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2022-11-11 21:49

【番外編 #002 /江川海人さん②】「才能」と「アート」の共通点とは?【みんなの才能研究所|みんラボ2】

■今回の内容【毎週金曜日/朝5時放送】

今回は、「才能」と「アート」の共通点から見えるもの、またそれらを磨く方法について考察していきます。
才能研究者のたかちんこと佐野貴がお送りします。  


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みんラボ2、前回の続きですごいね、さっきあの破壊と再生の繰り返しって話があったけど、
確かにその町っていうもの自体も破壊と再生が繰り返されていて、アートと同じようにコンセプトが存在していて、
で、どういった描写でどういうふうに自分たちの思いを町に載せるのかっていうところも、絵を作るのとすごい同じような感覚なのかなと聞いていて思ったんだけども、
絵のことを知ってる人と絵のことを知らない人の観点って、どういうところがズレてたりすると思う?
絵を知らない人とか絵を描いたことがない人が、アートってめちゃくちゃ面白いよなって思うようなアートについての話って何かあったりする?
すごい難しい質問してるんだけど、アートの魅力って何なんだろうっていうふうにずっと思っていて。
でも自分が強いに思ってるのは、初対面でなんかいろいろ話したときに、たまにあなたって何のアーティストですかって突然聞くんですよね。
その問いかけっていうのは前提があって、全員自分はアーティストだと思ってるんだよね。
っていうのも一番人間にとって身近なアートって言葉だなと思ってて、この言葉の即興性、独自性って絵と何ら変わらないというか、
絵もパターンだったりとか制約の中で何かを作り出したり壊したりしていて、それもまるっきり言葉と一緒で、言葉もものすごい自由度があるじゃないですか。
だからパターン、ルール、社会との関わり合いによって生まれる自分の中でのルールっていうのがいろいろあるけれども、
その中で、だから今自分がこうやって喋ってるのはものすごくアーティスティックというか自分の感覚でいうと、
だからこの創造活動っていうのは自分にとってはものすごいアート活動で、ものすごいクリエイティブで、
想像力ない、クリエイティビティないんだよねって悩んでる自分の周りの友人だったり友達とか見てると、
いや、なんか自分だから違和感というか、なんか目の前で絵を描いてるのに自分絵描けないんだよねって言ってるような感じに自分には聞こえて、
そこに自分は大きなズレを感じれてるとか、なんかでもそれってなんか人との認識の違いというか、
なんか一個の見方たちいちの違いだけだなと思ってるから、なんかそういうふうに見方を変えればその人と自身の見方がグッと変わって、
アートってそんな身近なんで、かつアートってもっと自由で、かつ自分自身から湧き出てきちゃってるものなんだっていうのを気づいた時に、
なんかもっとアート全体に対する人間の親和性の高さっていうのを全員が感じて、
そうすると、それこそできなかったと思ってたものがもっとできるようになるなと思って、
なんか人間ってできないと思うとできる可能性がものすごく下がるというか、
例えばなんか目の前に本当に1メートル1.5メートルくらいの川があったとして小川があって、
それを飛び越えられるか飛び越えられないかってものすごい気持ち次第というか、
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まあ別にぴょんってやっちゃえば行けるでしょって思う人は飛べるし、逆にうーんって言って踏ん張ってる人たちは飛べないしみたいなので、
で、アートっていうもの自体に関してはもう本当にそのくらいの大川だなと思っていて、自分は。
そんなランチメートルもあるような川では決してなくて、そこのアートっていうものだけで捉えられたらば、
本当に普段で飛ぶだけではみたいな感じに自分は結構捉えているから、
そこが多分大きな見方の違いに続いているのかなっていうふうに。
面白いね。結構才能の定義と似てるんだなって聞いていて思っていて、
才能はその欲求を満たす方向にあられる思考行動の繰り返しパターンって呼んでいて、つまりついついやっちゃうことなんだけれども、
人間のついついやっちゃうこと自体がその人それぞれ全然違うじゃん。
で、そこに表現が存在してて、普段からやってるじゃんって、それが全員アーティストだよねっていう概念とすごく似ているなと思っていて、
どんな人にもそのアーティストというものは存在していて、もうすでにそのまんまそのまんま出せばアーティストだよねっていうものがあって、
