00:00
皆さん今日はですね、呉に来ています。野間祐輔さんにお話を伺います。
野間さん、よろしくお願いします。実は野間さんとお呼びするのがいいのか、野間先生とお呼びすればいいのか、ちょっとわからないですけど、いいですか、じゃあ野間さんで。
なぜ先生というかというとですね、ここで、呉で、ずっと皮膚科をどのくらいやってらっしゃったんですかね。
そうね、27年から、まあ、50年くらい、50年半世紀くらいはやってますね。
その中で、野間祐輔さん、1920年生まれということで、今年まだ誕生日は迎えられていませんが、今日は9月25日じゃないですか、先ほどね、10月30日って伺いまして、もう92歳で、もうすぐ93歳ということなんですが、とても、そういうふうには見えなくて若い感じなんですが。
今日はお話を伺えればと思うんですけども、あの、そもそも、先ほど実はインタビュー始まる前の少し伺ったんですけども、野間さん当然その、お医者さんとしてこの呉でずっとやっていらっしゃっててありましたけども、
そもそも68年前、終戦の年、もしくは第二次大戦始まる数年前とか、もっと前だと思うんですけども、その頃はちょうどもう20歳を過ぎられて、どのくらいだったのかな、第二次大戦が始まる頃。年齢とかは。
終戦の年は、20年ですからね、20年は1945年ですね、68年前。
24歳ですね、そうするともうお医者さんになってらっしゃった。
終戦の年は、軍医学校の予備士官ということです。もう少し卒業すれば衆院になるんです。その時は順位扱いです。将位の一つ前の扱いです。
その戦争始まる前から、軍医という形になりますけども、もともとは、
お父さんがお医者だったんです。
そうなんですか。
それで、父も早死にしましてね、父は戦争が始まった時ですが、勝ったと思って死んでおりますよ。
ちょっとお聞きしづらいですけど。
マレーとかハワイ行って戦火をあげた頃に亡くなったんですから。ちょうどね、関門トンネルができた頃です。
お父様はその戦争で亡くなったんですか。
戦争で亡くなったんですか。
病気です。
父の兄弟も医者が多いんですよ。5人が医者になったんです。
03:00
それでその中に海軍軍医になったのがいるんです。
そうなんですか。
それで、明日は佐世保へ帰る時に、キールンを出てアメリカの潜水艦の魚雷にやられて戦死した。
軍医長をしてたんですかね。
そうなんですか。
そういうのもおじもおるんです。私は長男の長男の。
そうするとその野間さんは。
医者になるべき者として、小さい時からそう思っておりました。
それこそもうお医者様になるということで、例えば学校行ってらっしゃる方とかも、いわゆる当然戦争始まったら軍医になるということで、兵隊にはならないというふうにはそこはきっちり分かれていたんですか。
これは海軍だから、海軍に入りたいと言ったら、おじたちが海軍は危ないと言って。
実際海軍で前年に卒業した人はフィリピンで戦死している人が多いんです。
それは海軍の軍医じゃなくて普通に兵士として。
それで陸軍を受けたわけです。
そして私は通るわけがないと思って。
最後の年で3年の、2年生の時受けたわけですか。
1年当時手当が40万円、4万円。
当時の4万円って相当な高額ですかね。
軍医委託生の手当が4万円でした。
私は10万円月に使っていたから。
おじが金の管理をしていて、裏に内科していたんです。
それが月々6万円送ってきて、10万円で生活していました。
だから当時から北九州は爆撃に来ていました。
それから軍医学校に行ってからは塩窯、製鉄所があったんです。
そこを海軍の砲撃を受けた。
ドカーン、ドカーンという音が聞きました。
それからすぐ山形の北に空港があったんです。
将棋の町があるでしょ。
06:04
そこへは飛行機が来て爆撃していたんです。
そんなことしか私は身をもって戦争を感じたことはないんです。
それなりにクレが爆弾で全焼した。
それからついに原爆が落ちたことも軍医学校で聞きました。
1945年のクレで空襲があった7月だったり、原爆が落ちた8月だったり、
その時期はどこに、軍医学校は広島にあったんですか。
軍医学校は山形ですよ。
山形県の山形市ですよね。
これはもうボスボスクレがやられるぞと手紙を出して疎開せよと言って、
