1. ボイスドラマで学ぶ「日本の歴史」
  2. 「赤穂事件 内蔵助の流儀」 エ..

今回はシーズン4「赤穂事件 内蔵助の流儀」の脚本を書いて頂いた「齋藤智子」さんにお越しいただき、この江戸時代に起こった仇討ち事件、そしてそれを題材にした日本有史以来の一大エンタテイメントになった忠臣蔵という物語。これらについて、色々とお話をして頂きました。

  • 出演: 演出家:齋藤智子
  • ナビゲーター:熊谷要子
  • プロデューサー:富山真明
  • 制作:PitPa(ピトパ)



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00:01
【エピローグ】
皆さん、こんにちは。
ボイスドラマで学ぶ日本の歴史、ナビゲーターの熊谷 陽子です。
あの有名な物語、中心蔵の元となった実話の事件、赤穂事件ですね。
こちらを題材に書き上げた、シーズン4 赤穂事件 内蔵助の流儀、いかがでしたでしょうか。
まだお聞きになっていないという方は、ぜひ本編もお聞きいただければと思います。
さて、今回はそのシーズン4 赤穂事件 内蔵助の流儀、脚本を手掛けていただきました、斉藤智子さんにスタジオにお越しいただきました。
斉藤さん、よろしくお願いいたします。
斉藤です。どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まずは、斉藤さんのご自身のことをお聞きしたいんですが、斉藤さんは普段たくさんの文字、文章を書かれているということですけれども、
最近のお仕事のこととか、日本の歴史もかなりお好きとお聞きしておりますので、
その日本の歴史についての関わりなどもですね、お話ししていただければと思います。よろしいでしょうか。
かしこまりました。
私のですね、すべての始まりは映画なんですね。
もし名刺の肩書きを書くとしたら、映画ファンって書いてもいいぐらいのものなんですけれど、
そのストライクゾーンが、白黒の時代劇、白黒というのは戦前であると、えのけんとかですね、そういうのもカラーですね。
あと、前世紀は戦後の50年代、まだカラーが出る前の50年代の白黒の映画が、時代劇が前世紀で、
皆さんのよくご存知の黒沢とかみぞぐちとか、面白いなと思って見てました。
それがどんどんですね、見ていくうちに、時代劇の母親っていうのが発見しまして、それが歌舞伎だったんですよ。
で、今は歌舞伎ファンも名乗るようになりまして、歌舞伎の解説をですね、同時解説っていうのが劇場にいくとあるんですが、
その解説をしたりしてます。あとはそういう関連の書物なんかもさせていただいているという感じです。
あれですか、歌舞伎見に行った時にイヤホンで聞くので、しゃべっていらっしゃるってことですか。
そうです、そうです。
もしかしたらどこかで私、お世話になっているかもしれません。
こちらこそ、ありがとうございます。
素晴らしいお仕事ですね。あれがあるのとないのとではやっぱり入り口としては全然違いますよね。
なるほど、すごい歴史にお仕事が食い込んでいる中で、今回このアコー事件を作品として取り組まれたということですけれども、
03:11
このドラマの中でも語り尽くせなかったいろんなお話などもあるかと思うんですけれども、その辺お伺いしてよろしいでしょうか。
かしこまりました。一応、倉之助の流儀というふうに副題をつけたんですけれども、コンセプトはですね、倉之助のプロジェクトXだと、そういう考え方で作りました。
その理由が大きく分けて2つあって、いわゆる本番、本ちゃんのビジネスマンの知的好奇心をくすぐる要素がアコー事件の中にあるんじゃないかということと、
もう1つが今よく言われるアンガーコントロールということですけれども、怒りとか感情をコントロールしたほうがビジネスうまくいくよみたいなノウハウ本がよく出てますけれども、
そのノウハウにも倉之助の人となりというのはすごく当てはまっているんじゃないかなと思ったので、そういうところを描ければなというふうに思ったのが理由です。
なるほど、今リーダーシップっていうのがコロナな状況で、なかなか難しい、勝ったりとかする上司の皆さん、ぜひ聞いてもらいたいですね。
そうですね、本当に怒りが湧き上がったときに、人間ってどうも2つパターンがあるらしいんですよ。
その怒りをバッと外に出して、相手を攻撃するっていうやり方が1つ。
2つ目はそうきたかって言って1回受けて、現実の問題に対応していきながら、その怒りを整理して戦うときは戦うっていうふうにする選択。
