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2024-05-07 11:27

どこまでが自分の気持ちで、どこからが他人からの視線を気にした上の気持ちなんだろう

西加奈子『くもをさがす』を読んで思ったことをぽつりぽつり。

くもをさがす
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おはようございます、なっちゃのです。先日ですね、作家の西カナコさんのクモを探すという本を読んでいて、これは西カナコさんのご自身のカナダでの糖尿器というか、本人は糖尿器とは違うって言ってるので、
がんの告知を受けてから治療の様子などを書かれた手記みたいな感じの本を読みましてですね、やはりがんの治療っていうのはそもそも大変なことだし、それも異国のこととなると尚のことだなっていうふうに、
さらにですね、この西カナコががんになったっていうのはちょうどコロナ禍と重なっていて、なんかね本当に大変そうだなっていう感じだったんですよね。もう普通に病院で8時間9時間待たされるとか、もともとカナダではそういう医療体制っていうかな、そういう感じらしいんですけど、なんかね本当に大変そうだなっていうふうなことでちょっと読んでました。
日本でも住んだことがあって、カナダでも住んだことがあってということで、日本とカナダの文化の違いみたいなことも結構何かにつけて本文中に感じられたりとか、あと一部ですね、実際にその文化の違いについてはっきり明記しているところがあるんですね。
そういうところを読んで、そこが自分の嫌いなところを結構刺激されたっていう感じがあったので、その話をちょっとしていこうと思います。
2つ紹介したいことがあって、1つ目はですね、西金子がいうにはというか、すごく印象的だったんですけど、カナダ人には愛があって、日本人には情があるっていうフレーズがあるんですよね。
私、本を置くところに困っちゃうので、読むときは図書館でいつも借りているので、ちょっと少し古い2,3年前のものとかになっちゃったりするんですけど、言うほど好きなものとかは買うんですけどね。
ということで、雲を探すを返して返却してしまってですね、ちょっと記憶でしゃべるので、私の印象の残り方と本の中身がちょっと曲がってしまうっていうことはすいませんなんですが、ちょっと中身の紹介というかね、それの感想みたいなことをしゃべっていきたいんですけど、
このカナダ人には愛があって日本人には情があるっていうのは、その愛と情っていうのはどういうことかというとですね、例えば電車で席を譲るっていう場面で考えると、カナダ人は子どもとか高齢者に当たり前のように席を譲るらしいんですね。
一方で日本人はかわいそうとかいたたまれないとかそういう気持ちで席を譲るっていう部分が書いてあるところがあるんですね。
それを読んで確かになって思って、文章の中でもっといろいろ語られていて、それで言うと日本人がちょっと意地悪っていうか性格悪いみたいに見れてしまうんですけど、そうじゃなくてちょっといろいろなことが書いてあったんですけど、私は抜粋しただけなのでそういう印象を与えちゃうかもしれないんですけど、
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とにかくそれを読んで納得感があったわけなんですよね。それっていうのは気持ちが外に向かってのかどうか、うちに向かってのかどうかっていう感じがするんですよ。だから関心の矢印が他人にあるか自分にあるかみたいな感じがしてですね、納得感もあるし、何より自分がそうだなっていう感じがしたんですよね。
例えばですけど、本当にその電車で席を譲るっていう場面があった時に、あまりにこれは譲るべき人だろうっていうことであれば、ささっと譲るのはそりゃそうなんですけど、例えばちょっと微妙な人、譲ろうか迷ってしまう、悩んでしまうみたいな人に対してですね、
その時のどんな悩みをその時思うかというとですね、この人譲ろうかどうしようかっていうところから始まって、あ、譲れって思ってるかなと他人の見られ方を気に出しますね、まず。で、降りるまであともう少しだしなというふうに自分を正当化し始めます。
で、こういうことで悩んでいる自分が何より嫌い、あの人ならそんなこと悩まずに譲るんだろうなということで、自己嫌悪と他者の比較が始まるんですね。で、最後そんなこと思うくらいなら譲ろ、みたいな感じで譲るとか譲らないこともありますけど、いう感じになるっていうプロセスがあるんですね。
で、まあだからこれっていうのは譲るという結果に対して他人への愛っていうのはもうゼロですよね。だからそれをまあなんか譲というと譲に申し訳になるんですけど、そもそも譲って何っていう感じですけど、譲というかね、あの情けといった方がイメージとしてはしっくりくる感じがしますよね。
だから情けをかける、というとなんかこうしてあげてる感がありますよね。なんか特別なことを私があなたにしてあげてる、私が弱者のあなたにしてあげてる、みたいな目線がありますよね。で、なんかもう当たり前のように、ちょっと例えがわからないですけど、赤ちゃんがベビーカーに乗るくらいそれが当然のように席を譲るって余裕がないとできないですよね。
まあ余裕がないとか、意識が他人に向いてないとできないとかね、この余裕がないとできないっていうのは、サービスの違いとかそういうことも西からこの本の中で出てきて、例えば何かミスをしたときに全然謝んないらしいんですよ。
