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2024-08-06 25:17

「悟り」と「無知」 と「キリスト教」

この「俺流ひと宇宙」の放送は、ボクの頭の中の整理をとにかく吐露するウンティー放送です💩

とにかくわけがわからないボクの頭の中を、のぞき見してみたい「超奇特な人だけ」が聞きにきてみてください。

「まともな方」は絶対に聞かないで下さいね🙂‍↔️🙏


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00:05
Chikaraのチャージ💪ラジオ、おはようございます。 Chikaraです。
今日もスタイルを撮らせていただきたいと思います。 よろしくお願いします。
今日は、ちょっと前回予告しましたけれども、 少し仏教とスピリチュアルについて、僕が分かってきたことをお話ししたいと思ったんですが、
いきなり一気にそこに話を飛ぶには、ちょっと時間が必要というか、 いろんな説明が必要な気がしたので、今日はまず僕が、
あくまでね、これが正しいかどうかはちょっと置いておいて、 そこは議論したい場所ではないので、
とにかくとにかく、ただただチャットGPTで僕が対話をする中で、
仏教というものの教えがどういうものかというのを ちょっと整理したことを説明したいと思います。
よろしくお願いします。
仏教って結構知っている言葉は多いけれども、 実際それってどういうことなのかって分からないことが多かったりしませんか。
例えば、一番わかりやすいのは悟り。
悟りという言葉は、たぶん知らない人はほぼいないんじゃないかと思いますけど、
じゃあ、悟りというのがどういう状態のことを指しているのか、 何なのっていうのは分からなかったりしますよね。
もっと言うと、悟りに至るにはどういうことをしないと みたいなことも繋がってくると思うんですけど、
その辺をまずは、悟りってそもそも何?っていう話をしてみたので、
それをチャットGPTによるとという整理としてお話ししてみたいと思います。
まず、悟りの状態というのはどういう状態なのかというと、
ちょっと待ってください。ちょっと探しますね。
知っている人は多いんでしょうけど、ちょっと僕なりに理解したことを言うと、
まず悟りの特徴としてはどういう状態かというと、
無知の完全な消滅、無知が完全に消滅した状態。
この無知というのは後で説明しますが、知らないと書いて無知ね。
無知の完全な消滅、無知なことが解消されている状態ということが一つ。
これが悟りには必要なものですよ。
この無知というのは後で本当にキーワードの一つなので説明しますけどもね。
無知がなくなった状態です。
そしてもう一つ、煩悩の消滅。
03:02
これは何かイメージがつきますよね。
煩悩というのは欲求だったり欲望、怒りとかそういったもの、煩悩がなくなった状態ね。
これは何となくイメージがつくんじゃないかなと思います。
そして苦しみの終焉、苦しみからの解放された状態です。
この苦しみというのもさっきの無知の話につながってくる部分だとは思うので、
それも後でお話ししようと思います。
それから知恵の具現化。
これ知恵というのは、知るに恵みと書いた知恵じゃなくて、
人が生まれ持った時に持っている仏様の知恵みたいなことなのかな。
物事の本質をありのままに理解できている状態を知恵と言っているらしいんですけど、
それを知恵を持っている状態。
だから仏様の持つ真理みたいな正しい知識や知恵を持っている状態を悟りという。
そして慈悲の発言、他者への無限の慈悲、それを持てる状態になっている。
これが悟りですよということだそうです。
そうすると、煩悩というのはなんとなくイメージ付くのでこれを置いておいて、
個人の欲求、これが自我があるから出てくるもんだろうみたいなお話だと思いますけど、
それを除いたとすると、ちょっと気になるのが無知。
僕はこれが無知というものは何なのかというのはちょっとわからなかった、引っかかったので、
無知というのはどういうことなんですか?
