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#91 【中華街の歴史3】大陸派vs台湾派の対立が深まる戦後のブラッドタウン・横浜中華街
2023-09-02 22:44

#91 【中華街の歴史3】大陸派vs台湾派の対立が深まる戦後のブラッドタウン・横浜中華街

「中華街の学校が乗っ取られちゃったのよ」「シャッターの鍵穴に接着剤流し込んだり」

今回は中華街における大陸派と台湾派の対立、事件について深掘りトークを展開してます!


大陸派・台湾派と学校の絡み、デモ、裏通りの暴力事件、、、中華街にもこんな時期があったんだなーと。ちゃんと聞かないとどっち派の話なのか置いてかれちゃいますね笑


◆今回のお酒◆

鶴田:青島ビール プレミアム

村田:青島ビール プレミアム


◆今回のキーワード◆

横浜中華学院 / 横浜山手中華学校 / 台湾解放と大陸反攻 / 学校事件 / 分裂する横浜華僑総会 / 荒れる中華街 / 裏通りではバー・キャバレーで外国人の喧嘩 / 善隣門

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感想

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00:05
こんばんは、港町れいでぃおへようこそ。
鶴田です。
村田です。
あら、逆だねえ。
ねえ、差し込まないでよ。
まあ大丈夫、名乗ったからね。
この番組は、争いになって生まれ故郷の横浜に帰ってきた2人が、
アルコールを片手に浜ダンギや趣味の話に花を咲かせるレイリオンです。
お願いします。
はい、今回は中華街の話をね、前回からシリーズで引き続きやっていきたいと思います。
ということで、いつも今回のお先は何ですか?
今回は、チンタオプレミアムです。
おー、プレミアムなの?
これはね、通常のチンタオのワンランクのチンタオゴールド。
ゴールドって書いてあるよ。
僕も初めて飲むので、乾杯しますか。
ちょっとラグジャリ感があるね。
ねえ。
はい、じゃあ乾杯。
乾杯。
飲みやすいなって今思ったけど、チンタオビューリーもともと飲みやすいか。
飲みやすいんだけど、チンタオビューリーよりも、さらに水みたいな飲みやすいかもしれない。
うん。
なんか、水のようだわ。
なんか特段癖を感じない。
ほんとに?
うん。
これがプレミアムですか。
なんか色が、
50円くらい高いんじゃない?
50円くらい高くなって水に近くなってる。
なんかちょっと面白い。
モルツからさ、プレミアムモルツになるとコクが増すんだけど、その逆パターンみたいな。
ねえ、なんかこうどっしり感っていうわけでもなかったね。
でもなんか、確かに色合いはちょっと爽やかよりよね。
チンタオビューはもともと緑?
緑緑、そうそうそう。
なんかこのパッケージとか瓶でさ、持って飲もうとした時は確かにこっちの方が爽やかな気もする。
これがプレミアムか。
じゃあちょっと第3回目の横浜中華街の歴史ということで、
台湾有事の際は横浜中華街でどうなるの?ってところから始めておりますけれども、
戦後の辺りくらいまで話して、
戦後から徐々に激しくなっていく横浜中華街の中国派と台湾派の対立に今回スポットを当てていこうかなと思います。
50年代の横浜、1950年代、横浜は戦後で多くのエリアが接収されてて、
占領軍のテントとかがたくさん焼け野原になった横浜にたくさんあったりとかして、
野毛とかもさ、闇市とかめっちゃ盛り上がってた頃って感じですかね。
で、学校事件っていう。
学校事件。
1952年に南京町、横浜中華街で起こった事件について話そうと思いますと。
戦後から、もう7年とかそのくらいの時期だ。
そうだね、うん。
場所は、今の横浜中華学院って、官邸廟通りって、
一番メインの横浜中華街の通りの一本横、
2番メインでかい通りみたいな。
にある館を祀った神社みたいなとこと、
その横に中華学院って結構でかい学校があるんですけど、
場所はそうわかります?
場所を今、ちょっと手元でね、見てるけれども。
03:00
イメージ図を出して、これ見たことあるか。
