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2021-04-03 13:51

一戸信哉の新潟のへラジオ LIVE Vol.2 満州柏崎村


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こんばんは、一戸信哉です。
今日の昼間のライブとですね、
収録方式とですね、2つ試してみたり、背景の画像も試してみたりというので、少しずつ
スタンドFMの使い方に慣れていこうかなという状況ですが、
今日はですね、今タイトルの通り、満州柏崎村の話をちょっとしたいと思います。
満州と新潟県の関わりというのは、数年前からですね、
学生に映像制作してもらうのに色々調べ始めて、
いくつか作品も作っていたんですが、今年まだ残っているなというか、まだ手を付けてないなと思っていたテーマとして、
柏崎に居礼碑のようなものが建っているっていう情報をですね、
以前から知ってたんですけど、そこをちょっと調べてみようというので、
ここ2、3日前ですね、柏崎の方まで行ってきました。
柏崎というところはご存知ですね、柏崎狩輪の原子力発電所があるところでなわけですけど、
原子力発電所ができる前はどんなところだったのかというのは、ちょっと私も必ずしもわからないですけど、
原子力発電所が立地する場所というのは、それなりに要するに経済的に恵まれないというかですね、
ある種の手こゆりが必要だという状況の中でできていったということは言ってもいいですよね、という場所なわけですよね。
ただ柏崎ってもともと石油が近辺かな、柏崎の周辺で結構取れたということで、
資源とか発電とかそういうエネルギー産業には割とゆかりのあるところなんだろうと思います。
その話はまた今度どこかで改めてしたいと思うんですが、
今回行ってみたのはですね、柏崎市の赤坂山っていうのかな、
昭雲山荘という紅葉がですね、綺麗なところがあるんですけど、
その近辺にある私立の博物館のところ、その前にですね、ひっそりと立っています。
ひっそりと慰霊碑というのかな、満州柏崎村を記念する慰霊碑が立っています。
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今回見てきたんですが、後ろに満州柏崎村を含めて、柏崎から満州に渡って犠牲になった人たちの名前というふうに理解しましたが、
それが掘り込まれていました。
だいぶ時間が経って、刻まれた字がもう少し消えかかっていましたけれども、見ることができました。
これを見て、今回多分これを見て終わりかなというふうに思っていたんですが、
行ってからちょっと調べたんですけど、私立の博物館の中にも常設展示の中で、一部満州柏崎村について触れているコーナーがあるということが分かりましたので、その中も見てきました。
今回これを調べていく過程で、気づいていなかったんですが、昨年、朝日新聞が昨年の夏、1575年の企画の中で、満州柏崎村について記事にしたものが出ていました。
それでかなり詳しく分かったんですけど、この柏崎の開拓団というのは、いわゆる農村から地難産難が土地を求めて満州に渡るという農業移民ですよね。
もともとの農業移民の開拓団ではなくて、転業移民というんですけど、街中で暮らしている人たちの中から行く人を募集して、そしてその人たちは行った先で農民になるというですね、そういう形をとったものですね。
これは東京からもそういう人たちが行ったという、つまり東京からも転業移民の人たちが行ったというのがよく知られている、そうでもないですかね、満州のことを調べていくと出てくるんですが、柏崎もそのパターンだったということのようですよね。
これはだから、つまり農業経験がない人たちが行くわけで、大変な苦労を強いられるわけですよね。
もともと農業経験があったとしても、日本とは全然土地の質とか気候とかいろんなものが違うところで農業をやっていくのは非常に大変だったというふうに言われていますけれども、
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そもそも農業をやったことがない人がいるわけですから、大変な苦労を強いられたというのはよく知られているところですね。
もちろんそれだけではなくて、当然昭和20年の8月10日のソ連の侵攻に伴って、多くの開拓団の人たちは大変な苦労を強いられるというか、
多くの人たちがそれで命を引き上げまでに落としていくということが起こっているわけですけど、ということなんですね。
