1. 丹羽には、にわかに庭が広い。
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2024-06-12 34:26

明るい人が求められるから、暗い自分が許せなくなっていく

大学4年目にして、自宅から大学まで1本で行けるバスを発見した丹羽です。
肌で「明るい人の方がいい」とわかっていたつもりでも、実際に根から明るい人が求められている現実は、暗い自己は少しも存在してはならないんだと、より自己肯定感がなくなっていきます…
今回、『呪術廻戦』『ザ・ビュッフェ』など明るく娯楽の話もしているし、ネガティブな自分もいるし、ネガもポジもあっていいんだと許すのは時間がかかりそうです。
🍚MONO NO AWARE 『ザ・ビュッフェ』 https://open.spotify.com/intl-ja/album/4wLS4xt5rbHMW9U5j580ZJ?si=8lRgcoymT9WeNRTdTJQAeQ
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6月12日、第93回目の、にわにわにわかに庭が広い。です。
大学4年の前期も半分が過ぎようとしているところなんですが、
なんと、私は最近になって、自宅から大学まで1本で行けるバスっていうのを発見しました。
これまでもバス通ではあったんですけど、これまでは乗り換えを必要としてました。
でもまあ、なんていうか、同じバス会社のバスに一つの大きい駅を起点にして乗り換えてたっていう形だったので、
まあそんなに苦ではないというか、まあ電車からバスに乗り換えるっていう乗り換えじゃないので苦ではなかったんですけど、
でもまあ乗り換えなく1本で行けたら楽だなーって思ってたし、そんな方法ないかなーって思ってはいたんですが、
こっちでの生活4年目にしてようやくそのバスを発見しました。
まあとはいっても、これまでのその乗り換えをしてたバスだったら、自宅からバス停までは割とすぐだったんですけど、
今回発見したバス、1本で行けるバスは自宅からバス停までの距離が結構あって、
それでまあバス停から大学までの距離もちょっと歩くっていうバスなんですよ。
だからそんなにそのなんていうかな所要時間としては、バス、乗り継ぎのバスを待つ所要時間とこのバス停まで行くのにかかる時間とか、
バス停から大学まで行くのにかかる時間っていうのはあんまり差がないかなと思っていて、
なのでまあどっちでもいいやという気持ちはありつつ、もっと早く知ってたらちょっと便利というか、
なんかこう乗り継ぎで人込みすぎてうまくいかなかったなんてこととかも減らせたのかなって思って、
いやー、ちょっと悔しかったですね。
こんな感じで私はある地域に適応するのとか、あるコミュニティに適応するのに、
何年もかかるタイプってわかったので、
ちょっとまだしばらくこの地にいたいなっていう気持ちがまた芽生えちゃう一つになっちゃったんですけど、
1個新しいものを見つけたっていうポジティブな面だけで考えて過ごそうかなっていうところです。
2話の要継状、このコーナーでは私2話の最近あった出来事をお話しするコーナーです。
今オープニングで新しい環境になれるのにかなり時間がかかるタイプだってネガティブに批判するよりかは、
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新しいルート見つけられたんだから良かったってポジティブで言おうとしたんですけど、
なんか本来私は無理やりネガティブだと思ったことをポジティブにしようってするのは好きではないというか、
なんかそれをすることによってしんどい部分はあるよなと思っているタチなんですよ。
でもまぁ認知心理学とかで明るいとかできるって言ってたら、
できるようになる明るい方になる行動がそういう風に伴ってくるっていう風にも言われてるから間違ってはないっていうのもわかる。
だからまぁこのことを聞いて、なるべくある出来事をポジティブな方に結論付けようって言って、
そうやって日記とかに例えば書いたら、まぁでもちょっとは良かったかなで締めようかなって思ったりやったりするようにはなってはいました。
