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2024-07-25 19:16

049久保田万太郎「角力」

049久保田万太郎「角力」

角力と書いて「すもう」、相撲と同じ意味です。一回生で見てみたいとずっと思っています。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
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さて、今日は久保田万太郎さんの
角の力と書いて相撲というのを読もうと思います。
初めて読むんですね、久保田万太郎さんね。
なんか初めてじゃない気がしたけど、どうやら初めてです。
久保田万太郎さん。
小説家で劇作家、それから俳人。
東京の下町を舞台に、市政の人々の生活と情緒を描いた文化勲章受賞。
代表的な小説に裏がれ、寂しければ、春泥。
代表的な戯曲に大寺学校、
苦襲に隆者賞があるそうです。
何一つとして知れませんね。
清々しいくらいに何も知らない。
それでは参ります。
相撲。黙って一人でせっせと原稿を書いていた石谷さんが急に立ち上がり。
ちょっとじゃあ行ってきます。
万年筆を忙しく内隠しへしまいながら行った。
どこへ?
行ってらっしゃいという代わりにうっかり私はこう言った。
私は私の席で用があってきたある新聞の人と、用を済ました後の世間話をしていた。
相撲。
華厳そうに石谷さんは言った。
気がついて私は後ろの壁の時計を見た。
三時ですねもう。
少し今日はいつもより遅くなりました。
あっちの人たちはとうにもう出かけました。
あっちの人たちとは中継係の人たちを言うのである。
行ってみようかしら私も。
ふいとその時石谷さんのその言葉の大について私は言った。
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石谷さんは華厳そうにまた眼鏡を光らせたが、
どうです行きませんか?
とすぐまた直さいに言った。
連れて行ってくれますか?
という意味はふいに行っても邪魔にならないか?
私はそう言ったつもりである。
たまにあがらなさい閣議官の景色も。
石谷さんはそれに答えないで。
いかに今の相撲というものが。
ああ行きます連れて行ってください。
そのまま私は椅子を立った。
お客を外の人に任せてともども石谷さんと急いで事務室を出た。
ということのそもそもがその四五日わけもなく忙しかった後を受けた天気のいい午後で
尋ねたいと思った人の都合を聞かせるとご不在。
せっかく立てた予定の壊れた格好のつかなさが
そうした出来心を私に起こさせたのである。
出ると外はいっぱいの日の光だった。
これで昔はなかなか見たんですよ相撲を。
自動車に乗るなり私は言った。
とにかくこっちから行ってみようかしらと売り込んだのである。
ギリにもなんとかことそれに関したことを話さなければいけない必要を私は感じたのである。
いつです昔と言って。
石谷さんは笑った。
小錦の横綱自分です。
小錦の。
石谷さんは耳を疑うように。
それじゃああなた。
30年前です。
小学校の高等2、3年自分です。
と言って私は朝潮だの、坂穂子だの、源氏山だの、
大砲だの、新岩だの、谷野根だの、そうした人々の、その時代に活躍した人々の名前を挙げた。
冗談じゃない。
例えばそういった感じに石谷さんは急にまた声を出して笑った。
海峡記念で両国の近所はわけもなくにぎやかだった。
ことに茶番の屋台のかかった橋のたもとのごとき人で埋まっていた。
欄管だけののびろい感じのなんの就職もない橋の上。
その新しい橋の上にはみなぎったいっぱいの明るい日差しが張り渡された万国旗と一緒に激しく風に抗っていた。
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すっかり夏ですね、もう。
私は石谷さんに言った。
遠く川の上も明るく目まぐるしく涙っていた。
雑踏は国技館の前まで続いた。
我々の受動車は辛うじて茶屋の前に着いた。
たっつけをつけた若い衆たちの忙しい行きかいがすぐに私に三十年前の私を感じさせた。
靴を脱いでゾーリを履くと石谷さんはそのままさっさと中へ入っていった。
私は黙ってその後にしたがった。
行事溜りのすぐ上に放送局の場所はあった。
技術部の人たち、中継係の人たちの若い緊張した顔がずらりとそこに並んでいた。
その中に松内さんのいつもにこにこした顔が混じっていた。
石谷さんと私とはその隣の空いた場所に座った。
土俵では吉野岩と小野錦。
そうした名前を持った二人が仕切り直しを続けていた。
私は土俵に落とした目を間もなく広い場所へ移した。
これっきりですか?
