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はい、新潟のへラジオ一戸信哉です。今日は8月29日、8月の終わりですね。
月曜日です。
ようやくですね、新潟に戻ってきて、またペースが、体調も戻ってきたかな、みたいなところがありますが。
また今週後半、終盤から新潟県から出かけるんですけども、今週は頑張ってね、朝お話しできればと思います。
今日は、北海道の話をまだ整理しているんですけど、松田前十郎という人の話をしていなかったなと思って、話をしてみたいと思います。
松田前十郎さんですね、柏崎の出身の方なんですが、空太郎の探検で実績を残して、空太郎からいわゆる江戸地ですよね、北海道から空太郎にかけて、歩き回りながらいろいろ働きをした幕府の役人なんですけど、
柏崎の出身の方で、非常に活躍した方なんですが、あまり知られていません。
柏崎市の海沿いの米山福浦八景の一つである日尻ヶ浜というところに、松田前十郎の検証器というのが建てられています。
これね、ちゃんと見に行ったことがないんですけど。ということで、一応、松田前十郎さんは柏崎の中では柏崎出身の偉人として取り扱われていますが、どうなんですかね、柏崎の人たちがどれくらい知っているのか、ちょっとそれは私もわかりません。
今回も北海道に行って、ウポポイも行きましたし、それから空太記念館とか、その他お金のあたりの空太に関する展示というのもずいぶん見ましたけど、何回も見てるんですけど、松田前十郎の扱いというのは非常に小さいです。
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誰の扱いが大きいかというと、マミヤ林蔵という人の扱いが大きいわけですよね。
マミヤ林蔵さんという人は、松田前十郎と共に空太に渡って、そして最終的にマミヤ林蔵が空太が島であることを発見した。
発見したのは松田前十郎だって言うんですけど、松田前十郎はそこから大陸側に渡ってはいないんですけど、最終的にそこから大陸に渡って、大陸と空太との繋がりについてさらに奥に分け入ってきたのがマミヤ林蔵という人なんで、
マミヤ林蔵がそこの海を渡ったのでそこをマミヤ海峡と呼ぶということなんですよね。
ただ、松田前十郎自身はマミヤ林蔵と共に1808年に空太に渡っているので、一緒に探検しているんですよね。
なので、異挙党と言ってもいい人なんですけど、探検する任務で言っているので、どういうふうにこの人たちのことを取り扱っていいのかちょっと私もよくわかんないんですけど、空太に渡って西側が前十郎、東側がマミヤ林蔵ということでそれぞれ船で北上していって、
というようなことをやった人です。今回調べていておおってなったのは、湧かないというところから対岸の今のサハリンですね、当時の空太が見えるんですけど、
この空太の南端のクリリオン岬、昔西の虎岬だったと思うんですけど、その岬のところからちょっと上がったところに白主というかつて白主と呼ばれていた場所があって、昔の写真とかを見ると白主、白い主と書いて白主という場所があるんですが、
白主にでっかい塔が建っていたって言うんですよね。それはマミヤ林蔵が空太に初めて上陸した場所だっていうふうに書いてあったかな、だったと思いますね。
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あ、そうじゃないね。開刀記念塔って書いてあるんですね。開刀開く島、開刀記念塔っていうのが建っていたんだそうで結構高いですね。何メートルぐらいあるんだろう。そういう塔が建っていた場所なんです。
そこから松野伝授郎も旅を始めて、そしてここら辺での三端公益というのの実態を調査したっていう話が出てくるんですよね。
三端公益っていうのは三端人というふうに当時呼ばれていた、要するに中国で商売をしてた少数民族なのかな。今の言葉で言うとどういう民族なのかっていうのはちょっとあんまりはっきりわかんないみたいなんですけど。
少数民族で彼らが中国から物を持ってきて、それをアイヌの人たちが取引をして、新しい革とかいうのと交換をして、さらに中国から買い付けた物品を松前藩に渡してた。
松前藩はそれで金も受けてたんじゃないかなと思うんですけど。というような実態があって。
ここら辺がちょっとよくわかんないんだよな。一旦松前藩からこの辺の公益の権益を全部直滑るようにして、それを解決していく。
解決というのは、その取引の中で松前藩の手先のようにアイヌの人たちが使われて、アイヌの人たちが負債を背負ってしまったという実態があり、それに対して松田伝柔郎たちが介入して、彼らの借金を幕府が肩代わりすることで正常化したと。そういうような話になっていますよね。
そこまでやって松田伝柔郎は長い年月をかけて、アイヌの救済を図ったんだけど、その後また松前藩の管轄に戻されちゃうのかな。
というわけで、その意味で彼の3ターン公益における活躍というのも身を結ぶことがないまま、そのまままた松前藩の管轄に戻っちゃったということもあって、松田伝柔郎の働きというのはあまり目立たないという状況になっているようです。
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ただここが際のところで、沖縄の新潟の抜け荷とかも、結局薩摩が北海道のものを沖縄に持って行って、そこからさらに中国を持って行って儲けていたという話が出てきます。
同じような意味で、北の方でもこの大陸との接点の中でいろいろ公益が実態として行われていたというような話です。
というところと松田伝柔郎というのはいろいろ関わりを持っているということです。
なんですけど本当に全然北海道でも扱いが小さいし、まして新潟まで来ると新潟の方も全然小さいですよね。本当に関心が持たれていないということで。
と言いつつ私もこの三端公益の話とかね、なんかうまく説明できなくてですけども。
何冊か本あるんですよね。松田伝柔郎について書かれた本があって、それもあまり注目はされていないんですけど、ちょっと一度形にはしてみたいなと思っています。
松田伝柔郎自身も後に北伊壇という本を書いていますね。
ということで今日はちょっと地味な話でしたね。松田伝柔郎のお話をしてみました。
はい、どうもありがとうございました。