表現への葛藤
みなさん、こんにちは。
さっき、「恋うろうぼえ」の歌までアップしました。
今感じていることを残しておこうと思って撮ります。
話します。
私も、なぜ急にこんな歌を歌って、
しかもそれをこのラジオで、FMで公開したりとか、
急に詩を作って朗読したりとか、
別のところ、ノートとかで物語を書いて、
しかも公開しているか、
もうなんでって感じなんですけど、
ちょっとリハビリみたいな感じもするなと思ってます。
リハビリ?リハビリかな?なんだろう?
違うな。リハビリっていうか、もっと違うな。
きっと本当はずっとやってきたかったし、
こういうことが結構私の喜びとしてあったような気がしています。
子供の頃とか。
自然の中の空を見たり、風の匂いに、揺れる草に、
すごく空想の種を見出して、
光る風の中にうっとりするような、
美しいベールのような柔らかさを感じて、
そういうのが本当はあるかもしれないとか、
あったらどうしようとか、そういうことを考えたり、
その感じた心の動き、感動を家に帰っては絵にして、
その時、自分の中で風のが来ているような物語の中に登場させたりとかして出して、
そういう感動を糧に、感動を循環させることが喜びだった気がして、
それはだんだんとなくなっていきます。
私のこれまでの人生の中では。
それがなぜだったかというと、
やっぱりだんだんと人の目ということを気にしすぎていったんだと思います。
割とそういう、どう見られているかとか、
はっきりと分からないんだけど、
気にしなきゃ、みたいな焦り感みたいなのが、
割と早くにあったのかなと、
まあでも一緒かな、変わらないかな、みんなと思ってて、
だんだんそのうちに、いつまでもこんなことをしているのって幼稚じゃないかなとか、
しかも出来上がって描くものとかっていうのが上手じゃない。
例えば絵にしても、もっと上手い子がいるし、
ポーズ質も一緒だし、パース狂っているしとか、
文章物語にしても、
なんかこう、その時は盛り上がって描くけど、
ちょっとしばらく経って読み返すと、
なんだこれはとか、描写がいまいちだとか、
なんか思ったりすけたような、書きぶりが鼻につくとか、
そうやって自分でどんどんジャッジしていく。
でもそのジャッジの中には、何が含まれていたかというと、
やっぱり他の人との比較だったりとか、
世にあふれている、広く流通している他の商品、
いわゆる作家さんとかのものと比べてみて、
全然ダメだっていう、その時点でジャッジして、
それぐらいの程度のものしか生み出せないという、
自分にも腹が立ち、みたいな感じで、
だんだんと、その程度のものしか生み出せない、
私は作っちゃいけないとか、書いちゃいけない、
表現するなんて笑われちゃうもってのほか、
みたいな感じで、やめていったようなところもあるなって思います。
他人との比較
でもそれって、やっぱりその道ってどこまで行っても競争でしかない、
って今朝思ったし、なんだろう、
もちろん今朝の配信の中でも言ってた通り、
昨日読んだ「まともが揺れる」という、
檜本正之さんの本とかを読んで、
そういう人らしく生きようと思ったら、
たまたま創作を表現するっていう人たちが出てきて、
でもそれがそれでいいじゃん、みたいな話もヒントにはなってるけど、
なんかもっと、もっと先、もっと前に、
私はこの扉をもう一回開こうってきっと思って、
それはすごい怖いし、恥ずかしいし、
本当にもう嫌だって思ったことでもあった気もするんですけど、
そもそも、人前で歌うのも、
本当に気心を知りたい人とのカラオケの中だったらいいなとか、
仕事上で行くカラオケだったらとりあえず、
当たり障りのない選曲リストみたいなのを作って、
やってみたいな、それでも上手く歌える、
上手く聞こえる歌っていうのを選んで歌うみたいなことをしてた私が、
本当このシンガーという歌う瞑想も、
最初はそんなに興味を持ってなかったっていうのもきっとそこにあって、
人の前でそんな歌にもなってない、ただの自分の声を響かせる、
しかもちょっと、もしかしたら自己投授をしたような格好で声を出す、
