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59|水俣病公式確認70年、記者の思い
2026-05-12 56:25

59|水俣病公式確認70年、記者の思い

日本の国政の中心地・永田町で日々取材をする西日本新聞東京支社報道部の記者たちが、本音をぽろりして、政治を身近に感じてもらえるように、ゆるりとニュース解説や裏話をする番組です

5月1日、公式確認から70年を迎えた水俣病。患者や被害者の闘いや苦悩だけでなく、地域の分断や差別も大きな問題として在り続け、今なお救済を求める人が多くいます。節目の日に現地で取材した記者が思いを吐露し、政治の役割も考えます。

◆出演:久保田かおり(MC/東京支社報道部デスク)、村田直隆(東京報道部記者/野党担当、元水俣支局長)、平峰麻由(東京報道部記者/日本維新の会、環境省担当)/音声編集:中富一史(販売部)

◆収録日:2026年5月7日

◆東京支社報道部
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#西日本新聞 #西日本新聞me #西日本新聞ポッドキャスト #西ポキャ #西日本新聞東京報道部 #政治 #首相官邸 #永田町

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サマリー

このエピソードでは、水俣病公式確認から70年を迎えた節目に、西日本新聞の記者たちが水俣病問題の現状と課題、そして政治の役割について語り合います。元水俣支局長の村田直隆氏と環境省担当の平峰麻由氏が、現地での取材経験や慰霊式の様子、患者たちの苦悩や分断について共有します。特に、長年にわたり患者の声を代弁してきた尾形雅美さんの祈りの言葉や、未だ救済を求める声が絶えない現状が語られます。また、原因企業であるチッソの対応や、政治解決の難しさ、そして今後の展望についても深く掘り下げられています。70年という節目を経てもなお、真の解決には至っていない現状と、政治の継続的な関与の必要性が強調されています。

番組紹介と水俣病公式確認70年の節目
西日本新聞ポッドキャスト
みなさんこんにちは。西日本新聞ゆるり政治考。この番組では、日比永田町で取材をしている、西日本新聞東京報道部の記者が本音をポロリして、政治を少しでも身近に感じられるようなニュース解説
そして裏話をゆるっとしております。収録日は今日、風邪かぶ5月の7日ですね。
おこちよい晴れが続いている。気持ちいいでしょうね。長田町からお届けします。連休明けということで大丈夫ですか。記者のみなさん苦笑い。抜け切れていないというね。休みぼけの様を引きずりながらですが、何とか振り絞って30分ぐらい頑張ってください。
はい、今日のテーマはですね、南多病公式確認70年記者の思いはということで、ちょっと重たいテーマを取り上げたいなと思います。
皆様ご存知のように熊本県の南多市で戦後最大とも言われる公害が起きた町ですね。その南多にゆかりがある記者に今日は集まってもらいましたということで、メインは元南多市局長であられて、現在は野党担当の村田直隆さん。
よろしくお願いします。
本社時代に南多病を担当して、今は環境省を持っている平峰真由さん。
はい、よろしくお願いします。
司会は私ディスクの熊田香里です。
私の南多つながりはいい日?
どうぞ。
いらない?
ぜひ、ぜひ。
このコーナーいらない。
いやいや、一応。
一応、一応触れときましょうか。
記者たちの水俣病との関わりと慰霊式
実は私も四半世紀前、恐い、恐い、もう歴史になりつつありますけど、2003年入社なんですが、その翌年から2004年から07年の4月までかな、熊本総局に勤務しておりまして、
2006年のちょうど公式確認50年の節目は、水俣市の現地で主催をしましたっていうぐらいの。
いやいや、20年、あれから20年っていうね。
あの日も、今年の5.1も晴れ間が覗いたと。
すごい天気良かったですね。
良かったね。
20年前もそう思い浮かべたら、晴れて綺麗な白縫い会だなと思ってしまった若かりし自分がいて、朝墓だなとこれを綺麗と思ってしまうとダメなのかなとかなんとか分からないなりに、ここにいろんな苦しみや悲しみが沈んでいる。
今もそこにあるのに、退避するように美しく見えちゃうっていう。
そこの複雑な気持ちをすごく覚えてます。
いい話じゃないでしょ。
いやいやいや。
いやいやいやいや。
エコパークね。
エコパーク。
はい、当時よく通いましたということで。
今年の公式確認70年はそれぞれお二人が現地で、平美音さんが出張という扱いで、村田さんは休暇を利用して。
言い方が優しい。
私あれなんですよ。
水又市局に赴任していた頃に。
それがいつなんでしたっけ?