でもまだ今のところ私個人としては、そうやってちょっと結論を明るい方にしようって、
そうやって物事を明るい方に捉えようって意識してやってきて、
自分がちょっと明るいことができるようになったとか、何かできるって言ってたらできるようになったみたいなことが自分でわかりやすくあったかって言われたらなかったかなって思いますね。
まぁこれも私がそもそも学術的に言われてることをあんまり信じてないのにやってるから、
プラシーボ効果みたいなのが現れなくてっていう可能性もあって、だから何か物をちゃんと信じてやらないと、
それに伴う結果がついてこないっていうのをむしろ裏付けちゃってるのかもしれないですけど。
まぁこういうふうに学術的に明るい方に行こうとすれば本当明るくなるっていうふうに言われてるから、
自分妄想しようって思っただけじゃなくて、
社会からも暗い人より明るい人を求められてるから、
自分も明るくならなきゃいけないってすごい思わなきゃなとしてるんですよ。
まぁまぁ、小中高、大学って学生として生活してる時も、
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なんとなく明るい人の方が楽しそうだし、幸せそうだしっていうのはあったから、
よくその、そうやって社会が明るい人求めてるっていうのは分かってたつもりではいたんですけど、
実際に自分が就活をするようになって、
本当にネガティブな面を、自分の弱っちい面を1ミリも出してはいけないんだなっていうのがこう分かってきて、
なんかこれは結構しんどいなっていうのが今思ってますね。
まぁ弱みをこう、あなたの欠点は何ですかって聞かれることもあるけど、
それもなんていうかな、ポジティブにある程度変換した上でとか、
それについての対象が自分で分かっている上で言っていかなきゃいけないっていう状況なので、
本当にネガティブな部分を1ミリも出しちゃいけないんだなってなってます。
その、そりゃ学問でも絶対明るく捉えていった方が明るくなれるから明るいこと言ってた方がいいとかってなってるし、
だし自分の実感としても明るい人の方がなんか幸せそうだなって思ったりっていうのもしてきたから、
そりゃ社会も会社も明るい人を求めるよなって分かってはいるんだけど、
なんだろうな、私にとっては100%純粋に明るい人間ですみたいに、
明るい人間っていう表現じゃないけど、こういうことができますって言い切る、
のをしていくことは、なんかもう本当にアカデミー賞女優ぐらいのことをしていかなきゃいけないぐらい大変なことなんですよね。
まあ、私は暗い人間ですって、
その、はっきり言いたいわけじゃなくて、こういう一面も暗いとかネガティブな一面もあるのですが、
暗いって言いたいんだけど、それも封じられるというか、
やっぱ、元来明るい人の方が求められているから、
それは言っちゃいけないって言うので、それが私にとってはしんどいなあっていうところですね。
なんていうかその、いろんなことをマイナスに捉えちゃうなっていう自分も
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明るいプラスな方に変換したものを言うっていうのは、もちろん良い面もあると思うんですよ。
明るい方にやっぱりついていく、体がついていくみたいな、そういう行動を取っていくっていう良い面もあるとは思うんですけど、
なんか本来、自分がこう素直に感じた気持ちみたいなのもすごい、すごい圧力をかけて変換して、
なんか全然自分から生み出されたものじゃない感じがしていってしまうような気もして、
なんかそれって、その求められている人物像、自己像と、本来のありのままの素直な自己像にギャップを生み出しているような感じがするから、
しんどいなぁって思うんですよね。なんか変換すること自体本当に、その自分が自分のためにやるんであったら良いことだなっては思うんですけど、
こう求められているから変換しなきゃと思って、やるって言って、こうそういうふうに言っていくっていうのって、
