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2024-04-23 13:26

022佐藤春夫「われらが四季感」

022佐藤春夫「われらが四季感」

好きな季節は秋です。枯れ行く草木と色あせていく街並みに侘びさびを感じますがいかがでしょうか。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
読みはすべて青空文庫から選んでおります。
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さて、今日はですね、
佐藤春夫さんという方の、
「われらが四季感」というテキストを読もうかと思います。
佐藤春夫さん、
ウィキペディアによりますと、
近代日本の詩人、小説家、
塩尾精朗な詩家と、倦怠・憂鬱の小説などで幅広く活躍とあります。
代表作には、田園の憂鬱、それから都会の憂鬱があるそうです。
憂鬱してばっかりだなぁ。
それでは参りましょう。
われらが四季感。
僕はもう極楽域は見合わせることに決めたよ。
と、ある時、
芥川龍之介が、例のいたずらっぽい目を輝かしながら、
私に話しかけたことがあった。
はてな。
これはきっと何か後に続く面白い言葉があるに違いないと予想したから、
私が後を期待していると彼は言うのであった。
極楽は四六時中、気候が恩和快適だとかで、季節の変化はないらしいね。
季節の変化のない世界など、僕にはまっぴらなのだ。
いかにも芥川らしい言い文であった。
彼は一面で俳人、俳句を読む人であり、
俳句は季節の変化を主題とする文学だから、
芥川が季節に変化のない世界をまっぴらだというのは最も旋盤である。
極楽浄土には季節の変化以上に、これを補って余りある様々な精神的閲覧もあるらしいが、
それにしても芥川が季節の変化を無常の喜びとしたらしいこの言い文は、
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愛人ならずとも、全ての日本人に同感されて良いものと思う。
そもそも我らが日本の国土は、世界の好ましい部分に位置して、
季節の変化という点にかけては、全世界でも二つとない豊富なところではあるまいか。
私は日本以外、広い世界のどこでも半年以上住んだことはないのだから、
井戸の河津の戯言かもしれないが、
四季それぞれに様々な異類が世界のどこに比べても多すぎるほど多いらしい事実に鑑みて、
これは我々の日常生活が格別に豊かというでもないのに、異類だけがこう発達したのは、
我が国の季節の変化がそれほど微妙なため、
または、我が国の人が季節の変化に敏感なためだと思えるからである。
季節の変化が多いというのも、それに対して敏感というのも、つまり同じことである。
そうしてそのためにこそ、季節の変化を主題とする徘徊のような文学も発達したのである。
季節の変化に敏感なということは、
我が国が由来農業国で天候や四季の水位に対して生活が直結していたという事実によるものかとも考えられる。
その原因が何であったにもせよ、我が国民一般が豊かな季節感を持ち、
その自然とその中の生活とにおのずからな史上を持っていた事実は争われまい。
そこに徘徊が生まれ発達したのであろう。
春の花、秋の葉、共に目に楽しく、この季節は肌に心よい。
奈良の春、佐賀の秋、
我々日本人たるもの、誰かこれを快適と称しないものがあろうか。
蒸し暑い日本の夏は少々ならず並行するが、
それも大都会のビルやアスファルト道路の照り返しに、
自動車の排気ガスを逃れ出て静電に白鷺読み、
蝉しぐれの緑蔭に清泉を菊する日本の自然の中に置かれた町や村の夏なら、
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緑蔭に清泉の一菊に十分にしのぐこともできる。
白樹の一重を黒いのに着替えて夕風をしのぎ、
いよいよ初あわせになる頃の夏から秋への水位ほど心よいものはあるまい。
台風という難物こそあれ。
昨日までの入道雲と湿度とは跡なく消えて、
空はあくまでも深く鮮明である。