倉之助っていうのは2つ目の選択をしたんじゃないかなっていうのが今感じていることです。
なるほど、これ1700年代のお話ですけれども、当時としては偉い人たちってすぐかっときてパシャーときてっていうイメージが私の中にあるので、下の者たちは逆らえない、思うことを言えないみたいな感じでイメージしてるんですけれども、
このすごい現代のリーダーシップ論に倉之助は近づいているというふうに感じるんですけれども、そういった点でこの中心倉ですね、私もちょっと調べてみたんですけれども、江戸時代の発表当時すごい人気だった。
今で言う、どこを開けても鬼滅の刃みたいな感じですけれども、それぐらい当時ね、みんな猫もシャクシーも中心ぐらいみたいな感じだったと調べてわかったんですけれども、なんでこんなに人気が出たのかなっていうところってお聞かせいただけますか。
06:01
今ですね、鬼滅の刃という話が出ましたけど、私は半沢直樹だと思ってるんですよ。
そうですね。すいません、例えが浅はかでした。
全然全然。でもまさにブーム的に言うともう鬼滅なんですよ。私鬼滅の刃見てないけど、だいたいもうあらすじわかっちゃったんですよ。
そうですよね。
みんな見てなくても知ってるっていうぐらいが、やっぱりおっしゃるように金手本中心蔵で、半沢直樹っていうふうに思った理由はいくつかありまして、まず庶民の代表が理不尽な理由で苦境に立たされると、しかし勇気をもって権力者に立ち向かう。
最後には権力者に土下座ならぬ打ち入りで打ちまかすと。一死報いるということですね。それで見てる人はスカッとするわけですけれども。
その過程の中で個々の、今回で言えば力であったりとか、十十七死それぞれの人間模様が描かれていくっていう、このフォーマットまさに半沢直樹だなと。
でも面白い話ってそんなに、ある程度型があるものなので、それを現代の銀行に置き換えたっていうことで、特にその最後のですね、個々の人間模様っていうところが、組織の中で苦労している日本人の好みに合うのかなと。
あとヒーロー像というのも、先ほどちょっとお話ししましたけど、大石倉之助ってアメリカンヒーローみたく強くて、俺についてこいっていう感じじゃなくて、そうきたかって受けて出すっていう、そのリーダー像もとっても日本人に合うんじゃないかなと思ったりしますけれど。
そういうところがもしかしたら、その力とのお父さんと息子の角質っていうか、あんまりいないですよね倉之助みたいな。見方によっては、なんだよ何にも決められないで、どうすんだよみたいな感じのところがありますよね。
私、歌舞伎がやっぱり好きなので、歌舞伎の方から入ったんですけれど、金手本中心蔵っていうのは、もともと人形浄瑠璃で浄瑠璃の語りっていうのがありまして、そこで大石のことを語っている語りがあるんですけれど、それをちょっとご紹介させていただきますね。
例えば、星の昼見えず、夜は乱れて現る。これが大石倉之助ならぬ大星浦之助のことを描写した一節なんですけれども、ニュアンスとしては、昼の星っていうのは本当にそこにはあるんだけど、見えないですよね。
だけど夜になると乱れるように輝くっていう、それを大星浦之助っていう人物に例えて話してるんですけれども、夕日になると画然きらめくっていう、この人物像っていうんですかね、これがすごくかっこいいなと私は思います。
09:08
なるほど。今お名前が大星ですよね。これって、今私たち普通に朝野巧の神、大石倉之助って実名で話してるじゃないですか。これってその当時、人形浄瑠璃で最初に大ヒットしたときには、そういう仮名っていうか、劇中名っていうか、そういう形だったんですか。
はい。江戸時代はですね、そもそも権威痛があったので、その女神に羽ばかってですね、本名っていうのは中心位に限らず出せなかったんですよ。なので、そういう、みんな誰だか分かるんだけど、とりあえず変名っていう約束事があって。
カネデフン中心位で言えば、コウノモロナオとエンヤハンガンっていうのが、大兵器の実在の人物の名前なんですが、それがコウノモロナオがキラコウズケノスケ、エンヤハンガンが朝野巧の神っていう記号として使っていたっていうことなんです。
これは女神にとっては非常に、あこう事件っていうのはですね、だって女神の旗元に刃を向けた人情事件だから、結構、幕府からしたらあんまり受け入れられる事件ではないので、そこを巧妙に隠すためにも変名を使ったり、舞台を変えたりっていう、再行したっていうことだと思います。
なるほど。これって実名で語られるようになったのって、いつ頃からなんでしょう?
