瓶牛乳の思い出
夕焼けひとりきり、始まりました。昭和。
二桁生まれのパーソナリティ。 ミッキーロンリーがご案内します。昭和レトロ。
今は懐かしい思い出。 明日の心配もせず駆け抜けた昭和の時代。
温かく優しい昭和の情景。 心を思うままにお話しできればと思っています。
どうぞお付き合いください。今日は 昭和レトロのお話。
テーマは、瓶牛乳。 そんな思い出を考えたいと思います。
昭和の世代の皆さん。 現代に生きるリスナーの皆さん。
おそらく 皆様にとっても
幼い頃から馴染みのものであったかもしれませんし、 心の中に
生き続けている思い出の一つかもしれません。
瓶のぬくもりのある形状。 そのイメージを
思い出してついつい。 今でも
時折見かけることがございます。 そして手にして飲むことも
ある人もいるかもしれませんね。 私ミッキーがエピソードを交えてお話ししたいと思います。
お付き合いください。 瓶牛乳。
その歴史は
100年級の 偉大なる歴史を紡いだ。
それはまさしく昭和レトロを主としたこの夕焼けひとりきりの番組の中でも時折 シーンとして
取り上げることがありますし、 馴染みの風景の中に
キラリと光るものかもしれません。 レスナーの皆様にとっても
おそらく学校給食、 そして
駅のホームや今でも 当時の公衆浴場も
去ることながら、現代のスーパーセントでも 配備されているところがございます。
その美味しい牛乳。 そしてその瓶のもの。
バリエーションもイチゴ牛乳であったりフルーツ牛乳。 そしておなじみのコーヒー牛乳。
思わず腰に手を当てて飲む姿。 すぐに連想してしまいますよね。
歴史を振り返りますと 瓶牛乳は今でも
残り続けてはいます。 ただ大手の
明治さんは1928年から
森永さんは1929年から。 そんなおなじみの瓶の形状が
思い出されます。 明治さんは角の瓶だったのが、私の思い出としては
ございます。 少し
さかのぼって私の少年時代の 光景を
思い浮かべてみましょう。 今ではないシーンが
あるかもしれませんけども。 昭和30年代40年代
牛乳の歴史と影響
それは瓦屋根の 牛乳販売店
瓦屋根に建てかけてある平屋の作りで その引き戸は大きく
すらなっていて 自転車がたくさん中に
入り下げてある。 そして
配達の日と まさに早朝
今でも新聞配達とともに 当時は牛乳配達というのも一般的で
多くの ご家庭が
宅配として届けられる人もいた。 私の
家では車庫の横に 黄色い木の箱で
名古屋牛乳 東海地区でおなじみの
会社だけれども 車地の幕
そして青いセロファンを巻かれて その木箱を蓋を開けると家に中に入れて
朝食ではその光景おなじみであって 日常の中に組み込まれている
そして 和食でも
パンでも ごっぷりと飲んで自分の体はまさに牛乳でも出来上がった
そんな 自由な役割を持っていた
牛乳販売店の中は大きな冷蔵庫 シルバーのもの
たくさんの牛乳瓶が入っていて そこから自転車で
多くの配達の方が前のカゴに入れて 当時は配ったのであろう
そして 学校生活では
朝食には当然のごとく 牛乳 時折フルーツ牛乳や
コーヒー牛乳が出たときは嬉しくて 給食当番の時からワクワク
食事をする時にはそのビニールを外して そして赤い紐をほどき蓋を取るのだけれども
爪で表面だけがベロってめくれて失敗したり また指を
力が入りすぎて牛乳の中に突っ込んでしまって飛び散ったり 最初はうまく牛乳の蓋を開けれない人も多かった
うすらとの記憶だけれども牛乳の蓋を集めていたような気がする 何か
大抵のコーセというマークだったろうか そのマークに針を刺して
開けるとうまくできるような自分のおまじないのような気がしてたのは気のせいだろうか そして
公衆浴場 今でもスーパー銭湯でも飲むことができる
銀牛乳 自販機には
お蓋を取るための針をついたプラスチックの輪っかの 扇抜きが配置されていて
便になったなそんなことを時折思うこともあった そして
駅の売店今では見かけることも少なくなった 牛乳瓶の歴史
振り返って 100年の歴史
10年で3分の1近くになった話でもあるようだけれど ただこの形状から牛乳をイメージするその記憶は延びされず
今でも紙パック 家の冷蔵庫では500ミリリットル1リットルの冷蔵庫が主となって
馴染んだけれども外で飲む まだ自分の記憶の中ではその日の形が
消えないで また消えることを
望みたくない自分もあって 心の中に大事にしたい思い出だ
皆さんは 時代の変遷とともに牛乳瓶の思い出にどんな記憶があることでしょ
夕焼け独りきり 今日はこのあたりでお話を終わりたいと思いますお付き合いしていただき
ありがとうございます次回の番組お楽しみに