それが2019年から22年までの3年間。
3年間市局長として。
ただちょうどコロナが。
そっか20年、21年。
20年の5月1日ももう相当ピリピリしてた頃ですね。
コロナがまん延しちゃって、慰霊式が開かれなかった年が2年間続いてです。
なるほど。
ちょうどフルスペックの慰霊式っていうのを。
当時市局長時代見れなかったっていうのもあって。
ああ、なるほど。
市局を離れた後も可能な限り行くように。
素晴らしい。
これ今は市が主催で。
市などで作る実行委員会。
実行委員会があってやるようになってるんですよね。
昔はそれも違ってましたもんね。形がいろんな、それこそ分断のって言われるように。
今でもね、乙女塚の方で有志の方がやられて、別の慰霊式もあるぐらい。
やっぱりみなまた病の悲しみとともに分断も深くなってしまったのが、この70年とも言える。
なるほど、だから休みを取ってでも。
びっくり。すいません、なんか非常な会社のように。
地下用車で乗り込む。
ちょっと風気味で乗り込んでこられた。
パイセン。
味仙ラーメンで合流しました。
熊本といえばね、そこら中にある味仙ラーメン。
手頃だし。
美味しかったですね。
じゃあ70年の式典は、780人が参列と言っているんですかね、患者さんやご遺族の方。
これは毎年の、ほぼ毎年のことでしょうけど、環境大臣、今年は石原さんが行かれて。
ここに首相が行ってもいいのになぁと個人的には思うんですけどね、70年の節目でね、高市さんがね。
そう言われる方もいらっしゃいましたね。
だよね。
こういう時ぐらいって。
ね。
ゴールデンウィークだからって、合流って決めてんじゃねえよみたいな気持ちもありますが。
ここでその当日の慰霊式の様子とか、何か印象に残ったこととか、その日1日でもいいですけど、
節目の日をお二人はどういうふうな気持ちで迎えましたか。
はい。
慰霊式の様子と尾形雅美さんの祈り
私は。
平美さんから。
すいません。
昨年の慰霊式、初めて参加した慰霊式で、
本社の皆方病担当として、ここから出席をしたんですけど、
その前年に大臣のマイク切り問題。
はい、マイクオフですね。
マイクオフ問題ですかね。
その持ち時間があれ、3分でしたっけ。
そうですね。
患者団体さんに、あらかじめ被害者団体さんに割り当てられる時間を過ぎたら、事務的に。
マイクを切っちゃった、発言終わりです。
終わってされるのが、話してるのと途中で切れて。
そうですよね。
その後、すごく問題になって。
問題になって。
再懇談があったりとかあって、大騒ぎになって。
はい。
次の年、去年から懇談が2日にわたって。
2日にわたって、そうですね。
だから前日の30日、4月の30日からと1日と両日を行ったということですね。
今年もそのスタイルが変わらずありますということで、
すごく丁寧に慎重な姿勢というのを変わらず示したいんだろうなというのは感じたんですけど、
やっぱり去年とも一昨年とも大臣はそれぞれ変わっていて、また1からみたいな感じの不老感もあるし、
患者さんたちはもう今年を目覚めて、
祈りの言葉を述べられた尾形雅美さん、68歳、今年なられますけど、
昨年の式典でも尾形さんを私は取材させてもらっていて、
1年だけですけども、やっぱり年々健康状態が悪くなって。
腰も痛いし、目も見えにくいし、でも70年だから頑張ってくるよって言って、
祈りの言葉を読みに行かれて、
ああなんだか大臣はまた来年も違う人が来るんだよなとか、
そういう切ないさもありながら。
ギャップですね。
とってもでもいい祈りの言葉だと思います。
翌日の西日本新聞の社会面でもご紹介してますけれども、
怒りと不満を乗り越えてここに立っていますとおっしゃって、
言い尽くせないほど長い人生を経験してきたと。
尾形さんは本当に有名な方だから、
20年前も最前線で活動されて、リーダー的なお立場で、
20年前だったら40代後半で、まだまだ今からするとお元気な、
すごい引っ張っていくような感じで、誰よりも声も大きくて、
日程されたのは2007年の頃。
まだだから戦ってらっしゃった頃だと思いますけど、
お姿見るとほぼ目白髪になられてて、
あやせられたなあっていうふうに思いますし。
尾形さんはごめんなさい挟んじゃいました。どうですか?