明治時代にですね、今度は近代演劇の真山聖歌という人が、元禄中心蔵というのを歌舞伎の方で作りまして、そこからは実名でやるようになりました。
じゃあ明治より前は、いわゆる江戸時代まではそういう仮名っていうかね、あれでやられてたんですね。
やっぱ将軍家の力が絶大に強かったっていうことなんですかね。
そうですね。今みたいにストレートじゃなくて、モンタージュで分からせるとか、そういう遊び方がすごく多かったみたいですよね。
やっぱりその謙虐があるっていうことだと思うんですが、どんな謙虐があっても、その間をくぐり抜ける庶民みたいな、そういういたちごっこというか、そういうところでみんな庶民も慣れていたので、
一応これは太平紀の世界ですよって歌ってて、本当は中心蔵の片桐内の話でしょってみんな分かりながら見てたっていう、
ダブルスタンダードが当たり前の世界が江戸時代だったっていうふうに考えてます。
なるほど、そうなんですね。ではここから本編の内容についてもうちょっと深く質問させていただきたいのですが、
12:10
そもそも中心蔵自体は皆さんよく知っている内容かと思うんですけれども、まずそもそも倉之助が匠の神に思い入れる理由、それは何だったのだろうかと。
そうですね、浅野匠の神っていう藩主を支えていたのが大石倉之助という国がろう、人がろうということで、会社に例えると社長が浅野匠の神で、役員が倉之助っていう感じだと思うんですね。
で、匠の神が名君だったのかどうかということについては、良い評判と悪い評判、その2つがあります。
で、その中でなぜ大石はここまでしたのか、社員を率いて一心報いたのかっていうと、親戚だったからっていうふうに私は1つ今回資料を読んで思い当たりました。
そうなんです。倉之助は浅野匠の神の家、藩主の家と親戚関係にあったんです。倉之助のおじさん、そして後県にでもあるですね、大石頼物助は、赤尾藩の初代藩主の娘、鶴姫という方を奥様にもらっていたんです。
なので直接の血のつながりはないけれども、やっぱり人がろうというのは、格のとても高いお家の、しかも桃園にあたるっていう感じで、すごく深い縁があるっていうことが1つあったんだと思います。
株式会社が潰れてしまったときは、まず感情的な匠の神がかわいいからとか、好きだからとかっていう、まず責任感として匠の神は動いたのかなというふうに思えるんですけれども、
匠の神はどう思ってたのかという感情を知る様子としては、1つエピソードとして紹介できるのは、匠の神が説服を賜ったその直後、赤尾藩のお城を開け渡すという場面が来るんですけれども、1ヶ月もしないうちに、
お城出てけ、赤尾藩出てけって言われたときに、倉之助は家来一同で説服しようと、そういうような劇を飛ばしています。何のために説服をするかというと、浅野家のお家を再興するために、その覚悟を見せるために、家来一同で説服しようじゃないかと。
みんなは倉之助の覚悟を聞いて、倉之助について決意をするというようなところなんですけれども、そこまで言えるというのは、やっぱり匠の神や浅野家に対する並々ならぬ思いがあったというのは間違いないと思います。
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たくみのくん、いろんなドラマとか映画とか、そういう場面ですごくよく描かれるじゃないですか。結局先に説服させられていなくなってしまっているので、みんながすごいリスペクトしているみたいな描かれ方していることがすごい多いかと思うんですけれども。
私ですね、いろんなそういう中心、過去様々な中心蔵、あこう事件とかあこう老死とかいろんなドラマを見てきたんですけれども、最初の場面で松野廊下で認定事件を起こすところで、結構、喜良光助之助が毒吐いて浅野匠の神を怒らせて、なんだとみたいな感じで、それで斬りつけて。
なんかこのジジイみたいな感じで、喜良光助之助も決して良くないというか、悪者絶対的に画面に出てきた瞬間にこの人悪役だよねっていう出てき方をするじゃないですか。
まあそれがですね、その浅野匠の神だけ説服で、その喧嘩両成敗と言われていた時代にもかかわらず、喜良光助之助は無罪方面だった。これはなんでこうなっちゃったんでしょうかね。
そうですよね。やっぱり私も資料にあたって、今回いろいろわかったことが多いんですけれども、たくみの神がいじめられてたっていう資料はないんですよね。
そうなんですか。
若干ご乱心だったんじゃないかっていう資料は若干あるみたいですね。
