シュウとショウの未知の理への道のり
シュウとショウの未知の理への道のり
この番組は文字通り、シュウとショウの気が向いた時に、適当に好きなことを話しながら、
まだ知らないことあり、つまり、未知の理を探していく道のりを描く番組です。
下手をしたら、二人のむちっぷりを探すだけの気のままな旅。
ゆるーくお付き合いいただけたら、うれしいです。
前回からの続き
運動靴で行ったほうがよかったんですよ。運動会の練習とかあるんで。
でも、靴を履かないで。
長靴で行くかなんか、造理で行くかなんかで。
ちょっと穴をこねてて。
えー、じゃあちょっとこの靴、お父さんもらおう、みたいな感じで。
そしたら、いやダメって言ってから、靴履いていくって言ったんですけど、その後に、
お父さんこれもらっても足大きくて入らないでしょって言われて。
頭いい。
そこ分かってるんだって思って。
頭いい。
入らないでしょ、みたいな感じで、笑って言ってて。
えー。
入らないのは分かって、お父さんがわざともらうって言ったら、なんかちょっとボケみたいに捉えたんかなと思って。
わー、すご。
なんかちょっとすごく成長も感じたし。
えー、そこまで分かってるんですね。
5歳でしたっけ?
3歳でした。
あー、下の子?
えー、すご。
すごいな。
入らないって言うのが分かってるんだけど、ちょっと僕もびっくりして。
えー。
なめてかかっちゃいかんなと思いましたね。
あー。
全然普通に、そのちょっともらっちゃおうみたいな感じで、その、入っていくのを誘導しようとこうしただけなんですけど。
その、まさかそこに突っ込まれると思ってなかった。
いやー、すげー。
それをボケだと思って面白がってるところまでセットで面白いですね。
うん、そうそう。
ボケ。
でも今話してる中で思い出した僕の長男の面白かった。
面白かったって先に言っちゃうと自分でハードル上げちゃうけど。
それ、すっごい喋ったことあるかもしれないな、しょうもさん。
道のりで一回言ってたら恥ずかしいんですけど。
僕の、えーと、母親の実家、あ、実家じゃないのか。
母親がもう結婚した後に母方の僕のおじいちゃんおばあちゃんが住んでた場所が、
斎都市っていう宮崎県の中に斎都市ってあって、そこに斎都丸古墳群ってあるんですね。
その斎都丸の近くに住んでて、で、僕の子供たちもたまに連れて行ったりしてたんですよ。
もうほんとにちっちゃいときまだ生きてて、その、おばあちゃんの方だけなんですけど。
まあ、長男がちっちゃい頃に亡くなっちゃったから、ほんとにちっちゃい頃の記憶だけみたいな感じ、みたいなんですけど。
あの、ひいおばあちゃんっていう、一応認識だけ長男がしてて、で、墓参りとかにも連れて行ってたんですよ。
で、その斎都丸古墳群の近くにお墓があって、で、なんかそれから成長して、だからその、
僕のおばあちゃん、彼にとってのひいおばあちゃんが亡くなってからだいぶ経って、数年後に、
そういえばひいおばあちゃんのお墓ってどこにあったんだっけって聞かれて、
ああ、行ったでしょ、斎都丸っていう古墳があるところ遊び行ったでしょって言って、そこの近くだよって言ったら、
へえ、おばあちゃんってそんな偉かったんだって言ったんですよね。
お?
古墳に入れるほど偉かったんだって思ったら。
なるほど。いや、多分これ聞いてないと思います。
ああ、本当ですか。
多分。
ああ、じゃあよかった。
聞いてたかな。
すいません、つい思い出しちゃったから、言いたくなって言っちゃいました。
うーん、面白い。
ふとした、ふとしたのがこう意表つかれていいんですよね。
うん。
うーん。
ちょっと、メモしたやつがどっかにあるはずなんでまた見ときます。
ちょっと僕もメモするようにしよう。
うんうんうん。
面白いですよね。
なんかすぐ、すぐしたんですね。
え?
