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おはようございます。新潟のへラジオ一戸信哉です。今日は7月21日、木曜日です。
昨日はお話できなかったんですけど、1日明けまして、今日またお話したいと思います。
昨日は朝ですね、早く家を出まして、上越市まで行ってまいりました。
今日はその話をしようと思いますが、今日のテーマ、中村住作記念館ということについてお話ししたいと思います。
中村住作という人については今年ちょっとテーマに挙げていまして、学生がちょっと調べ始めているテーマなんですけど、
一回お話ししています。宮古島の人頭勢ですよね。人頭勢廃止のために努力をした人、活躍した人として、新潟県人の活躍、新潟県出身の偉人みたいな話で、
割とよく出てくる方なんですけど、ただ知名度はそんなにないですよね、という方なんですが、この上越市の板倉区、板倉区っていうのは、
昨日行く前にちょっと行くときに調べてわかったんですけど、板倉町ですね。板倉町で板倉町の中の、今回行ったのは稲増というですね、稲が増えると書いて稲増というところがありますが、
稲増の自己出身の方なんですね。稲増の中村住作さんの活躍というか、仕事というかですね、いうのを記念しまして、中村住作記念館というのがこの稲増という町に作られているということなんですね。
昨日板倉の方まで行ってみようということで中村住作記念館に行ってきました。
ここはですね、何て言ってたかな。青年会館って言ってた。
要するに地域の稲増の人の寄り合い所みたいな建物があって、その中に稲増集落開発センターがあるじゃないですか。農村の中にこういう建物、公民館みたいな建物があるじゃないですか。
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そこの一角に一部屋が中村住作記念館というのに充てられているということなんですね。
でもそれはすなわち、板倉の人、稲増の集落の人たちが中村住作さんという人をいかに地域の偉人として謙称しようとしているかというところも伺えるというような、そういう場所ですよね。
コメントいただきました。おはようございます。
それでね、そこまで行ってきました。
知らないといけないんですよね。
集落開発センターというのが書いてあって、住所をカーナビに入れて行ったら、一応着いたんですけど、
ちょっと入っていった角度からは中村住作記念館って書いてあるのは全然見えなくて、どこだろうねみたいなことを言ってたら、そこが場所だったということなんですね。
一応は調べてから行っているんですけど、行ってみたらかなり力が入っていて、もちろん公民館みたいなところの部屋の一角を展示館にしているだけなので、本格的な博物館というか、そういうものではないですよ。
そういうものではないですけど、非常に多くの資料が収集されていて、かなり力が入った展示で、館長をされている中村康二さんという方にお話を伺ったんですが、
このお話も1時間以上かな、結構いろいろお話を伺って、とても勉強になりましたね。
資料館みたいなところですよね。中村住作さんの記念館の館長が中村さんなんですけど、よくよく聞いたら半分、何割って言ったかな、かなりの割合の人が中村さんで、
あそこの家の中村さんみたいな、なんとかの家みたいな、野望で呼び合っているような感じだろうなという感じでしたね。中村住作さんと今の館長の中村康二さんは親戚ではないと言ってましたけど、という中村さんですね。
この中村住作さんが何をしたのかということをちょっと遡ってみますと、明治の時代に、結局わからなかったけど、任党勢という制度が八重山諸島と宮古島とか石垣島とかで残っていて、
その制度を廃止するために国会まで行ってですね、働きかけをして廃止まで持っていったと。こので活躍したのが中村住作であるというふうに説明がされています。
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ただ結局はよくわからないのは、なぜその任党勢という制度が残っているのかということは、昨日の話ではよくわからなくて、もうちょっと勉強しなきゃなと思ったんですけど、どういうことかというと、もともと始まった制度は、
薩摩が琉球王国を支配していた時代に、要するに薩摩が琉球に対して重税をかけて、結果、琉球政府は負担をするために、住民に税をかけるんだけど、