ただそのたくみの神が斬りつける時に、この恨み覚えたかっていうことを言ったっていうのは、その場にいた人の記録にあるっていうことなので、たくみの神が明君だったかどうかというのは本当に謎だし、光助之助が本当にいじめたかどうかというのも謎ですよね。
思いのほかそんなに悪い人じゃなかったかもしれないっていう。
その可能性もあります。その可能性も。
そういう見方もちょっと新しいですね。
ここもだからやっぱり、ここで絡んでくるのはやっぱり倉之助の深い策略なんですけれども、今熊谷さんがおっしゃったように、当時の喧嘩両成敗という考え方であれば、一方が説服ならこっちも説服っていうのが常識だったんですが、
幕府は奇弁というか、だって斬らは切り返してないじゃないかっていうことを言って、切り返してないんだから、歯向かってないんだから、これは喧嘩じゃないよって言って、この一方的な裁きを丸め収めようとしたわけですよ。
でもそれじゃ腹が収まらないよっていうのがこの人たちで、じゃあどうやって倉之助は筋道を通したかっていうと、倉之助はあくまでもこれは喧嘩ですって言い続けたわけですね。
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それはですね、打ち入りの時に掲げる家来向上書というところにはっきり書いてあるんですけれども、倉之助の理屈としては、武士と武士の喧嘩であれば喧嘩両成敗であると、喧嘩両成敗は武士の筋道なので、そのために嫌いを打ちますと。
あくまでも恨んで、恨みを晴らすとかそんなことじゃないんです。武士の筋道を果たすために打ち入りしますっていうことを何回も何回も書いていて、それがあこの人たちが正義の義士だって言われるような元になってるのかなと。
なるほどね。私的なうがった見方をすると、仇討ちが達成されると功力で召し上げられるっていうところが目的で、腹の底であったのかなと思っちゃうんですけれども、どうなんでしょうか。
おっしゃる通りで、一般的にはですね、お家断絶になったら再就職の道を求めるっていうのが当然の成り行きですよね。会社倒産したんだから、できれば同業他社に転職したいと。
失業保険もない時代ですね。
実際の例があったらしいんですよ。だから、悪王義士の中にはその再試官できるんだったら打ち入りしてもいいよみたいな人たちもいたとは思います。
なるほど。
ただですね、実際に残った47人、初めも100人ぐらいいたわけですから、倉之助と行動を共にするって言ったのが100人いたのが47人最後になってるんですけれど、その残った47人の人たちは家族宛に手紙を書いたりとか、実勢の句が残ってたりするんですけれど、そこを読むとですね、
まあだから再試官してやろうとか、そういう計算づくの感じはほとんどしなくて、純粋な気持ちで、むしゃらな思いで物資の通しての筋道を通すんだみたいな、その純粋な思いで打ち入りしたんだなというところがやっぱりそういう手紙から感じられるので、そこは信じたいなと思ってます。
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信じます。
わかりました。
今日から私、信じます。
そのね、喧嘩両成敗っていうところで、倉小助之助は何にもされなかったかというと、何の罰もなかったかというと、その屋敷が本庄に蔵替えになるという、まあそれってある意味罰なんじゃないかなって思うんですけど、それはどうなんでしょうか。
はい、そうですね。倉之助が切腹した年の8月、もともとあったキラの屋敷はですね、日本橋の五福町という場所だったんですが、そこから本庄に屋敷替えをさせられました。
本庄というのはですね、江戸城からすごく遠く離れている場所で、当時はですね、桜も終わってなかったですし、ちょっと川向こうというような印象の強いような場所で、キラは恐怖を覚えたというようなお話も伝わっています。
今の錦糸町あたりですよね、今の地名でいうと。
そうですね、スカイツリーのお膝元みたいな、下のあたりですね。
で、この内裏を裏で操っていたのは幕府なんじゃないかという説なんかも、亡きにしもあらずですけれども、これの実際のところをちょっと調べてみるとですね、五福町にいた時のキラ屋敷の隣の家が幕府に直層したという話があるんです。
それは、後老子の打ち入りが噂されてて、物騒だし迷惑かかったら迷惑をこむりたくないということで、キラ屋敷を移転させてくれないかということを幕府に直層したということらしいです。
