私は。
平美さんから。
すいません。
昨年の慰霊式、初めて参加した慰霊式で、
本社の皆方病担当として、ここから出席をしたんですけど、
その前年に大臣のマイク切り問題。
はい、マイクオフですね。
マイクオフ問題ですかね。
その持ち時間があれ、3分でしたっけ。
そうですね。
患者団体さんに、あらかじめ被害者団体さんに割り当てられる時間を過ぎたら、事務的に。
マイクを切っちゃった、発言終わりです。
終わってされるのが、話してるのと途中で切れて。
そうですよね。
その後、すごく問題になって。
問題になって。
再懇談があったりとかあって、大騒ぎになって。
はい。
次の年、去年から懇談が2日にわたって。
2日にわたって、そうですね。
だから前日の30日、4月の30日からと1日と両日を行ったということですね。
今年もそのスタイルが変わらずありますということで、
すごく丁寧に慎重な姿勢というのを変わらず示したいんだろうなというのは感じたんですけど、
やっぱり去年とも一昨年とも大臣はそれぞれ変わっていて、また1からみたいな感じの不老感もあるし、
患者さんたちはもう今年を目覚めて、
祈りの言葉を述べられた尾形雅美さん、68歳、今年なられますけど、
昨年の式典でも尾形さんを私は取材させてもらっていて、
1年だけですけども、やっぱり年々健康状態が悪くなって。
腰も痛いし、目も見えにくいし、でも70年だから頑張ってくるよって言って、
祈りの言葉を読みに行かれて、
ああなんだか大臣はまた来年も違う人が来るんだよなとか、
そういう切ないさもありながら。
ギャップですね。
とってもでもいい祈りの言葉だと思います。
翌日の西日本新聞の社会面でもご紹介してますけれども、
怒りと不満を乗り越えてここに立っていますとおっしゃって、
言い尽くせないほど長い人生を経験してきたと。
尾形さんは本当に有名な方だから、
20年前も最前線で活動されて、リーダー的なお立場で、
20年前だったら40代後半で、まだまだ今からするとお元気な、
すごい引っ張っていくような感じで、誰よりも声も大きくて、
日程されたのは2007年の頃。
まだだから戦ってらっしゃった頃だと思いますけど、
お姿見るとほぼ目白髪になられてて、
あやせられたなあっていうふうに思いますし。
尾形さんはごめんなさい挟んじゃいました。どうですか?
そのピラミッドさんの切なさ。
切なさですね。私は1日の式典のみしか、
人も参加してないんですが、
それこそ今話にあった尾形さんの祈りの言葉っていうのは、
かなり感じるものがありましたね。
尾形さんのこれまでのみなまた病との関わりっていうのが、
かなりうよ曲折あったっていうのが、
言葉からも感じられる。
心の解決とは、全ての人たちが起きた出来事と向かい合い、
心から反省をし、曲につなげることができた時、
この言葉に凝縮されているのかなあというふうに感じましたね。
尾形さん、1回は1995年の政治解決で、
被害者とは認められなくて、
それからかなり本人、頑張られた患者になられた方で、
かなり家族の方々も認定患者の方が多い中で、
こうやって今、お仕事もずっとみなまたでされているんですが、
それも息子さんに頼らざるを得なくなっているところとかも出てきているみたいですね。
そうですか。
祈りの拱石をずっと掘り続けていらっしゃって、
それが4,000体を超えていると。
建具職人の技術を拱石の作成にも活かして、
ずっとやられているということなんですね。
なるほど。
尾形さんって割と私のイメージは、
感情を豊かに表現される方だなと。
記者からすると、本当にダイレクトに伝えてくださるので、
分かりやすいという表現がいい方とかは別として、
患者さんの中にはなかなか思いが伝えにくい方もいらっしゃったり、
言葉が不自由になられている方とかも多い中で、
尾形さんはすごく歯切れがよくて、おっしゃってくれるので、
私たちからしても頼りがちというか、
代表して苦しみとか悲しみを訴えてくださるっていう、
そういう役割もあったので、
いろいろ背負うものが、
ご自身のことだけじゃなくて、
みんなの思いをスピーカーとして届けるんだみたいなのが、
今でも終わりなのかなという気がしますね。
その真の解決っていうね、
尾形さんが言ってくださった問題提起。