なんかこっちの方が求められてるんだな、みたいなポジティブな要素のある人間の方が求められてるんだなって直接的に自分の体にも響いてくるのに、
未だにこう、そういう場じゃない自分が素直に思うことって、結構ネガティブなことを未だに思うんだなっていうのを感じてしまって、
ギャップが大きくなるんですよね。
だから本来人間一人一人の中に、こう、Aっていうことはできて、Bっていう面では明るくて、
Cっていうことはできなくて、Dっていうことはネガティブに捉えちゃうみたいなのって全然あると思うし、
そのCとかDが元来強い人もいると、私がそうだから思ってるし、
それってどっかはできて、どっかはできなくてっていうのがあって、
私みたいな人はというか、私はもともとそれってどっかはできて、どっかはできなくてっていうのに一貫性がなくて嫌でっていう自己矛盾が
自分の中に強く起こって、自分のことを嫌いになるというか、自己肯定感が低くなるタイプだから、
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気づけたことかもしれないというか、なんて言ったらいいかわかんないけど、
その、自分の中で思う自己の中の矛盾は、なんかまだどうにかしなきゃっていう気持ちが少しは浮くんだけど、
なんか人から、そのさっき言ったみたいにAとBっていうこれができて、ここの部分は明るくてっていう部分だけを求められてるんだって、
こう、人は明るい部分しか求めないんだっていうのをわかってきてしまうと、
なんかより、このCとDっていうできなくて、ここはネガティブに捉えちゃうっていう自分が、もっと許せなくなってくるんですよ。
なんかだから、すごい、その自分を明るく言うことはもうマジ大女優みたいなことやってるなっていう、こう大変さもあるし、
その裏で抱えてる事故矛盾というか、このネガティブな事故が許せなくなっていくっていうのが大きくなっていくから、
めっちゃしんどいなって思うんですよね。
どうしたらいいんだろう、なんか本当に嫌になってくる、自分が関係があるようでないような、内容であるような話をするんですけど、
最近、呪術回戦、言えてますか?呪術、怪しい、呪術回戦のアニメを見まして、
この呪術回戦の主人公たち、イタドリ君たちの敵側である呪霊っていう存在がいて、
この存在自体、こう、イタドリ君たちが関わるめっちゃ強い特急呪霊以外にも全然湧くんですよ。
それがなんで湧くかって言ったら、人の負の感情から生まれるのが呪霊であるからであって、
っていうので、めっちゃ呪霊って湧くんですけど、
こう、イタドリ君たちが戦うことになっていく特急呪霊の、
ジョウゴっていう一つ名で、火山みたいな呪霊がいるんですけど、このジョウゴが、
そうやって人の負の感情から生まれた呪霊こそ真の人間なんだって言い張って、
言い張ってというか、それを言ってて、だから人間という存在は自分たちよりも、
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あの、定義の存在というか、自分たちこそ真の人間なんだって言い張る呪霊がいて、
この感じめっちゃわかるなーっていうか、わかるなーっていうかっていうのも意味わかんないけど、
そのさ、負の感情って、やっぱ人間の本来の自分って思わせるよなーって思うじゃんですよ。
やっぱりそれって、他人に対してポジティブな方でいいよとか、明るい方でいいよとか、こういうふうな態度で振る舞おうとかってするから、
自分の中に負の感情が溜まっていったり、その本来の自分とそうやって振る舞いをしている自分とのギャップに気づいてしんどくなったりして、
そこから負の感情が生まれたりもするだろうしっていうのがあるから、その負の感情から生まれたものこそ正しいというか、本来の姿だって思っちゃうなーっていうのがすごくわかるんですよね。
その、あまりにも人のために、人に求められるように振る舞う自分っていうのがあるから、
本当はそうやって人と振る舞ってる時の自分も、一人の自分の中に収められるはずなのに、
求められた方に擦り寄っていかなきゃいけないというか、義務的に明るくしなきゃいけないんだなぁ、そっちの方が求められるんだなぁってなっていくと、