ある?官邸廟通りって言った?
そう。館を祀ってる。
で、学校はね、この学校の校舎があって、
これの横はね、何度も歩いてる。
だから、なんか場所のイメージは?
この辺で起きた事件だなっていうのをイメージしながら聞いてもらえればと思いますけど、
そもそも横浜中華街に中華系の学校って、
できたのは結構昔で、
1800年代の末、1898年に初めに横浜中華系学校ができましたと。
そこからしばらく大きく3つぐらいの中華系学校があって、
名前は覚えなくてもいいんだけど、
大道学校、科教学校、中華学校っていった学校があったんだけど、
震災で全部なくなっちゃったりとか、
空襲があったりとか、
で、最終的に一つになりますと。
1947年に横浜中学学院っていう、一つにまとまります。
で、その時は幼稚園と小中が一緒で、
生徒600人ぐらい。
教員が20名、職員7名っていう規模の学校になってました。
横浜中学院。
で、前回も台湾と中国の歴史をさらっと言ったんですけど、
1949年に中華人民共和国が設立します。
負けた中華民国国民党政府は台湾に移動して、
中国大陸側は台湾解放つって、
台湾派は大陸反抗つって訴えて、
めちゃくちゃバシバシ対立が深まってました。
中国は台湾を解放して、中華人民共和国に戻そうみたいな。
だし、台湾側は大陸に反抗って、反対の派に攻めるで、
もう一回攻めろみたいな。
バチバチやってました。
この頃の横浜中学院の教員の多くは、
どちらかというと共産党大陸化を支持していたと言われています。
結構文献とか記事によって、
変わる。
変わるんだよね。
もちろん政治とかには関係なく、
勉強を教えてるんだっていうような姿勢ももちろんあるし、
この辺はちょっといろいろ聞いて判断していただければと思うんですけど、
1951年にまだ日本に占領軍として、
軍がいくつかいたんだけど、
中華民国、台湾軍の中日代表の人が、
横浜中華学校視察に行ってました。
その時に生徒の女の子の作文に、
解放みたいな漢字とか書いてあったりして、
共産党的な教育をしてるんじゃないかと。
あーなるほどね。
危機感覚えるよね。台湾側の代表の人が。
それで代表の人は、
06:01
元国民党が台湾側と言われてる、
王啓仁という人を校長にして、
新しい新任教員を配置することにしました。
そして学校事件の1952年ですね。
8月1日、夏休みの初日で、
当時学校は当直の教員と遊んでる学生が何人かいたぐらいだったんだけど、
そこに急に新校長の王啓仁さんと新任教師たちがやってきて、
当時学校側にいた人の主張としては、
急に校長室と教員室を占拠したと。
今日から私がこの学校の校長ですみたいな。
なんかそんなことあったかおかしないけど。
台湾サイドの校長に。
用意したと言われるね。
あーなるほどね。
王さんに急に帰ります。
今までいた職員の人たちはめちゃくちゃ焦って、
中華街を大声で知らせてもらって、乗っ取られたって言って。
みんやを無視して勝手に決めたと。
勤めてた教員とか生徒とか父母とか、
2,300人ぐらいが集まって、
学校の前に出てきたやけんって大コールして、
椅子とかガラス割ったり、ナイフ持って襲ったりとか。
もうちょっと乱闘詐欺になるね。
うわー。
その日は最終的に神奈川県警の機動隊がやってきて、
全員退去させて、
学校そのまま閉鎖します。
いやー。
夏休み。
何やってん。
同じ年の9月1日、夏休みが明けた学校初日。
その修行式に父母とか父兄の皆さんとか、
元いた教員たちが押しかけてきて、
わちゃわちゃ乱闘詐欺になって。
そしたら台湾の軍隊50名ぐらいがバーってやってきて。
どこにいた?
まだ占領軍の人だった。
あー、なるほどね。
日本にいたから。
やってきて、威嚇するような感じで学校を見張ったりとか。
その後に警官隊が200人ぐらいやってきて、
学校を包囲して乱入してきた父兄とかに、
不法侵入やめて出ていくように言うんだけど、
結局応じず武力行使でまたガラス割って乱闘詐欺になって。
結果的に教員とか生徒を合わせて19名が逮捕されますと。
釈放されて今までいた人たち、教員側は、
新校長を退任求めて裁判とか脅すんだけど、
