1. 一戸信哉の新潟のへラジオ
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はい、おはようございます。新潟のへラジオ一之平信哉です。
今日は日曜日ですね。
昨日も大学の方は授業もなかったので、昨日ちょっと酒屋という場所に行ってきたので、ちょっとそのお話をしたいと思います。
酒屋というお酒のイメージを私も持っていたんですが、あまりお酒関係なさそうですね。
ちょっとびっくりしたんですけど、この場所は酒屋会議という、1868年の母親戦争のときに、
酒屋会議というのが行われて、そこから、北越の新潟での母親戦争のときの戦いのきっかけじゃないな、
前段階の一場面が酒屋会議ということになるんですけど、その場所なんですね。
場所は江南区というところにあります。
江南区というのは、当然新潟市が政令指定都市になったときに区割りをしていったときにできているんですけど、
江南区というと亀田政果のある亀田という町が大きいというか、亀田という町のイメージが強いんですが、
当然亀田町だけで出来上がっているわけではないので、その一角に酒屋という町もあると。
でも知りませんでした。
最初酒屋会議というのをね、母親戦争のときのことを見ていたときに酒屋会議というのが出てきて、
本当に酒屋にみんなが集まっていたのかなと思ったんですけど、場所の名前だったということです。
地図で見ると酒屋という場所は、小穴子川という、小穴川に小さいと書いて小穴川というのがあるんですが、
小穴子川と信濃川が分かれるというか、信濃川から小穴子川を分かれていくところにある場所です。
小穴子川についても今度いずれもうちょっと調べてお話したいと思いますが、
小穴子川というのが信濃川と阿賀の川という新潟を流れる2つの対岸がありますが、
この2つの間を横につないでいるような川で、おそらく治水対策で作られた、
意図的に作られた川で、確か穀物入れを調節するところがあったと思いますが、というところでして、
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その川に両方挟まれているというか、その川が分かれていくところにあるので、
この酒屋という場所は両川という地名もついていまして、
今この周辺の小学校、中学校は両川小学校、中学校という風になっていました。
だけどここの地名としては酒屋町というのが酒屋町かな。
ちょっとウィキペディアの表記も追われてましたね。酒屋町、酒屋町というのが残っています。
で、どういうことかというところをちょっと遡っていくと、酒屋というこの場所はですね、
幕末に合図班の飛び地として、新潟近辺にある神谷ですね、合図の拠点がそこに作られたということなんですよね。
それの目的は何だったかわからないんですが、そんなに長い期間ではないんだけど、幕末の一時期合図班の拠点になっていたと。
ここにですね、1868年の初頭みたいですね、1月か2月ぐらいだと思いますが、この時点で戸羽伏見の戦いは始まっていたのかな。
とにかく京都の情勢が緊迫する中で、合図班が越後諸班を集めたという話なんですね。
だからどこが集まったんですか。長岡とか、長岡、柴田は集まったと思うんですけど、他にもいくつかの越後諸班が集められて、今後の対応を協議するみたいなことになっていくんですね。
これは私も全く知りませんでしたけど、この段階でずっと江戸時代そうなんだと思いますが、
ここの越後に睨みを利かせている御近所の藩というのは合図班で、合図班の影響を受けて解液されちゃった、潰されちゃった藩もあれば、
柴田藩なんかは潮止め事件というのがだいぶ前ですけど、あってかなり追い詰められた時期もあったりしてですね。
とにかく力関係が違う。同じ藩と言いながらも、合図班と戸様の柴田藩なんて格が全然違うというような状況で、
おい集まれって言われたら集まらざるを得ないと。そんな状況だったんだと思います。この頃までですね。
で、いろいろ見ていくとこの坂谷会議の前に、確かに一回その前に、いつかな、その前の年ですね。
その前に一回新潟、古町で古町の寮邸に集められて、そこで新潟会議っていうのをやって取り決めをしまして、
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おそらく何かあった時には君たちもちゃんとあいつを助けて一緒に戦うようにっていうようなことを取り決めたのかな。
もうちょっと手前かもしれないですね。ちゃんと話し合って決めるようなことを話し合ったのかもしれない。