一人の時の自分というか、振る舞いの裏で何か別な気持ちがあったりする自分の方を認められなくなるし、そっちがむしろ本当の自分なんだ。
本来の自分はこんなに暗いんだっていう方になっていっちゃうと思ってて、本当はだから、
発泡美人であって、人によって振る舞いを変えてても、一人の自分だし、
でまたその発泡美人してる裏で、なんかめっちゃ暗いこと考えてても、それも自分だし。
だから自分にはいろんな一面があるし、なんか自分なんだって思ってよくて、それも自分なんだって思ってよくて、
こうやって自分は存在していいんだとかって思っていいはずなのに、
人から求められる自分を演じてるになっちゃって、悪いこと考えてる自分が本来の自分だなぁって思えてきてしまうのがあるよなぁって思いますね。
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そうだから、なんか私、呪術回戦、何文でか知んないけど、呪霊側に納得させられるセリフが多かったり、共感するセリフが多かったりしますね。
あの、ジョウゴと同じ特急呪霊で行動もまあまあ共にしてる魔人って、真に人って書く呪霊がいて、
ジョウゴは、こうなんか火山とか山とかそういうものへの恐れであるとかの負の感情から生まれたものなんですけど、
魔人っていうのは、本当に人が人に対して持つ負の感情から生まれた呪霊だから、そのね魔人っていう字が真に人なんだけど、真に人なんですよ。
あの、ジョウゴが言うところの負の感情、純粋な負の感情から生まれた呪霊が本来の人間なんだって言いたい人たちからすれば、
魔人はマジで真に人なんですよ。
なんかそんな魔人が言ってた感情はただの魂の代謝だっていう、なんか言葉が、
これは別に共感とかじゃなくて、なんかかっけえなって思ってたし、なんかこう感情に自分が左右されちゃうこともあるけど、
なんかただの代謝って思えたらちょっと楽になれるなーみたいな風に思って、このセリフ好きだなーって思ったりしましたね。
あの、必死に戦ってるイタドリ君とか、ね、ナナミンとかがしんどいのは承知の上で、なんでかしらないけど呪霊側に共感してしまう自分がいます。
でもあれそういう風に作られてますよね、たぶんね。やっぱそうだとしか思えないんだけど、なんか。
なんか真の自分っていうのをやっぱり負の感情に置いてしまいたくなるし、それが求められた自分とか、求められた人間と違うと、
それを否定したい自分が出てきて、自分のことが嫌になってきつつあるなというお話でした。
庭のガーデニング。このコーナーでは私、庭の好きなものをお話しするコーナーです。
モノの哀れのニューアルバム、ザ・ビュッフェというアルバムがめちゃくちゃ良いっていう話をします。
もともと私はモノの哀れというバンドが大好きで、
まあポッドキャスト界で言ったら知らない人はいないぐらいのあの奇々怪々明快辞典をタイタンさんって方とやってる玉置集計さんって方がフロントマンを務めるバンドなんですけど、
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いやー、本当にモノの哀れって、こういうことを表現したいバンドだよなぁ、こういうバンドもいいよなぁってなるアルバムです。
前回のアルバム、行列のできる片舟ってアルバムが2021年のもので、
そこから3年がいたので、ちょこちょこデジタルのみのリリースされてた楽曲とかも入ってて、
事前に知ってた、まあ既存の曲っていうんですかね、アルバムには入ってなかったけど、もうリリースされてたよって曲が何曲かあって、
私はその中の風の向きが変わってという曲が本当に大好きでよく聴いてたんですよ。
この風の向きが変わってっていう楽曲は平たい言葉で言えば応援ソングなんですけど、それを情景描写から歌ってるような歌詞で、
私メロディーももうそんな感じで、メロディーのこと言えないからそんなふわっとしたこと言っちゃったけど、
ずっと柔らかいテンポで進んで、別に力強い歌い方をしてるわけじゃないんだけど、
この情景描写が変わっていくから、あなたも変わっていくよ、みたいなことを言ってて、