さっき言った言葉とかも表現もアートだなっていうふうに確かに思っていて、
絵を描くってことはちょっと僕の中ではハードルが高いけど、なんか全くそのすごい怖いことじゃないよって言われたら、
もう少し開放的に絵を描いたりとか、実際絵画とかってなんかもう少し触れ合うところの距離感も近くなったりするのかなと思っていて、
絵だけがアートでもないじゃん、今の定義で言うと。
はい。
だからいろんなことが全てがアートなんだなって言われると、なんか今のこの自分の部屋の空間とかもアートなんだなって思ったりするし、
今この部屋の汚さもこれを自分は表現しているんだなみたいな。
自分を表現していることっていうのは身近にたくさんあるんだなっていうのをなんか今の話を聞いて改めて思って、
そう考えると世界が結構楽しくなる。
いや、そうなんだよね。だから都市計画も自分にとっては究極のアートで、
何をどういうふうに破壊して生み出していくのかっていうので、
社会で考えるとちょっと言葉には気をつけなきゃなと思うけど、
その人が生まれて死ぬっていうことも自分にとってはものすごいアートというか芸術活動で、
その積み重ねによって社会ができているというふうに考えると、
その概念を感じただけで涙が出ちゃうくらいすごい美しいというか、
なんだろう、心を動かすものだなって一番思っていて。
で、その社会っていうものに人はみんなすべからく生きているわけで、
そう考えるとものすごくアートの中で生きているし、
その毎日毎日積み重ねているその命自体がアートであって、
だから自分自身に内在しているし、その生活自体がアートというふうに考えると、
アートってものすごく身近で、ものすごく当たり前で日常的で、
遠ざけても遠ざけられないようなものだなって。絶対遠ざけられない。
本当だね。遠ざけられないね。
そういう意味で、まだまだ自分らしさを発揮できていなくて不安ですっていう人が、
06:04
音楽とか芸術とかに触れていくことで、もう少し開放的になっていって、
こっちの部分では自分が表出できるけど、実際の実生活ではまだですっていう人が、
ご訓練する場所としてはすごく良かったりするかもしれないね。
普段の実生活の中でやっぱり自分らしさを開放すると嫌われちゃうかもしれないという不安を持っている人が、
実際カラオケだと表現したりとか、自分一人の場だと表現したりとか、
オタク的な活動だと表現したりとかするじゃん。
表現っていう言葉じゃなくて、そっちがどちらかというと素だったりすることが多いと思うんだけど、
なんかそれもアーティスト活動だなと思ってるし、
アートってどんなことにも現れてるんだなって思うと、
もっと身近で、もっと美しくて、もっと尊いものなんだなって思うと、
すごい楽しくなってくるね。
いや、本当に楽しい。
だからそれは、評価とは別の視点にあるというか、
自分自身がフレーズするもの、楽しいものっていうものだけれども、
やっぱりそれこそ、
自分はこのミンダボ2を1から3まで全部見てたんですけど、
積み重ねっていうものが、
すごい人間の価値判断思考に影響を与えてるなっていうのは、
自分はものすごく考えていて、
で、学校教育っていうもので、
美術、音楽、技術、家庭科、その他の全部の学問、
自分はすべてアートだと捉えてるけど、
それらはすべて評価されて、
数字によってそれを定義付けというか、
レインジーに押し込まれた積み重ねっていうものが、
ものすごいその人たちの価値判断に影響してるなと思っていて、
もっと境界は曖昧で、
例えば自分がオリガンを折るときは、
絶対に数学を使うし、物理も使うし、
あといろんな説教をするときにも物理を使うし、
その掛け合い、自分は音と色が結びついてずっと生きてて、
だから絵を描くときっていうのは、
必ず音の感覚が溶け出して全部絵を描いていて、
音と美術っていうのはものすごく溶け出しているし、
あとは演劇を書いたり、小説を書いたりするときっていうのも、
その概念っていうのはものすごく世間一般でいう美術に近くて、
何か全体構造、全体の設定っていう中で、
どういうふうにその劇、小説、物語の中での人たちが動き出していくのか、
そこにランダム性があって、
即興性があって、かつその中でも必ず設理、物理っていうのがあるっていうのの流れを考えると、
そういう全ての物事っていうのはある程度の分かれ目があったとしても、
ものすごくお互い溶け出してぐっちゃぐちゃになってるっていうのが、
自然の状態なのに、それを分け出して、
かつ自分自身が主体的に働きかけるものではなくて、
評価されるもの、評価されてこそ価値が生まれるものっていうふうに、
教え込まれるというか、刻み込まれて生きていくと、
ものすごくそれが不自然な状態というか、
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その自然と不自然の程度が離し切れば離しいほど、