私の家は赤ですから、赤へクレに。
この辺りだった、11丁目です。もうちょっと上です。
疎開してました、家財を。
それで助かった部分もあるんですが、
全焼、だから家族は一家、私の郷土の赤いみな木材。
野間さんは当時山形にいらっしゃったんですか。
ご家族というのは、その時は結婚されたとか、独身だったとか、野間さんご自身はその時は。
私は一人で学生ですから。
母親と弟、弟らも学校行って外に行って、
それから軍医で死んだ分の遺族がおりました。
このクレで亡くなった。
それからみんな赤い集まって、
赤の家は狭いですけど、本居と離れたので両方に住んでいました。
戦争が済んで帰ったら、おばあさんがバケツいっぱい、
グラマンキの薬莢、薬莢だけでこれぐらいあるんですよ。
薬莢というのは勉強部ですか。
弾を抜いた後の弾を包んでいるでしょう。
あれをバケツいっぱい拾っておりました。
それを拾うのは何か。
飛行機が打った空玉が落ちるわけですよ。
09:00
それを拾っておるだけです。
薬莢が売ればどうでしょうか、真鍮かどうか知りませんが、
金になったんですが、おばあさんは拾っておるんです。
たくさん拾っていました。
軍医の学校というか戦慾学院というか。
軍医になり損ねて、それで、
小田原の学校は、
軍家の白い靴下に米をいっぱい詰めてもらって、
料費だけもらって、
日本海の線を通って京都を通って大阪へ出て、
山陽線で帰ってきました。
翌日にはクレー帰りました。
8月10日には18日か18日か。
結構僕も広島でも何人かの方にお話がかかっていて、
その当時、8月15日とか6日とか7月とかに、
逆に広島にいなかったわけじゃないですか。
軍医でいらっしゃったということですけど、
その時、例えば山形だったり、他のところにもいた時期があると思うんですけども、
見習い師官として、
例えばご親戚だったら軍医としてどこか行かれた方とか、
クレーで亡くなったとか、いろいろお聞きしましたけども、
野間さんご自身はそうすると直接、
例えば、繰り返しにすみません、
兵隊として行ったとか、どこか戦場に見習いに行ったとか、
そんなことは一切ないんです。
当然今とは違う平和じゃない中で、
なかなか言葉にするのって難しいかもしれないですけど、
1945年とかその数年前だったり、
心の考えていたことというか、
普通の当然お医者さんと違うわけじゃないですか。
何を考えていらっしゃったのかな。
終戦の招職はね、
山形県の有名な山寺の境内で聞いたんです。
そうなんですか。
その日は最後の演習に出ると言って、
山田らへ向かって、じゃないんですが、
山形県の温泉地があるんです。
そこには軍医学部の外科部門とか内科部門の病床があったらしいです。
その辺りに行くはずだったのは、
特別、陛下の特別な招職があるそうだから、
予定を変更して山寺に行く。
ということになりましてね。
山寺で、境内で、
国宝の寺の前の狭い庭で聞いたんです。
それで、軍医が泣いているんですね、隊長たちはね。
12:01
私らは後ろの方だから、
陛下の招職の言われることがはっきり分からないんです。
隣の山に、どうしてないと言われると聞いたら、
いや、全面降伏なんだよって。
ああ、そうか。
今度はアメリカが占領してきたら、
我々が学校がなくなって、
それは我々が教えるにはならないかなと思ったりしましたね。
僕らは、えらいことになるなと思いましたが、
泣くほどにはなかったです。
ホッとした。
率直なその時のことでお聞きしたいんですけど、
いわゆる激しい爆撃とかを受けたとか、近くであったってことは今までなかったと思うんですよね。
ただ、国としては当然戦争がすごかったわけで、
例えば広島で原爆の体験された方とか、
それこそ呉で空襲警報を受けた方、他の地域もそうですけど、
やっぱりいつ経っても空襲警報になるか分からないとか、
そういう中でもう気の向きのままの格好で、
やっぱり次の日に迎えられるか分からないみたいな、
そういう意味では死が適切な表現がかかるんですけど、
日常みたいな感じって皆さんおっしゃってたと思うんですけど、
野間さんご自身はその…
そういう危険な感じは一切経験してないですね。
ただ、体調がね、
君は呉では広島で被災したし、
なんかすごい爆弾が落ちたらしいんだが、