これは台風が荒れ狂った償いででもあろう。
空気は澄み、汗は乾いて、
虫の音さわやかに、
かがり火の懐かしい幾佳の地、
紅葉の絨毯、
一夜の小枯らしに散りつくして窓の前のサザンカ、
澤吹きの高雅な花も消えて、
花は八つでばかりと成り果てた。
庭も淋しいのに、
彩りは申し合わせたように谷の宿を出て、
里の公園に拠来し始めると、
筑梅の白標とともに冬が駆け足で来る今日この頃ではあるが、
元温泰のおが国では、体感も何のその。
何も冬将軍などと大げさに恐怖することもない。
冬将軍も何もない。
北の窓を締め切って籠を用し、
古布を取り出して引っ掛け、
それで足らなければ。
襟元を掻き合わせ、
首筋に毛糸の編んだものでも巻きつけておけば、
ともかくも防げる程度である。
雪みざけを楽しめない身にも日向ぼこりはできる。
湿地の入れ替えには多少の苦労はあろうとも、
めったに投資することもあるまい。
ハエでさえ南面の障子に身を潜めて、
未冬をしのぐほどなのだから。
3年も冬越えしないと思うけどな、ハエは。
変度でない限り、
我が国では暑さも寒さもが、
えしてしぬぎにくいというほどではない。
もともと楽天的な我が国民性が、
四季の変化を楽しむのも通りである。
大偶然ならずとも、
春か秋かとその優劣を論じ合うほどの気風はある。
さらに四季折々の海山の幸があってみれば、
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我が日本人の大多数が、
季節の変化を喜ぶに何の不思議もない。
私は雨の多い熊野地方の生まれで、
雨は大嫌いであるが、
それでも春雨、
さみだれ、
夕立ち、
しぐれ、
みぞれなど四季それぞれに変わった性格があることで、
雨もまた多少は楽しめないでもないという気がするのである。
ところが数年前、
南方にちょうど半年従軍して、
シンガポール、
ジャカルタ、
スラバや
マランなどの各地に転戦したことがあった。
あたかも彼の地の浮き明け前で、
まだ毎日雨の続く方が多かった。
うーじゃん、うーじゃん、
春雨でもない、
秋雨でもない、
じゃんじゃんと降るスコールでもない、
空から水がこぼれ落ちるだけ、
修理せよ大空の雨漏りを、
うーじゃん、うーじゃん、
とそんなことを言って、
侘しさを慰めたものであった。
うーじゃんは現地の言葉、雨のことであるが、
季節感の伴わない雨に退屈したものであった。
わたくしだけではない、
他の多くの日本人も、
同じ季節で南方ぼけをするなどとも言っていた。
しかしジャカルタにだって季節の変化はあった。
ただこの地の季節は一年の四季ではなく、
そこが我々の観念と違っていた。
ここの四季は日々小刻みに繰り返されて、
朝が春、
日中が夏、
夕方から宵にかけて秋、
さて夜中に水浴びでもすれば冬も味わえる。
一年の四季の代わりに、
これは毎日の四季だと私はこれを楽しんだものであった。
わたくしも芥川同様、
季節感なしでは満足できない日本人の一人であったから。
思うに日本人は季節感という一点で、
みんな共通に統一された何ものかがあって、
時を同じくして、
ひとえやあわせ、
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わたえりなどを取り出し、
さいじきなどを手にするのではあるまいか。
四季さまざまな花があって、
おのおのの形は変わるが、
同じ季節のものの色調が相似るように、
その受け取り方や表現に多少の差異はあっても、
同じ国土のわれらの季節感は、
お互いに一脈相通するもののあるのを、
わたくしはこの欄の詩文に見て、
当然ともまた面白いこととも思う。
2000年発行 臨戦書典
定本 佐藤春夫全集 第26巻
より読み終わりです。
好きな季節は終わりですか?
僕は秋が好きかな。
でも先日見た柿つばたは、
大変に立派で大変に美しかったです。
あれは春の花でしょうが。
それでは今日のところはこの辺で終わりにしたいと思います。
また次回お会いしましょう。
それではおやすみなさい。
13:26

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