00:02
はい、おはようございます。新潟のへラジオ一戸信哉です。
12月5日ですね。月曜日です。いつの間にやら12月5日目なんですね。
今日は福岡に週末に行ってきましたので、その話をしたいと思います。
福岡は西部軍支部というのがあって、戦争の時には本土決戦の最前線というか沖縄戦の後ですね。
さらにアメリカ軍が攻め込んできた時に迎え撃つ拠点でもあったので、いろいろ軍事基地のものが残っていたり、
当然沖縄に特攻隊も行くわけですけど、その拠点も九州ですからね。いろんなものが残ってまして、
それと戦後の引き上げとか、その辺のものをですね、実はその用事で行ったわけじゃなくて、学会に参加するのが目的だったんですけど、
ちょっと早めに行ってですね、いろいろ見てきました。
今日はですね、戦争関連の遺跡移行をいろいろ見ていく中で、新潟県出身という方が一人いたので、ちょっとその話をしてみたいと思います。
金曜日の夜、金曜日の午後かな?に、えらい迷いながらですね、立原井っていうですね、何て言うんでしょうね、福岡県南部ですね、南部の大分に向かっていく途中、
大分県多分かなり近いところにあるんだと思うんですけど、そこの立原井平和記念館というところに行ってきました。
ここはですね、飛行機基地ですよね。陸軍か、陸軍の、陸軍の飛行機の拠点があったところで、ちょっと待ってください、陸軍飛行学校。
陸軍飛行場があったところで、行って説明を受けたのは、特攻隊というと、特攻、鹿児島のチランというのがね、有名ですが、
03:11
チランは立原井陸軍飛行場の支部みたいなところで、まあまあ、本店はここだったんですっていうような話でした。
当然立原井は飛行場の拠点、大きな拠点でしたので、空襲も受けていまして、空襲の話なんかも随分と紹介されていて、というような場所ですね。
そのほか町内にもいくつか遺構が残っているので、それも見てきました。
そこ全然新潟の話でもないので、まあまあ、こういう戦争の遺跡、軍舗ですよね、本当に。
柴田もすごく似たようなところがあるんですけど、立原井の記念館もそういう意味では、軍舗として、あるいは飛行場の拠点として、日本の航空技術開発の拠点としての立原井というところから入って、
軍舗として発展していって、そして空襲を受けてっていうこの経緯を、できるだけ客観的にというかですね、あまり予断を持たずに語ろうとしているようなところがあり、
なので、当然空襲を受けてたくさんの方が地元でも犠牲になっているわけですけども、そこで戦った人たちというのの姿をあまり否定的に捉えているという感じでもなく、
その辺は引いた目線で描いているなというふうな印象を持ちました。
とはいえ、この拠点から最終的には特攻隊が編成されて、たくさんの人たちが犠牲になっているという話なんですけど、
いろいろ見ていく中であると思ったのはですね、途中でトリュウというのかな、あれですよね、リュウをほふると書いてトリュウというのがありまして、
06:01
トリュウという飛行機に乗ってB-29に対当たりする部隊の回転という部隊が編成されて、これは後の帰ってこれない特攻隊というのとは違ってですね、
福岡というか九州各地を爆撃していたB-29と戦うために、それをB-29よりだいぶ小型だけれども、そこに日本軍の飛行機が対当たりをして巨大なB-29を攻撃すると。
というものだったのですが、そういう特別攻撃隊、だから対当たりした後、パラシュートで落下してきて、操縦士そのものは帰還することもできるように、そういう立ち付けの部隊が編成された。
その展示を見ていたらですね、今回タイトルに入れた山本三南三郎って書いてあって、どこをどう読めばいいんだと思ったんですが、山本三尾三郎さんという人がいらっしゃって。
山本三尾三郎の展示がいくつかあって見ていたんですけど、帰り際に行った比較展みたいなところで見たら山本三尾三郎は新潟県出身って書いてあって、どういうことだろう。