親族やらおられないかと聞かれました。
それが結局原爆だったということですよね。
それは後で聞かされたことで、
当時は体調が心配して私に聞いてくれました。
親戚は、本家の人が女子中学の先生をしていたんです。
その先生が亡くなってましたね。
私の同級生が、高等学校の同級生、
中学と高校の同級の方も亡くなってましたね。
やっぱり広島へ動員されていたんです。
そういう意味では、日常ではなくても当然、
間接に知っている方が亡くなったりしていて。
しみじみと戦争の部分は、私には狭すぎたんですよね。
いろんな方が、もう本当に今日死ぬかもしれないという方もいれば、
もちろん平和な心ではなかったと思いますけど、
15:01
いろんな方がいたというのは、
そういう部分でも客観的にお聞きしたかったので、
8月15日に戦争を迎える、終戦を迎えるということだったと思うんですけど、
やっぱり報道としては、日本は勝っているというのがあったと思うんですけど、
その辺でザックバラにも、野間さんは、
軍医の見習いの立場として、
情報とか雰囲気とかで、実はもう戦争って負けているとか、
どういう感じだったんですかね、もう気づいていたとか。
私が聞いたのは、
遅れ帰ったとき、
その叔父が、車背に戦艦コンゴに乗っていました。
その叔父がね、私を大学へ訪ねてきたこと。
後で思うと、お別れに来てくれたんじゃないかと思う。
当時、将校たちの集まるところがあるんですが、
もう食糧事情が悪くて、
そういうところへ行って食事することもできないような状態。
まあ、叔父はそういうところへ連れて行きたい考えだったんだと思います。
それで佐世保へ行って、コンゴに乗り込んで南方へ行って、
帰る、明日は佐世保へ行くところでやられたわけですが、
やられたという情報は、
この叔父はね、叔父の知り合いの艦長がいたんです。
それから、もう真っ先にコンゴがやられたということを聞いているんです。
それで叔父はね、戦時中、医者はクレから出られるんです。
クレの医者は。
要するに、逃げ出すことはできないんです。
てか、コンゴに乗って、
それで、街中にあったのを、山手へ移ったんです。
家を、こうやって。
それで、戦災は免れた。
山手は、空爆を受けていないところがあるんです。
そういうこともあるし、
そういうところへ行って、
ひょろひょろの、体格の悪いのがね。
そういうことは、ちょっとおかしい思ったんですね。
それから、その教育が、さっき言った、
戦車の、
戦車に乗って、
戦車に乗って、
戦車に乗って、
戦車の爆雷をひっつけるような訓練を、
忘れ方をして、
18:02
これも負けだなと。
それから、食事にね、食堂へ、
米の量を、1日、正確な量は忘れましたが、
何百何十グラム食べ出すということが、張り出されるんですよ。
そんなにあるかなと思う、量でした。
で、聞くとね、
あれは、上の門のところへ、米が、
こう、上前に跳ねられて、
我々は、食べる量が減らされているんだ、という話も聞きました。
ああ、負けるなと。
そんな中で、
直ちに命の危険は感じなかったかもしれないですけど、
ただ、その中で野間さんご自身も、
当然今のこの平和とは違う中で、将来を描けたかとか、
あと、直ちに危険を感じないにしても、
例えば、ずっと生きてられるのかなとか、いつか死ぬかもしれない。
いや、そこまでは深刻に考えませんでした。
さっき言ったように、
子供の教育は白髪毛持たない穴なのかな。
現実的な。
お話を伺うと、戦争の1945年の時は、
終わるまで逆に広島にいらっしゃらなかったということで、
ただ、逆に、今回いろんな方にインタビューさせていただいて、
やっぱり感じるのは、当然、例えば原爆落ちた時とか、
戦争終わる前は確かにつらかったけど、
一番大変だったのは、結構いろんな方が言ってらっしゃるんですが、
戦争終わってから、ゼロから例えば家族ももういなくなっちゃってとか、
そこから今はここまで来るのが大変だという方がすごく多いんですけども。
そうですね。
おじい会議をしていました。
当然、薬がいりますよね。
注射とか。
それを、当時、米駅からトンネル抜けて、
カルが言うところ。
そこに今の薬屋があったんですよ。
そこで取りに行くんですよ。
それは、戦争が終わった後?