人間で生きづらく感じるなって自分は常に思っているので、
その返りっていうのが大きくアウトっていうものを、
ぶれづらいもの、拒否反応を感じるもの、
多くの人たちにとってはナーバスになっちゃうもの、
今からそんなことしなきゃいけないなみたいな、
ちょっと不安感を感じてしまうようなものになっているなっていうのが、
自分はすごい小学校中学校高校、ものすごく自由にいろんなものを作ってきて、
その感覚と周りの人の作り方、周りの人の表現の仕方、
周りの人の詳しさを見たときに、
ここが違いなんじゃないかなっていうふうに思ったかな、一番。
すごいな、まじで。
俺多分そこの概念までまだ完全に理解はできる、すごく。
ただ、その概念までにたどり着くのって、
本当に世の中の常識とかバイアスを全部ひっくり返さないとできないかなというふうに思っていて、
確かにさっき言った評価とか、もっともっと湧き出る、
いっぱいぐじゃぐじゃしたものなのに、ちゃんと仕分けをしようとするとかって、
あんまり自然法則ではないなというふうに単純に思っていて。
さっき言った、ちなみにその前に気になってた音と絵が溶け出すだけ。
この概念ってどういう感覚なの?音が溶け出すっていう。
どうかな。絵を見たときにテンポが見えたり、
あとは自分が音楽すごい好きなんだけど、
音楽を聴いているときにも、いろんなイメージと音と音楽がものすごく結びついてて、
映像が見えるというか、
例えばものすごくそれをわかりやすく自分の中で解釈してパターン化しているのが、
例えばこれは朝靄の音楽だなとか、これは木漏れ日の音楽だなとか、
これはわかりやすいのは夕日の音楽とか、
そういう感じで世界が色っていう波で自分たちに対して映してくれるイメージと、
音っていう波で映してくれるイメージっていうのが、
自分の脳みそ、概念的にも結びついてるし、感覚的にも結びついていて、
ちょっとその溶け出してるからこそ、
音を聴いたときにそれが色に結びつくとか、
色を見たときに音を結びつくって感覚では決してなくて、
音と色が共存してるっていうのが多分一番新しいかも。
音を感じたときにも同時に色のイメージがあるし、
色を見たときにも同時に音のイメージがあるっていうのが、
つい最近、2年くらい前くらいにちゃんと自分が社会に出てから、
自分の感覚と全然違うっていうふうにそこは気づいた。
この溶け出しの部分は。
感覚は違うけど、あれだよね。
教養を勉強してきた人たちが結構気づくポイントと似てるなっていう感じはしていて、
人間を複雑なことを複雑なまま、
ちゃんと捉えようとするっていうところにかなり気づかれてるのかなって感じていて、
それを気づこうとするってすごく難しいことじゃん。
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実際複雑なものをシンプルにしたくてもなってしまうし、
さっき言った溶け出す感覚とかみたいなものも、
表現することがまだ言語化って人間ってそこまでできなかったりするかなって思っていて、
しちゃうと、言語化するとシンプルになっちゃうことが結構あったりするから、
それをそういう絵とか音楽とかで表現するのってとてもわかりやすいなっていうふうに改めて思って。
結構でもやっぱ、
みとくんが見えてる世界は、
僕がまだ知らない世界だなっていうのはかなり感じた。
今日の話を聞いて。
違う角度ではいろんな経験してきてるから、
ああいう感覚と似てるのかなって思いながら聞いてるんだけど、
多分まだ頭で処理できるレベルで、
身体感覚では刻まれてないなっていう感じがした。
いや気持ちいい。
気持ちいい。
その溶け出す感覚っていうの。
溶け出す感覚気持ちいいな。
うん。
なんかどうだろう。
若干瞑想に近いというか、
自分すごい瞑想が好きで、
本当によく瞑想してるけど、
瞑想の感覚にものすごく近くて、
深く深く沈んでいるんだけれども、
自分の感覚っていうのが、
鋭くなっていく過程っていうのが、
その溶け出す過程を描写したときに、
言葉にできる部分かなと思って。
ものすごく自分が沈んでいくような、
落ちていってしまうような、
恐怖にも近いし、
不安定感がものすごく高いものだけれども、
感覚がものすごく鋭くなるから、
世界の解像度が上がって、
ということは自分視力がすごい悪いけど、
ピッとピンと合うような形になるから、
ものすごく安定性が高くなるっていう、
その破壊と創造の両立みたいな感じで、
ものすごく不安定だけれども、
ものすごく安定した世界っていうのが、
その感覚の上で生まれるなっていう風に感じてるから、
だからすごい気持ちいい。
なるほど、すごいな。
この気持ち良さって、
自生活って普段から感じることってできるの?