思わず私は自分でもやや鈍狂に私は言った。
石谷さんは割から顔を上げた。
い、い、いえ、これっきりしか入っていないんですか?
なぜならどこもかも見渡す限り柄木の…と言っては嘘になる。
東西の柿木はあらかたいっぱいになっている。
しかも正面は二階は三階はパラパラとゴマを振りまいたようにしか入っていない。
ということはそうなると、なまりその両方の柿木のいっぱいになっていることが、
外の場所のガラガラなことを余計はっきりさせた。
例えば浴衣の上にひっかけた合わせ羽織の
とっちつかずにどこまでも折り合いかねた木物製さ。
ひとつにはそうした歪みも私を手伝ったが、
それにしてもどうひいきめに見ても五分と入っていないのである。
でもまだいい方なんですよ、今日は。
と言ってくれたのは松内さんである。
これでですか?
来るわけがありません。
石谷さんはぴったりと私を押さえて
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こんなあなた、当たり前です、これが。
が、割れっかえるような入りの、
たぎり立つ人家のそうした景色しか私には感じられない。
そうした景色なしに相撲は成り立たない。
少なくとも三十年前はそうだった。
ところで吉野岩と小野西樹である。
仕切りのことにして勝負は簡単だった。
立ったと思うとすぐ肩がついた。
閃光花火。
呼び出しはすぐに次の取り組みを用意した。
こんなに今のように長かったんでしょうか、昔も。
私は石谷さんに言った。
何がです?
い、いえ、仕切り。
こんなにいつまでも立たなかったんでしょうか、昔も。
なぜまたそうしたやぶからぼうな質問をしたかといえば、
吉野岩と小野西樹の後に上がった生塩と利山。
この二人もいたずらな仕切り直しばかりを続けた。
そして私はいい加減退屈した。
もしそうとすれば、昔もそうした仕切りを持っていたとすれば、
こっちにそれだけの辛抱がなくなったのである。
昔我慢のできたことがはっきり今できなくなったのである。
が私は安心した。
決してそうでなかったと石谷さんは豪華に言ったから。
その理由として、例えば昔は上の位置の者は下の位置の者の声を受けて立った。
よし無理があっても立った。
つまり横綱は横綱の、大関は大関の身分を持った相撲をどこまでも取ったのである。
今はしかしそれがなくなった。
誰もが今は互角に取ることばかりを立前とした。
それだけつまり、自ら守ることに急になった結果が、それぞれのその仕切りを長くするのである。
だから相撲に品がなくなりました。
昔のような堂々としたところがなくなりました。
石谷さんは短足した。
初戦はで、それだけ相撲が利攻めになったのである。
相撲取りの良権が細かになったのである。
石谷さんのその品という言葉は、死という言葉にそのまま置き換えていい。
そして私に今の相撲は死を失ったと言えないだろうか。
こう言ったら読者はたった一二番の勝負しか見ないで、何を言うと笑うかもしれない。
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が、いかに私でも吉野岩と小野錦、生塩と鳥栖山、まさかにただそれだけを見てそうは言わない。
ありようは去年、水上隆太郎君に釣られて春場所を一日見たのである。
そして私はこうした疑いをその時はっきり持ったのである。
もちろん私はその時水上君にそれを言った。
相撲というものがこんなにぐーたらなものとは思わなかったとさえ私は言った。
古い古い。
貝殻追放の作者は頭でうなずかなかった。
そんなことを言うのは進歩した今の相撲がわからないのだ。
今の相撲の内に持つ誠実さが感じられないのだと逆にむしろ叱られた。
口惜しかったが、先はいつの場所でも欠かしたことのない苦労とである。
こっちは明治42年にできた国技館の起動をその日初めてくぐったほどの素人である。
刃の立つわけがない。
おとなしく私は旗を巻いた。