到底だから70年でできてませんよっていうことなんですよね、尾形さん。
去年からの期待感があったからです。
なおさらにちょっと。
さっき平美さんがちょっと言ってくれた大臣の発言っていうのは、
大臣自身の発言ではなくて。
でも大臣が式典が終わった後に記者会見を開いて、
その場での発言っていうのが、
その余波を起こしているということですね。
注目されたのが、
環境省の幹部が以前に被害者団体さんと懇談した協議をした際に、
目のまた病は他の公害患者と比べても恵まれているという風に発言があったと団体側から。
抗議が寄せられていたんですね。
その場で大臣の方は本当であれば謝罪しますという風な発言をして、
その記者会見でそこを追及されて、
東京に戻ったら誰がそういう発言をしたのか確認をしますとか、
ややよくわからないまま終わってしまって。
もう一個大臣の発言で言われているのが、
被害者さんとの懇談では救済に対して前向きな発言をしたのに、
怪気にそれをひっくり返すということがありまして。
やっぱりできないということですね。
胎児性の生まれながらに、胎児性のみのまた患者さんの方の介護の問題をめぐって、
大臣に要望するような話があったんですけど、
本人がいる前では前向きな発言をしたけれども、
会見では本人が目の前にいるからそう発言したけど、
実際は難しい問題ですって発言をしてしまって、
それに対して今被害者がリップサービスで侮辱だという風に動きがきているという派が続いています。
さっきの患者が恵まれている発言もまだ本当かどうかが調査中という感じですか。
本当の謝罪ではまだないということなんですね。
仮にあれば、もしそうした発言があったなら謝りたいとしかまだ言っていないから、
これは環境省の宿題として残っていると。
こういうことが、さっき触れた前交付があったのに、
70年の節目でも起きてしまうということが繰り返していますよね、水俣病は。
やっぱり環境省の職員なんかの潜在的な気持ちというか、
そういった思いが出た発言なのかなと私は見ましたけど。
なるほど、なるほど。
いわゆる我々報道に公開されている場ではない、
非公式の被害者団体との混乱であったにはせよ、
やはり警察の発言ではなかったのかなと。
事実であればですね。
そうですね。
だからそういう風にちょいちょい透けて見える本音みたいなところか、
本当に信用できないっていう。
被害者さんたちは患者さんたちがずっと戦い続けなきゃいけない、
言い続けなきゃ同じ過ちを繰り返しちゃうんじゃないかっていう警戒というか、
それにもつながっているということですね。
被害者さんたちにもっと来てよとかっていう話もね、
混乱の場ではありましたけど、
1日が2日に伸びたからじゃあいいのかっていう、
そういう短絡的な話ではなくて、
日常的にきちんと環境省としてもどう向き合っているのか、
どういう風に考えてくれているのかっていうのが、
なかなか見えないからみんな、
信用できないみたいに。
やっぱりそこの距離が縮まらない。
縮まったですね、やっぱり。
初日の混乱で、大臣は変われても被害者は変われないんだって言われた患者連絡会の山下さんの場が、
その通りだなと、どんどんなくなっていくので、
政治解決、政治決断をしてくださいというのが、
また来年は違う大臣が来る。
続けるしかないという。
永田町の政治的な見方をしちゃいけないけど、
環境大臣ってそう重くはないっていう。
大臣の核的にも。
やっぱり外務大臣とかだったら何年も継続する人っていうのが、
たまに岸田さんとかもそうだし、
継続性みたいなこと言われるけど、
環境大臣でそういうことを聞いた記憶がないもんね。
環境大臣のことを察して、継続性が大事だなみたいな。
ないですね。
だから外務省とか財務大臣とか外務大臣とかと書くと、
やっぱり下に見ているようなところがどうしてもあって、
だからこそ1年後退になるし、
そういう政治力があるような大臣が来るかって言われると、
そうでもないしっていう。
やっぱり気候問題とかグローバルな話とか、
やっぱりそっちの方がどうしても注目されますから、
力の入れようが変わってくるんでしょうけど、
みなまた病の公害の問題になるとなかなか。
もちろん大原則として汚染者負担、いわゆるPPP原則というのがあって、