ミスを指摘したら、あ、そうだったんだ、OK、じゃあこうする、みたいな感じらしいんですよね、向こうの人たちは。日本人だと本当に申し訳ございません、みたいな感じで、なんかもう上司からも怒られ、客からも怒られ、自己嫌悪に陥りメンタルやむ、みたいな感じじゃないですか。
なんかそういうことじゃなくて、きちんと何て言うんでしょう、その組織が守ってくれるっていう絶対的な安心があるからなのか、自分の責任っていうことでは語られないらしいんですよね。
だからその代わり、日本人はサービスが非常に発達して、外国は結構ずさんなサービスっていうことはあるかもしれないんですけど、なんかそういう感じがあるらしいので、少なくとも日本人よりは余裕はあるんだろうなっていう感じはしますよね。
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で、そんなふうに、なんかこう、この人は意識が他人に向いて、だから余裕があれば意識が他人に向くのかなっていう、ちょっとそれも短絡的な感じがするんですけど、とにかくこの人は今座ることを必要としているなって、ちょっとでも思ったんだら、なんか多分ね、さっと譲ったりしてるんでしょうねと思うと、
なんかこういうことで、他人への見られ方を気にして自己嫌悪に陥って他者の比較が始まってみたいな、なんか自分のその一連の心の動きみたいなのって、なんかすごい無駄だし、すごいカッコ悪いなっていうふうに思うんですよね。
っていうふうに思ったという話とですね、2つ目ですね、西金子はですね、その糖病っていうのは乳がんで、両方の胸を切除することになるんですよね。で、抗がん剤で髪の毛もなくなってしまうらしいんです。
で、髪も胸もどちらも女性の象徴だし、女性的であることの役割ってとてもとても重いじゃないですか。で、自分の体からなくなるなんて全く想像もできないんですけど、西金子は胸を失ったとって、私は女性だし私は私だという表現があったりとか、
ファッション誌とかのメディアで若見えとかNGファッションとか他人への見られ方に意識を向けがちの日本人に対して、カナダ人っていうのは自分がどうしたいかという軸がすごくあるらしいんですね。
で、カナダの風土としてメディアはそんなにうるさくないし、広告でやれ脱毛しろとかっていうこともないし、変に女性の性を売るような表現がなかったりとか、そういうことに関してはとても伸び伸びしていられるらしいんですよね。
そういう表現があって、広告の話はさておき、自分の意思決定において他者への見られ方とか他人との幸福の比較とか、すごく私は私だっていう感覚ってないですよね。
で、思ったんですよ。で、というのは、なんかこれもちょっと文化的な背景が由来しているのかなっていうふうに思ったんですけど、カナダ人って移民の国らしいんですよね。
アメリカだとこういろんな民族がいてとかって言われますけど、カナダも移民の国らしくて、やっぱりそういうことだと、アイデンティティがそれぞれ違う人がたくさんいるとなると、
まあそりゃ私は私って思うような場面が、なんかこう、なんかだから強制的に思わされるような場面があるのかなと。
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だからこう伝え、文化の違いとかで伝え、自分から伝えていかないと伝わらないっていうことが骨身に染みて生活している結果、そうなってるのかなと。
日本人は日本っていう固有の民族感がある分、なんかこう伝えなくてもわかるその阿吽の呼吸とかっていう言葉に象徴されてしまうように、伝えなくても伝わるだろうとか、その細やかなサービスが、
まあ想像力っていうんですかね、すごく他人への共感性とかっていうことがある証だと思うんですけど、だからそれで私は私だって意識することなんてほぼなかったですよね。
特に私のようなというか、意識もせずにマジョリティ側にいられた人間っていうのはそういうことなのかなっていうふうに思うんですよ。
で、今更私は私だみたいなことを思わないことというか、自分の意思決定において他人が出てくることっていうことにすごく自己嫌悪するんですよね、私は。
で、例えばインスタであの人の生活いいなとか収入はいくらだとか想像することに時間を使ったりとか、とにかくSNSでしか見れないようなことに簡単にアクセスできてしまうがゆえに、なんかどんどん自分の気持ちがわからなくなっていく感じがするんですよね。
なんかそれは本当に自分のしたいことなのかっていうこととか、はたまた誰かの見られ方を気にしてしまっていることなのかとか、見分けがつかなくなってしまっているところまで来ている感覚が自分にあるんですよ。
よくないですよね。だからスタイフでもこの自分の気持ちに正直になる時間として自分を取り戻す作業として使いたいなというふうに思ってるんですけど、とにかくこの他人の目を気にするなということは一気にできないから、どの部分が他人の目なのかということくらいは分かっていなきゃいけないなというふうに思ってるんですよね。
そういうことは自分の中の嫌なことのひとつなんですけど、この強烈な生きることに対しての強烈な本理であってしまったという感じがあります。
ということで、ちょっと西香の雲を探すという本を読んで思ったことを喋ってみました。
今日の放送は以上にします。それではまた。
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