そうっすね。
そうすぐしたんですね。
絶対聞いて行っちゃうから。
うん。
いや、釈迦からこんなとこまで来ちゃいましたけど。
みんなが釈迦だったら、
ごめんなさい、なんか言いかけました。
でもみんなが釈迦だったらそもそも生産的な活動にならないだろうなっていうのはありますけど。
うんうん。
そういう活動っていうのは難しい、そういう向いてる方向が違うんでそもそも。
なんかやっぱり難易度的には上がるだろうなっていう風に感じてるので。
でもやっぱり人に対して感情が出るっていうのはやっぱり思いがあるってことだし。
距離感と甘えに気づく
で、感情を出しちゃうっていうのは前もいろいろ話してると思いますけど甘えがある相手に。
なんか僕とかもついつい、それ自分に気付けてはいますけど、
ついつい母ちゃんとかにはイライラみたいなのが出ちゃったりっていうのはあるし、
それは完全に甘えだなっていうのを自覚はできるんですけど。
それこそ子どもに対してもですね。
子どもも絶対自分のことを、
まあ少なくともずっと未来英語そうかって言ったら違うかもしれないですけど、
嫌うとかそんな感じにならないというか思ってくれる。
親が無償の愛というか、
親から無償の愛があるというよりも子どもから無償の愛があるみたいなのがどっかで、
誰かな、もさんが言ってたかな、なんかツイッターであげてくれてたかどっかでちょっと見たんですけど。
そんな気がする。
子どもからのほうから本当に無償の愛みたいなのがあって、
そこに甘えてるがゆえについついこう状況的に自分のコンディションが悪かったらどうなっちゃったりだとか、
そういうのがあるから。
そうなんですよな。
甘えちゃいかんなって思うけど、
そうですね。
甘えにとらわれるといけないですね。
それは多分に絡んでますね。
その距離感っていうふうにおっしゃってたけど、距離感近ければ近いほど甘えて出ますよね。
だから家族ほど出やすいし、近い人ほど出る。
甘えないですもんね。
本当にだから冷静に考えたときに家族以外の人に同じ対応するかって言ったら絶対しないだろうなみたいな。
そうですね。
そこら辺に気づければいいんだけどなっていう人が身の回りにいたりとかするんですけど、
そこに僕との関係性上でそこまで僕から直接伝えたりだとか、遠回しに伝えるにしてもちょっとどうかなっていう感じだったりする。
場合もあるので。
一番はやっぱりさっきしゅうさんおっしゃってたように自分で気づくしかないというところがあって、
そのきっかけをどう、直接伝えれる人には直接伝えればいいんですけど、
そういう人にもそうじゃない人にもどうしたら自分で気づけるかなっていうのがすごくどうしたらいいかなってずっと考えてることではあって、
結局自分で気づくってことだからこっちから例えば何かこの本読んでみたらとか、このラジオ聞いてみたらとか、コテンラジオ聞いてみたらとかそういう風なのも結構直接的なアクションじゃないですか。
そもそもそういうコンテンツとかにしてもまず自分が興味持たないと入ってこないと思うし、
そこのきっかけってどういうのが一番いいんだろうなーって思うんですけど、やっぱりちょっと話戻るかもしれないんですけど、
ダイレクトにドラスティックにハッってなるようなイベントみたいなのがやっぱりなんかきっかけにはなりやすかったりするのかなっていうのはちょっと思ったり。
お、どういうイベントだろう。
それこそ周りの近しい人が今まで言わなかったけど、バンとはっきり言うとか。
ああ、イベントって催し物って意味じゃなくて。
ああ、すみません。
イベント開くみたいなこと思っちゃってすみません。
そういう物事ってことですね。
出来事ですね。
今までそんな感じじゃなかったのに急に言われたみたいなちょっとハッとするような結構やっぱ感情が揺さぶられるレベルのきっかけみたいなのが一番変化は起きやすいのかなとやっぱ思ったりしますね。
そっか。
僕さっきの愛の話、愛のっていうのはざっくりしてますけど、愛があるがゆえにそういう相手に遠慮なく本当の本心でぶつかっていったからこそ気づかされることがある的なことはなんとなくさっき違和感が消えたっていうふうに言ったんですけど、
相手のために何かをするっていうアクション自体はその愛が元になっているっていうところはわかるんですけど、
その本人が何かを気づくときの、なんていうんですかね、それがなんで大事なのかっていうのって、その一個人だと環境の一要因、愛情の深さの差はあるにしろ環境の一要因だなっていうふうに僕は思っていて、
実際はもう現実の世界の中に、アバウトの言い方ですけど、現実の世界の中で生きてるから、いずれはにっちもさっちもいかない状況になって立ち行かなくなるっていう状況になるって思っているから、それを事前に止める、手あげるっていうのも愛情だと思うんですけど、
なんかほっとくのも愛情みたいな、どっちが正解かわかんないみたいなところもあったりして、死ぬようなことだったらまずいんですけど、
結局あれ、失敗する機会を奪うなみたいな話ですよね。
それに近いですね。それも同時に感じるなっていうのだけ今話したくなって。