人の目にさらすなんていうのが、ちょっと考えただけでもありえない、
私にとってっていうふうに思ってたところもあったし、
それはひるがやってみると、
自分が良しと思った自分しか外に出したくないっていうところもあったんですね。
構成されたある種、程よく抑制の利いた自己批判の行き続いた、
自己検閲を通過した私像だったらいいけど、
そんなそのままの拙い私を人に見られるななんて、
恥ずかしんじゃうわ、ぐらいに思ってたことからすると、
そもそも私はこのやっぱり、
SINGAっていう歌う迷走も、
どこかで抵抗があったかもしれないところを、
でもこの参加するっていうところで、どこかでも超えるしかなくって、
実際は別にそんな大きな抵抗を示すことなく、
輪に加わって声を出してたんですけど、
でもそれは実はすごく私にとって多分大きいステップを、
ハードルを超えた瞬間だったかもしれないなと思っていて、
もう一個思ったのが、最初にラリットプール企業塾に、
1回目で参加する皆さん同士の自己紹介したんですね。
で、その中に結構私はアートが好きでとか音楽を好きでとか、
ナチュラルにそういっておっしゃる方がたくさんいるっていうことが、
私の中では結構衝撃的な部分があって、
で、なぜかというと、私はそれをなんか言えない、言わない、
結構禁忌、タブーぐらいにしてたところが多分あって、
再び表現する決意
それは何でかっていうと、さっきの話に戻るんです。
多分繋がるんですけど、そんな大したクオリティのものをもう生み出せない私が、
なんかアートが好きですとか歌が好きですとか音楽がとか、
とても言えないと。中高と私は水素学の部活に入ってすごく打ち込んで、
でもその時も生地最初にちょっと筋がいいねなんて言われたもんだから、
もうなんかそれが嬉しくて、その承認をすごく求めるようになって、
でも筋がいいねで喜んで、そこで進んでいこうっていうのはもう、
もうなんか競争の中でしかなかったんですよね、当時の私の感覚では。
じゃあなんか音楽の道に進もうかなとか、問題なのかなとか。
でもだんだんと楽しかったはずの楽器も苦しくなったりとか、
もちろんいつまでも筋がいいねのままで入れるわけもなく、
そうなるとイデンティティが揺らいでくる感じもしてすごく苦しくなったりとかして、
そういう愛憎をこもった、愛憎を入り混じったものだったんですね。
例えば音楽というものをとっても。
それは私の中での物語を書くことだったり、つまり創作をすること、何かを生み出すこと、表現することということ。
大体の全てが愛憎を入り混じる対象だったんだなと思うんです。
だからそうやってナチュラルにアートに好きで、興味があってとか、音楽が好きでって言ってくださる皆さんの姿に、
私は結構そこでも外れて何かブロック的なものが、
言っていいんだ、そりゃそうだよね、いいんだよね、よかったんだよねって。
で、何かそのうちに何だろう、そう何で物語を書き始めたかってちょっと細かくは今もちょっと思い出せないんですけど、
何かふとまんやさんのジャーナリングの中で、
昔書きかけて書きかけのまま止まってた物語っていうのが何個も多分あって、
その中でも多分印象深くて覚えてるモチーフ、テーマみたいなものが今でもあって、
その思い出せるものの中からちょっと書き出してみるってことをし始めて。
それをしかも途中で公開したんですね、ノートに。
それって本当にもう私の中では今までの人生でひっくり返るぐらい珍しいというか、なかったことで。
これまでもたまに書いてた物とかは本当に気心の知れた友達、
本当一人か二人ぐらいにしか見せたことないしなかったし、
それらも大体途中で忘れて止まっていったりとかするものばかりだったし。
でも何かこれ、この作業が、あえて作業と言うんですけど、
この創作をしたり表現したりそれを公開していくっていうことが、
私にとってどういうものであるかというと、
これが仕事をそのまま仕事になる、ならない、する、しないとかではないんですね、多分。
でも、
そうそうそうそう、
以前の配信の中でも生き様を込めるものだって思ったっていう風に言ってたのもあって、
