イラストで生きていってみよう
ということで、なかよしインターネッツ初のゲスト回です。
それではゲストのイラストレーターの田中寛崇さんです。どうぞ。
田中寛崇 あ、こんにちは。田中寛崇です。イラストレーターやってます。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ありがとうございます。ということで。田中寛崇 ありがとうございます。
初のゲストでございます。田中寛崇 はい。初ですね。
初ですね、ちなみにあれですね、我々の慣れそめはという話で言うと、もうだいぶ前、もうインターネット時代ですよね本当に
そうですね、インターネット時代っていつを指すのかちょっとわかんないけど
もう十何年くらい前じゃないの本当に
そう、十年以上は前なんじゃないかな、知ってる、まだ会ってないけどインターネット上で存在を知り合ってるみたいなフェーズがあるじゃないですか
あるある の時で考えるともう10年以上前の話
この間さ、とあるイラストレーターさんとお打ち合わせした時にさ、田中寛孝さんに結構書いていただいててって言ったら
知ってますって言って、そのIDゴム長の存在を知ってらして、今でこそね、アットマーク田中寛孝先生として活動されてますけれども
いわゆるインターネットアカウントがね、ゴム長.orgというね、ドミニがありましてと
あれ何だっけ、あれ何の駅の時に、何ていうアカウントなんだっけあれ
何がですか、ツイッターアカウントゴム長.orgの話
そうのさ、プロフィールに書いてあるやつってさ、あれなんかプロフィールにさ、何かの駅を通過するためにって書いてあったじゃん
あれ何の駅だっけ あれ天皇ズアイルですね
何で天皇ズアイルを通過するために天皇ズアイルツイートするのがライフワークって書いてあるのこれ
あれね、一時期だから今はもう何年も出てないですけど、イベントに出てた時ってやっぱりイベントって基本ビッグサイトでやるじゃないですか
デザフェスしかりコミュニティアしかり、僕はそれらに出てたから、イベントのたんびにやっぱ天皇ズアイルを通過するわけですよ
天皇ズアイルって人名っぽいなっていうのがね、あって、まさしく苗字と名前っぽいじゃないですか
天皇ズアイルっていう名前からイメージした人格っていうのが僕の中ではちょっとこう刻ったらしいやつだったんですよね
天皇ズアイルを通過するたんびにツイッターで俺の名前は天皇ズアイルって言ってその後にもう一言ぐらい付け加えるっていうネタツイート的なものをやってて
イベントがある日だと行きと帰りで2回やるんですよ、1日、それを年に、コミュニティアだったら4回あるし
手数料50%マジみたいな
何それ何それ何それみたいな
それ何のしのぎの話って思うんだけど
そうなんだよね美術賞とかアートの世界だとギャラリーさんは結構50%とかね
だいたいそれが当たり前なんだけど
そうそれがまあそういう世界の話なのでまあそのね是非はまた別の話なんですけど
まあそういう世界だったんで結局その作品は売れなかったわけじゃないんですけど売れたとてなんですよ
まあそうか
そうでこれでこれ一本でだから成形立てようと思うとちょっと先が見えんなみたいなのがあって
でじゃあちょっと商業的な活動にシフトしていかなきゃっていうのをその時考えて
おおそこで
でその時作っている作品のテイスト絵柄みたいなとかを部分を
そのまま流用というか変えずに商業活動するには何がいいかなってなった時に
イラストレーターだったらなれそうだなっていうのがあったんですよ
じゃあイラストレーター 例えば今ってさ絵描く人ってさ
ワンチャンデジタルでアプローチする人も多いからさイラストレーターって単語は結構工技の意味で使われるじゃないですか
でも当時はそうかいわゆる作家じゃなくて商業的なイラストを描く人っていう意味で
イラストレーターという職業っていう感じで認識してたんだ
そうでも当時も工技ではすでにあってっていうのはやっぱピクシブがもうすでにあったから
そっかそっか
デジタルで描く人口っていうのは当時も飛躍的に伸びている時期なんですよね
かつイラストっていう単語が示すものっていうのがだいぶ広いものに当てられるようになってて
当時の僕の感覚で言ってもプロとアマの垣根っていうのがだいぶなだらかな時代だったんですよ
何を持ってプロとすんのかみたいな
何をどこからがプロでどこまでがアマチュアなのかみたいなのが