環境を汚した企業なり団体なり組織なり、そこが現状回復じゃないけれども、
そこも含めて責任を負うんだという大原則があるので、
窒素がそういうメチル水銀を垂れ流してしまったということは認められているので、
その責任を負って窒素がちゃんと患者さん、団体さんに補償協定を結んで、
つぐないをするっていう、その隙間をもちろん分かった上でなんですけれども、
やっぱり救済を求める人が後を絶たない中で、
窒素というもともとは超有料企業だったんですけれども、
なかなか潰れるかどうかの本当の瀬戸際で社内も相当揺れていたと、
倒産した方がマシなんじゃないかというような話も何回も関係者から聞いて、
だから同情するわけではないんですが、
やはりそれぐらいの重みがこのミナマタ病という引き起こした責任の重さでも小さでもありますし、
だからこそ国がウルトラシーで保障の分を肩代わりするようなスキームまで編み出して、
何とか窒素を生かさず殺さずじゃないけど、
存続させながら患者さんにしっかり保障も続けるというような、
なんか次ハギ次ハギでこの70年何とかやってきたっていう、
この類を見ない枠組みも含めて、
やっぱりそういうことも含めて戦後最大の公害なんだなっていうのはすごく私も思ったんですけど、
村田さんはどういう感想とか印象残っていることはありますか?
私もミナマタ市局にいた3年間では、どうしても窒素は東京に本社があるので、
ミナマタ製造所にも患者センターというミナマタ病問題を扱う部署はあるんですが、
あまり保障に関わるような話とかっていうのはなかなか聞けなかったので、
そういう意味では、今回は窒素のずっと半世紀近くミナマタ病問題に携わっていた、
後藤俊吉さんという、この方を軸にした、
社長と会長まで勤められて、その会長を退いた後、さらに社長にまた復帰するという、
社内でミナマタ病といえば、後藤さんという、
この人をたどれば、窒素のミナマタ病の行き合い方が自ずと分かるというかということで、
元社長の大学時代の同級生、窒素の顧問弁護士も勤められて、
衆議院議員もやられた杉浦政賢さんという方にも話を聞いて、
社長が当時、都度都度ですね、政治決着の時にどう思っていたかとか、
2回目の政治決着の時に、窒素は分社化、いわゆる事業を引き継いだ子会社を新たに作って、
ミナマタ病の保証責任と切り離されて、
保証責任は全部窒素が残したまま、新しい子会社JNCは事業だけをするの。
不採用ともなっていないので、会社の支援用としても上がるということで、
取引とかもしやすくなるということで、経営環境が良くなって業績を改善させようという計画で進めていきたい。
そこに対する後藤社長、元社長の思いですとか、そういったところも改めて聞くことができて、
保証に対しては真摯に受けられていたなというのは。
本当その70年経って今でも終わっていないと何度も言ってるんですが、
後藤さんは何とか終わらせたかったと生涯かけて、
それに対する異論はもちろんあると思うんですが、それは置いておいて、
やっぱりその分社化の時、2009年ですね。
だからさらにまた一時金みたいなものを支払わなきゃいけないわけですから、窒素からすると。
また業績として厳しくなるだろうというのが分かっていて、社内でも反発があった中でも、
やっぱり自分がやるんだと、この分社化については。
幹部にも、君は事業の方に専念してくれとJNCが目処は立つように、
そっちにいわゆる塞い部分というか、大変なほうは俺がやるからということを言ってたんですよね。
だからそういう意味では、何とか窒素として終わらせて、その保証をいわゆる完遂ということをして、
事業に何とか専念して、企業としてもっと強くというか、昔の往年のようなあれを描いてたんですかね、やっぱり。
戦前から科学で、肥料の。
そうですね。日本窒素でしたっけ。
日本窒素。
日本でも有数のカーテンメーカーだったっていう頃も、後藤さん知ってますから。
何でしたっけ、杉浦さんがずっと取材のときおっしゃってた、
後藤さんがまだ入社した頃の会社は、まだミナマタ病公式に確認もされてない頃だから、お給料もめちゃくちゃ良くて。
ものすごい待遇が良かった。
当時公務員が4000円ぐらいの月給の時代に、窒素は2万円以上もらっていたという。
5倍?公務員の5倍?
