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寝落ちの本ポッドキャスト こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本を淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。 作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xまでどうぞ。 さて今日はですね
伊丹万作さんという方の作品というか、 寸標というか、エッセイにあたるのかなぁ。
を読んでいきたいとおもいます。 伊丹十三監督という映画監督がいたんですが、
その方のお父様にあたる方ですね。 映画一家ってことですね。
それで読んでまいりましょう。伊丹万作 映画と音楽
映画における音楽の位置を云々する時、 誰しも口をそろえて重大だという。
なぜ重大なのか。 どういうふうに重大なのか。
誰もそれについて私に説明してくれた人はない。 重大であるか否かはさておき、
さらに一歩遡って音楽は映画にとって必要であるか否か、 ということさえまだ研究されてはいないのである。
音楽は果たして原則的に映画に必要なものであるだろうか。 誰かそれについて考えた人があったか。
私の見聞の範囲ではそういう馬鹿らしいことを考える人は誰もなかったようである。 ただもう皆が酔ってたかって、映画と音楽とは不可分なものだと決めてしまったのである。
原則的に映画が映り出すと同時に、 天の一角から音楽が聞こえ始めなければならぬことにしてしまったのである。
何事によらず全てこういうふうに真珍深い人たちであるから、 今さら私が音楽は必要かなだという疑問を提出したら、
それはもう笑われるに決まったようなものだ。 こと、音楽家連中は待ってましたとばかりに、
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これだから日本の監督はダメだ。 天然音楽に対する理解力も素養もないのだから、これでいい映画のできるわけがないと、
こう来るに決まったものだ。 ここでちょっと余談に渡ることを許してもらいたいが、
映画において重大なものは、何も音楽一つに限ったわけのものではないのだ。 音楽家ないしはその講座たち諸君が映画をご覧になる場合、他のことは何も見ないで、
もっぱら音楽のあら探しだけに興味を持たれることは自由であるが、 その後でなぜこの監督はその反省を音楽の研究に費やさなかったかなどと、
無理なダメ出しをされることは甚だ迷惑である。 我々がその反省を音楽の教養に費やしていたら、
今頃は下手な学士くらいにはなっていたのかもしれぬが、 決して一人前の監督は出来上がっていないはずである。
我々がもしも映画の総合するあらゆる部門に渡って、 純専門家並みの研鑽を積まなければならぬとしたら、
少なく見積もっても修行期間に200年くらいはかかるのである。 要するに監督という職業は専門的に完成された各部署を動かしながら、
映画をこしらえていくだけの仕事である。 自分でいちいちオーケスタルの前へ飛び出していったり、
学士に注文をつけたりする必要はない。 気になる音楽隊なら早速帰ってもらって、他の音楽隊と取り替えればいいのであるが、
日本ではなかなかそういうわけにはいかないから、せめて音楽のアフレコの時には耳に 脱紙綿でも詰めて居眠りをしているのが
最も良心的とでも言うのであろう。 下手な音楽隊を一日のうちに上手にすることは神様だってできることではない。
まして一階の監督風情が頭から湯気を立ててアフレコルームを走り回ってみたところで、何の足しにもなりはしない。
いくらクライスラーでも一日数時間ずつ、 何十年の練習が積み重ならなければあの音は出ない仕組みになっているのだから、話は簡単である。
一般の観察によると、 映画は音楽が入っていよいよ効果的になるものとされているらしいが、
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我々の経験によると、現在の日本では音楽が加わって効果を増す場合が4割、
効果を減殺される場合が6割くらいに見ておいて対価がない。 だから音楽を吹き込む前に試写してみて十分干渉に耐えうる写真を作っておかないと大変なことになる。
ここは音楽が入るからもっと見られるようになるだろうという考え方は、 制作態度としてもイージーゴーイングだし、
実際問題としても必ず誤算が生じる。 さてこういう面白くない結果が何によって生じてくるかということを考えてみると、
それは様々な原因がある。 何と言ってもまず第一は音楽家の理解力の不足と言って悪ければ、理解力に富む音楽家の不足なのか、
あるいは不幸にして理解力に富む音楽家がまだ映画に手を出さないかのいずれかであろう。 第二に音楽家の誠意の不足である。
これもそう言って悪ければ、誠意ある音楽家がまだ映画に手を触れないか、 あるいは誠意ある人があまり音楽家にならなかったかのいずれかだろう。
第三に準備時間の不足である。 第四に演奏技術の貧困である。
これもそう言って悪ければ、技術の貧困ならざる楽団は高価で雇いにくいからと言い換えておく。 第五に録音時間の極端な制限。
もちろんこれは経済的な理由にのみよるものであるが、多くの場合、音楽の吹き込みは徹夜のぶっ通しで20夜くらいで上げてしまう。
さて、ここでも問題になるのは、何と言っても第一の理解力の不足という点であるが、 まず一般的なことから触れていくと、音楽家は多くの場合、我々の期待よりも過度に序章的なメロディーを持ってくる傾向がある。