その記録がわずかながら博物館の中で展示されています。
こういうことはちゃんと記憶に残しておかないといけないですよねと、そういうまとめになりそうなんですが、
さらに調べていくと、実はどこで開拓満州の柏崎村というのがどこにあったのかというのは、2005年までわからなかったということも出てきます。
2005年の柏崎日報の記事がまだウェブにも残っているので、皆さん探してみていただければと思いますが、
2005年に木口博史さんという、ほぼ今この方しかいないぐらい、唯一の満州柏崎村の生き残りですかね。
現在存命の方としては、この方はもう一人ではないかというぐらいの状況なんですが、その方が2005年に探し合っていたもののようですね。
だからそれまではもうわからなかったわけですよね。
だいたいこの辺というのはわかっていたと思うんですけど、農村とはいえやっぱり中国も大きく変化をしていて、農村に行ってもなかなかどこにいたのかというのはわかりにくく分かるのは難しいんですよね。
ということなので、実は過労死でどこで柏崎の人たちが移民をして村を作ろうとしていたのかというのは、過労死でわかったというような状況のようです。
で、博物館の中ではこの牧口さんの証言ビデオが流れていて、これも非常に衝撃的なんですが、内容をどこまで言っていいのかわかりませんが、非常に衝撃的で、牧口さん自身は戦後の引き上げの船に乗って帰ってくることができなかったんですよね。
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できなかった人たちの一人ですね。つまりは、こういう人もたくさんいるんですけど、現地の男性とお母さんが再婚するというかね、そういう形で何とか自分とお母さんと子供たちの命を何とか繋いだというケースですよね。
で、お父さんはどこへ行っていたかというと、これもほとんどの、満州移民に行った人たちの人たちはほとんどこのパターンですが、お父さんは戦争の最終盤で猫そぎ招集といって、現地で招集されてしまって、そして非常に貧弱な装備の下、北方の警備に向かわせられると。
北方の警備といってももう最後ですので、ほとんど戦力が満州に残っていない状態ですので、ほとんどの人はもうすぐ訓練も受けていないような状態ですから、すぐにソ連に捕まって、シベリアに連れて行かれるということですよね。
だからそれでかろうじて、シベリアでのこの大変な暮らしを生き抜いて、そして日本に帰ってくるけれども、家族は行方不明ということですよね。
というようなことで家族はバラバラになってしまい、戦後の日本と中国の間の国交が回復していかない中で、長い間離れ離れに暮らしていくことになり、なのでこのマキムシさんということも結構長く中国に滞在していて、それから後に日本に移動してくるということだったんですね。
なのでこれでかろうじて命を繋いだというケースですよね。当然その年齢によっていろんなケースがありますから、そのまま小さい時に預けられて、残留孤児として中国人として育てられるという人たちもいるわけです。
いろんなケースがあるということだと思います。
ということで、今週行ってきたのでこの赤坂山公園、桜が咲いていてですね、ものすごく人がいっぱい出ているということはないですけども、平日だったのでそんなに人はたくさんはいませんでしたけど、見晴らしもよく、花も咲いて、素晴らしいところだなと思いましたけど、
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ここに柏崎の歴史を語るような場所というのがあるという、そういう話です。
行く途中に新潟病院というのがあって、なぜここに病院があるのかなというのでちょっとあれと思ったんですが、実はその病院もちょっとした歴史があって、松尾軍人の療養所だったというのが書いてましたね。
ここも少し調べてみようと思いますが、というところも残っています。
柏崎というとですね、原発のことはありつつも、赤坂山公園は、先ほど冒頭言いましたけど、松雲山荘といって紅葉が非常にきれいなところで、私も何回か写真を撮りに行ったことがありますけど、一般的にはそういう場所として知られているわけですけど、
実はそこにひっそりと柏崎市と戦争というか、そういう歴史が残っている場所がありますよということです。今日はちょっと柏崎に行ってきた時のお話をいたしました。
今日は聞いていただきありがとうございました。
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