もちろんそれはすごくそう思ってる、今でもそう思ってるし、
その気づいた時っていうのはすごく大きかったんですけど、
もう一個実感することを思い出したんですね、今日。
何かっていうと、
私数年前に当時働いてた仕事を休職した時があって、
その前後ぐらいかな、からコーチングを受けていたんです。
で、そのコーチングのコーチの方から、
多分あなたはすごく感覚優位だし、しかも体感覚も優位だし、
その時もしんどいしんどいと言っていて、
結構そのメンタルが体調にも出てたりとかしてる時期だったんですけど、
今振り返ると結構フォーカシング的な側面もあったんですけど、
前でそういう言葉を使うわけでもなく、
その感じる自分の中でのしんどさみたいなもの、
何色なの?みたいなことを聞かれて、
デコココで、なんかすごい濁った暗い緑で、
なんかヌラヌラ、ドブのそこの辺、そこの辺りみたいに光ってて、
ちょっと茶色で黒で、みたいなことを当時も言ってたら、
君はすごく感覚が優位なタイプで、
それが良く出ることもあれば、今みたいにしんどさに触れる時もあって、
でも通常そのしんどさっていうのを、
そんなこと細かに描写できることを感じ取れるってことは、
そういうのが得意なタイプもいれば、得意じゃない人もいる。
君は多分それ得意なタイプだから、絵に描いてはどうだというふうに言われて、
その場でも描いて、出せてる感じする、
表現できてる気持ち悪さみたいなのって言われた時に、
結構こんな感じですねっていうことをすごくいやそうな、
本当に自分の描いた絵ですらすごくいやそうに見ながら話して、
その時の気づきっていうのが、でもちょっと楽になってないって言われて、
確かに身の内だけで感じていた時のしんどさや気持ち悪さっていうのが、
自己表現の価値
それを一度目の前の紙に落とすっていう作業はないし、
落としたということ、落として目の前に表現されているということで、
ちょっと楽になっているっていう部分が、その時感じられたんですね。
これはすごく一つ大きい収穫だし、
ぜひ続けるといいよっていうふうに言ってくれて、
しばらく私はずっと絵を描くっていうことで、
自分の感じている感覚、その時の感覚、
主に当時はしんどさ、気持ち悪さ、もやもやとしている感じっていうのを、
ひたすら目の前の紙に出していく。
出しては少しほっとする感じがしていて、
出せたことに対しての安堵みたいな。
なんでしょうね、出してやったぞみたいな。
性感にも近いものかもしれない。安堵に近いものかもしれない。
やったぞという気持ちかもしれないし、
今にして思えば、やっぱり体の中でダイレクトに感じていたところから、
距離が取れてたと思うんです。
目の前の紙に出すっていうことで、
困難な、しんどい感覚っていうもの。
つまり今振り返って思うと、ドイツ紙が少し減って、
その距離の取り方、つまり認知の仕方っていうものが
少し変わったっていうことでの楽になったことかなと思っていて。
これまでは過去私がやってた表現についての話なんですけど、
そういう形では表現っていうのはしてたんですよね。
その時は別に上手い人とかは一切関係なく、
とにかくしんどいから、このしんどさを少しでも楽になるための、
それしかない、いわばもう本当に作業でしかなかったかもしれないんですけど。
でも結局一緒な気がしたんですね、ケイさん。
似ている。
どういうことかっていうと、
私の中の感じた感覚っていうのを外に表す。
表す。表す。
それは拙かろうと、未熟であろうと、誰にも伝わらなくても、
受け止めてもらえなくても、理解されなくても、
私が、私にしかできないこと。
私しかできないし、私が、私しか私にしてあげれないこと。
でもある。
私しかできないし、私に私しかしてあげられないことでもある。
誰も代わりにできない。
誰も私に代われない。
私にしかできないことだって思ったんです。
私がこの生まれ育った場所の空気の中で感じたこと。
その森の中で感じたこと。
あるいは一人ぼっちの通学路。
みんなに置いていかれながら、一人で歩きながら眺めてた。
空の模様。
雲の表情。
