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はい、おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は10月15日土曜日です。
今週もですね、朝の配信をできなかった日が結構あったりして、なかなかまだペースが突っ込めておりますが、今日は土曜日ですよね。
土曜日なので、普段あんまり喋らないんですけど、今日はお話ししてみようと思います。
今日タイトルを入れましたのは、鉄道の話ですよね。
鉄道開業が150年、昨日ですか。150年ということで、いろいろな話題が出ておりました。
JRかな?JRが作ったYouTubeの動画もかなり再生されているみたいで。
最初のところだけ見ましたけど、まだちゃんと見てませんか。鉄道150年ということで、いろいろ話題が出ております。
今日私の方からは、大野誠さんという人のことを見つけたので、ちょっと取り上げてみたところです。
この人については、北方文化博物館ですよね。
そこにある北方文化博物館の中で、10月1日から展示されている岩越線と柴田阪物語という企画の中で、
この大野誠さんと鉄道の関わりについての企画展が行われているということで、
昨日配信でBSNから映像が出てきていました。
鉄道事業に関して伊藤博文やと交わした秘蔵文書などが初公開。
なかなかタイトルつけるの苦しんでますけど。
多分大野誠さんは私も知りませんでしたけど、新潟でもあまり知られていないと思います。
明治の官僚として活躍した人の一人で、柴田阪出身の人なんですよね。
今回展示されたのは、政府の鉄道事業に関わりを持って働いていた大野さんか、
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大野誠さんが伊藤博文部下だったんだけど、色々手紙を受け取ったりしてやり取りをしていて、
記事の中では、神戸大阪間の鉄道建設費は準備金から支出すべきだと大倉省と折衝しているみたいな。
そういう手紙が伊藤大野官でやり取りされていると。
そういう話で、確かに内容としてはマイナーですよね。文脈がわからないと。
手紙はやり取りしていたってわかるけどね。どういうことなんだろうという感じになるかと思います。
こういうのが見つかったんだそうです。
というので、北方文化博物館で展示が行われているということをBSNが紹介している記事が出ていました。
大野さんは知らないわけですよね。
大野さんはどんな人なのか調べてみましたが、最終的には長野県令を務められたということです。
1881年に長野県令になっています。
長野では知られているのかな。
この時期の県令というのは、相当地元と揉めて、あるいは異業な人を得てという形でなければ、
地元の民選知事みたいなことではないので、あまり知られていないかもしれないですよね。
公務省でお勤めになっていて、鉄道局次長、座長官、読めない。
役所の中で重要な役割を果たした後で長野県令に就任し、
長野県の道路行政の発端となる七道会事業、道路事業に着手したとして道路県令と呼ばれたみたいなこと。
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これwikipediaですけどね。
もともとのこの大野さんは、柴田の何だったのか調べていくと、
今の正郎町の出身で、諏訪山神殿で、
王の慶吉という人がいたんですよね。王の慶吉さんの息子で、
王の慶吉さんのところで生まれるんだけど、その後江戸に出て、
留学し、県術とか、詩文とか、そこで儒学とかも学ぶんでしょうね。
で、その後、一度帰国、帰教して、半キロで教えたって書いてある。
半キロ?なんだこれ?と思って調べてみましたら、
半キロ、なんて読むんだろう、字が難しいですね。
楼はね、建物の楼ですよね。桜に、みたいな字ですよね。
半キって、70番とかの番、二十辺に半分の半みたいなやつで、
半で、己と書いて半キロという字になりますが、
ここはちょっと調べてみたら、実はまだ残っているんですね。
このお父さんの王の慶吉さんが開いた始塾で、
各地にできた尊老上位を備える、
潔気盛んな若者たちが学んだ場所みたいなのがありますよね。
その一つのようですね。
そういうのは今ほとんど跡形もなく消えているものが多い中にあって、
半キロを調べてみると、残っているみたいですね、建物がね。
西楼町の諏訪山というところに半キロの門とか、建物も残っているみたいですけど、
建物は公開していませんというのがどこかに書いてありましたので、
多分中に入ることはできないんだと思いますが、
西楼町にお願いして撮影してみたいなと個人的には思いましたけど、
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学生が興味を持ってくれるかどうかは分かりませんね。
という建物も残っているのだそうで、
大野家というのは多分この辺の西楼の皆さんにはよく知られている方なんだと思います。
で、この方がその後だから半キロで教えた後は多分、
幕末は多分柴田にいたんじゃないですかね。
それから江戸に出ていって、
春風館というのを開いて私塾をやってたのかな。
その後は役所に呼ばれて、役所で仕事をするようになって活躍していった。
このパターンですよね。
大河ドラマの渋沢栄一の話なんかに出てくるような、
新政府軍の主流である薩長が結局新政府の主流を作っていくんだけども、
その中には各藩の優秀な人材というのが投与されていって、
渋沢栄一なんかは幕府の役人だったので、
幕府のやつら、旧幕府のやつらかよみたいな感じで言われながら活躍していくって話でしたけど、
多分そういう意味では大野さんは最終的には柴田藩の出身なので、
そこまで微妙な立場ではなかったけど、でも主流派ではなかった中で、
柴田藩を見出されて活躍していった人なんじゃないかなと思います。
あ、今コメントをいただきました。ありがとうございます。
水原大官署の門で明治中期に建てられ、
藩記錠とともに町の有形文化財に指定されています。
え、ちょっと待って。水原大官署の門でってどういうこと?
水原大官署は水原にあるわけですよね。
水原、ちょっとわかりにくいと思うんですけど、
水原大官署、あ、どういうこと?水原大官署。
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なるほど、今読みました。
今、新潟文化物語っていうサイトを見たところ、
大野家の門は、もと水原大官署の門でしたが、
明治中期に移って建てられたものです。
藩記錠とともに町の有形文化財に指定されています。
え?だから、直接藩記錠の門だったわけではなくて、
後に藩記錠、立派な門だから水原大官署の門を
じゃあこっちに移設しようって話になったのかな?
ちょっと見てみないとわかんないですけどね。
非常に多分立派な門だからこっちへ移しましょうみたいな話で。
じゃあ水原大官署の門はどこに…
水原大官署は門がないってことですかね。
水原大官署見に行ったことがないからな。
門がなくなっているということのようですかね。
というわけで、今日はですね、
掘り起こしてみる価値のある歴史ですねというコメントをいただきました。
ありがとうございます。
水原大官署も面白いですよね。
水原大官署とかエチゴフとかね、
あの辺もなかなか面白い話あるんですけど。
ありそうですが。
というわけで、今日は大野誠さんという人のことがニュースに出ていたので
少しお話してみました。
土曜日でしたけれども、どうもありがとうございました。
またお話ししてみたいと思います。