そのピラミッドさんの切なさ。
切なさですね。私は1日の式典のみしか、
人も参加してないんですが、
それこそ今話にあった尾形さんの祈りの言葉っていうのは、
かなり感じるものがありましたね。
尾形さんのこれまでのみなまた病との関わりっていうのが、
かなりうよ曲折あったっていうのが、
言葉からも感じられる。
心の解決とは、全ての人たちが起きた出来事と向かい合い、
心から反省をし、曲につなげることができた時、
この言葉に凝縮されているのかなあというふうに感じましたね。
尾形さん、1回は1995年の政治解決で、
被害者とは認められなくて、
それからかなり本人、頑張られた患者になられた方で、
かなり家族の方々も認定患者の方が多い中で、
こうやって今、お仕事もずっとみなまたでされているんですが、
それも息子さんに頼らざるを得なくなっているところとかも出てきているみたいですね。
そうですか。
祈りの拱石をずっと掘り続けていらっしゃって、
それが4,000体を超えていると。
建具職人の技術を拱石の作成にも活かして、
ずっとやられているということなんですね。
なるほど。
尾形さんって割と私のイメージは、
感情を豊かに表現される方だなと。
記者からすると、本当にダイレクトに伝えてくださるので、
分かりやすいという表現がいい方とかは別として、
患者さんの中にはなかなか思いが伝えにくい方もいらっしゃったり、
言葉が不自由になられている方とかも多い中で、
尾形さんはすごく歯切れがよくて、おっしゃってくれるので、
私たちからしても頼りがちというか、
代表して苦しみとか悲しみを訴えてくださるっていう、
そういう役割もあったので、
いろいろ背負うものが、
ご自身のことだけじゃなくて、
みんなの思いをスピーカーとして届けるんだみたいなのが、
今でも終わりなのかなという気がしますね。
その真の解決っていうね、
尾形さんが言ってくださった問題提起。
到底だから70年でできてませんよっていうことなんですよね、尾形さん。
水俣病問題の複雑さと政治的解決の難しさ
その背景にあるのは、もちろん行政の論理で決めた、
厳しい認定基準。
水俣病棟を決めるにはこういうところが必要ですよっていうのが、
それがあまりに厳しすぎて、
それに認められない人たちが続出するから、
2回にわたって政治主導で、
その人たちを救済しようという試みがあったけど、
それでもまだ救済されない人たちが今なお裁判をして、
水俣病患者としてしっかり認めてほしいっていうのが、
ずっと続いてるんですよね。
そのいわゆる被害の目、
身体に対する健康被害と、
あと難しいのが、
やっぱり窒素という原因企業が、
水俣に工場を構えていたので、
窒素で働いている人というのが現地にたくさんいて、
被害を訴える人たちと、
窒素で働いている人の間での対立も生まれて、
地域の分断もあったというのが、
さらに解決が難しくしている。
窒素で働く人の中にも、
当然水俣病の症状がある方はいるんだけど、
会社のことを考えると言えないとか、
雇用されている面もあるし、会社を悪く言えないとか、
その分断も二重三重だったり、
そこに差別が加わったりして、
非常に複雑で重層的な感じですね。
だからこそあまり本音を喋ってくれないイメージが、
20年前からあって私も、
取材してもいくつもいくつも心の扉があるというのは、
当然一回の記者に、
本当のこと、本当の気持ちなんて言えないみたいな、
取材に応じないという方もいらっしゃったり、
話したいけど話せないという方もいらっしゃったり、
当時はまだ20年前なので、
まだまだお元気な方もたくさんいらっしゃったり、
裁判をされている方もたくさんいらっしゃったりして、
やっぱりそこがすごく取材が、
当然なんですけど、
お話しするかしないかもね、
当事者さんのご意向次第だから。
それこそ尾形さんも、
最初は特命で取材を受けられていたのも、
途中から実名で顔を出されて、
見られ方というのは難しいです。
だから何かそうやって背負う覚悟みたいなものが、
決して喋らない人がいけないというわけではないんですけど、
喋れない人の分まで喋るんだ、
語るんだみたいな気概みたいなものもすごくあって、
最初に若い記者だと圧倒される。
歴史もそうだし、
向き合っている歴史も含めて、
自分なんかが取材していいのかなみたいな、
恐れみたいなものを当時感じた。
記憶がありますね。
尾形さんは認定されているから、
こう言えるんだみたいな方も、
今、対話を起こしている方とかが、
そういうふうに怒ったけど、
許せたみたいには到底言えないように。
去年からちっその社長が新しい社長になって、
あやまちという新しい、
あやまちを認める発言があったりとか、
それについてつぶ鳴るような言葉があったり、
そこで尾形さんが一歩前進だというか、
昨年69年の時点で70年に向けて、
親い直しに一歩前進だというようなことを言われて、
実際ちっその源工場に出向いて、
社員に向けて語り部活動尾形さんだけがやられていて、
訴訟で戦っているもの同士なんですけど、
現場では生きた地元では、
そういう萌え直しを模索する動きがあって、
望んだ70年だったので、
あまり去年と変わりがないと言ったら変ですけど、
大きくなりかかって、