という入りわけがそうした戦が前にあったのである。
その後私はその片つ片付けた少ない入りの中に老幼片岡二材門を発見した。
はじめは、だがどっかに見た年寄りた、ぐらいにしか私は思わなかった。
その内側に友どもの割り当てのいるのを見てああそうかと私は気がついた。
それほどその存在に気力が感じられなかった。
気がつくと一緒に寂しい気がした。
が、それによって私は勇気を得た。
外にもっとそうした見物はいないだろうかと私は散歩に目を配った。
土俵の上の進歩した相撲を見る手間で私は客席での進歩しない。
と言って悪ければ昔ながらの30年前の匂いを私に感じさせるであろう何かを探したいと思ったのである。
そしてその思いたちの決して無理でも苗物ねだりでもなかったことは、
紫のジム服、白いエプロンをかけた売店の女たちの天栗の袋を下げたり、
水菓子の飯台を抱えたりしてさじ木の間をまごまごするのとともに、
私は呼び出しのたっつけの影に隠れた白チリ麺のへこび、
そうした古風な今の世の中のどこにももう残っていない人情を、
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のどかにくったくのない人情をそこに果たして見つけることができたのである。
「ちょっと。」
突然石谷さんは言った。
「ちょっと、あれ。」
私は石谷さんの言う方を見た。
白い長ひげを生やした一人の身立てのない老人が、
四五軒先の歩みをもそもそと歩いていた。
「わかりますか、あれ。」
「いいえ。」
「桐生山です、当年の。」
急いで私はもう一度そっちに目を向けた。
手取りで打った彼。
強い相手に向かってしばしば気象を吐くした彼。
親孝行の聞こえの高かった彼。
幕の中ほど常に上下していた彼に対してことさらな感じを私は持ったのである。
ある場所で彼は善称した。
その時のごとき我がことのように私は喜んだ。
同時にこれという背景を持たない勢力のない彼を
どうかして少しでも出世させたいと常に私は願った。
というのもつまりはそれだけ
世間にも広く人気のあったわけの
新聞でいろいろ彼について書いたればこそ
私のような隠れた秘域もできたのである。
生きていたんですかね。
間もなく人の中に没し去ったその後ろ姿を見送って私は行った。
あの時代のものは大抵もう
石谷さんはそれには答えないで
とにかく三十年といえば
朝潮も源氏山も大砲も新岩も谷の根も
誰ももう十年前十五年前二十年前にすでにこの世を去った。
そして今残っているのは石の戸となった坂穂子と
峰川となったこの桐生山だけだそうである。
そしてその間石谷さんは相撲について書き続けた。
ことによるとだから桐生山についての私のその知識も
石谷さんによってそもそもつぎ込まれたのかもしれないのである。
JOAK JOAK
その時隣のマスで松内さんがマイクロホンに話し始めた。
夏場所相撲6日目の実況放送が始まったのである。
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激しい西日が町内を斜めに区切って
土俵にはコシノウミという相撲とオオナミという相撲とが上がっていた。
1991年発行作品者
日本の名随筆別館2相撲より読み終わりです。
うーん相撲ねえ
一回生で見てみたいもんですね
飲み友の何人かは行ったみたいですがちょっとね開催の時間が早いんですよね
夕方からなんか盛り上がる感じらしくて
多分6時ぐらいには解散してそのままお酒を飲みにみんな出るみたいな感じなんですけど
6時だとまだ仕事をしているなぁ
引退した後の楽しみでしょうか
引退した後の楽しみでしょうか
皆さんは相撲を見たことがあるでしょうか
あったとしたら悔しいな
ということで今日のところはこの辺でまた次回お会いしましょう
おやすみなさい
19:16

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