結果的に全部請求を却下されちゃって、
結果的にどうなったかと。
当時860人の生徒がいたんだけど、
110人はそういう政治的な動争を嫌って、
日本とかインターナショナルスクールとかの学校に転校します。
80人はその中学校に残ります。
80人。
残りの660、670人ぐらいはどうなったかと。
近所の家20軒ぐらいを使って、
寺子屋みたいな感じで授業を始める。
09:04
だからその追い出された側、660、670人ぐらいは。
最終的に寺子屋から、
横浜大和中華学校というのを作る。
横浜大和中華学校。
横浜大和中華学校を設立します。
残った方の横浜中華学校は、
横浜中華学院というふうに改名して、
今に至っています。
今ももちろんある。
当時でいくと800のキャパがあったのに、
80人しか残らなかったってことだよね。
だいぶ持て余したね、校舎ね。
追い出し分裂直後は相当広かった。
前回からのおさらいも含めな気もするんだけど、
横浜中華街エリアって、
当時ってどっちサイドの人が多かったの?
出身地で単純にどっちサイドというのは難しいけど、
台湾は10%ぐらい。
50%は関東省。
台湾出身だからといって、
台湾というわけではないけど、
多分、中華人民共和国の方が多かったし、
出てった側の生徒の割合を見ると、
大陸派の方が多かったんじゃないかなと読み取れる。
その勢力図の中で、
要を強行したような感じがあるよね。
解放っていうキーワードで、
機関を覚え、突撃っていうけど、
そもそも比率的に、
中華人民共和国側の人が多かったとしたら、
そりゃそうだってなる気もするし、
あとちょっと追いつけてないかもだけど、
さっき、
占領軍として台湾軍がいたって話があったじゃん。
中華民国の軍隊がいたり。
あれ?それは、
中華民国の軍隊がいたのか?
中華人民共和国側の人たちは、
いないのか?
いたかどうかはちょっとわからないんだけど、
とりあえず、
事件を起こすきっかけのような協働をしたのは、
中華民国軍の協働の必殺のきっかけ。
日本全体にいたと、
確か5割くらい当時、
台湾系の出身だったから、
その直前まで台湾、日本だったから、
そっちの方が多かったかもしれないね。
日本においては。
という感じですね。
中華学校は横浜中華学院になるし、
追い出された横浜大和中華学校は、
最終的に2010年に移転して、
今は石川町駅のすぐ横にあります。
石川町の中華街出口側の、
駅出たところにすぐ、
餃子の王将の向かいぐらいに、
そこに今あります。
駅地下だね。
だからまあ、
もちろん単純に考えちゃいけないけど、
台湾派が横浜中華学院だし、
大陸派が横浜大和中華学校、
みたいな感じです。
ちなみに、
どちらの学校のホームページで、
学校の追い立ちみたいなセクションが、
12:00
そこを見てみると、
なんて書いてあるかというと、
横浜大和中華学校のホームページは、
1952年に、
人災により、
学校は分裂に追い込まれ、
多数の家康の人たちの家に分散して、
授業を行うという歴史が書いてある。
横浜中華学院のホームページの方には、
特に何も書いてない。
52年の話。
フレーズ?
そう。
中学院の方は、
台湾を推しというか、
台湾の国公私立大学の進学の補助を行っている。
だったりするから、
色合いというか、
読書としては、
そういうのが強いのかなと。
なるほどね。
というようなホームページがあったりして、
まとめると、
追い出す側の台湾と、
追い出された側の大陸、
みたいな感じの形になりました。
結果、
中華街内の大陸と台湾派の対立も、
どんどん深まって、
昔からあった、
下境人同士の組合。
横浜下境総会という、
みんなで、
外国に住む中国人同士と付き合おうみたいなね。
その組合も分裂する。
2つの横浜下境総会というのができる。
それぞれ別で?
最終的に同じ名前なんだけどね。
漢字だけはちょっと違うっていう。
これややこしいけど。
大陸か台湾派の横浜中華境総会ができる。
それぞれできてるんだ。
今もあります。
ちなみに補足で、
小学校時代に、
東京の台湾系中華学校と、
横浜山手中華学校の両方に通ったことがある人の、
体験談があったんで、