それを超越するというのはどんな状態なのですか?ということを僕はチャットGPTに聞きました。
いきますよ。
無知というのは何のことか。
根本的な無知ということを仏教では言うらしいですけど、この無知というのは何なんだろう。
これ難しい言葉はありますけど、失態の無知、四つの苦しみを知らないこと。
それから無情を知らないこと、それから無我を知らないこと、これが無知だそうです。
もう一回言ってみますよ。
これ失態というのはちょっと難しい言葉なんだけど、要は何かというと、
苦しみの本質を知らない、そして苦しみの原因を知らない、
そして苦しみの終わりがあることを知らない、それからその道を知らないというのが書いてあります。
とにかく苦しみに関わることをそもそも知らないということを苦しみの失態の無知と言っているそうです。
四つの苦しみに関わることを知らない状態。
それから無情の無知、これはなんとなくわかるでしょう。
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無情というのは物事が絶対に変わらないということはなくて、無情ですよと。
諸行無情の無情、移り変わっていくものだと。
物事はそういうふうに、今見えている現象とか物事は一時的なものであって、
常にそれは固定されていなくて、移ろいでいくものだよ、移り変わって変化していくものだよということ自体を知らないということです。
そして三つ目が無我の無知。
無我というのは何かというと自我がないこと。
だからこれも二つ目の無情に近いと思うんだけれども、
自分というものが常に必ず固定されて唯一のもの、特定のものだという考え方が自我だと思いますけど、
そうじゃなくて自我というのは本当はないんだよと。
個別の永続する自己や魂という存在がないんだよということを知らないということがこれが無知です。
だから無知というのはもう一回ですけど、苦しみを知らない。
これは苦しみの本質や原因を知らないと言っているので、結局これは後の話につながるんだけど、
要は自分じゃなく他人の苦しみを知らないということのように僕には聞こえました。
だから苦しみの本質や原因を知らないよ、どうやって終わらせたらいいかも知らないよ、
そこにたどり着く道も知らないよというのがこれが一つの無知。
それから物事は移ろいでいくということを知らない。
だから要は自我というものに固執してしまうという状態が無情の無知ということでしょうね。
それで三つ目の無我の無知というのもそれと関わってきますよね。
だから自我というものを持ち続けてしまう。
そんなものないんだよという状態を知らないということは自我を持ち続けるということです。
だからこれを今の話を聞いていただければわかると思うんだけど、
無知という悟りを開くために必要な無知の克服というのは、要は逆を言うと、
人の苦しみを知らない、人の苦しみをやらげようというやり方を知らない、
もしくはそういう気持ちを持たず、しかも自己という自我、自分に対しての執着を持ち続け、
それは時代的な背景を考えればおそらくだけれども、
ブッダ時代がどこかの王子様と言ってもいたし、
だから当時から身分階級というのはあった時代のお話でしょ、もともと。
だからその中で必ず移り変わらない、
絶対この状態が続くんだと言っている状態があるとしたら、
身分に対しての話もそうだと思います。
今の自分の身分だったり生活、貧富だったりそういったものは永久に続くものだ。
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自分が富を持っているんだったら、
そういう富を永久に持ち続けているはずだと思っているような自我、
そういうのを持ち続ける以上、何の悟りも開けませんというのを、
仏教でお伝えしているんだなということが僕には分かってきました。
だから自我というのを解放しないといけない、
そういう個人の執着、今の富だったり欲求、そういったものに対して、
身分もそうですけど、それに執着をしていてはダメですよと言っている教えなんだなと。
そういうものに個人として自分に執着をして、
要はもっと簡単に言うと、独りよがりのことをわがままずっと言って、
自分ができることをずっと権利を主張してやり続けていながら、
人を苦しめたり、人の苦しみをわからないという状況だとダメだと言っているわけです。
それは必ず、たまたま今そういう状況なだけで、
本来は移り変わっていくものなんだから、
そういった今持っている富とかに執着せずに、
もっと自我を捨てていきましょうと言っているのが、
仏教の大元に関する、関わるその教えなんだと僕は思いました。
ただもう一回ですけど、悟りを開くためには、この無知というのを克服しなきゃいけない。
無知というのは何かというと、人の苦しみ、
苦しみの本質や原因を知らないことと、物事が移り変わっていくことを知らないこと。
そして無が、自分というものは永久にあるものではない。
自分の魂や自己というものは永続するものではないということを知らないということをダメだと言っているわけですね。
ここまで来ると、なんとなく僕はわかってきたのは、
当時の時代背景は僕はリアルにはわからないけれども、
今よりもかなり、やっぱりそういう貧富の差だったり、