当然難しいって分かっていたけど、
去年とは一言も変わりが社長の言葉もなかったですし、
もう一歩というかもう半歩でも何か患者さん被害者さんの
少し希望になるような、
言及であったりとか、
行動であったり、
ニュースもそうですけど、
変わりないかむしろ大臣が問題の発言をするみたいなニュースもあって、
それは終わってしまった70年の式典が悲しさみたいなものがちょっとありましたね。
解決とか決着って使えないけど、
そういうところに少し前進したような足跡が見れたら、
もう少し納得がいく意義がある式典になったのにっていうことですね。
チッソの対応と70年節目での課題
去年からの期待感があったからです。
なおさらにちょっと。
さっき平美さんがちょっと言ってくれた大臣の発言っていうのは、
大臣自身の発言ではなくて。
でも大臣が式典が終わった後に記者会見を開いて、
その場での発言っていうのが、
その余波を起こしているということですね。
注目されたのが、
環境省の幹部が以前に被害者団体さんと懇談した協議をした際に、
目のまた病は他の公害患者と比べても恵まれているという風に発言があったと団体側から。
抗議が寄せられていたんですね。
その場で大臣の方は本当であれば謝罪しますという風な発言をして、
その記者会見でそこを追及されて、
東京に戻ったら誰がそういう発言をしたのか確認をしますとか、
ややよくわからないまま終わってしまって。
もう一個大臣の発言で言われているのが、
被害者さんとの懇談では救済に対して前向きな発言をしたのに、
怪気にそれをひっくり返すということがありまして。
やっぱりできないということですね。
胎児性の生まれながらに、胎児性のみのまた患者さんの方の介護の問題をめぐって、
大臣に要望するような話があったんですけど、
本人がいる前では前向きな発言をしたけれども、
会見では本人が目の前にいるからそう発言したけど、
実際は難しい問題ですって発言をしてしまって、
それに対して今被害者がリップサービスで侮辱だという風に動きがきているという派が続いています。
さっきの患者が恵まれている発言もまだ本当かどうかが調査中という感じですか。
本当の謝罪ではまだないということなんですね。
仮にあれば、もしそうした発言があったなら謝りたいとしかまだ言っていないから、
これは環境省の宿題として残っていると。
こういうことが、さっき触れた前交付があったのに、
70年の節目でも起きてしまうということが繰り返していますよね、水俣病は。
やっぱり環境省の職員なんかの潜在的な気持ちというか、
そういった思いが出た発言なのかなと私は見ましたけど。
なるほど、なるほど。
いわゆる我々報道に公開されている場ではない、
非公式の被害者団体との混乱であったにはせよ、
やはり警察の発言ではなかったのかなと。
事実であればですね。
そうですね。
だからそういう風にちょいちょい透けて見える本音みたいなところか、
本当に信用できないっていう。
被害者さんたちは患者さんたちがずっと戦い続けなきゃいけない、
言い続けなきゃ同じ過ちを繰り返しちゃうんじゃないかっていう警戒というか、
それにもつながっているということですね。
被害者さんたちにもっと来てよとかっていう話もね、
混乱の場ではありましたけど、
1日が2日に伸びたからじゃあいいのかっていう、
そういう短絡的な話ではなくて、
日常的にきちんと環境省としてもどう向き合っているのか、
どういう風に考えてくれているのかっていうのが、
なかなか見えないからみんな、
信用できないみたいに。
やっぱりそこの距離が縮まらない。
縮まったですね、やっぱり。
初日の混乱で、大臣は変われても被害者は変われないんだって言われた患者連絡会の山下さんの場が、
その通りだなと、どんどんなくなっていくので、
政治解決、政治決断をしてくださいというのが、
また来年は違う大臣が来る。
続けるしかないという。
永田町の政治的な見方をしちゃいけないけど、
環境大臣ってそう重くはないっていう。
大臣の核的にも。
やっぱり外務大臣とかだったら何年も継続する人っていうのが、
たまに岸田さんとかもそうだし、
継続性みたいなこと言われるけど、
環境大臣でそういうことを聞いた記憶がないもんね。
環境大臣のことを察して、継続性が大事だなみたいな。
ないですね。
だから外務省とか財務大臣とか外務大臣とかと書くと、
やっぱり下に見ているようなところがどうしてもあって、
だからこそ1年後退になるし、
そういう政治力があるような大臣が来るかって言われると、
そうでもないしっていう。
やっぱり気候問題とかグローバルな話とか、
やっぱりそっちの方がどうしても注目されますから、
力の入れようが変わってくるんでしょうけど、
みなまた病の公害の問題になるとなかなか。
チッソへの取材と連載「チッソつぐないのかたち」
そうですね、派手さみたいなものを政治家って求めるじゃない。
小泉さんが環境大臣の時もそうだし、
セクシーって言っちゃって延長しましたけど、
あえむ気候変動であえむに、
せめのって言ったらあれだけど、
脚光浴びるような政策はどちらかというと一生懸命やるんだけど、
こういう本当に難しい問題で、
本当に勉強が必要で、
すごい長い歴史があって、