で、本庄に移ってからですね、実はキラはあんまり本庄の屋敷には住んでなかったらしいんですよ。
その息子が上杉家の藩主だったので、上杉の屋敷に行ったりしてたようです。上杉屋敷というのはちなみに阿佐布とか白金にありました。
この時期ですね、大石は何をしてたかというと、表向きにはお家最高ということでいろいろ動いていたので、キラがどこにいようが、表向きには関係ないという感じだったんでしょうけれども、
実際はキラがいつどこで寝泊まりしているのかという情報をつかむのがちょっと大変だったんじゃないかなという仮説ですけれども、そういう感じもします。
なるほど。一方ですね、倉之助が京都で色待ちが用意してたっていう話も聞いたりしてですね、これをですね、正当化するためにそれは敵の目を欺くためなんだみたいな言われ方とかいろいろしてるんですけど、これ実際どうだったんですかね。
24:02
あの普通に女の人が好きだったみたいです。別に敵の目を欺くとかじゃなくて、だってあのあこう時代にも独身だった時代かな、でもおめかけさんがいらっしゃったりとかしてますから、おめかけさんの子供が生まれたら孝行してくれみたいな手紙も今残ってますね。
そういう時代ですからね。ある意味、色は自分の強さを表す一つのなんかステータスじゃないですけど、そういう感じですもんね。
そうですね。秀吉とかもそうだけど、要は人たらしだったのかなと思ったりして、あとすごく筆豆だったみたいなんですよね。細かにいろんなこと書いて、こうあちこちに出してるので、豆の男の人ってモテるっていう。
そうですよね。
聞いたことがあるんですけど、そういう豆でコミュニケーション能力が高いっていうことなのかなと思ったりしてます。
そうですよね。またそういうところがある側面から見ると、こうなんか一体何を考えているんだろうみたいなところにもつながっていくのかもしれないですよね。
そんなお父さんを持った息子の力ですよね。必ず重要なポジションとして登場するこの力なんですけれども、これたった15歳なんですね。改めて考えると。今で言ったら中学3年生じゃないですか。
本当ですよね。
たった15歳で打ち入りして、そんな筆豆な女好きなお父さんの、何考えているのかちょっといまいちつかみどころがないような感じのお父さんの下ですね。15歳で打ち入りして、16歳で切腹。高校1年生ですよ。まだこれから未来が広がる。
この壮絶な人生を歩んだ息子の力ですね。どんな人物で本当のところどうだったのかなっていうところをね、いろいろ聞きたいなと思いまして。
おっしゃる通りですね。物資というのは子供の頃から死を恐れてはいけないっていうふうに育てられるっていうふうに聞いてますけれども、それでもねこうやって外から見ると非常に悲しいというか胸が痛い話ですよね。
始めはやっぱり力が自分で志願したということを伝わってますね。お父さんは連れて行くつもりは始まらなかったということなんですけれども、結果論ですけれども、実際は抗議士というのは家族や兄弟で参加したというのが非常に多かったんですね。
うちりの直前に倉之助が頼りにしていた親戚すじが離脱してるわけなんですね。そういうこともあって、本当に結果論だけど力がいてくれたおかげで大石家としての面目が立ったんじゃないかなという、そんな気はいたします。
27:14
力はエピソードとしてはあんまり多くないんですけれども、うちりの時に裏門で長を任されて一人敵を倒したというふうに伝わってます。
お、素晴らしい。
そうなんですね。
すごい好きなんですよ。かわいくないですか、なんか。すごい貧乳なのに奥さんの方が性高いんですよ。
あなたってか。
あともう一個ちょっとだけ補足しますと、ドラマの中で力と堀部康平の交流をちょっと書いてますけれども、打ち入り後に4つの大名家に預けになったときに、実は康平と力っていうのは同じ家、松平家に預けられてたんです。
なのでここでどんな交流があったかっていうのは本当に想像の域は出ないんですけれども、15歳、16歳ですから高田のババでどんなことしたんですかみたいな、何人倒したんですかみたいな話を康平から聞いたっていうようなこともあったのかななんていうふうに想像、それこそ想像しています。
なるほどね。
やっぱりこの打ち入りもですね、倉之助の緻密な作戦が非常に効いてるなという感じがします。
良い衆党な感じっていうのは、やっぱり少ない人数で勝利を収めるためにはどうしたらいいかっていうことをとことん練り上げたんだろうなと思います。