なんかね、それが本当に変わろうとせず変われるような感じがすごい落ち着いてて、私は大好きだったんですけど。
いやー、この曲がね、アルバムで言うと6曲目?ちょうど12曲入りなんで真ん中に入ってるのもさすがやなーって感じがするんですが、
なんかね、結構今回のアルバムは、物の哀れ的に代表曲となってる曲いっぱい収録されてるなーって感じがしますね。
これまで物の哀れを代表する曲としたら、かむかむ、しかも二度もかもか、二度育ちか、ママミヤかっていうところだったんですが、
今回のアルバム聞くと、これです。物の哀れは。って感じがすごいします。
私はその風の向きが変わって以外に、お仲間っていう、同じ釜の飯を食うっていう、同じと釜って書いてお仲間っていう、
このザ・ビュッフェの中で一番目に来る曲がめっちゃかっけーなーって初めてMV公開された時に聞いたんですけど、思いました。
言葉遊び。玉置さんの歌詞は、早口言葉とかで歌詞が作れるぐらい言葉遊びがすごい上手い方なんですけど、
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このお仲間の歌詞は、これぞ玉置さんだなーっていう、この言葉遊びが散りばめられてるし、
なんだろうな、言葉遊びだけじゃなくて、この曲一つ通すだけで、人が成長していく過程みたいなのがわかるし、
その人が成長していくっていうのが、一つの食事を通して表現されてるのがすごいなーって思ってて。
でまぁ、メロディーとしてはキャッチーっていうわけじゃないけど、絶対ライブだったら盛り上がるなーって曲で、いいですね。
このミュージックビデオも、メンバー4人で同じ釜の飯を食うじゃないけど、ご飯食べてる様子が映し出されてて、そんなミュージックビデオなんかいいなーっていうのがありましたね。
でまぁ、お仲間だけじゃなくてというか、このザ・ビッフェ自体全部食がテーマになってて、
で、アルバム通しで言っても、この食をテーマに一人の人生を描いているようなアルバムだなと思って、いやーすごいってなってました。
なんか今までも物の哀れのアルバムは、人生山折り谷折りとか、かけがえのないものっていうアルバムとかがそうだったんですけど、
一人の子供がまあまあ大人になるまでみたいなのを描いてはきてたから、
まあなんかこのアルバムで描きたいことみたいなのが、この2024年になっても変わってないのがすごいいいなって思ってるし、
そこにさらに食っていう固定の目線が入ってるのが、進化だなーって感じで、すごい好きです。
お仲間、風の向きが変わって以外にだったら、お刺身っていう、あのお刺しっていうのと、まあ多分刺身を掛け合わせた、
ね、タイトル柄も面白い曲がすごい好きですね。なんか、これこれって感じの曲です。
でまあ、風の向きが変わってっていう曲が大好きな私にとっては、12曲目、アルバムの最後の曲のアングルっていう曲も、
もう忘れちゃいけないというか、これはしみじみ思うことだなぁと思ってて。
アングルが変われば、アングルが変わればっていうのが、あのサビの部分なんですけど、
いろいろ噛み締められるようになってて、アングルが変われば、まあ思ったより自分が猫背だなってことに気づくかなーとか、
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自分が願ってた理想よりももしかしたら良いところにいるかもなーとかっていうのをこう、しみじみ歌ってて。
なんか、この曲聴くとザ・ビュッフェ自体結構、ギターもベースもドラムも全部こう、
いかつい曲が結構多くて、まあポップではないけど楽しいなっていう雰囲気にはなる楽曲が多い中、最後のアングルでなんかしみじみするなっていうのが、
なんかこうね、人の人生ねーって感じがして、好きです。
という、物の哀れのシンプルレビューでした。
私はでも相変わらず人生山折り谷折りとか、かけがえのないものとかも好きで、たまにアルバム投資でCDかけますね。
まだ私このザ・ビュッフェのCDは買ってないので、もうちょっとしたら買いに行こうかなって思ってます。
そろそろ第93回目を終えようとしているところです。