面白いな、確かに。
結局そこで失敗みたいなそういうどうにも立ち行かない状況になって気づいて、それこそそこまでならないと気づかないっていうタイミングかもしれないし、
そういうことだから何が正解かわからないですよね。
でも結構引いてみたときにしゅうさんおっしゃったように、絶対そういうふうな形で進んでいって、自分で絶対気づくタイミングが来るから、
結局生きてればみんな何気にそういういろんな道をたどって失敗したり、いっぱい失敗してそこから学んで、
死ぬまでに勝手にみんな人間っていうものが磨かれていくんでしょうね。
そういう風な流れになってるんだろうなみたいな今の話を聞いて思いました。
そうなんすよ。僕の中でアウトプットがさっき言わせたようなイメージ。
そういう感じですよね。
そうなんすよ。
みんな修行中なんですね。
ですね。
そういうちょっと大丈夫かなっていう思う人がいたとしても、それはまだその修行の最中というか、
まだ初期段階なんだなっていう風なところで、優しい気持ちで眺めておくっていう感じがいいかもしれないですね。
そう思いましたね今回は。
アウトプットが先の社会
あとなんか途中で話の流れで僕が考えてた、なんだっけ、本当はみんなに対して思うって言った、
これまた表現が下手だな。
会社とかで一緒に会いたくないっていうところですね。
ありがとうございます。すみません。イメージだけで喋るタイプなもんで。
それの時に、それこそさっき言った僕がアウトプットが先な社会みたいなのを、僕は勝手に一人で無双してるわけなんですけど、
全然ちゃんとイメージできてるわけでもなんでもなくて、本当にふわーっとしたイメージでそれを言ってるし、
イメージなのに突っ走ってる生き方をしてるんですけど、
なんかそんなふうな社会ができやしないかなみたいに勝手に感じてるところがあって、
そう思った時に、たぶん誰に対しても家族と同じように仲良く接してるっていうのが同時にイメージできちゃってるところもあるんですね。
さっきしょうまさんは、しゅうさんは誰に対しても、みたいなどういう表現でしたっけね。
みんな関わってる人たちと結構親密度が高い。
親密度って言ってくださいましたけど、なんか僕が勝手にイメージしてるアウトプットが先の社会って、
そういう親密度がみんなあるみたいなことを勝手に思ってるんですよね。
それはわかります。そこがあるから、それこそさっきの話になったんだろうなって思ってます。
さっきのみんな、しゅうさん的にはみんなそうかもしれないっていうのは、
アウトプットの話でそういう世界になった時に、しゅうさんおっしゃるように、
みんな仲良しというか、みんな家族というか、そういう循環で回ってるっていう話じゃないですか。
アウトプットが先でも循環している社会みたいなところで言うと。
家族的な距離感と甘え
だからそれは親密度的にみんな家族みたいな状態だから、そういう意味も含めて、
会社を一緒にやるっていうのは、みんなかもしれないっていうのはそういう意味もあるし、
そういう社会自身、みんなそういうことをやるのが、家族以外もみんな嫌っていうふうな状況っていうのは、
生産性を求めるような活動をしない社会でもあるから。
かもしれないですよね。
だからそういうふうな話なのかなっていうのをちょっと今話聞いてて思いましたね。
そうなんですよね。自分で言っといて勝手に無双しておいてなんなんですけど、どういう状況なんだろうなみたいに思って。
一つは成長しないっていうところがあるじゃないですか。成長というか発展というか。
生産性というのは前以上にどんどん差分をとってより上にいって、そこの指標が資本主義だとお金だったり、
あとは資本主義じゃないにしても利便性とかだったりとかもあるんでしょうけど、
そこ自身をそういう利便性だったり、そういうのを求めすぎた結果、今の環境があると思うので、
結局結構、幸せは差分で生まれるから、そこを求めるとキリがないから、
どっかでもこれぐらいでいいんじゃねっていうふうな全体認識が取れたところで、
成長しなくていいですよねみたいな。これ以上便利にならなくていいですよねみたいな。
だってこのままだったら一族的になれないですもんみたいなところが全体認識としてなったら、
じゃあ成長せずに、ただその日その日みんなで楽しく生きれたらいいじゃんっていうところからなると、
じゃあ自分がやることが楽しければいいし、やることで他の人が楽しく生きれるっていうことの一助になるのが、
それぞれやることで循環している状態っていうような感じかな。
だから資本主義がベースだとしてもビジネスとしても利益を求めるわけではなくて、
それぞれ一定の利便性を保つための機能をそれぞれ保管し合うようなビジネスだけで回るというか、
変にその競合他者がいるみたいな状態がないというか。
それはでかいですね。
だからマイクロニッチみたいな形で。
マイクロニッチ。
マイクロニッチというか適当な言葉言いましたけど。
え、そうなんですか。
ニッチって言葉あるじゃないですか。
ニッチ、珍しい的な。