ゲリラ戦というのは日本史にもいくつかあると思うんですが、その中でも倉之助というのは最も相手の心理というのを研究してたような感じがします。
例えばですね、基本的には100人がいる屋敷に47人で切り込むっていうことなので、それでどうやって勝つかっていうことなので、じゃあ相手の繊維をなくしてしまえば何人いようと平気じゃないっていうのが多分作戦の根幹にあるような気がするんですね。
まずその繊維を失うためにはどうするかっていうと、深夜3時に打ち入ると。これは上等ですけれどもね。表門と裏門に人を配置して押し入ると。表門から入った人は24人。
これがですね、その屋敷の周りで寝泊まりしている侍の長屋というのがあるんですが、その長屋の扉をトントントントンって釘で打ち付けちゃうんですね。そうすると侍たちは出られないわけですよ。寝てる間にいきなり扉が閉まってしまうと。
30:10
で、その上で今度ですね、表門の23人というのは3人一組で中を入っていくんですけど、実際3人なのに富野守対30人は右へ進めとか片岡対30人は裏対回れとか叫びながら進むんです。
そうすると長屋にいる侍たちはですね、音しか聞こえないから30人も来てんのか。こっちも30人か。何人いるんだって言ってもう恐怖が増してくるわけです。耳でしか聞こえないし。
っていうことをやってくるわけです。で、力が率いる裏門隊というのは23人なんですけれども、これ表門が入った後から入ってくるんですが、こちらはこちらで火事だって叫びながら来るわけです。夜中に火事って怖いですよね。
完全に心理戦ですね。
そうですね。で、火事だから何もしないでファッて木の間に飛び出してきたらもう槍でやられちゃうわけです。でもそうすると怖いと思いますよね。笑っちゃいけないけど。
なるほど。
寝ぼけてる中で恐怖のどん底に突き落とされるっていうことなので。
すごいですね。
すごいですね。
すごい緻密に考えられてますね。
すごいですね。
面白いですね。
私ちょっと気になる方が1人おりまして、47死実は1人雲隠れしていると。この寺坂吉江門。今回この吉江門を創作の中では後に本当のことを伝えるためにみたいな形の位置づけになっておりますけれども、
実際の死実っていうのはどうだったのかなっていうところをお聞きしたいんですけれども。
こちらも諸説ありまして、そこが逆にやっぱり創作する人たちの想像力をかきたてるっていうことで、かなりフィクションにはよく出てくる方ですよね。
もともとは匠の神の家来ではなくて、47死実の中で一番年長の吉田忠財門という格の高いお侍がいるんですが、その方の足軽だったんですね。
足軽っていうのはお侍ではないので、うちに参加する必要はないというか参加できない本来であればっていう立場の人なんですけれども。
自分で死がしたのか忠財門に言われたのかそれもわからないし、その打ち入り後に自分の意思で逃亡したのか誰かの見つめ。
一説にはその弟、浅野匠の神の弟の大学に打ち入りの話を伝えてくれって言われて逃げたっていうふうにも言われてるし、それも確証はないんです。
33:06
ただ寺坂自身が残した記録には引き上げの途中死債あって一行から離れたというふうにだけ書かれています。
これどのあたりで離脱したんですかね。
一応打ち入りの際は裏門隊の一人として配属されていたみたいです。
これは本当に推測ですけど裏門っていうのは激戦が予想されたので堀部康兵衛とかフワカ勢門とか腕の立つ人が揃ってたんです。
そこに配属されたということはやっぱり寺坂吉泰門という人も何らかの特技というか使えるやつだったんじゃないかなっていう想像はありますよね。
どこでっていうのはちょっとわからないです。
そして打ち入りして最終的にはこの吉泰門以外の46人すべて切腹。
あれこれ吉泰門って最終的に切腹してるんですか。
吉泰門はですね実は1年後に幕府に自主してるんですよ。
そうなんですね。
それででももういいよって言ってもこれ以上騒ぎ起こしたくないからっていうのが幕府の本音だったので無罪放免になってます。
その後何年かすると私分に取り立てられるんです。
侍に。
それで83歳という当時としては異例な長寿で人生を全うすると。
すごいですね。
最後にですねこの打ち入り切腹までのドラマチックなところっていうのはたくさん語り継がれてきてるんですけれども。
その後ですねこれだけお家最高に向けて倉之助すごい頑張っていったわけですが。