ネットでピクシブとかで絵を見るだけだとあんまりわからない
つかみにくいみたいな時代だったんですけど
とはいえ職業としてのイラストレーターっていうのは明確にあって
今ほど曖昧じゃない感じで捉えてたのは
たぶん今みたいにSNSが発達してなかったんで
ツイッターはあったんだけどツイッターに画像を貼るみたいなのがちょっとひと手間あったんですよねやっぱり
ツイットピックとかの時代だったんじゃないか
そうツイットピックとかで外部サービスに画像を上げてそのリンクをツイッターに上げるみたいな
ちょっとワンクッションはあった時代だし
ツイッターの仕様も今とだいぶ違った
今のXの状態とかだいぶ違ったみたいな時代だったから
絵を見るインターネット上で絵を見るってなるとピクシブに行くか個人サイトに行くっていう時代だったんですよね
かつ仕事してるイラストレータープロのイラストレーターもプロとしての仕事ってネットには上がってないんですよ
今はそんなことないじゃないですか
こういうのやりましたとかああいうのやりましたっていうのは告知ができるからなんだけど
当時は当時の契約形態がそれぞれどうなってるかっていうのは僕はあんま分かってないけど
基本的にあんまり告知みたいなことがなくて
実際の雑誌とか本とかでこういう作家さんがいるんだなっていうのを見て仕事を発見することはあっても
ネット上で好きな作家を検索してその人が実際にどういう仕事をしてるかみたいなのはあんまり参照できない時代だったんですよね
勝手に載せちゃダメだったりとかして
そういう時代だったから多分今よりもイラストレーターっていうのは若干ちょっと上の存在として
イラストを描く人っていうのが広くいるとして
ただプロの仕事っていうのはネットに上がってこないちょっと上のものとしてなんか別のレイヤーにある感じだったんですよ
まあでも確かにめっちゃ思い出をたぐってみると
そもそも例えばアニメとかゲームとかもそれの作る人っていうのは上から降ってくるものというか
いわゆる派遣コンテンツとかさ派遣アニメとかもあったけど
なんかこうよくわかんないプロの大人の天井人たちが作ってるもので
でそれをこうインターネットの俺たちが何かこうちょっと見て
端に構えて楽しんでみたりみたいなちょっと段差あったよね
段差ありましたね
そうかそれも同じことだもんね商業のいわゆる作品と言いますか
いわゆるアウトプットみたいなものでも実際に作ってる人はまあ普通に人間だしなっていうのが
ネット環境が慣らされてきたから今でこそまあみんなそうだよねってなるけど
確かに当時その時は何歳だった20
えっと23?23から4とかですね4前かな
あのスピード感早くないなんか
いやでも本当なんかさ例えばさこれがロッキーオンジャパンとかのさインタビューだったらさ
まあ3,4年ちょっとプラプラしててみたいな風にさそういうのあるじゃん
なんか3,4年4,5年プラプラしててっていうのが3回ぐらい発生すると思うんだけど
なんか普通に卒業ニューヨークいらっしゃるじゃんだろうっていうのがパンパンパンってなってて
なんか経営戦略じゃねえんだぞみたいな
でもこれねあれですよそれこそ近年になって思い返して
ああなんかこういうことだったんかなってちょっと気づきがあったんですけど
当時で言うと自分の話自分のことだから
その時々でこう必死にやってたことだからあんまりこう意識してなかったけど
あの今思い返すとなんかその時々でめちゃめちゃ戦略的に動いてたなっていうのが一気に思っている
なんかその僕来年で15周年とかなんですよ画業が
じゃあ絵を描くのお仕事に始めてもう15年
だから僕がちゃんとプロのイラストレーターになって仕事しましたっていうのは大体2010年かな2010年の8月ぐらいが初
2010年か2010年やばいな
もう遠い昔のような2010年
いやでも2010年って数字だけ見ると全然最近ですけどね
いやでももう今2024年だからねっていう
そう14年経ったから
やばいねじゃあそっからそうかそれが本だったっていうのもあってじゃあ本の総画みたいなのが結構コンボみたいに十字繋ぎみたいに
そうですねなんかやっぱり最初は知名度がないのもあるんですけど
アイアナってわりと狭めの世界で動いてるというか業界内での知名度っていうのはわりと仕事をたくさん受けるにあたっては
大事とも言わんけど結構影響はあるんですよ
で話題のあの作品の総画を書いてたとかだとより効率的に業界の知名度が上がって