自分の場合を例にとって言うと、作者は勤めて序章的に流れることを抑制しながら仕事をしている場合が多いのであるが、
これに音楽を持ち込むと多くの場合序章的になって作者の色彩を薄らげてしまう。 しかしこれは深く考えてみると必ずしも音楽家の罪ばかりではなく、
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また実に音楽そのものの罪でもあるのだ。 なぜならば私の考えでは音楽は他の芸術と比べると本質的に序章的な分子が多いからである。
私の経験によると、映画のある部分が内容的にシリアスになればなるほど音楽を排斥するということが言えそうに思える。
しかしてそれは音楽の質の遺憾にまるで関係を持たないことなのである。 そしてこのことは映画の芸術がある意味でリアリスティックであり、
音楽があくまでも象徴的であるところからも来ていると思うが、 これらの問題はあまりに大きすぎるから、今は預かっておいて再び実際的な問題に立ち返ることにする。
我々がある場面の音楽の吹き込みに立ち会っていて、 まず最初にその場面の音楽の練習を耳にしたとき、
かっこ多くの場合、我々は吹き込みの現場で初めてその曲を聞かされるのである。 おや、これは一体どこへ入れる曲なんだろうという疑いを持つことは実にしばしばである。
そしてよく聞いてみると、その曲を今のこの場面に入れるつもりだということで、
冗談じゃないよ。 点で画面と合ってないじゃないか、と呆然としてしまうことは10の曲のうち6つくらいまではある。
私はあえて多くを望まないが、せめてかかる場合を10のうち2つくらいにまで減らしてもらえないものだろうかと思う。
画面に対する解釈の相違ということもあるだろう。 あるいはまた、音楽というものの性質上、1000曲がぴったりと合致することは望み得ないのが当然かもしれない。
しかしどう考えたらこういう曲が持ってこられるのかと、不思議に耐えないような現象に遭遇するのは、
一体どういうわけだろうか。 解釈がどうのという小難しい問題ではない。
画面には必ず運動がある。 運動には速度がある。
速い運動の画面に遅い速度の曲を持ってきて平然としているのでは、もうこれは音楽家としての素質にまで疑問を持たれても仕方がないではないか。
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暗い場面に明るい音楽を持ってきたり、 のどかな場面にチーバキン肉踊るような音楽を持ってこられたんでは、どうにもしようがないではないか。
私は風刺的に話をしているのではない。 私の話は全くのリアリズムである。
画面に桜が出ているから、ただ機械的に桜の幻想曲か何かを持っていけというのでは、到底画面との交換は望み得ない。
音楽の表題がどういうものか、それは音楽家自身にはよくわかっているはずである。 われわれも何も、音楽家の力を借りて半自物をやろうとしているのではない。
感覚的に画面とぴったり合致さえすれば、桜の場面にもみじの曲を持ってこようと、 あるいはなめくじの曲を持ってこようと、いささかも構うところではないのである。
私が何よりも音楽家に望むのは、 まず画面を感覚的に理解してもらうことである。
そしてその第一歩としては何より、画面の速度を正確にキャッチすることに努めてもらいたい。
メロディやハーモニーは二の次でよろしい。 速度の間違いないものさえぴったりと受けば、もうそれだけで選曲は50点である。
画面は全速力で自動車が走っているのに、 音楽は無関心にアンダンテか何かを歌われたんでは、
気の毒に、ご見物の頭は分裂してしまうにほかない。 しかもこれはおとぎ話ではなく、実例あげようと思えば、いつでもあげられる実話なのである。
次に映画音楽の特殊な要求としては、 非常に短時間。
といっても10秒以下では無理であろうが、それぐらいの短時間のうちに、 一つの色なり気分なりを象徴し得る音楽を欲することがある。
むろんそれは、ある曲のある楽章のある小説をちぎってきたものでもいいし、 あるいは五線紙に一行二行、誰かが即興的にお玉尺詩を並べたものでも何でもいい。
ただし多くの場合、それは短いが短いなりに一区切りついたものでありたく、
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必然的に次の音符を予想せしめるようなのは困るが、 要するに対して難しいものではない。
しかし私の経験によると、これが自由自在にできる人は、 現在やっている人たちの中にはいないようである。
こんな短い間へ入れる音楽はありませんよ。 というのがその人たちの答えである。
なければこしらえてください。 と言いたいのは山々であるが、言って無駄なことは言わざるにしかず。
では無しでいきましょう。 結局日本の映画監督はますます音痴ということになるのである。
映画音楽家の場合、最も必要な才能は必ずしも作曲の手腕ではない。
まず何より、鋭敏な感覚と巧妙なるアレンジメントの才能こそ、最も重宝なものであろう。
そして極めて制限された長さの中へ、最も効果的なメロディーを盛り込む基地と融通性がなくては、
到底この仕事はやっていけないだろう。 私は不幸にしてまだそういうことのできる人に巡り合わないのである。
筑波諸坊 1961年初版発行 真相版 痛み満作全集2より読み終わりです。
映画に音楽は必須だと思ってますけども、 サイレント映画じゃ寝ちゃいますもんね。
本日も寝落ちできたでしょうか。 それでは皆様おやすみなさい。