残された人たちのこのその後のお家最高というかそういった部分で結局はどうなったんでしょうか。
浅野匠の神の弟浅野大学この浅野大学のお家を最高するということが倉之助の一番やっていた運動していたことなんですけれども。
最終的にはですね。
倉之助が亡くなったのが1709年なんですけれどもこの倉之助が亡くなった後に大学は退社が行われてその後にですね阿波国に諸領を与えられて旗元になったということです。
千葉県ですかね阿波国ってね。
そうですねそうですね。
最終的に名誉は回復したということでこの浅野大学もですね今は阿光老子や匠の神兄匠の神と同じ戦学寺で眠っているということです。
36:06
なるほどよかったです。
この討ち入りしてヒーローになったせっかくヒーローになったのに切腹してすぐ死んじゃうわけじゃないですか。
それが本当に名誉ある死に方だったのかなというふうに思うんですけれどもどうなんでしょうねこれ切腹まで期間どれぐらいだったんですか。
12月に討ち入りがあって切腹が決まったのは2月なので3ヶ月弱ぐらいですかね。
たった3ヶ月。
一時はそれこそ無罪放免という意見も出たぐらい別れたらしいんですよその処罰についてどういうふうにするべきかということをけんけんがくがくとやったみたいなんですけれども
とりあえずセロンが非常にアコロウ氏たちの味方になってですね幕府も笹本幕府もセロンに押されたというような印象は否めないですね。
でまあその無罪放免はさすがにないだろう幕府への反逆なんだからみたいな意見もあるしかといって斬首という罪人にすると今度セロンが黙ってないだろうという意見もあってその中間地点が切腹っていう
武士としての名誉ですからそれこそその倉之助たちが言っていた武士の筋を通すっていうところで一番こうかなってるんじゃないかっていうような処罰だったんじゃないかなというふうになると思います。
そうするとこう敵討ちしてよくぞやったでわーっと盛り上がってそして切腹したでもう完全ヒーローみたいなそういう筋書きですね。
まあその今の現代からするとこの切腹とか敵討ちとか敵討ちはね形がこの武力ではなくて違う形でいろいろねそれこそ最初おっしゃってた半沢直樹のような形で繰り広げられている場面はあるかと思うんですけれども
この切腹っていうのはもうどうにも想像しがたいというかなんで死んじゃうのっていうようなねそういうイメージとして切腹することがすごく名誉とか武士の筋が通ってるとか素晴らしいって惨憺されるっていうのがなかなか理解しがたいのが現代人かなというふうにすごく思うんですけれども
そうですねその遺族子供たち例えば大石倉之助も男の子が2人いたんですけれども15歳以上の男の子は遠投といってその島流しに会ってたんですけれどもそれも何年かすると解けるんですね。
倉之助の子供大桜という男の子が内入りの年に生まれるんですけれども倉之助は顔を見てないんですけれどもその男の子が何年かして大きくなると広島の藩に1500国で取り入れて家老になるんですね。
39:22
お父さんと同じ国高で採用になるっていうことで確かに倉之助たち47人は死を賜りましたけれども心霊演者というのはむしろヒーローというかヒーローの家族あの時どうだったんですかみたいな多分インタビュアーが殺到したようなそういう扱いで
一方で先ほど100人のうち47人だったという話をしましたけど残りの53人特に途中で離脱した人たちっていうのは結構いじめられるというか厳しい目で見られる。
ちょっと余談ですけれども歌舞伎で夜露会談っていうのがあるんですけど夜露会談で大岩さんを殺しちゃう家紋っていう男あれは阿光老子っていう設定なんですよ。
内入りに参加しなかった阿光老子。
その逃げちゃった人。
そうですそうですそうです。
そうなんですね。
そういう何て言うかな逆転するんですよねそこの切腹を機にそれぞれの価値観がね。
なるほどもうそうやってなんか嫌なものとして後に語られちゃうわけですね切腹に参加しなかった人たちの方はですね。
それも辛いと思いますけどね。
そうですよね。
残された家族とかがねまたちょっと痛いですよね。
そうですね。
なるほどね面白いですね。
なんかストレートですね江戸時代の人たちね。
そうですね。
わかりやすいっちゃわかりやすい。
そうですね。
そここそ倉之助は現代風だったが故にわかりづらくてミステリアスに移ったんでしょうかね。
そうかもしれないですね。
確かに倉之助だけ現代人ですよね。
ですよね。
確かに確かに。