だから今、30万円ぐらいだとすると、150万円ぐらいもらえる会社ってことでしょ。
最初の取材、私も杉浦さんと面識があったので行ったときに、
それすごいですね、今のグーグルみたいですねとか言ったら、フェフェとか言って、杉浦さん笑っておられましたけど、
グーグルなんてもんじゃねえみたいなね。
それぐらいの超有料企業に東大出て、ほらほらーっつー感じで、ここから明るい未来というか、描いてたっていう。
そういう話聞くと、本当戦後史を、ミナマタ病と一緒に見てるような気がして、
後藤さんの逃げることもできただろうし、やめるっていう選択もね、
多くの仲間がミナマタ病の公式確認後、仲間が去ったって話もね、してくれてたから、
それでもやり続けたっていうのは、一つ評価してあげたいと、逃げなかったという意味では。
最後までね、その問題を背負い続けた。
そうですね。
でも残念なことに、やっぱり終わらせたいという思いが強すぎて、やっぱり2010年でした。
社内報で、後藤さんはミナマタ病の出国から解放されるんだと。
ちょうど直近には業績が良かったこともあったり、文社化もできる目処が立ったってことで、
出国っていうのは足枷という意味なんですけども。
やっぱりそう捉えてるのかってことで、やっぱりミナマタの方たちはみんな怒るし、
そういう意味では率直な方だった。
そんな感じがしますよね。
だからなんとかっていう思いが、こういう不規則発言まで言うとなっちゃったんだろうなっていう。
難しいね。
なんて思ってるかね、ほんと70年で、存命であれば22年に亡くなられてますんで、
存命であればぜひ伺いたかった感じはしますよね。
当時そのね、業績を。
で、文社化を説明する役割で出国から解放されるという役割を使われてたんで、
やはりかなり期待がね、
したんですよね。
このままだかJNCが順調に業績を伸ばして、
そうするとそれだけ保証に回せるお金も増えるわけですし、
悪くはないそうですよね。
で、国からそういう立て替えてもらっているような債務が、
当時でも多分2000億弱ぐらいはあったから、それも返せるという。
だからそういう光が見えてきたからこう言っちゃったんだろうなって。
後藤さんは社長にその後17年に復帰して、
18年がおそらく最後、
みなまた病の犠牲者慰霊式に参列されたのが最後なんだろうなとは思うんですけども、
その時にも私としては、
まるかっこ被害者、まるかっこと事故を補ってますけども、
救済は終わっていると言っちゃって、また炎上すると。
そうですね。
決してみなまた病の方からしたら許せない、分かってないっていうのは、
その通りだと思うんですが、
彼なりに向き合った反省期なんでしょうか。
どうしてもそういうところがクローズアップされるなと。
そうそうですよね。
後藤さんのイメージとしては。
現地の方々は複雑な思いがあるのかもしれないんですけど。
でも彼なりに政治との上下で描きたかったのは、
そういう窒素なりの向き合い方と、
あとはうまく政治を使いながらというか、
政治に根回しして、政治と足並みを揃えて、
なんとか窒素に有利な中身にならないかという、
強暗ぶりというのも発揮してたのも後藤さんならではなんで、
そういった意味では後藤さんがいなかったら多分、
こういう枠組み、いろんな国が肩代わりするとか、
そんなにならなかったかもしれないしとか、
そういうふうにも思いますよね。
複雑なんですが。