そうです。終戦後。
私は当時、当分、おじいの手伝いをしてね。
往診もしました。
それで、薬取りに行かされました。
自転車に乗ってね。
要求する薬だけはくれないんです。
それを引っ付けて、いらないものまで買わされるんです。
それ、売ってるのは薬の薬局みたいなところですか?
要求通りの薬じゃなくて、他のものまで引っ付けて買わされました。
大雨が降って、洪水が出てね、
21:02
二高川の防空壕なんかに、メチルアルコールのドラム缶がたくさん入ってたんですね。
それが流れ出て、アルコールも酒がないものですから、
飲んだ人が大勢いましてね。
原爆の受けた患者よりも、
アルコール中毒みたいに目が見えようになるんです、初め。
死ぬ人が多いんですよ、死んだ人が。
往診しましてね、
友達が二人来てるんです。
それもメチルアルコールを飲んだらしいんですかね、後で聞いたら。
こいつはつまらん奴で、
寝てフーフー言うとるんじゃよって言ってましたがね、
かえって後で聞いたら、その人の方が先死んだ。
そんな怖い、女性でもおりました。
原爆の人も相当いましたがね、
原爆の人と血核患者、
原爆の人と血核患者が多かったですね。
まさにその皮膚科の先生として。
まだ皮膚科じゃないです。
その時はもう何でも。
私の一年後からインターン院ができたんです。
私の時はそういうものがない、すぐ免許がもらえた。
ちょうどその境目だったんですかね。
運のいいところです。
逆に、やっぱり。
鉄道で適切な治療薬は誰にもしてないですね。
ビタミンCを打ったりぐらいですよ。
その時って当然ね、もっと適切な機材があったり薬があれば、
もっと救えた方とかもいらっしゃると思うんですけど、
その時ってその医師としてやるせない思いはありますかね。
それは物資のない時だから、食料でも欠乏しているんだから、
当然だろうと思ったんですよ。
医者になったから食料はやみ切って買えましたね。
アメリカの食料はレーション、
それ1食分か2食分か知りませんがね、
ちゃんと缶詰入ったり、チョコレートもあり、プディングもあり、
贅沢なものがぎっしり入って、そんなの買ってきて食べて、
24:04
米の代わりにしてましたよね。
逆にお米は手に入らなかったんですか。
やっぱり不足でしたね。
だからその病み位置はあっちの方にあったんですよね。
クレーだとどの辺ですかね。
血道が通って自衛隊行くとこと、こっちとの交換になっている、
その下の方から左に入った辺りにありましたよ。
今もその交換位置がありますよね。
あの辺ですか。聞いてる方がちょっと分かるか分かんないですが、
あの辺なんですね。
それでオーストラリア、
アメリカはあまり見ないんです。