在日下境のナショナリズムに関する考察という、
論文からの引用なんですけど、
どんな学校を寄せたかっていうのを紹介すると、
小学1年から小学5年まで学んだ、
台湾系の東京中華学校では、
校舎に掲げられた英雄の肖像画は、
尊文と紹介石であった。
国語の教科書には、
共産脅迫、共産主義を歌うゲリラみたいなのがあったんだけど、
共産ゲリラに殺されている農民の体から血が流れている絵がありました。
ところが、小学6年生で横浜山手中華学校に転校すると、
時代はまるで逆転した。
校舎に掲げられた大きな肖像画は、
毛沢東と劉少奇。
劉少奇も政治家で、毛沢東のナンバー2と言われていた人だった。
国語の教科書には、農民を視察している国民党の絵があった。
というくらい、全然違う体験談があります。
そのくらい変わってくるか、そりゃそうよね。
そうだね。
という感じで、1950年代、60年代、対立がどんどんバチバチに深まっていって、
中華街のメインストリート、横浜中華大通りとかだと、
15:00
台湾解放って、他の者たちが毛沢東語録とか旗持って、
デモとかしてて、
台湾支持者側も、大陸反抗って、
デモに戦ったりして、
住んでる親たちは、今日はデモだから、子供たち早く帰りなさい、みたいな。
なるほどね。
やったりとか、普段友達庶家なんだけど、
外で会ったら知らんぷりしなきゃいけない、みたいな。
そうなの?
そう。塾とかだと一緒に遊ぶんだけど、
外だと誰見てるか分かんないから。
同じスミングスクール通ってるみたいな。
そうそう。水泳中は別に一緒に話すけど、
外出たときは、知らない人のふりみたいな。
しないと、行けなかったりとか。
特に1966年頃の中華人民共和国のほうで、
文化大革命って結構また歴史的なイベントなんだけど、
そういうのがあったときに、中華街でも学生運動がめちゃくちゃ盛んになって、
店のガラス割ったり、シャッターの鍵穴に接着剤流し込んだり、
落書きシューとかスプレーとかめちゃくちゃ大荒れします。
大陸派の人たちが中華学校の生徒たちに攻撃とかしたりして、
自分の身を守るために、松林寺の空手道場を習ったりとか。
ここで松林寺とか出んないと。
これ繋がってくんの?そこ。
そう、みたいな。
うん。
深夜とか連日のように暴力事件が起きたんですよ。
この南京町、中華街。
同じ大陸支持者側でもちょっと反感かったりすると、
あいつは反革命分社と。
ピーラーとか撒けちゃいとかして、
お店のガラス割らせたりとか、相当殺伐してました。
ちなみにこの頃の南京町、
近くにまだ多数のアメリカ兵が駐屯してたり、
50年代の頭の頃。
あと、船舶の外国人繊維がたくさん来てたから、
中華料理屋っていうよりかは、
外国人相手のバーとかキャンバレーとか、
侵略があったんですよ。
今でいう中華街のエリアがっていう。
そう、今の中華街って。
中華の店よりもバーとか全然多かった。
そうか、それがアメリカ軍兵士とか、
船舶の船乗りさん。
外国人船乗りさんたちが。
だから、デモとかやってるけど、
一方では酔っ払った外人とかが、
裏通りで喧嘩しちゃった。
かわすすぎ。
密友とか、売春、障害事件、殺人とか、
そんな舞台になってる。
当時のこの辺の中華街の時は、
ブラッドタウンズって呼ばれました。
デモもあります。
デモでもバチャバチャです。
そのバーとかで裏で喧嘩してます。
裏通りはバーでも大喧嘩。
闇市的なのも継続してる?このタイミング。
闇市はだいたい50年代の頭ぐらいかな。
あれは結構手出しで落ち着いてるのか。
18:00
うん。60年代とか50年代後半とか。
ブラッドタウンズね。
ブラッドタウンズって何?
毎日毎日戦いが。
ちなみに村田くんがバーを好きですから。
バー大好きだね。
バーにスポットはち高いもん。
おまけであとやろうかと思ってる。
ああ、それも。
お楽しみ。
欲しい。
していただければと思いますけど。
学校事件とか台湾大陸の分裂とかで
カオスな状態の南京町なんですけど。
ブラッドタウン。
ちょっと南京町の発展で進んだこともあったりします。
横浜中華街大通りの入り口にあるさ、
でかいパイローって呼ばれるでかい門あるよね。
中華街って書かれたさ。