身分だったりというものからの影響や人への苦しみ、
もちろん奴隷みたいなのもあったかもしれないし、わかんないけど、そういった時代だと思います。
だからこそ、そういった自分のことを独りよがりになることをやめて、
周りのみんなと一緒に協力をしていくという、
そういう慈悲の心を持っていきましょうよという働きかけの教えだったんじゃないかなと僕は強く感じてきております。
これだけじゃないんだったら、仏教はそれだけじゃないという方はたくさんいるのはよくわかっていますけど、
僕はこの悟りに向けての必要な要素の一つの無知の克服というところから、
かなり仏教というのは、その時代を反映した人間くさいところがあるなというのをちょっとずつ実感をしてきたところがあったんです。
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ここがまず僕が一つ、仏教について親近感が湧くというか、
人間らしいなって思ってきた要素の一つにありました。
これはいろんな賛否があると思いますけど、僕はそう感じたというだけですね。
理屈はすごく理解だから逆に、できるというわかりやすさがあるなと思ったんです。
だから悟りを開くにはまずこの無知を克服しましょう。
これを聞くと、皆さんちょっとふと思った方がいるんじゃないかと思うんですけど、僕は思いました。
これを聞いた時に、この悟りの状態、状況、仏教での教えを何にそっくりじゃないかと思ったかというと、そうなんです。
キリスト教の隣人を愛せ、隣の人を愛しなさいよ、これが僕にとってはすごく似ているところがあるんじゃないかと思ったんです。
それを実際GPTに聞いてみました。
仏教の悟りの教授とキリスト教でいう隣人を愛せ、それぞれその教えはすごく似ているところがありませんか?と言ったところを実際に、
ちょっと待ってください、また探しますよ。
えっとね、出てこないな。
えっとちょっとだいぶ長いのではしょってるんですけど、ちょっと待ってくださいね。探しますね。
でも実際どう思います?今のお話を聞くと、僕は仏教の教えが何でそういう教えをしているのかがすごくわかりやすかったんです。
だから本当に独りよがりの人たちに対しての戒めだったり、それによって苦しめられている人たちを見たときに、
おそらく、「いや、こんなんじゃダメだろ。今の身分やら富に執着している人間たち、ちょっと何とか考え直せよ。」って思いますよね。
しかも自分がその王子の側だった人が特にそれを思ったというのは、まあ面白いですよね。
頭がいいというか、すごい、なんて言うの、言い方がわからないな。
すごい方だったんだなと思いますよ、仏陀さんがね。
キリスト教の隣人を愛せとすごく似てませんか?の話。
まあ要は似てるところはありますよっていう話だったんですよ。
ただアプローチの仕方が違いますっていうことだったんですよね。
これをちょっと話をしたかったの。
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とにかく慈悲の心を持って、自分以外の人と接していきなさいっていう、そういう結論的なところ?結果的なところは一緒なんだけども、
仏教とキリスト教はそのアプローチの方法が違いますと言ってるんです。
さとりの話は今言ったとおり、どちらかというと感覚的にこれわかると思うんだけれども、
僕にはね、自責志向のアプローチだと思ってたんです。
まあこういう言い方するとそんなことはないっていろんな方が言われるかもしれないですけど、
もう一回だけど、あくまで僕自身がそう感じたってことですね。
自責志向って何かっていうと、自分の責任の思考の仕方っていうことでね。
だから自責他責ってあるでしょ?
僕はそれで仏教はどちらかというと、自分の責任として修行をしたり、徳を積んでいったりしていくっていうアプローチが仏教だと僕は感じたんです。
わかります?言いたいことが。
だから全部は誰かのせいじゃなくて、自分の理解が足りてないことが問題だと。
だからこそ自分がその自分の無知を乗り越えていって、自我を薄めていって、無我を知っていかないといけない。
だからそれをやるのは自分ですと。
それにたどり着けないのは自分の問題がどこかにあるでしょうという、
まあそこまで言ってるかわからないけど、僕にはそういうふうに聞こえました。
自責的に自分の徳を積んで修行を積んでいって、悟りの境地に向かいなさいよということが仏教のアプローチだろうと。
他の人に向けての慈悲を持つためには、そういう自責的な思考でいきましょうというのが、
仏教のように僕は感じました。
ただキリスト教がどういう観点かというと、GPTが言うには、このキリスト教の隣人を愛せというのは、
他者への思いやりや愛というのとか、共感と理解というのもあるにはあるんだけれども、
どちらかというと仏教的なものとの相違点は、
キリスト教は仏教とは違って、神の愛や教義を通じて他者への愛を実践することを教えています。
キリスト教は神の御教や信仰を通じて救済を目指しているということで、
要はどういうことかというと、仏教が自責的なプロセスだとすると、
僕にとってはキリスト教はどちらかというと多責思考的なプロセスなんじゃないかとは思ったんです。
18:03