で、それを書上にしてあって、その時の古町で話し合った結果に基づいて坂谷会議っていうのが招集されてっていう流れなんですね。
だからその坂谷会議の坂谷っていうのはやっぱり飲みながらやったのかなと思ってちょっと調べてみたら、
飲みながらやったかどうかわかりませんけど、場所の名前だというのがこの坂谷という場所ですね。
で、坂谷で何日間か話し合ったっていうふうにどっかに書いてありましたけど、話し合いまして、
で、ここでみんな、渋々なんでしょうねきっとね。どれくらいみんな乗り切ったかわかりませんが、
みんな応越列般同盟というのに参加をして合図側について戦うということを約束するというか約束させられるというかですね。
そういうことになっていくという場所ですよね。
で、なんでここをちょっとおじくって見ているかというと、この辺ではエチゴの各藩は渋々合図の言うことを聞くんだけど、
でも本当はですね、やっぱり畑色あまり良くないなということに気づいている藩もいるわけですね。
その代表格が柴田藩ということになりますが、柴田藩は少なくとも女性を把握をしていて、このまま合図についていても多分負けるというふうに見ていったようですよね。
その辺は京都とか江戸とかかな、京都からいっぱい所情が届いていて、女性を把握していたと。
結果的にどうなるかというと、最終的に柴田藩は京都にも新政府軍の要請に応じて兵を出しますし、
その間、列般同盟の方にもうまく話を取り出していきながら、最終的には新政府軍を新潟の港から上陸させるという役割を担うということになるわけですよね。
なんですけど、この辺でエチゴ諸藩はこの状況に困って、板挟みですよね。板挟みになって困っていたというふうな女性が見て取れる、そういう場所なんですね。
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藍津川から見れば、新潟にあるいくつかの富地で、今新潟県に入っているけど、そこで藍津藩の藩士が亡くなっていった場所としても認知されていると思います。
これは同じことが多分、宇和沼の小出なんかも、そんな史跡がいっぱい残っているんですけど、
坂谷というのは激闘が繰り広げられたというような話でもないのかもしれません。多分でも亡くなっている人たちがいるみたいですね。
坂谷神谷というのも、坂谷神谷自身は、戦闘でいうよりは農民の総盲義勇隊みたいなやつですね。
立ち上がって、新政府軍に就いた人たちが神谷を燃やしてしまったというような話でも、すでに跡は残っていないということです。
調べたら、この今写真に入れた坂谷神谷と神谷被っていうのも、最近できたものなのかもしれないですね。
ずっと被されていた。昨日少し調べてみた感じでは、長い間藍津藩がそこに残していたものってお寺の中に隠されていて、
ここは藍津藩の拠点だったみたいなことをあまり言わないようにしていたみたいな話があって、
そういう場所なんだそうです。
今は本当に静かな場所で、坂谷という集落ですよね。坂谷集落両側小学校中学校の各区という感じで、それなりにまとまって人が住んでいるようなところですが、
村としてあったのは明治時代までで、その後どこに合併したんだっけな。
自治体としてはもうだいぶ前に合併されているんですが、ましても見た感じもひとつまとまった集落という感じがする場所です。
ただ、坂谷というか、飲食店はあまりなかったような感じがしますね。あまり関係ないけど。
ここの看板を見ると、ここで小穴子川というのがあることによって、あがの川の水運の恩恵を受けて、
海運の拠点として、たぶん小穴子川を作ってそれで藍津との行き来がしやすくなったということだと思います。
そういう意味で、藍津との交流の痕跡を今も残す町であるというような説明になっていました。
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地名としても面白いですよね。坂谷というね。
新潟県93くらいありますけど、坂谷という町に酒蔵があるかどうかは見てきませんでした。ないんじゃないかな。
ということでした。
今日は新潟市、江南区。場所は江南区なんですね。江南区だけど、たぶん最寄駅は小穴川っていって、小穴川は秋葉区なんで、
たぶん江南区秋葉区のこの、なんていうんですかね、きわのところですね。区の坂谷に近いところにあるんだと思います。
江南区坂谷というところについてご紹介しました。
今日もありがとうございました。
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