そうするとあの人に頼みたいっていう風になってくるんですけど
あんまりだから他の業界から引っ張ってくるみたいなことって大きいとしてはあんまりないんですよね
書籍だったら書籍界隈の中で有名な人の方がやっぱ強いし
みたいなのが業界の特性としてはあって
でなんかその時は最初に仕事させてもらってまだ知名度がないから
やっぱり年に1冊2冊ぐらい
普通そうだよね
そうそうそれを同じ事務所からもらったりするんですよね
それこそ格闘女子さっき一番最初に話してたあれも同じところからなんですよ
でも初期の頃はもうやっぱりこういつもお仕事をくれるというか
やり取りしてるクライアントさんとやってて
でなんかちょこちょこ別のデザイナーさんが見つけてくれたりとか
編集さんから別の出版社の編集さんから連絡来たりとか
みたいなことがちょこちょこ増えていくみたいな感じでやっていくんですけど
でも言うても最初の頃最初の数年はやっぱり年に1冊2冊ぐらいが続いて
2010年11年2012年に体育館の殺人があるんですよね
早くない体育館の殺人って言ったらまさに今も繋がっている関係値ですよね先生とは本当に
で僕的にはあれがやっぱりターニングポイントというか
そうだよね
2012年の体育館の殺人の説明をすると青崎優吾さんっていう
先日地雷栗子っていう作品で文学賞をどんどん総のみにしていくという
なかなか尊いものだからあんまり価値に一概に金額だけとか数字だけとかの判断ってすごい難しいと思うんだけど
今さ金ねえとか結構意外と時間感覚として自分でゆっくりだったみたいな話だと思うんだけどさ
年に何個ぐらい絵描くと生きれんのっていうのって分かるようになったどのタイミングで分かるようになった
でもこれは分かるかどうかは分かるかどうかっていうのは話とはまた話違うんですけど
もうちょっと細分化して月にいくらあったら生きれる生きれるかなってのは当時考えたんだって
それ考えるとだいたい月15、6万あったら最低限生活できると思ったんですよ
確かに家賃があって公立費あって食費があってそしたらまあそうね来ないとかだったらまあいけるね
当時計算した1ヶ月16万ぐらいあったら生活できるなっていうのって
仕送りとして家賃もらってる前提の話ですけどね
なるほどね
でもまあそんぐらいあったら普通の生活ができそうだな多少みたいな感じの感覚はあって
でイラストレーターとして書籍の表紙の仕事をもらうようになって
業界のその相場みたいなギャラの相場みたいなのがなんとなく肌感でわかるようになって
でこんなこのぐらいの金額なんだなっていうのがあるの
プラスあんまりそのキャリアを積んだところであんまり上がんないんだなっていうのが
なんかどこからか知りたいものがあったんですよ
だから応募書に頼んでも例えば僕が文庫本の相場をこの金額で受けますってなった時に
その同じ仕事をじゃあ仮に応募書に頼んだ時に応募書はじゃあ3倍の金額ですみたいなことってあんまりないらしいみたいなことを
なんかどっかから伝え聞いて
あるある
そうで結局そのこのぐらいになってくると会社の構造みたいなのまで多少ね想像力が働くようになるから
わかるじゃないですかそのあなるほどね一冊出すのにこれだけの制作予算があってそこから切り売りしてるから
基本的に我料っていうのは会社側の規定の料金があるものなんだなみたいなのがなんとなくね
わかるようになるんですけど当時はわかってないのといろんなところから伝え聞いて
なるほどねなるほどねの連続だったからなんかそういうのをやりつつ
大体だから月の計算だったんです当時は年間の話じゃなくて月毎月どれぐらいがあったら
これ最低限生活できるようになるからじゃあ月何本仕事をもらえるようにしようみたいな目標値は当時あって
それがだいたい月総が3本だったんですよね
わかるわかる
3本やったら16万以上もらえるんですけど
16万で言ったら2本あれば16万もらえるだろうかな大体
でもだから月3本あれば家賃も込みで生活できるぞみたいな感じだったんですよ
だからとりあえず当時は月3本もらえるようにっていうのを目標にしてやってた感じでありますね
それ目標にしてどうやってもらうの早く納品して次あったらくださいっていう雰囲気を出すとかってこと
それがね難しい話なんですけどこれは何だろうな作戦とも言えない感じではある
結局どんなに仕事を早く終わらせたとしても観光するタイミングって決まってるんですよね