オーストラリア、ニュージーランドというのが時々来ましたね。
それから30年ぐらいまで中竜軍いたんですかね。
そうなんですね。
私は1年ぐらい王子の手伝いをしていました。
卒業の2年目から母校、中大に帰って、皮膚科に入ったんです。
その皮膚科に入ろうというのは何か。
家族、おじいさんらが昔反対してましたがね。
反対ですか。
親父が内科していまして、夜起こしに来るんです。
そうすると、起きてもね、寝てる家とかね。
酔って寝てる家とか言って断りを言いました。
そういうのがあったんです。
そういうのがあったんです。
そういうのがあったんです。
そういうのがあったんです。
酔って寝てる家とか言って断りを言いました。
実際、おじいさんが手伝って夜起こされて行ったら、戻って寝疲れるんですね。
だから、私には持たん。
夜あまり起こされん。
お茶苦な皮なんか持って、皮膚科に入ったんです。
実際ね、今お話が変わると、イメージですけど、
広島で原爆の話もありましたけど、原爆の後遺症とか、
戦後だったり火傷だったり、そういう形で皮膚科のニーズってすごいあったような気がするんですけど。
それは移植の方でね。
移植になると、むしろ外科の分が多いんでね。
アメリカへ、ひどい火傷の人を連れて行ったりして。
ありましたよね。原爆おとめの方。
やっぱりね、いろんなご経験されて、やっぱり人生を重ねてこられて、
やっぱりすごいいろんな経験されたからこそ、今ニコニコされてるんですけど、
27:00
直接そんなに戦争は受けてないっておっしゃってましたけど、
野間さんなりに、普通の人とは違う形かもしれないですけど、
振り返ってみると、もう68年経ってますけど、
戦争、それこそ記憶で、戦時中でもいいですし、戦争終わった中後でもいいですし、
そこからこれまで68年経ったと思うんですけど、
何かなんだろうな、これだけは本当に辛かったじゃないですけど、
やっぱり楽では当然なかったと思うんですけど、何か振り返って、
これだってエピソードじゃなくてもいいんですけど、
せっかくこれ聴いてる方が今後いると思うので、
何かシェアさせていただけるようなことがあれば。
私はどっちかいうと、楽観的な方ですね。
深刻に考えたくない方かもしれないですね。
私の中学校のクレの、今三つ田行ってますよ。
英学校行っても優等生、機関学校も優等生、経理学校も優等生出しとるんです。
そんな人はみんな戦士ですよ。
戦士?
うん。
だから、あんまり優秀でないのが、私みたいに残っとるんですよ。
優秀な人は?
優秀な人は、まあ死んでるんですね。
だから恩師の時計か何か知らんけど、生もらった人が亡くなってるんですよね。
優秀な方はそれぞれの分野で第一線みたいなところに行っちゃうから亡くなっちゃう?