音楽とかそういうのじゃなくて。
それこそエスカレーター降りてる時とか、
大学に普通に歩いてる時とか、
イヤホンの音楽を聴いてなくても、
それこそ一般的な視覚体験と結びつけると、
基本的に見てるものって、
注力しない限りには、
それを実際に見ているっていうことにはならないというか、
だから自分も音も本当にそれと同じで、
いろんなノイズ、いろんな音環境がある中で、
その中に注力したものにグッと聞くっていうことをするっていうので、
だから聞くと見るって、
ものすごく一体性が高いというか、
感覚だから当たり前だけど、
だからそれが歩いてたり、
自分は自転車越えてる時にものすごくそれを体験するけど、
その聞くっていう、何かにフォーカスして、
何かの音、何かの特定の物事、
現象、波とかに注力するっていうことが、
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自転車に乗ってる時にすごくあるけど、
それをふと、あってなったりするかな。
例えば今こうやって話してる時は、
ものすごく概念的で、
自分の今の感覚とはまた違う領域を使ってるから、
何か音を聞いて、そこに注力して、
そこから溶け出すっていうことはないけれども、
でも今紅茶を飲んでるんだけど、
その紅茶を入れてる時の水が沸騰してる音とかで、
グッと引きずり込まれるっていうか。
すごいな。
その世界で生きたことがなかったな。
それやってみるね。
音に注目していくっていう世界は、
僕の人生の中で一回もないなと思って。
僕どちらかというと音楽苦手だったんだよね。
聞くことが苦手で、
一時期バンド活動やっていたけど、
やっぱり今実はミュージックほぼ聞かないんだよね。
なんか聞くことになぜか抵抗感があって、
聞けなかったんだけど、
多分そういう聞き方をしたことがないから、
やってみようかなって思った、今改めて。
それは溶け出すことが気持ちいいって言ったように、
そこに対して結構幸せを感じられてるんだよね、
ミト君は音に。
気持ちいい、幸せ。
嫌な音とか嫌なことって、
嫌な感じっていうのあるの?音の中に。
すごいいっぱいある。
色のコンビネーションとして不快を感じるのと同じように、
音のコンビネーションだったり、
特定の音にものすごく不快感、不調和。
それこそさっきの話に戻すと、
不自然感っていうのを感じることってものすごく多くて、
なぜこれが不快なのか、
逆にこれが不快じゃないのかっていうのは、
ある程度の割合としては、
本能として遺伝子として組み込まれているというのはもちろんあるかもしれないけど、
それって、それこそこのミナボ2の1話から3話で感じたものと同じで、
人間の蓄積、この生まれてから、
世界に出てからじゃなくて、
お母さんのお腹にいる時から積み重なっているものだなと思っていて、
その絵の美しさを考えた理論ってものすごくたくさんあって、
シンメトリーは必ず人を美しいと感じるとか、
その反面シンメトリーを少し崩したものをより美しいと感じるとか、
もしくはシンメトリーじゃなくても、
いろんな規則性の形があって、
そういったものに対して人を美しく感じるとかだったりとか、
いろんなコンビネーションだったり、
いろんな配置だったり、
コンポジションだったりとかに、
美しさを感じるっていうものが、
ものすごく確立されてて、
それと自分にとってものすごく同じなのが音階。
いろんなヘルツとあったりとかの間に、
音の感覚だったり、音の配置だったりとかで、
美しさを感じたり、
もしくは和音で美しさを感じたりっていうものが、
ある程度、普遍性があるというか、
ある程度じゃない、ものすごく普遍性が高いもので、
その理由っていうのは、
自分はさっきの話に戻って、
経験の蓄積にあると思っていて、
自然環境ってある程度、
世界で共通性があるじゃん。
その共通性っていうものが、