未来から行ってたんじゃないですかね。
確かに平成ぐらいのね。
確かに確かに。
タイムスリップして行ってたっていうドラマの書き方ありますよ斎藤さん。
ありがとうございます。
タイムスリップといえばね私もちょっと別の意味でそのタイムスリップしてきたんじゃないかって思った理由があってそれは引き上げの時なんですけれども。
内裏が終わった後本塾から尖閣寺まで歩いて行列してそれが江戸っ子の目に留まって騒ぎが広がっていくんですけれども。
その時に要するに江戸っ子っていうのは怪力を浴びて首を槍の先にむら下げて歩いている侍たちを見てやっぱり関ヶ原からタイムスリップしてきたのこの人たちみたいな。
42:12
そういう驚きがあったんじゃないかなと思うんですよね。
これが侍っていう生き物かみたいな。
もちろんその時代元禄時代も侍はいたけれども刀なんて高級時計みたいな感じでおしゃれとしてつけてるだけで本当に刀を使うとか怪力を浴びるとかそういう風景というのは見たことがなかったはずだから。
平和な感じですもんね。
生類和れみの例とかな。
動物にまで気を使うような時代ですもんね。
綱吉はだからそれもお話ししたかったんですけれど、綱吉っていうのは文字政治っていう風に言われてましておっしゃるように平和的で動物愛護っていうのはそれこそ先駆的な発想だと思うんですが、
学問が好きで究極の文系だと思うんですよ。
あこう藩っていうのは山賀祖公っていう人が非常に思想的に影響を与えている藩で、山賀祖公の教えって体育会計なんですよ。
だからあこう藩の人たちは究極の体育会計。
で、綱吉が奨励したあの儒教の朱子学っていうのがあるんですけど、山賀祖公っていうのは朱子学真っ向から批判してるんですよ。
もう対立すべくして対立してるみたいな。
水と油みたいな。
まあそういう深いところからもいろんな考察していくと面白いですね。
すいません。
いやいやいやいや。歴史のつながりってすごくこう、歴史って私学生の頃大嫌いだったんですよ。
年号を覚えて人の名前を覚えてっていうので、とにかく記憶力を試されてる授業だみたいに思っていたんですけれども、
ちゃんと一つの物語として、またいろんな人が繋がってくるじゃないですか。
あ、ここ親戚なんだってさっきみたいに。
その血のつながりだけじゃなくて、昔って養子縁組的な感じで行ったり来たりするじゃないですか。
そういうのとか、なるほどとか。あと奥さん一人じゃないじゃないですか。
そうですね。
これも子供みたいな。そういうのとか。すごいそういうふうに見れるようになってからもう本当にハマりましたね。
ズルズルズルズルイモズルのようにいろんなものが出てきて、これがこことつながるんだってなっていったときに初めて歴史を楽しめるので、
ぜひこの番組を通してリスナーの皆様もですね、歴史を皆様なりに楽しんでいただければと。
45:08
そのお手伝いが私たちできたら非常に嬉しいなというところでございますが、
今日長いお時間、いろんなお話聞かせていただきまして斎藤さんありがとうございました。
とんでもないです。こちらこそ。
最後にですね、斎藤さんの方からも皆様、リスナーの皆様に向けて一言お願いできますでしょうか。
かしこまりました。
歌舞伎はですね、まだちょっと女高運転みたいなような開幕ですけれども、
歌舞伎座ではですね、年に一、二回中心蔵物をやってますので、もし興味が湧いた方はですね、
たまにはお芝居にお運びいただければと思います。
私自身はですね、時々歌舞伎解説やってますので、もしどこかで名前を見つけたらぜひ聞いてください。
あとウェブサービスのノートっていうのがありますけれど、そこでも歌舞伎のことをちょこちょこっと書いてますので、
もしよろしければそちらもイヤホンガイドっていうふうに検索すると出てくると思いますので、見てください。
はい、ありがとうございます。歌舞伎で斉藤智子さん、見かけましたらぜひお楽しみいただければと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
それでは、ボイスドラマで学ぶ日本の歴史、次回シーズン5も配信準備しております。
どうぞお楽しみに。本日は斉藤智子さんにお話を伺いました。ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
47:02

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