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夕焼けひとりきり、始まりました。
昭和、二桁生まれのパスタに、ミッキーロンリーがご案内します。
昭和レトロ。今は懐かしい思い出。
明日の心配もせず駆け抜けた昭和の時代。
優しい昭和の情景。心のままにお話しできればと思います。
どうぞお付き合いください。
今日は、昭和レトロのお話。
テーマは、忘却のフェスとも言われる。
横井庄一さん。
皆様は、覚えている人もいるでしょうか。
我が国は、太平洋戦争で敗戦国となり、
そんな終戦、昭和20年8月15日、終戦の日。
その時期を、その戦争を、まだ続いているとして、
太平洋のぐわむとうで、そのまま兵士として生き続けていた。
横井庄一さん。
そんな尊敬すべき方のお話を、今日は考えてみます。
私ミキが、エピソードを交えてお話します。
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聞いてください。
横井庄一さん。
名古屋出身の元兵士です。
私たちは、今、令和の時代、昭和、平成、列島、
そして、リスナーの皆さんは、どんな、
横井庄一さん、記憶を重視の方がいることでしょう。
あの頃、昭和の時代、それは、当時、昭和47年。
1972年ですね。
その2月に帰国して、当時、ニュースでも取り上げられて、
戦争が終わったにもかかわらず、太平洋のぐわむとうで、
生活をたった一人になりながらも、
自ら、衣食住すべてを自分で作り、小動物を捕まえて、
そして、衣服も自分でお作りになられ、
そして、住まいもホラーで、そんな中で生きながられて、
戦争が終わり、28年経って、
遠目に発見されるまでの間、孤独との戦いを続けていた方です。
そして、前日の通り、1972年に帰国されました。
その当時、我が国、日本では、
以前の東京オリンピックがあり、1970年には大阪万博、
そんな日本で華やい成長を人々が実感して、
その居住を受けていた、その最中での帰国。
もちろん、現地で発見された時には、
そのような自前の衣服を身に着け、
また当初は、戦争が終わったとされた時にも、
まだそれは知らず、日本軍が助けに必ず来ると信じていて、
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その仲間が徐々に減っていき、
その自分の仲間の遺骨を抱いて帰国したという、
そんな状況に人々は加盟を受けました。
そして、帰国後には病院に入り、身体の健康度合いのチェック、
そして念願の名古屋市、その自宅に帰ってからも、
横井さんのフィーバーは続き、横井さん自身もとても
疲労困憊となった姿はとても印象的でした。
そして、私ミッキーも今でも覚えているのですけれども、
恥ずかしながら帰ってきましたという、その帰国後の第一声。
その時には何か自分自身もその時には分からなかった。
その気持ちというのが、今年を取った自分自身がその言葉を感じた時には思うことは、
あの当時自分が少年だった時にはとても足りていない自分が
横井さんに対するそのリスペクトと言いましょうか、
なんで恥ずかしながらなの。恥ずかしくないよ、そんな気持ちを恐れ多くも
今は感じることがあります。
そんな横井さん自身にそんな言葉を吐かしてしまうような、
その私たちが今平和な世の中を越えてその恐縮を感じているのも
その敗戦の歴史があって、もちろん様々な力を添えて
それによって今の私たちの平和があるということは
言葉ではとても足り得るものではないのですけれども、
そんな横井さんたちが当時はお国のためだと言って戦い続けていってくれた
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そんな気持ちに何か自分自身が申し訳なく恥ずかしくなるような
気持ちを持つのも複雑で自分自身がその思いを持つことで
報えるものではないと分かりつつ、
何か言葉になってそんな気持ちは少しは感じることが
まだ分かったつもりになってはいけないのでしょうけど
そんなことを思いました。
実は先日テレビで横井昭一さんの特集を見て
私は今日はテーマに取り上げています。
そして実は数年前に横井昭一さんの実家である
その当時は開催されていた横井昭一記念館に
私は放転したことがございました。
その時に奥様はまだご存命で三尾子様
その方から記念に横井さんが帰国を力を入れていた
陶芸の遺品を少々貴重なものでありますけれども
預かることができています。
私はそれを同じ部屋で見ながらも
何か横井昭一さんに対して特別な思いを持ちましたけれども
改めてテレビでの最後の言葉では
横井さんが何か一言言うことはありますか
お年を取られてから言うことは何でしょうと
尋ねられた時に
今日無事。そんな四文字で答えたそうです。
その無事であることがとても尊いなって気がしました。
考えたいと思います。
夕焼けひとっきりこれで終わります。
お付き合いしていただきありがとうございます。
次回の番組お楽しみに。