政治家として向き合うのも相当覚悟がいる。
それにどこまで本気で取り組んでるかっていうと、
なかなか派手なって感じですもんね。
その1日2日で本人がどれだけ向き合ってるのかっていうのを、
判断するのもなかなか難しいんでしょうけど、
それでもことあるごとに気にかけているというのが、
そういった姿勢が見えるとだいぶ違うんでしょうね。
違うんでしょうけどね。
なるほど。
なかなか70年でもちょっとピエンで済ましていいのかですけど、
行ってもう少し記者としても何か患者さんたち、被害者のたちが望む節目として迎えられるのかなと、
見届けようかなと思ったらそうではなかったという感じで残念ですが、
ちっその話もありましたけれども、
村田さんは70年という節目に、
加害企業、原因企業とも言われますが、
窒素を取り上げる大変挑戦的な連載をしてくれまして、
社内外で波紋を広げたと。
波紋を広げたと。
外からまだ伝わってはいけないですね。
多分ちょっと波紋が広がってるかなという。
なぜ窒素をやったかというのは、
村田さんや平美音さんたちとずっと作戦会議をしたときに、
最近やっぱりあんまり社長や含め幹部とかが、
表のいわゆるオン取材っていうやつで、
ケッサンの会見とかもちろんされますけれども、
それ以外で積極的に水又病のことを発信するってことが、
ほぼほぼないですもんね。
ないですね。
だから今どういうふうに窒素が考えて、
この70年という節目をどういうふうに捉まえてるのかとか、
これまでのその2回の申し上げた政治決着に、
どういう会社としての考えを持って望んだのかとか、
その辺の本音の部分をやっぱりきちんと取り上げたいなと、
患者さんに寄り添う姿勢は、
本市としては全く揺らがないんですけれども、
窒素が患者さんたちに支払う、いわゆる補償の中には、
公的なお金も含まれているということで、
ただ窒素がやればいいっていうだけの話ではなくて、
我々の税金を投入されているようなお話なので、
幅広くそういう意味で知っていただきたいなということで、
村田さんにチャレンジしてもらいましたが。
なかなかやっぱり加害企業を抜きにしては、
なかなか水又病は語れないのかなと。
そうですね。
救済、補償のやり方なんかにも、
加害企業の経営状況とかが直接関わっている。
そうですね。どれぐらいお金を支払えるか。
払いすぎると会社の方が潰れちゃうみたいな。
国の厳しい患者認定制度が厳しくなったのも、
窒素の支払い能力に応じた形で、
狭められたんじゃないかというような話もあって。
それが1970年代のことですね。
そうですね。
なので、窒素が保障責任、水又病問題に
どのように向き合ってきたのかというのは、
やっぱりこの70年の節目で、
しっかり新聞社として取り上げなきゃいけないのかなという、
そういった思いももちろんありまして。
そうですね。
なかなか取材に苦労しましたよね。
そうですね。
表から、だから公式に会社に取材をもちろん何度も申し込んだけれども、
こういう企画を考える。
それはダメだったんですよね。
そうですね。やっぱり一つの社に応じてしまうと、
もう他の社に応じなければならない。再現なくなると。
社長は年に2回ですかね、決算ではなくて株主の6月のと、
あと今回の慰霊式の後の会見の2回しか取材をしていただける機会がないので、
ぜひぜひこの70年の機会にというふうにも申し込んでみたんですけれども、
なかなかいろいろ返事をもらえなかったですね。
いろいろ関係者を伝って取材をしてくれて、
かなりこれはもう中身をぜひ西日本新聞MEで読んでいただけたらなと、
窒素つぐないのかたちという上下連載で、
4月28日と29日付で掲載しておりますので見てください。
ここから私もずっと取材のメモを読みながら、
チッソ元社長・後藤俊吉氏の尽力と分社化
もちろん大原則として汚染者負担、いわゆるPPP原則というのがあって、
環境を汚した企業なり団体なり組織なり、そこが現状回復じゃないけれども、
そこも含めて責任を負うんだという大原則があるので、
窒素がそういうメチル水銀を垂れ流してしまったということは認められているので、
その責任を負って窒素がちゃんと患者さん、団体さんに補償協定を結んで、
つぐないをするっていう、その隙間をもちろん分かった上でなんですけれども、
やっぱり救済を求める人が後を絶たない中で、
窒素というもともとは超有料企業だったんですけれども、
なかなか潰れるかどうかの本当の瀬戸際で社内も相当揺れていたと、
倒産した方がマシなんじゃないかというような話も何回も関係者から聞いて、
だから同情するわけではないんですが、
やはりそれぐらいの重みがこのミナマタ病という引き起こした責任の重さでも小さでもありますし、
だからこそ国がウルトラシーで保障の分を肩代わりするようなスキームまで編み出して、
何とか窒素を生かさず殺さずじゃないけど、
存続させながら患者さんにしっかり保障も続けるというような、
なんか次ハギ次ハギでこの70年何とかやってきたっていう、
この類を見ない枠組みも含めて、
やっぱりそういうことも含めて戦後最大の公害なんだなっていうのはすごく私も思ったんですけど、
村田さんはどういう感想とか印象残っていることはありますか?