そういうことね
だからその出版社とかその編集部内でよっぽど好かれたらじゃあこっちもお願いしますこっちもお願いしますみたいなことはあるかもしれないんですけど
デザイナーさんだったらその売り方できると思うんですよ
イラストレーターで総画を任すみたいな仕事になってくるとあんまりそのやり方になることって多分恐らくないような気がする
そうだよね出すもの出すもの全部同じ人だとまた違うメッセージ戦も出るだろうし
そうそう
ちょっといろいろバランスが必要だからね
あとかつ当時体育館の殺人が出た時に編集さんに言われたのが僕と青崎さんをタッグとして認識させたい
っていう出版社内で
だから青崎さんの作品といえば田中博太がっていう形の構図にしたいから青崎さんの体育館の殺人シリーズが続くうちは僕は他の作家の仕事をしないっていう
それがなんとなかったんですよ
それめっちゃわかるわすっごいわかる
その問題ってあるじゃんいやもちろんありがたいことだし楽しいし嬉しいんだけどね
そっかみたいな気持ちになるじゃんなんか普通にこうペースとか計算してさなるほどみたいな
思うちょっと欲しいなみたいなね
あれみたいな意外と時間は合っちゃうなみたいなあるじゃん
そうそうあるある
それどうしたのでもだから15年間やってきたわけじゃんで今さ振り返ってわーってみるとめちゃくちゃ本出てるわけ本当に
でそれも違う出版社いろんなところにあるじゃん
それはやっぱり業界内の知名度があったから結構いろいろこう声かけてもらって
でそっから一つ一つの出版社さん開拓していってみたいないくつかの出版社さんが取引先としてずっと繋がってる状態でってきたっていう話
そうですねなんかもう本当に戦略的な話ではなくて申し訳ないんだけど
本当に毎回仕事に対して本気で取り込むというかちゃんと売れそうな体裁を整えるっていうのを意識するのが一個と
あとその時は多分ツイッターで画像を載せられるんだったはずなんですよ
だからツイッターに結構バンバンイラスト載っけてそこ経由で探してもらうみたいなのを狙って
あんまり直接的に出版社に全く売り込み行ったことないとかではないんですよ
そうなんだ
そうそうそう
あとデザイナーさんとか憧れのデザイナーさんとかいたからその人にポートフォリオ送ったりとか
持ち込みの窓口がある出版社は当時もうすでになかったんだよな
へー
だから出版社の窓口に送ったことはないけどデザイナーさんに送ったことは2回ぐらいあって
その時がやっぱり月にだから3本が目標ぐらいの時代にはそういうことをやってて
だから何が起因してコンスタントに仕事がもらえるようになったかっていうのは
タイミングがちょっとずれ込んだりとかするからあんまり明確なこと言えないんだけど
ただ絵を描く発表するみたいなのを仕事のラインとオリジナルの自主制作のラインでどっちもやり続けてたっていうのは
大きいかもしれないそれこそポップボックスもずっとその時代出続けてたし
あとデザフェスも出てたしそういうなんかイベントに出展するとか
で個人の名前を僕売るのをすごい最優先にしてたんですよね
へー
これは昔からデビューした当時が大事というか曲げてないことなんですけど僕クレジットが出ない仕事をやんないんですよ
あーなるほどね
必ずイラスト田中寛高っていう名前がどこかに乗る仕事じゃないと僕やんなくて
それプラス当時で言うとポップボックスとデザフェスとかで田中寛高のグッズがここに行けば買えるみたいなので
ちょっと草野の活動的にファンを増やしてる時期があって
そういうのをやってると徐々に業界の人とかの耳に入ることが増えたりとか
言うて結構近めのところにあるんですよね業界の距離感で言うと
そういう編集さんとかブックデザイナーさんとかも当時はやっぱりイラストを想定に使うっていうのが大流行りしてた時代だから
でどんどん成熟しきってねしかもこれから今どんどん持ち上がってますっていう時代だったから
みんないろんな作家を探してた時代なんですよ
でピクシブから作家さんをオファーしてピクシブで見つけて作家さんにオファーしたんだけど連絡つかなくなってみたいな痛い目を見る編集さんとかもいたりとか
これ分かるって言いそうになったけど
当時はあるあるだった
あるあるだよねめっちゃあるあるだよね本当に
それの尻拭いとかもあるんですよ
ちょっと連絡つかなくなっちゃってって言って
本当に納期が1週間しかないんですけどっていうので