多くの飛行機乗りの人たちは九州の地元の九州の人たちが多くて、九州の人たちはたくさんこういうのを志願したんだなっていう感じで見ていたんですけど、この人だけ新潟県の出身であれと思いまして調べてみました。
この方がカイテンの隊長だったというふうに書いてありまして、カイテンって回る天と書いて、天国の天ですね。回る天国の天と書いてカイテン。
これは人間魚雷回転っていうのが有名で、海で魚雷というか潜水艦の簡易なもののようなものに操縦士が一人入ってって特攻するんですよね。
そういうカイテンの方が有名ですと思いますが、こちらにも飛行機の回転というのがあったということが分かりました。
09:05
何をしたかというと、P-29に対当たりをしてパラシュートで降りてくるという作戦なんですが、この初代隊長の山本美代三郎さんが新潟県出身ということです。
帰ってきて山本美代三郎について調べてみたところ、山本美代三郎さん自身は北海道の美保路町出身で生まれていますが、もともとのルーツが佐渡の真野ですね。
真野の出身で、真野からお父さんが美保路町北海道に移住して、移住先の北海道で生まれたという、北海道開拓に行ったということなのかな。
でも行ったタイミングは大正10年ですので、どういう経緯で行ったのかわからないですけど。
でも酒造業休暇であったって書いてあるので、結構良家の出身じゃないですかね。商売のために行ったんですかね。
この辺もちょっと調べてみようかなと思いますけど。美保路町に移住して、旧正佐渡中学校を卒業して、旧正佐渡中学校松山高等商業学校というふうな学歴で。
その後陸軍の飛行学校に入るという経緯ですね。その後一旦就職するんですが、これはどういう形で軍隊に入ったのかちょっとわかりませんが。
ということですね。立原陸軍飛行学校に入って、そこで訓練を受けて海天隊長となり、対当たりをすると。今見ているやつと、4月18日に小小売村でB-29に対当たりして、不時着したと。
B-29も撃墜したんですよね。B-29撃墜して、山本さんが乗っていた飛行機も大発するのかな。
12:12
山本さん自身はパラシュートで降下しようと試みるんだけども、途中で機銃損傷を受けて亡くなっている。病院で亡くなっていると書いてますね。
というので、日本側から言えば、これは戦火を上げたということになるかなと思いますが、もちろんB-29の乗員も犠牲になっているということでしょうね。
B-29の人たちね。九州大学の整体解剖事件というのも結局こういうような経緯で、B-29の乗組員がパラシュートで降りてきて、その人たちを整体解剖にしてしまうという話なんですけど。
この時どういう経緯があったのかちょっとよくわからないですね。
なおかついろいろ見ていくとこのB-29が墜落をして、墜落したところが個人宅の防空壕の上に落ちて、その防空壕の中にいた人たちも亡くなっているというふうに書いてあって。
まあそうですよね。上空でこうやったらこういうことも起きますよね。というような話なので、非常に複雑な話であり、なかなかこの飛行機乗りの人たちの捨て身の作戦で命を落としたっていうこの経緯っていうのは、
やっぱり戦後はあまり大きくは語られてこなかったんじゃないかなとは思いますね。
ちょっと調べてみると、山本順っていう人が、山本宮三郎移行集、逆連の歌っていう本を出していまして、
15:02
山本順さんは実刑って書いてますね。お兄さんが立派に戦って亡くなった弟の原稿を出版本としてまとめたものがあって、それが残っているようですね。
というので、札の人たちは多分ね、あそこの家の息子さんがこういうふうな運命を辿ったっていうようなことを知ってるんじゃないかなと思いますけどね。三郎三郎だから三なんかな。
ですよね。というようなことが出ておりました。
立派の平和記念館というところに今回行ってまいりまして、その中でこの話を見てきました。
もうちょっとね、もうちょっとこういろいろ見ていったら、山本家のいろんな景品とかもいろいろ見ていくことができそうだなという気がしますけども、またいろいろわかったらお話ししてみたいと思います。
はい、今日はここまでにしたいと思います。ありがとうございます。