とりわけ外側、奄美とか八重山とか都とかの人たちに対して重税をかけたというような構造なんだそうで、その構造の中でものすごく重税で、身長145センチだったかな、を超えると1人あたりこれぐらい重税をかけられて、奴隷のように働かされるみたいな状態が長らく続いていた。
これ270年も続いていたという話なんですけど、本島が琉球処分となり沖縄県になった後も、ずっと残っているままになっていると。
これはよくわからないんだよね。なぜそういうことになっていったのかがよくわからないんですけど、残っちゃうんですよ。
制度的根拠が特にないので、誰がそれを維持しているのかはよくわからない。
でも琉球時代の役人がおそらくそのまま離島に留まって、既得権益をそのまま維持しながら、島から出たことがない人たちに対して、
同じ制度の枠組みの中で重税をかけ続けていたっていうことなのかなっていうふうに理解しましたけど、ちょっとよくわからなかったんです。
構造がなぜ維持されていったのかは、昨日の間にではちょっとよくわからなかったんですが、それを廃止するために活躍したのが中村住作。
中村住作さんはもともと別にこういう社会問題に取り組むために沖縄に行ったわけではなくて、都に行ったわけではなくて、もともとは真珠の養殖のために行ったということなんですよね。
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早稲田大学の前身の東京専門学校に行くんですが、途中で辞めてそれで海軍に入るんだね。海軍の学校で勉強をしまして、
それから真珠の養殖というのを海軍の時代に学んだのかな。それで海軍の仕事で学んだ泳ぎの力を生かして真珠の養殖のための修行をオーストラリアでやってきて、
それで帰ってきて真珠の養殖に適した南の場所を探したところ、宮古島にたどり着いたという話だったと思います。
晩年まで真珠の養殖の事業は続けていくわけですけど、同時にそのために訪れた宮古島で、こういう非人道的な制度がそのまま維持されているということに気がついて、
それを廃止させるための運動に取り組んだ。その時には途中で琉球政府の時代の悪兵がそのまま残っていることに気がついた沖縄県の役人の人も関わりを持っているし、
それからその運動をするにあたっては松田義一という人が出てきて、松田義一は実業の日本社を立ち上げた人なんですけど、この人も板倉の出身で、
マスコミなわけですよ。彼が広報宣伝担当をして、いろいろ働きかけをする。弟の十一郎というのも東京にいて、彼も力を貸してみたいなことで、
国会議員とか政府の要人に対して働きかけをしていった結果、明治36年になってこの人等税が廃止されたという、そういう話をいろいろ詳しく考えました。
というような話です。ただ中村住作さんは、表の顔は事業家として活動されていて、官庁の説明では自由民権的なとおっしゃってましたけど、そういう人権問題について取り組む活動家としての顔というのはあまり表には出さないようにしていて、
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なのでずっと知られていなかった。自分としても自分の働きを世の中にアピールするみたいなことも避けていった。それはそういう事業家としての顔を表に立てつつ、その事業家の顔を持ちながらそういうことをしていたということを知られたときに、
何らかの影響が自分の内に出てしまったりとか、そういう周りへの影響を避けるために言わなかったのではないかということも言っていましたが、全然わからなかったんだそうです。
それは昭和の時代になって、都の人たちは知っていた。都の人たちは中村住作さんという人が非常に活躍しているというのは当時知っていた。その時の人は知っていたんだと思うんですけど、
後々になっても忘れ去られていたものを、都の中学校の先生が発掘してきて、それで板倉の方を訪ねてくるのが昭和の初期って言ってたと思いますね。その時に来るんですって。
なんかわからんけど、上越市の板倉の出身の中村さんという人がこの都で人々の苦難を救った人の名前として出てくるんですけど、この人どういう人でしょうかみたいな話になり、板倉の中村さんの中村住作とか言ったらすぐわかるんでしょうね。
中村住作さんという人が実はそういう仕事をしていたんだということが詳しくわかって、それから世の中でわかってくる。さらに中村住作がどういうロビー活動をしていたのかということは、弟の十一郎さんが書いていた日記が埋もれていた。