私もミナマタ市局にいた3年間では、どうしても窒素は東京に本社があるので、
ミナマタ製造所にも患者センターというミナマタ病問題を扱う部署はあるんですが、
あまり保障に関わるような話とかっていうのはなかなか聞けなかったので、
そういう意味では、今回は窒素のずっと半世紀近くミナマタ病問題に携わっていた、
後藤俊吉さんという、この方を軸にした、
社長と会長まで勤められて、その会長を退いた後、さらに社長にまた復帰するという、
社内でミナマタ病といえば、後藤さんという、
この人をたどれば、窒素のミナマタ病の行き合い方が自ずと分かるというかということで、
元社長の大学時代の同級生、窒素の顧問弁護士も勤められて、
衆議院議員もやられた杉浦政賢さんという方にも話を聞いて、
社長が当時、都度都度ですね、政治決着の時にどう思っていたかとか、
2回目の政治決着の時に、窒素は分社化、いわゆる事業を引き継いだ子会社を新たに作って、
ミナマタ病の保証責任と切り離されて、
保証責任は全部窒素が残したまま、新しい子会社JNCは事業だけをするの。
不採用ともなっていないので、会社の支援用としても上がるということで、
取引とかもしやすくなるということで、経営環境が良くなって業績を改善させようという計画で進めていきたい。
そこに対する後藤社長、元社長の思いですとか、そういったところも改めて聞くことができて、
保証に対しては真摯に受けられていたなというのは。
本当その70年経って今でも終わっていないと何度も言ってるんですが、
後藤さんは何とか終わらせたかったと生涯かけて、
それに対する異論はもちろんあると思うんですが、それは置いておいて、
やっぱりその分社化の時、2009年ですね。
だからさらにまた一時金みたいなものを支払わなきゃいけないわけですから、窒素からすると。
また業績として厳しくなるだろうというのが分かっていて、社内でも反発があった中でも、
やっぱり自分がやるんだと、この分社化については。
幹部にも、君は事業の方に専念してくれとJNCが目処は立つように、
そっちにいわゆる塞い部分というか、大変なほうは俺がやるからということを言ってたんですよね。
だからそういう意味では、何とか窒素として終わらせて、その保証をいわゆる完遂ということをして、
事業に何とか専念して、企業としてもっと強くというか、昔の往年のようなあれを描いてたんですかね、やっぱり。
戦前から科学で、肥料の。
そうですね。日本窒素でしたっけ。
日本窒素。
日本でも有数のカーテンメーカーだったっていう頃も、後藤さん知ってますから。
何でしたっけ、杉浦さんがずっと取材のときおっしゃってた、
後藤さんがまだ入社した頃の会社は、まだミナマタ病公式に確認もされてない頃だから、お給料もめちゃくちゃ良くて。
ものすごい待遇が良かった。
当時公務員が4000円ぐらいの月給の時代に、窒素は2万円以上もらっていたという。
5倍?公務員の5倍?
だから今、30万円ぐらいだとすると、150万円ぐらいもらえる会社ってことでしょ。
最初の取材、私も杉浦さんと面識があったので行ったときに、
それすごいですね、今のグーグルみたいですねとか言ったら、フェフェとか言って、杉浦さん笑っておられましたけど、
グーグルなんてもんじゃねえみたいなね。
それぐらいの超有料企業に東大出て、ほらほらーっつー感じで、ここから明るい未来というか、描いてたっていう。
そういう話聞くと、本当戦後史を、ミナマタ病と一緒に見てるような気がして、
後藤さんの逃げることもできただろうし、やめるっていう選択もね、
多くの仲間がミナマタ病の公式確認後、仲間が去ったって話もね、してくれてたから、
それでもやり続けたっていうのは、一つ評価してあげたいと、逃げなかったという意味では。
最後までね、その問題を背負い続けた。
そうですね。
でも残念なことに、やっぱり終わらせたいという思いが強すぎて、やっぱり2010年でした。
社内報で、後藤さんはミナマタ病の出国から解放されるんだと。
ちょうど直近には業績が良かったこともあったり、文社化もできる目処が立ったってことで、
出国っていうのは足枷という意味なんですけども。
やっぱりそう捉えてるのかってことで、やっぱりミナマタの方たちはみんな怒るし、
そういう意味では率直な方だった。
そんな感じがしますよね。
だからなんとかっていう思いが、こういう不規則発言まで言うとなっちゃったんだろうなっていう。
難しいね。
なんて思ってるかね、ほんと70年で、存命であれば22年に亡くなられてますんで、
存命であればぜひ伺いたかった感じはしますよね。
当時そのね、業績を。
で、文社化を説明する役割で出国から解放されるという役割を使われてたんで、
やはりかなり期待がね、
したんですよね。
このままだかJNCが順調に業績を伸ばして、
そうするとそれだけ保証に回せるお金も増えるわけですし、
悪くはないそうですよね。
で、国からそういう立て替えてもらっているような債務が、
当時でも多分2000億弱ぐらいはあったから、それも返せるという。