まあ、それが残念ですよ、戦争は。
なかなかね、こういう直接お話聞かないと正直、
例えば8月6日の前とか8月15日の前って日本中でいろんな報道あって、その時やっぱり戦争行けないなと思うんですけど、
こうやってリアルなお話を伺わないと、やっぱり本当に平和な世の中なのでって思ってしまうんですけど、
今、先ほどもその戦争の映画がなぜか今年やたらあったりとか、
あとやっぱり憲法改正の話とかだったりとか、
あとはいろんな是非がありますけど、例えば原発を海外輸出するとか、
いろんな種種の話があったりすると思うんですけど、
その辺ね、野間さんなりにいろいろ感じることとかってありますかね。
まあ、広島県の医師会は特にIPPNWで核戦争反対の団体を世界的に医師会で作ってますよね。
それを主催を2回やってますよ。
30:01
主催国になって、広島県。
ですが、広島県がそう備えるのは製造極まりないんですがね、
アメリカやロシアなんかがイランとか北朝鮮に核作っちゃいかん言う、原爆作っちゃいかん言うのはちょっと自分でよく思って、
説得力は良くないなぁと思うんですけど、しかし核を持たないとやられてしまう感じの方が強いんですかね。
私らはそういう反対言うのはなかなか口では珍しいか、優しいけど実現は不可能だなぁと思いますよ。
日本が核原発を輸出するなんて、今なおさら東北があんな目に追ってるのに矛盾したことなんだよなぁと思うんですよね。
輸入国が信用してくれるかなぁと思います。あんなことで競争することはない。
野間さんが第二次大戦終わる頃じゃなくて始まる頃、第二次大戦が高校生ぐらいですかね。
日治戦争はその前ですから、高校時代ですね、日治戦争ね。
その時の、正直細かくは覚えてないと思うんですけど、戦争が始まる前の国の雰囲気とか、日本の。
お菓子の製造がね、私松山におりました。タルというのを売るんですよね。
今もありますね。
それを何曜日に売るということになる。
火曜日なら火曜日に売ります。だから大学行ったらバターをやっぱり何曜日に売ります。
それを買いに行った覚えがありますよね。
そういうふうに物資不足で、自由販売が止まって制限販売になったんですね。
そういう雰囲気だったんですね。
その時と比べると難しいかもしれないですけど、やっぱり僕ら戦争を経験していない世代って、
よくも悪くも知らないので、なんとなく今の人によっては、
33:04
さっきの中国のこととか、原発を輸出するとか、憲法改正するとか、
戦争にまた向かってるんじゃないか、大げさに言うと。
っていうことをちょっと感じたりすることもあるんですけど、
実際に戦争を体験されて、戦争の前の雰囲気を知ってる野間さんから、
今の時代で、直ちに戦争になるってことはもちろんないと思うんですけど、
なんかちょっと危なそうな空気を感じたりとかってありますか?
同盟国が戦争にやられそうな時には、日本も加われ、いうことで改正をやりかけするんでしょう。
そうですね。
あれも一理あるんですよね。
今、中国は盛んに戦国へ侵入してきたり、軍艦を送ったり、
してますから、なめてかかられるとどうしようもないですね、今のままでは。
だから、それを何とか止める手段を自分でもたんといかんじゃろうなとは思いますね。
ちょっと困難な争いができたとしても、世論が止めてくれるだろうもんですね、世界の世論がね。
本当の戦争にはなり難いんじゃないかと思います。
もちろんそうあってほしいし、そうしないというところで、今回のインタビューもなんですけど、
最後に、このインタビューとラジオってなかなか説明するとわかりにくいと思うんですけど、
ただ一つあるのは冒頭でも話したように、この肉性って100年後も500年後もこの世界がある限り残るわけですよ。
僕も当然500年後は死んでるわけですよ。
だから、これ今日撮ってるのは2013年の9月25日ですけど、野間さんだったり僕の子孫とか全然関係ない人たちも当然理論的な聞くことができる。
そういう聞く方に対して、これ聞いてる方にやっぱりその戦争を考えるきっかけにはしてほしいという僕はこの思いで今日インタビューさせていただいてるんですけど、
何かそういう方に向けて、メッセージじゃないんですけど伝えたいこと。
それは、戦争は決していいことじゃないですよね。
しかし、やむを得ず起こることもないとは言えんけど、それを阻止するだけの力を国も持たねばならんし、
世論をこう、戦争を挑発することのないように抑えてくれりゃいかんと思うとおりますが。