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その感覚に結びついているというか、
人間が自然の中で生きて、聞くもの、見るもの、
食べるもの、感じるもの、
そこで自分自身が働きかけるものっていうものが、
いろんな文化、いろんな文明、いろんな地域の中で、
それぞれが蓄積していって、
その蓄積っていうものが、
美しいもの、幸せって感じるものを構成しているからこそ、
その普遍性を持って、いろんな地域で、
これってある程度幸せだよね。
これってある程度美しいよね。
文明と文明が交流したときに、
自分もその美しいと感じるっていう感じで、
一つの美しさの形、
一つの聞き心地がいいものっていう形っていうものを、
生み出しているっていうふうに、
自分は感じて、
今すごい興奮して、
ガーッといろいろ話してしまったから、
まとまりがあるかどうかわからないけど、
という感じで、
自分が生まれてこれまで感じてきたもの、
蓄積してきたもの、
それは意識的なもの、無意識的なもの、
好意的なもの、非好意的なもの、
全く関係なくて、
蓄積によって、自分は不調は不自然感っていうのを感じて、
不快っていうのを感じるっていうのが、
自分の答えというか、
自分がなぜ不快として感じるのか。
なんでこのコンビネーション、
なんでこのコンポジションっていうのは、
醜く、ものすごく不快に感じるのかっていうのの、
理由かなっていうふうな分析。
めちゃくちゃ解像度高いね。
不快に対しての解像度が。
そこまで落とし込めるようになったのって、
やっぱりこの、なるべくそこを言語に落とし込んで、
なぜなのかなぜなのかなって、
ずっと日々考えているからなのかな。
考えていなければ言語化できなさそうだなと思ってるんだけど、
比較的なんかその不快に感じることも多いと思うから、
行きづらさを感じるシーンも結構多いんじゃないかなと思っていて、
ちなみにそこからは結構避けるようにして生きているの?
出会いすぎると生活ができなくなっちゃうから、
結構遠ざけてる機会、タイミングっていうのは多いけれども、
でもその反面積極的にそれを求める時もあるし、
意図的にそこに飛び込む時もあるし、
楽しみながらそれを味わう時もあるから、
意思決定としてはバラバラかな。
でも社会一般的に見ると多分避けてる方だと思う。
でも避けないと難しいよね。結構敏感だからこそね。
だから自分の普段の生活を見てる人は、
あいついっつもイヤホンつけてノイズキャンセリングしてるなみたいな感じで。
あと結構あんまり目からの情報が多いと考えが深くできなくて、
だから結構目を細くしてあんまり見ないようにぼやけさせている時も多いかな。
本当はその人を見てない。
あとは特定のものしか見つめないとか。
なるほど。
すごいな、身体感覚が優れすぎてるんだな、本当に。
僕多分結構見てきたけど、
水戸くんは結構初めてのパターンかもしれない。
やっぱり身体感覚がどこまで優れてて、
精度が高い人っていうのはなかなか周りにいないから、
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もしかしたらアートに触れてる人はみんなそうなのかなっていう抽象化をしちゃうのはもったいないぐらい、
多分水戸くんはアーティストの中でも特に粒度が細かいというか高いというか、
すごい解像度高く理解されてるんじゃないかなと思って。
多分それを、あれだよね、また次回の回で聞きたいなと思ってるんだけど、
今個人でもやってる創作活動の中で、
人の話を聞いて、それを全部円にまとめるってことも、
1回解像度を全部細かく分解して抽象化するってことをやってるのかな。
この辺りも次回聞かせてもらえたらなと思うので、
今日はここで終わりたいと思います。
ありがとうございます。
21:49

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