だからそういう光が見えてきたからこう言っちゃったんだろうなって。
後藤さんは社長にその後17年に復帰して、
18年がおそらく最後、
みなまた病の犠牲者慰霊式に参列されたのが最後なんだろうなとは思うんですけども、
その時にも私としては、
まるかっこ被害者、まるかっこと事故を補ってますけども、
救済は終わっていると言っちゃって、また炎上すると。
そうですね。
決してみなまた病の方からしたら許せない、分かってないっていうのは、
その通りだと思うんですが、
彼なりに向き合った反省期なんでしょうか。
どうしてもそういうところがクローズアップされるなと。
そうそうですよね。
後藤さんのイメージとしては。
現地の方々は複雑な思いがあるのかもしれないんですけど。
でも彼なりに政治との上下で描きたかったのは、
そういう窒素なりの向き合い方と、
あとはうまく政治を使いながらというか、
政治に根回しして、政治と足並みを揃えて、
なんとか窒素に有利な中身にならないかという、
強暗ぶりというのも発揮してたのも後藤さんならではなんで、
そういった意味では後藤さんがいなかったら多分、
こういう枠組み、いろんな国が肩代わりするとか、
そんなにならなかったかもしれないしとか、
そういうふうにも思いますよね。
複雑なんですが。
真の解決への道のりと第三の政治決断
で、この70年後藤さんが思い描いた本当の終わり。
尾形さんも願う真の解決っていうのは、
まだまだ先だよっていうお話で、
最後ちょっと締めたいと思うんですけども、
まだ救済を求める人が後を絶たずに裁判も行われている中で、
第三の政治決断というか救済がどうなるかっていうのを、
皆方の方は心待ちにしている、要望もされているということです。
その状況をちょっと最後平美音さん、
ご紹介していただいていいですか。
昨年までは少数野党ですごく、
これはいけるんじゃないのかと。
え、村田さんが書いてました。
社員制が終わってすぐとか、そうでしたよね。
短かったですよね。
期待を込めて。
期待を込めてね、こういうふうに本当の終わりになるか、
だから政治が、野党側が強いっていうことは、
野党でそういう新旧裁判に熱心な方が多かったので、
取り組んでいる議連の力が大きくなって、
自民党としては言うことを聞かざるを得ないような雰囲気、
95年と2009年と似たような自民党がちょっと元気がないときに、
皆又病問題が動いてきたっていう歴史があるので、
そういうのも含めて今度こそって思ったけど。
今度こそって思ったけれど、
年明けの選挙で、
衆院が解散されて廃案になってしまって、
それまでも審議されることはなく廃案になり、
選挙があって、衆院で自民党が対象してしまったので、
それによって法案提出に熱心だった野党の議員の皆さんも
たくさん落選をされて、
国会の中にある議員のグループで、
国会議員連絡会っていうのがあるんですけど、
そのメンバーも40人ぐらい落選されてしまって、
もうメンバー半分になってしまって、
もう一度提出するっていうことも困難な状況になったというふうに、
トップが中道の西村議員が会長なので、
そういうふうにおっしゃっているという状況ですね。
なかなか議員立法っていうのは、賛同する各党の中で、
まず党内手続きをやって、
国会ではもう出されると、
各党の党内手続き終わってるから、
もう一回で、はいこれでいいですねって通るっていうのが習わしなので、
まず各党の足並みが揃うっていうのが条件だから、
今みたいに野党の数は減っているけど、
自民党がすごい数を持っているので、
自民党でまとまるってことはもうほぼほぼ考えにくい状況では、
かなり見通しが厳しいですよね村田さん。
そうなんです。
自民党の議員の方がどうしても、
政権与党が長いこともあり、
環境省の政策にある程度理解を示しているところもあって、
やっぱりその自民党議員発令の救済っていうのは、
なかなか難しい話ですよね。
しかももう政府与党の立場としては、
2度の政治決着で、
最終的な解決が図られているんだと、
終わっているんだという立場なんですね。
だから後は個別で平田区議員と不満があるんだったら、
裁判を起こして認定を勝ち取る。
しか逆に言うと、
公衛健康被害保障に基づいて、
患者認定の申請はできるんですけど、
なかなか認められないという状況。
その認定の基準がめちゃくちゃ厳しいから、
じゃあウルトラシーで裁判にかけて、
裁判司法から動かすかっていう。
時間がかかるし、
これに現在でもなられている方に、
その負担を負わせるのかと。
やっぱり第三の政治決着になると、
やっぱり質素側の理解も得なくなって、
大きな乱暴になりますよね。
さっきも言ったように、もう1回だから、
質素側としては95年も2009年も、
2回一時勤というのを支払ってるわけですよね。
通常の患者さんへの保障とは別に、
新たな被害者と認める方に。
だからまたプラスアルファで、
3回目また支払うんかいって、
多分質素としては言うだろうし、
今も質素の業績はあんまり良くないんですよね。
