わっているわけですけれども、
このセットが忌みづけの連発にしてしまうわけです。
どっちもある意味では、私たちの正気を少し失わせる機能を持っちゃってる。
もともとそれは原因じゃないんです。アクセルがあったらブレーキがないと困るんで。
ただそれだけのことだったはずなんですけれども、そういうものがいろんな形で誤作動という言い方は私は好きじゃないんですが、
誤作動させているぐらいな感じなのかな。
そういうものとして一番今の時代にマッチしちゃってるのが、HSPと完璧主義というやつなんだろうなと。
それはどっちも結局忌みづけを、全ての自分の身の回りの忌みづけをしていくから起こることで、
それを手放していけば多分そこからは解放されるんじゃないだろうかという気がします。
もともとそれほど重篤なものではないですからね、どちらも。完璧主義もHSPも。