僕ら個人として何かできることって、逆にこういう若い輩から聞かれたとしたらなんていう答え、先生として。
36:14
小さい力だよね。どうせ世論に起こすほどの力ないですな。
戦争しちゃダメよ、いいことないよということは、みんなに言わんでもわかることじゃないかと思うんですけどね。不自由すんじゃから。
仕方ないじゃ済ましちゃいけないと思いますけど、ただ現実的に僕自身も感じるんですけど、
野間さんが戦争体験されて、その直後に生まれた子供とかが感じてる平和とか戦争はしちゃいけないっていう思いと、
今の僕ら30代だってもっと下の世代、全く戦争を親も知らないわけで、
そういう若い人たちを見てるとやっぱりその辺の戦争に対する意識とか平和に対する本当の平和の貴重さみたいな、
そういうのってやっぱり渦巻ってると思います?そういう意識っていうのは。若い人を見てると。
新聞見ても小さな子でも広島の催しを見て、平和であってほしいということ、平和教育ということは決して取ると思いますよ。
きちんと。
教育そのものが、しっかりせんといかんですよな。
そうですね、教育が本当に人を作りますからね。
私らは本当、朝鮮も中国も歴史認識を正しく持て言う。
どうなんか、国もちゃんと教えてくれりゃいいんですかね。
戦国はこういう理由で日本は農材買いにしとるとかね。
竹島もこういう理由で日本に所属しとるということを、なんか書いてくれりゃいいと思います。
国というのは日本が?例えば教科書だったり、さっきの教育の話ですよね。
教科書で載せても外務商談はでもいいから、新聞に載せてくれりゃいいよ。
確かにその一番大事なそもそものところの情報がないですよね。
僕らももちろんわかんないですし、野間さんから見てもそういう感じますか。
私らでもあそこを島根県の人が持って固定資産税を払ったということは聞いておりますけどね。
やっぱり教育もそうですけど、メディアの報道とかも全てが報じられているわけじゃないから、
39:04
その根本の部分を報じてほしいし、そこら辺を見抜くのは難しいですけど、
やっぱり僕らがなぜかというのは分からないと判断できないですよね。
しり滅裂な話になって申し訳ない。
いえいえ、とんでもないです。貴重なお話をいただいて本当にありがとうございました。
真中文は割と穏やかなかったですね。
あ、そうですか。
私にはそういう沖縄で乱暴したいような、あんなことはあまり聞いてないですよ。
だいぶ長いことを言いましたね。
良いお客さんじゃなかったかもしれませんね。
良いお客さん。
性病のようなのがたくさん来るんですよ。
それはこの暮れで。
普通につまり患者さんとして来るんですか。
そうです。
お金というのは新中部の各国の人が、軍家なんかが病院に払う。
自分で払うんですよ。
自分で縁を持っているんですか。
そうそう。
そういう話って意外とシンプルですけどね、想像つかなかったんですけど。
それで気づいたことは、イギリスの兵隊の給料は一番安いですよ。
そうなんですか。
その次がオーストラリアです。
それはなんでわかったんですか。
アメリカは数多く来ていませんのでね、アメリカ兵は一番金持ちじゃなかったかと思うんですけど。
アメリカのシナ人系の軍医さんと心安になってね、
職者に行ったことがありますよ。
そうなんですか。
やっぱり親切でね、香港に行ってくるが何か欲しいもんあったらこうできたらいいって言ってました。
ぜひはいろんな考えがあると思うんですけど、
例えば天皇陛下の戦争責任だったり、当時の軍部の行き過ぎたことがあって戦争が終わるのが遅くてたくさんの人が死んだとか、
いろんな意見がありますけど、その辺に関して率直に感じること、
逆に68年で変わったこととかってありますか。
私は天皇陛下を尊敬しております。
むしろ東條さんなんかつまらんことをしたの。
42:00
海軍が世界をわりと知っておって、どうして東條さんを押さえつけられなかったか、それが残念ですよな。
靖国参拝でも先輩の人として覗かれるのだろうかと思いますね。
やっぱ仕方ないのかもしれないですけど、
戦争になってから気づいたら遅いからやっぱり僕もこれどれだけ頑張るかわからないですけど、
こうやって常にお話し聞かせていただいて、
ライフワークですからね。
やるしかないというふうに思ってて、
本当にその境遇、その状況で感じていらっしゃることは当然皆さん全く違うので、
いや、私はあんまり考えるほうでないですからね。
いろいろとお話が書いてよかったです。ありがとうございます。