今もかなり厳しい状況が続いてますね。
だからこの段階でさらに払ってよっていうのは、
なかなか多分応じない。
持たないですよね。
でもさっき言ったように、
汚染者負担の原則があるから、
国がまるごと肩代わりするスキームっていうのは、
考えにくいし、
新旧細胞はそこを国がね、
立て替える、支弁するって書いているところで、
ポイントというか、
ダメだよねってやっぱり国があるとしたら、
汚染者負担の原則に反するじゃないって、
今までやってきたことと違うじゃないって、
行政が一番嫌う一貫性みたいなところがないってね。
となるとこの70年を経てもなお、
この平行線と言っていいのか、
噛み合わないあれが続いちゃうのかなというところでしょうか。
政治的求心力の低下と今後の展望
主人公というか、中心になる議員さんがこれまではいたと思う。
そうですよね。
95年とかだったら、
村山さんが元々、
自民党でも熊本選出も園田さんとか有名な方が、
一生懸命やる議員さんが、
2009年でもそれこそ熊本選出の園田さんもいらっしゃったし、
民主党の松野さんもいらっしゃったし、
そういう方がね。
被害者団体とも窒素とも、
両方話せる。
話ができる人がいたけど、
今はもう、
まずそういう求心力のある人が、
議員がいない。
いなくなったし、いなかったし。
そうですね、園田さんも亡くなられてるし、
松野さんも引退されてるし、
今の熊本選出の金子国交大臣がそんなに熱心かというと、
全くそういう話聞かないです。
聞かないです。
だからそういう被害者さんたちからしても、
誰を頼ればいいの?みたいな。
去年野党、六党が団結して提出したって、
今もうポロポロ離脱者が出てきてるから、
そういう流れとか求心力とかでこんなに変わるんだなって、
ちょっとショックでもある。
そうですね、そういう政治ってムードみたいなところ。
だからさっき言ったような、脚光を浴びるやつは、
みんな食いつくっていうか、
俺も俺もってなるんですけど、
票にならないって彼らは結構言いますよね。
しかも解決に向けてはめちゃくちゃ難しい。
そうしたらいつ日の目が見るかわかんないみたいな。
地元が、自治体が熱心だっていうところが、
たぶん前回、前々回と違うところではありますよね。
そうですね、そのヨシイさんという、
窒素の連載の前に本社チームが取り上げた、
ヨシイ市長、元市長みたいに、
どんどん国に物申す、
みたいな行動力もあって発信力もある、
で、ちゃんと被害者さん、患者さんとも寄り添ってる、
名物市長で、そういう人もいないし、
誰が着火点になるのっていう。
やっぱり国としても地方が行ってきたほうが、
やっぱり動きやすいですね。
それはありますよね。
いっぱい患者団体、あれの中の一つが、
こんなに熱心に訴えたとしても、やっぱりね。
地元の声。
ということは長田町の政治の力だけじゃなくて、
やっぱり熊本県知事もそうだし、
今の源市長もそうだし、
もう一回向き合えと。
向き合えと。
80年になった時には。
その責任を問われるんだよって、
80年までこのままズルズル行くんですかっていうね。
当事者のほんと第一次世代の人たちが、
ほぼほぼいなくなってから、
何かやっても、ほんと遅すぎるわけで。
最後のチャンス?
1700人とかいらっしゃいますからね、現在。
現在でもね。
その思いをどういうふうに受け取るかっていうのが、
教制並びに政治の宿題であり続けてるわけで、
もちろん知事さんもそうですけども、
改めてそこに向き合ってほしいなと思いますね。
はい。
番組の締めと購読案内
今日もおしとやかに真面目に。
比較的。
常識的な時間。
結構50分くらい付き合っていただいて、
皆さんの熱い思いが。
ありがとうございます。
あまりね、政治の話題でみんなまたびょって取り上げるとか、
ひょっとしたらポッドキャストの番組で、
他のは番組にはないのかなと思って、
和菓子らしいという意味で。
50年のその前からですね、
ずっと地元の皆さんに教えていただきながら、
記事を刻んできたというところもあるので、
音声でもお届けするという試みをやってみました。
70年の節目に。
良いと思います。
ありがとうございました。
それではエンディングです。
長時間本当にすいません。
ありがとうございました。
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ぜひとも西日本新聞またはスマホアプリ、
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詳しくは概要欄をご覧くださいませ。
それでは午前ウイーク明け。
働きたくないとかね、
学校行きたくないとか、
その気持ちを大いに賛同します。
ぜひ無理をしないように。
つらみ。
無理をしないようにマイペースでやっていきましょう。
ありがとうございました。
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