雨が降った後のしっとりとした空気の中で爆発的に茂る木々の緑。
風にそよぐ田んぼの風の模様。
アスファルトの匂い。
誰かが買ってくれた道端の青草の匂い。
ツンとする冬の朝の匂い。
そうしたものから感じたこととか。
会った人から聞いた話。
これまで読んだ本から得た話。
触れたもの。
聞いた音楽。
出会った人。
そういったところから私の中に感じたもの。
沸き上がる何かっていうのを外に出す。
出せた時のやっぱり安心感は会えたねみたいな文章を読んでみても
自分が書いたものを読んでみても会えたねって
なんか懐かしいものと再会したような気持ちだったり
やっぱりなんか出せてほっとする気持ちだったり。
それもあるし
あとその出せてない時
つまりアウトプットしてない時の感じ方、感覚も変わってくるんですよね。
インプットすらも
どこかで私の物語世界を豊かにしてくれるものだろうかとか
物語世界を豊かにしたい
耕すものと触れ合いたい
接触したい
見たい
聞きたいみたいな
常にそういうチャンスを伺っているし
あとどのように普段の何気ない場面からでも物語世界を豊かにしようとしている
具体的にどういうことかっていうと
細かく感じるとか
それはその物語観とかを通して伝わるものもそうだし
心の動きを細かく感じるっていうことを
さらにしている気がして
それはやっぱりすごい
私の生き方を変えるものだなって思います。
だからもう一度
やってみるっていうことを
表現したりとか何かを創作したりっていうことをやってみるっていう
道に立てたっていうのはすごく大きい気がしているし
あと
リハビリっていう感じもして
淡々と出していこうかなって気がしてます。
なんかすごく錆びついた蛇口をちょっとずつコンコンコンコン
壊さないようにでも諦めずに
ちょっとずつなんか叩きながら
蛇口をひねっている感じ、広げていっている感じ
そんな感じだなと思って
今日は今
撮らなきゃ、撮りたい、なんか出しときたい
撮っておきたいこの感じをっていうのが
どうしてもあったので
仕事の手を少し止めて
でも込めれてよかったです。今この瞬間に
別にこう創作って物語とか詩だったりとか
さっき歌だったりとかもしかしたら絵や写真とかに限らず
なんかここにこういうことを喋っておく記録して
しかも、そうですね、皆さんに聞いてもらえる形で公開する
その場所に置いておくっていうことも
なんか私のこうもう一個
踏み越えながら進んでいく道かなっていうのもあって
そうつたなかろうと
なんだろうと
でもこれが今の私たち
明るい諦めとともにですね
なんか私が楽になったと感じたターニングポイントが
マインドフルネスみたいな意識の習慣の中で
マインドフルネスと呼吸
例えばこの呼吸に意識を向けましょうっていうことが
この意識を向ける呼吸が
例えばすごく深い呼吸でとか深呼吸でとか
その呼吸によって私を整える
呼吸が私を整えてくれるということではなく
ただこの呼吸に意識を向ける
呼吸に気づいているという意識こそが
なんか大事そうだぞっていうことに気づけたっていうのが
それと似てるのかもって今思いました
つまり出すもの
アウトプットのとか表現するもの
表現物、創作物自体が
どうのほうのでき不できとか
いいもの悪いものとかそういうことではなくて
大事なのは表現をする、生み出すということ
外に出す、表に出す
自分の本当、自分の真実を表出させるという
表出させるということのみ
その一点においてが大事なのか
なんかそういうふうに思いました
ということで今後も出していこうと思います
日々のあれこれの
まだいくらか私の周りにもある
やらねばならないこと、やらねばと思っていること
ワークに追いつかれることなく
出し切る
私は私の道を走り
走り?走る?走り?歩み?歩んでいくということ
引き続き楽しみながら出していこうと
なんかわかんないけどすごいスッキリしてます
もう何話したかちょっと覚えてない
もう早速あんまり覚えてないんですけど
ありがとうございました
お会いできること
お会いできたらすごく嬉しいなって思います
これからもよろしくお願いします
それではまた