ニッチ、珍しいというか、かなり局所的な領域のところの話っていう言葉の意味だと思うんですけど。
そういうところのニッチビジネスとかあるじゃないですか。
それ自身がすごくまたそれも分化していって、細かくよりニッチになるというか。
だから同じ八百屋さんでも別に競合ではなく、そもそも八百屋さんはだからそういう意味ではスーパーとか大きなスーパーとかじゃない限り、地域の八百屋さんとしてそれぞれニッチじゃないですか。
ローカルで。
だから別にその地域を担う八百屋さん、この地域を担う八百屋さんみたいな。
そもそもそういうものは、そもそもが今そういうニッチ、それぞれニッチとして同じ八百屋さんという括りじゃなくて、この地域を担う八百屋さんとして分化してて競合になってないみたいな状態かもしれないですけど。
そういう地域地域で分離するもの以外のものも含めて、本当にかなりパーソナライズされてビジネス的に競合がない状態でビジネスが回るというか。
利便性からの成長の停滞
だからお互いシェアを奪い合わないし、そこだけで循環してで全部回るみたいな。
何か言ってるイメージはありますかね。
要はマイクロニッチっていう言葉。
僕が適当に言いました。
そのイメージを言語化したという感じですね。
なんとなく競合しないぐらい細かく分かれているっていう意味ですかね。
競合しないぐらい細かく分かれるっていうよりも、極端な話、企業体とかそういう企業という組織で考えないにしても、
個人個人は究極のニッチなので、
だから人それぞれがその人が埋める価値みたいなものが全部被らない状態で存在するような感じ。
それがちょっと組織的になって、
資本主義の上で回るとすると、そういう小さいビジネスがいっぱいあって、別にお互いそもそも戦うという意思がないというか。
今はビジネスとかも昔の戦によく例えられますけど、
ビジネス自身が損失標本とか話が出たりだとか、戦に例えられると思うんですね。
昔で言う戦争戦がビジネスみたいなところがあるので、そもそもそういう戦みたいなものがなくなっている状態だと思うので、
それが自分の会社だけ利益を求めていくというのが、その前段にはより利便性を求めて、そっちの方に金が集まっていくからというところになっていくと思うので、
そういう利便性みたいなものを求めずに、ただみんなで今の状態でも十分満足だよね。あとはみんなで楽しく生きていければいいじゃんみたいな状態に、もし共通認識としてなれれば、
お金を循環して食べていったり、お金がいのことでも生活をしていくという中で、ビジネスみたいなものがなくなっていくというか、
なんかそんな感じになるかなとかっていうのはちょっと思ったりしてますけど、ただそこの共通認識を全体で取るとかっていうのはトップダウンでは難しいだろうし、
一人一人の意識が変わって、社会運動なりムーブメントが起きないことには、大規模な集団で一気にはならないから、やっぱりある小さいコミュニティでそういうのが成り立っていって、
僕もそこがいいみたいなので集まっていってどんどん大きくなるような、そういう風な方向しかイメージはできてないですね。
共通認識と自由な選択
そうですね、でも僕もそれがまさにそうかも。なんかしんないけど、アウトプットが先って僕一応イメージだけで突っ走って言っちゃってるけど、それで生き延びていけてたら、
それで生きれるの?みたいに思ってもらえやしないかなみたいに思ってはいるんで、コミュニティには今慣れてるかちょっとあんまり自信はないけど、イメージしてるのはまさにそうでしたね。小さいコミュニティとしてはまず成り立っていったらいいなーって思ってはいるんですけど。
そこにベースとしてお金に生活が支配されているので、そこの満足度みたいなところに向き合わないと、
そういうところに今の環境で足を踏み入れづらいから、まずはやっぱり樽を知るというか、自分にとって大切なものって何なんだっけみたいなところへ意識を向けるっていうのは必要な気がしますよね。
まさにそうですね。
ちょっと今日の最初から喋ってきたこととずっと絡んでくるような話をイメージしながら今聞いたりしてたんですけど、
なんていうか、べき論とかにもかぶってくるんですけど、そういう生産性を追い求めるだったりビジネスっていう言葉にも全部含まれるんですけど、僕から見たらインプットが先っていう言い方をしてる条件があって、交換条件的に最初に何かが提示されていて、
その枠の中でしか動けないだったり、それを満たさないと対価が返ってこないだったりっていう状況があると思っていて、でもなんかそれが自分が自由に選択できるぐらいな、交換条件っていうのが全くなくなるとは思ってないんで程度問題だと思ってるんで、
なんか選択できるといいなーみたいに思ってるなーって今日思ったんですよね。
選択できる。
そこがなんかそういうゲーム的にそのビジネスみたいなゲームを楽しんでやる。目くじら立ててやるんじゃなくて、それをやらないと死んでしまうとかではなく、一旦遊びとしてやる。だったらなんか家族みたいに近い関係性でも成り立つのかなとか。
そうですね。
次回へ続く。
ご視聴ありがとうございました。