中華街って書かれてるやつって
赤いもん。
スキアの隣?
門今10個ぐらいめっちゃあるんだけど。
まあいろいろなとこあるから。
いわゆるメインストリートの入り口にある一番でかい門。
ああ、じゃあスキアから入って
さらに行って
香川町警察の斜めのあそこのところか。
そうそうそう。一番目立つところ。
はいはいはいはい。
あれができたりします。
ああ。
あれね、前林門って言うんだけど。
良い隣の門。
良い隣の門。
前林門って言うんだけど。
当時ね、これ1955年ぐらいに横浜市長が戦後の復興でね、
やっぱ中国は良い観光地になるんじゃないかと。
今後の可能性、目をつけて
ブラッドタウンだよ、でも当時。
ブラッドタウンだけど。
ブラッドタウンだけど。
目つけたの?
ここが盛り上がるんじゃないかと。
ああ。
活気ある。
どの活気?って感じだけど。
そう。
で、最初の門を建てるの。
ああ。
それまでなかったの。
今はもうたくさんあるけど。
そうね。あ、そうか。
当時は初っ端の門だったんだ、あれが。
あれあるとめっちゃさ、中華街っぽいじゃん。
ぽい。
僕らから感じすると。
うん。
当時なくて、そういうの。
なかったんだ。
そう。
で、初めての道が、パイローって言うんだけど。
うん。
まあ、立ちますと。
うん。
で、まあ、門には中華街っていう文字と。
うん。
今お持ちあるけど、その裏には
新人前鱗っていう文字が書いてある。
まあ、中国の昔の言葉で、
思いやりを持って隣の家とか、隣の国と仲良くしましょうという。
ほう。
あなたの親愛なる鱗犬みたいな。
スパイダマン的な。
スパイダマン的な。
スパイダーマンを意識したの、当時。
いやいや、スパイダーマンの後で生まれて。
当時あったよね、当時あったよね。
中国の古語ですから。
うん。
新人前鱗という文字が、今ももちろん書いてあります。
うん。そうなんだ。
うん。中華街の門の裏見ると。
へー、見に行こうかな。
で、旅行も中華街、大陸、台湾派の、
家境同士バチバチやってますけど、
強調していきましょうじゃないかと。
うん。
ということで、新人前鱗っていうのは、中華街の合言葉になっていくんだよね。
へー。
で、それから親しみを込めて、前鱗門っていう風に。
前鱗門。
呼ばれていくようになって。
で、この頃から南京町じゃなくて、名前が横浜中華街、中華街って呼ばれるようになっています。
21:06
おー、そっから呼ばれ始めてるの?
1955年ぐらいからですかね。門に中華街って。
書かれたから。
書かれて。
なっていくと。
まあ、というような動きがあるんですけど、
うん。
この次の大きなイベントとしては、1950、60が終わって、70年代。
70年代。
70年にあった出来事といえば、日中国交正常化。
はー、そうか、その時期。
そう、日本と中華人民共和国が国交を結ぶことになって、
つまり、台湾との国交をやめるということを意味するイベントが1972年。
そうか、そんな意味だったっけ、当時のそれ。
起きます。
というような状況で、1970年代になって、中華街はどうなっていくか。
うん。
まあ、次の回に。
聞けないんかい、今回。
聞けないんかい。
バチバチのブラッタンはどう変わっていくか、楽しみに。
そうだね、門もできてね。
そうですね。
はい、じゃあちょっと次回気になりますというところで。
はい。
そろそろ満開ですかね。
満開ですもんね。
はい、じゃあ今日おしまいにしますか。
はい。
港町レイドでは皆様からのお便りを募集しています。
アイランの方もしくは、Xで、ハッシュタグ、港町レイドをつけて投稿をお願いします。
一応なんかさ、Xって言うときさ、みんな必ずツイッターかっこXみたいな感じでさ、各所でもさ、なかなかXだけでこう堂々とこう、これが旧ツイッターだけどみたいな感じで発言してる人あんまりいないよね。
うん。
ちょっと浸透はまだ先だね。
まだね。
うん、しばらくかかりそうだけど。
はい。
はい、ではまた次の港町レイドでお会いしましょう。
さよなら。
22:44

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