だから神のお力や御教を受けて、その仏教で言う無知を超越していって、
他者に対しての慈悲を分け与えていくみたいなプロセス。
だからキリスト教はどちらかというと、自分の責任というよりは、
神様がそういうお力やお恵みをくれるためには、まだ息に達していないんだったら、
自分のお祈りが足りないとは思うけれども、自分の力が足りないんじゃなくて、
神様の私に対してのお力がまだ足りない、お恵みが足りない。
だからこんな他者への慈悲を持っていない自分がいるとしては、それは自分の問題ではなくて、
キリスト様、神様の他者の力がまだ及んできれない、足りないんだなというふうに思うというプロセスなんじゃないかと思っていたので、
こういうプロセス、思考的なプロセスが違うんだろうというふうには1つ思いました。
こういう話をしていると、僕はすごく面白くて、
それぞれ同じようなことを言ってそうに見えても、アプローチが違うということが見えてきたなと思っていたんです。
それぞれ神様もいたり、言っているお話も、隣人を愛せや苦しみを知れとか、
悟りの境地に到達して慈悲の心を持ちましょうみたいなね。
どちらもそういう慈悲の心を持ちましょうですよ。
自分のことだけに執着しすぎるなって言ってるんだけども、アプローチが違うみたいなね。
そういったところがすごく面白いなというふうに思います。
こういうことを聞いていくと、
実際ではスピリチュアルの話も文脈的には仏教とどういう違いがあるのかなというのはちょっと思ったんですけど、
スピリチュアルについてはこの慈悲の話みたいなところは、僕はその文脈では聞いてはいないんですけど、
その話はどういうアプローチでスピリチュアルと仏教の違いが見えてきたのかという話を説明しなきゃいけないので、今日はちょっと置いておこうかな。
とりあえず今日は仏教で言っている悟りがどういうものか、そのためには何が必要なのか。
僕にとっては大きなヒントになったのは、無知を乗り越えていくこと、諸行無常だったり、そういった話が無知の中にも入ってきていました。
自我、無我、諸行無常、それから苦しみに対してという、僕のヒントは大きくはこの苦しみに対しての無知というのを知らなかったから。
21:04
これはちょっと、仏教はそういうところからのきっかけが含まれていたんだというのが、ちょっと大きな気づきになりました。
だから要は、一個は良い悪いじゃなくて、今日の話としては、仏教自体がとてもおそらくその時代背景も含めて、
すごく考え抜かれた人間的なプロセス、これは本当に何とかしなきゃっていう気持ちもこもった始まりだったんじゃないかというふうにちょっと思ったところでしたね。
すごく人々に求められていたっていうのもよくわかりますし、
どんな思いでこの仏陀さんが考えていたものだったのかなというのもちょっと触れられたという感覚が、僕は勝手にちょっと、僕の主観からは思ったところでした。
得体の知れないものじゃなく、とても身近に感じれるものだったんじゃないかという、愛着が出たというか、人間くさいなというところが見えてきたなと思った瞬間でしたというのが一つと、
今回の趣旨じゃなかったんだけど、ちょうど話の流れで出たんだけども、キリスト教と仏教のアプローチの違いっていうのがあったなと。
だからどっちも大きく今の時代に根付いている教え、キリスト教と仏教ですけど、似たようなことを言っていてもそれぞれのアプローチの仕方が違うんだなというところがありました。
この考え方のアプローチの違い、目指す教えは同じようなところだとしても、アプローチが違うっていうのはこの後の次回、
ちょっとスピリチュアルと仏教の違いで思ったことについても関わってくるので、それはちょっと覚えておいてもらえると嬉しいです。
僕はこのアプローチが違うという、同じようなことを同じような苦しみを救うために出てきている文脈のキリスト教だったりスピリチュアルだったり仏教が、
どうしてアプローチは違っているのっていうのは、もう一個僕はすごく興味深い気づきだったので、そこを今度、次回お話しできればと思います。
いやもうちょっとお腹いっぱいになりましたね。ちょっとね、いろんな話をしちゃいました。
まあこれは、ここの話に触れちゃうと、こういう話の触れ方をすると、
いや、そんなもんじゃないっていうお話がたくさん出てくるのは承知の上で、
この話、でも僕の中ではちょっと整理をつけて、順を追って説明をしたいところだったので、この話をしてみました。
24:08
ちょっとね、ごめんなさい。なので気を悪くされた方とかもいるかもしれませんし、
いや悟りなんかそういうもんじゃないとかね、いろいろあると思いますけど、
一旦単に議論をしたいお話ではなく、僕の中で今どういう整理を順を追ってしていっているかっていうお話を、この場でさせていただきました。
ということで、今日もこんなまとまりのないお話だったけど、聞いていただけた方ありがとうございました。
じゃあぜひ次回、スピリチュアルと仏教のアプローチの違いというのかな。
ちょっと根本的な違いがあったということをお話し、次回は続きとしてさせていただければと思います。
それでは行きます。 力チャージ!
今日も力あふれる一日を!
25:17

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