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2022-07-19 13:09

Vol.163 三線奏者として活躍する新潟出身、川村健一さん


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おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。
今日は7月19日火曜日です。
この3日間連休でお休みだった方もいらっしゃると思いますが、
今日から皆さん仕事に復帰されるということになるかと思います。
私の方は、ほとんどオープンキャンパスもあったりとかですね。
あとなんだろう、なんだかんだでずっと仕事をしていたんですけども、
今日から仕事をしたんだけど仕事復帰って変ですけど、
大学の方はね、大学の方は昨日たまたま私授業がない日だったんですけども、
今日からまた授業に戻るという感じですね。
この連休の間、金曜日にFM柴田の放送でインタビューを放送した、
三振創始者として活躍する河村健一さんという卒業生のことをお話ししたいと思います。
卒業生というとちょっと大学ネタになっちゃうので、
ちょっと新潟ネタっぽく言うと新潟県人なんですけどね。
正確な卒業年次は覚えてないんですけど、
90年代の後半ぐらいに慶和学園大学に卒業した方なんですけど、
もうずっと以後沖縄に移住されて、
もうだから20年以上沖縄に住んでいるので、
もう本当にもう新潟県人と書いてあるけど、
新潟県人じゃないんだよ。
新潟出身者ではあるけど、
もう新潟県人というよりは沖縄県人になっている方だと思います。
ラコルドっていうですね、
三振のユニット、音楽ユニットをやっていらっしゃって、
河村さん自身が歌三振っていうんですか、
三振弾きながら歌うっていう音楽活動をずっとされていています。
どういうことじゃと思ったんですけど、
今回インタビューさせていただくのに色々調べたんですけど、
なかなか面白かったですね。
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90年代に大学に在学した時に沖縄のスタディーツアーに行って、
以後沖縄で暮らしたいっていうところが大きかったっておっしゃってたかな。
とにかく演奏を、三振を極めたいということで、
大学卒業後沖縄に飛び込みまして、
琉球古典音楽の師匠のところに通って勉強するんですね。
琉球古典音楽ってまだ結局なんだかよくわかってないんだけど、
川村さん曰く、琉球王朝時代の貴族、地位の高い人たちの教養として
たっ飛ばれていたのが琉球古典音楽だそうで、
そういうのをきちんと勉強されているんですよね。
勉強した上で、現在はそれをベースとしつつ、
ピアノ奏者の方と2人でラコールドっていうこの今写真のユニットを結成し、
そして、個本人は三振を弾きながら歌うという音楽活動をされている方で、
ちらっと卒業生の同行で読んだことがあったんですけど、
今回初めて調べまして、どういう経緯で沖縄に行ったのかというのを聞いて、非常に面白かったです。
詳しくは、慶和キャンパスレポのアーカイブを公開しましたので、聞いてみていただければと思いますが、
いろんな音楽をやっていらっしゃって、いろんなオリジナル曲も演奏されているんですけど、
この間番組に出かけるのに見つけたのが、ブラジルのサビアっていうですね、移民の話ですよね。
沖縄の人たちは調べてみると、沢山の人たちがかつて沖縄から移民をしていて、
アメリカとかハワイなんかに移民した人も多かったり、
あと今ね、朝ドラでやってるみたいに、横浜の鶴見に移住していたりという方はいろいろいらっしゃると思うんですが、
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この歌、ブラジルのサビアっていうのは、ブラジルに移民していた人たちが沖縄の故郷を思いながら歌っていたというものですよね。
それが後にウチナチュー祭りみたいな、どういう経緯かわからないですけど、沖縄本島の方に、沖縄にもう一回回流してくるという歌でしょうね。
でも、現代の沖縄においては忘れ去られているような歌なんだと思いますね。
それを発掘していますね。
ご本人のyoutubeとかを、この週末ちょっと調べていたら、中国語の歌も結構歌っていて、
中国語で紹介して、中国語の歌で歌っていらっしゃって、そこはインタビュー出てこないんですけど、
中国古典とか、テレサテンが歌ったような古典の歌とかですね、歌っていて、
これも非常に面白いですね。
それを三振で弾きながら歌うという、大変面白い活動をされています。
過去の新潟日本データベースを引いていくと、沖縄のことが出てきたときに、
過去15年、20年の間に2、3回くらい登場されていて、
だから新潟県出身者で沖縄で暮らしている方という意味では非常にユニークな存在で、
新潟日本もたまに何かあったときには河村さんに話を聞くみたいなことをされています。
大型活動をするにあたって、河村さん自身はすぐプロとして発動するというのも難しかったんでしょうけども、
福祉施設で就職をして、90年代から2000年代の頭にかけて、
高齢者福祉施設、その当時は高齢者福祉施設で働いていたと言っていました。
新聞記事とかも読むと出てくるんですけど、当時まだ存命であった高齢者の利用者の人たちというのは、
つまり沖縄線とか、先に移民で言うとパラオとかソロモンとか、
あの辺に移住して戻ってきた人とか、いろんな経験をされた方が利用者としていて、
そういう人からいろいろ戦争の話も聞いたというようなことも伺いました。
それも20年前のことですので、具体的なところは河村さんも記録しているわけではないんですけど、
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そういう経験もされながら音楽活動をされていたというようなことも伺っています。
新潟とのつながりをいろいろ調べてみたら、
大学、県和学園大学を卒業生として一回呼んで、学園祭で演奏してもらったことがあるみたいですよね。
今ちょっと、当時の先生もほとんど、河村さんが在学していた頃の先生もほとんど退職してしまったので、
一旦多分大学とのつながりも細くなっていたと思うんですけど、
そういった形でお声掛けできればいいかなと思っています。
音楽とのルーツでいうと、高校も慶和だったんですよね。
慶和学園高校の音楽の先生が、
慶和学園高校の合唱が結構強いんですけど、
合唱の指導されている先生が、多分、河村さんにいろんな刺激を与えたんじゃないかなと思いますね。
慶和学園高校の音楽の教育っていうのが、
今その時その時の合唱の話しか出てこないんですけど、
オペラ歌手のふえだひろあきさんも声楽家として活躍されてますから、
ふえださんも音楽に目覚めたのは、慶和学園高校に通っている間だったという話が聞いたことがありますし、
河村さんもそうなんでしょうね。沖縄に行き始めるのは大学に入ってからなんですけど、
高校時代にはそういう経験をされたんじゃないかなと思います。
あまり詳しいことは、高校時代のことは聞いてないんですけどね。
というようなお話でした。
沖縄に行った卒業生ぐらいの感じで企画したものだったんですけれども、
90年代に沖縄に渡った新潟県人の回想みたいなね。
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意味でもなかなか面白く、それは新潟と沖縄の間の関係とかね。
あるいは本土と沖縄との関係というのを見る上でも、90年代にそういう形で沖縄に関心を持って、
そこに飛び込んだ若者っていうね。
その人が40代になって音楽活動を続けているというあたりとか、
個人史でもあるけれども、そういう角度から見ると面白いんじゃないかなと思いました。
そんな意味で今日はご紹介いたしました。
連休前も配信が空いてしまいましたけども、今週からまた頑張って、
できるだけ毎日配信できるようにと思っております。
今日も聞いていただきありがとうございました。
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