今回は庭のガーデニングで、物の哀れのシンプルザ・ビュッフェはいいぞーという話と、
庭の陽気状で、まあ自分の本来の自分と振る舞いの自分のキャップに気づかされるようになると、
本来の自分っていうのが真の自分だって思っちゃうし、そう思ってるのに求められてないってなって、
しんどくなっていくなーっていう話をしました。
久々に2本立てです。
なんかそうだ、前回その、自信の話、自信があるんだとか自信がないっていう話しようって言ってたんですけど、
なんていうかな、自信の話というよりかは、こうやって今回みたいに自己肯定感がどんどんすり減っていくんだよなーっていう話をしたくて、
そもそも自信があるっていう状態になったことというか、自信があるって言い張れるような状態になったこと私はあんまりなくて、
自信があるって状態だったら、自信について気にもしないし、自己肯定感ってワードなんか気にもしないだろうなって思ってるから、
私はきっと常に自信がないっていう状態なんだなっていうのはよくわかってはいて、
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でもなんかその状態の人が、人他者との振る舞いにおいては明るく振る舞うっていうのがやっぱしんどいなーってなるし、
なんかそうじゃない、その自信のない状態の自分っていうのだけが、なんか本来の自分の姿だって思うようになってきてしまったりもして、
なんか難しい。
それこそね、アングルが変わればって話なの、だっていうのはわかってはいるけど、
なんか自分自身のアングルを変えるのは、もっと意図的にしないといけなくて、
時にはすごい力が必要で大変でっていうことがありますね。
どうしたらいいんですかね、本来の自分だって思ってるものがすごいダメダメだなって思って、
それに対して、そうやって自己肯定感がなくなっていくダメだなって思って、もうやだってなっちゃうっていう。
こんなことを思うのは私だけなんじゃないかっていうぐらい周りの人はちゃんとできてるというか、
ちゃんと人と振る舞えて、なんか思っても裏もなさそうな感じがするし、
なんかその裏っていうのもちょうどよく人と共有してそうな感じがして、生きるの上手だなーって思っちゃいますね。
まあ明るく音楽の話とかできるし、それもまあ自分なんだろうし、
呪術回戦の話もできるし、それもまあ自分なんだろうしってあるけど、
なんか、何なんだろうな。
もっと音は暗い自分いるんだけど、それをいてけぼりにしてないかなーってたまに考えちゃいます。
別に好きなことを話している自分とか、明るくいる自分が嫌いとかってわけでもないのに、
なんかギャップに苦しむ感じが苦しいですね。
だからまた呪術回戦の話したいんですよ。
なんで私はナナミ、ナナミケントがあんなに自分の名前にとらわれた術式だけなんていうのをめっちゃ気になってて。
まあ釘崎野原ちゃんとかも全然名前にとらわれた攻撃術式だけど、
なんか、ナナミンに関しては七三っていう、釘とかその直接的なものじゃなくて、
七三ってどういうことみたいな、なんか意味わかんないなーって思ってます。
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すぐ呪霊側の名台詞取って考え出しちゃうから、
呪術回戦をそんなに深く見れてるわけじゃないんですけど、
なんかね、ナナミンに関しては不思議な人だなーって思ってますね。
だってなんか、ナナミンだけ作画が違うような気がしてて。
これなんか別の漫画の人じゃないってすごい思っちゃうんですけど。
まあだからこそ面白いなと思うし、ナナミンかっこいいなと思うんですけどね。
な、なんであんな七三、七三って感じなのか、よくわからんなーって思ってます。
終わってしまいました、呪術回戦の話。
漫画連載でね、追ってみたい気持ちもありますけど、
多分私がちゃんと知ってるところから今の連載を追うまで何十話もあるから、
なかなか難しいなーって思いながらいます。
また二の塚庭、庭が庭かに広い庭を開きますので、楽しみに。
では。
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