なんか蔵に埋もれていたって言ってましたけど、蔵に埋もれていたものが発掘されて、十一郎さんの記録に国名に書かれていてっていうので、だんだんだんだんわかってきた。昭和になってから、戦後でしょうね。戦後になって中村住作の働きというのがだんだんだんだん国名にわかってきて、それがいろいろ研究書とか本になったりしたというようなことなんだそうです。
イタクラのこの人たちと、イタクラと宮古島の間の交流というのはずっと続いていて、年一の交流会みたいなのを、いや年一だか年二だかの交流会というのをずっとやっているんだそうです。
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ここからですよね。すごく面白いなと思うんですが、なかなか、私もこれ長い時間かけて説明してますけど、なかなかやっぱり理解されないですよね。
この新潟県事の活躍という文脈で言っても、なかなかいろいろ背景を説明しないと、プロ野球で何千本アンダーを達成したみたいな、そういう単純な話ではないので、どういう仕事であったのかっていうことも詳しく説明しないとよくわからないということで、なかなかこれは難しいなというふうに思いますが、
宮古島との間の交流というのは続いていて、イタクラの街の中で公園を作ってそこに検証費を立てて、真ん中に宮古島を模した公園の中でそういう空間を作ったっていう話でしたが、
上から見ると宮古島の形をしているというふうに言われましたけど、上から見れなかったのでわからなかったんですけど、というようなものを作っていました。
ここでやっぱりイタクラにせよね、イタクラだけじゃないですけど、やっぱり広域で合併して上越市、イタクラ区という形になってしまうと、なかなかやっぱりこういう強度の歴史みたいなやつをどうやって上越市として引き継いでいくかっていうのは、これはなかなか難しい問題ですよね。
前に四雲寺の話をしたことあると思うんですけど、四雲寺でもやっぱり四雲寺型開拓の歴史というのは、四雲寺町、現在の柴田市ですけどね、四雲寺町でも重要な地域の歴史として継承していこうとしていたわけですが、柴田市になってからやっぱりなかなか埋没していってしまうわけですよね。
そういうことでいうと、このイタクラの歴史もそういう部分があり、これからどうしていくんだろうというところはありますよね。
ただ、昨日伺った話では、上越市と宮古島市も姉妹都市になったって言ってたと思いますね。
なので、何らかの形でこのイタクラでの交流というのを、上越、宮古の間の交流というところにつなげていこうという方向には向かっているみたいですけど、
上越全体、上越市全体でこの歴史を共有していこうという方向に向かえるかどうか、なかなか難しいところだと思います。
この地域の人たちは色々取り組みをしていて、中村住作の記念館もそうですけど、ゆるキャラみたいのも作っていて、
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中村住作だけではインパクトが得られないから、住作ともう一人誰かのキャラクターを掛け合わせた、ゆるキャラを作っているっていう話もちょっと聞きました。
ちょっとまだ調べてないんですけど。なので、何らかの形で引き継いでいきたいという思いはあるみたいなんですが、
私もそうですけど、上越市からちょっと離れた地域の新潟県民の人たちからしても、なかなかこの辺まで深く掘っていこうという人はいないんですよね。
というようなお話でした。コメントの中にまたえもんまんじゅうっていうのが書いてくださったんですけど、板倉といえばまたえもんまんじゅうだそうで、
なんですかこれは。あ、あるんですね。板倉区の、ハリって読むんですかね。ちょっと違う集略ですよね。
またえもんまんじゅうというのは誰ですか。またえもんまんじゅう。これまたもう一回やられそうですね。
歌詞作りに情熱を注いで京都で修行した先祖がまたえもんである。
なるほどなるほど。なんかこう緑色のよもぎか何か入ってるまんじゅうですかね。
知りませんでした。これ全く知らないで行きましたけども。
これもじゃあ今度は食べてみようかな。でも場所わからない。板倉区そのままで結構広いんじゃない。わからないですけど。
ご当地スーパーみたいな話もテレビで見た記憶があってそこも行けばよかった。帰ってきてから思いましたけどね。
次回はまたえもんのテーマで。わかりました。誰なんだまたえもん。全然わかってないんですけどね。
先祖だよね。小林道商店で売ってるんです。これも調べてみましょう。
時間9時になりましたので今日はここで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。