1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/02/24:聖日礼拝(旧音源)
2013-02-24 35:13

2013/02/24:聖日礼拝(旧音源)

2013/02/24 聖日礼拝(旧音源)




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皆さん、おはようございます。
ご聖礼の導きで、こうして礼拝が進められていますことをありがとうございます。
聖礼は望んでくださり、そして私たちもまた、聖礼を求めるということ、それによってこの礼拝が導かれているという幸いを覚えるわけです。
御言葉の時が来ましたので、今日も御言葉を開きたいと思いますが、その前に一言お祈りいたします。
あなた方は地の塩です。あなた方は世界の光です。
あなた方の光を人々の前で輝かせ、人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなた方の地球を崇めるようにしなさい。
恵み深い天の父なる神様、こうして聖日の朝、この宮に上り、あなたを礼拝するその特権を感謝をいたします。
聖礼がいかかに望んでくださり、私たちを招き、またこの礼拝の場へと導いてくださったことを感謝をいたします。
この三密体の神を親しく覚え、またこのお方こそ我が信ずる神とあがめて、これからの日々も共に歩んでくださることを覚えて皆をあがめます。
礼拝状をもって自らの罪を悔い、もう一度主の御愛と許しをもってここに立てられ、そしてまたそれぞれにお疲れしくださることを感謝をいたします。
また御言葉を通してあなたの身胸を教えてくださるように。
私は道・真理・命であると、今日も私たちの友であり、また主であるイエス・キリストが救い主として共に歩んでくださることを感謝をいたします。
その主の御愛と、また憐れみによって私たちは地の塩とされ、また世の光としてくださることを覚え皆をあがめます。
私たちには愛はありませんが、神の愛が私たちに望むとき、私たちもまた隣人を愛する者へと作り変えられる、その神の皆様を今日も現してくださるようにお願いをいたします。
そのために御言葉が必要でありますから、今日も御言葉を主体求めて、今ここにいますから、どうぞ御霊が御言葉を通して私たち一人一人にお語りくださるよう、
特に受難節でありますから、イエス様の受けてくださったお苦しみを我が苦しみとして、その幾分かでも味わうものとしてくださるように、
今まで受けた苦しみ、困難、試練、今受けている困難、苦しみ、やがて受けるであろう苦しみ、困難、試練の時も、
03:11
この十字架を覚え、十字架を見上げて、イエス様が苦しんでくださったことを覚える恵みの時となることができるように、どうぞ一人一人に望んでください。
今からの御言葉のひとときも、どうぞ精霊が豊かに望んで導いてくださるように、お一人お一人にお言葉が留まりますように、
語るものを見てに隠して、宗後自身が現れてくださるよう、イエス様の尊いお名前によってお祈り致します。
アーメン。
今日の過疎は、このシリーズで述べられてきておりますけれども、イエス様が捉えられて、そして裁判をかけられている。
今日は、総督ピラトのところに連れて来られているイエス様のお姿を共に読み、そして見ているわけでありますが、
このマルコの十五章の中の何節か読んでいただきましたが、これと同じ状況を捻っている過疎が、
マタイにもあります。マタイの二十七章にも述べられています。そしてルカの二十三章にも同じようにこの過疎が出ています。
表現の仕方とか、あるいは使っている言葉が違いますけれども、内容はほぼ同じようなものでありますが、
どうぞ参考にマタイの二十七章、ルカの二十三章を読んでおいていただきたいと思います。
この今日の過疎の中で登場する人たち、それはもちろんイエスキリスト、そして総督のピラト。この人は毎週この名前が呼ばれています。
どんな人なんでしょうか。そしてバナバという人も出てきました。そしてもう一つはグンシュー。何度かこのグンシューという言葉が出てきました。
そういう人たちがこれからイエス様が十字架に向かわれるその前のこの裁判のところにそれぞれ置かれていたということ。そんな状況の中で今日のこの御言葉が綴られているということです。
一節、ところでピラトはその祭りには人々の願う囚人を一人だけ謝面するのを礼としていた。ここに謝面ということがありますが、これは文字通り罪とか過ちを犯した人が罪が許されるということでありますが、
06:17
それと同時にこの恩謝という言葉も聞いたことがあろうかと思うんですが、これは誰かのおりに、この場合だったらこの祭りのおりに、総督の権限を持って罪を犯した人がその罪を免れるという、そういう関連があるわけですね。
ある国では新しい大統領が就任するときに、その犯罪者の一人が恩謝ということで、その罪を免れるという、その刑罰を取り除いていただけるという、特例のような、そういう恩謝というものがまた国によってはあるということですね。
そういうことがここでも起こったわけであります。祭りのときに人々は囚人を一人謝面する恩謝されるという、それが毎年行われていた。そんなことが書いてあるわけですね。
それではその謝面とか恩謝の意味は何なのか。ただ祭りとか、あるいはそういう何かの特別な行事のときに罪人を許す。これをいろいろ調べましたが、その答えはなかなか書いていない。
また官礼でそうなっていたとか、かつてそういうものがあったとか、現在では大統領就任のときとか、そういうふうに書いてありましたが、なぜそういうことがなされるのか。これは例えば、主の祈りの中にも私たちは人を許します。自分たちも許されましたから。
そういうことを政令の導きで示されたわけですが、何かそういうことに通じるのではないか。私たちはこの罪を犯した人を許します。恩謝ということで許します。それと同じようにまた私たちの罪をも許してください。
そういうものが根底にあるのではないか。例えば大統領が就任した。そのことによって罪人を許す。そのことによってこれから立っていくその大統領がかつて犯してきた罪。そういうものもとにかく許していただいて、そしてこれからの歩みをまた正していってくださるように。
09:01
自分の罪があるままでは立っていけない。これは一つの生贄を捧げて、それによって私たちが罪が許されるという旧約でなされていたあのような生贄の儀式にも通じますし、それをしてくださったイエス・キリストの十字架にも通じることではないか。
神の子質として捧げられたそのヨシ様の犠牲。それによって私たちがそれを信ずることによって罪許された。謝面された。これは神の恩徴としての許しでありますから、恩謝といってもいいぐらいですよね。そんなことを示されました。
ピラトはその祭りに囚人の一人を謝面するのを例としていた。そういう中で、それでは誰を謝面、恩謝として許すのかということがここにあるわけですけれども。
他の福音書も比較してみますと、結局イエスかバラバかというその選択はここにあるわけです。このバラバという人は七節にありますように、暴動の時人殺しをした暴徒たちと一緒に牢に入っていた。
他の福音書では、彼はその暴動の時に人殺しをしたという大罪を犯している。それこそ死刑にさせられてもいいぐらいの罪を犯している。そういうものであります。
このバラバを許すのか、それとも今ここで捉えられているこのイエス・キリストを謝面するのか、そのことがこのピラトをはじめ前にいる人たちに迫られている選択であるわけです。
八節。それで軍事は進んでいって、いつものようにしてもらうことをピラトに要求し始めた。いつものようにというのは一人だけ謝面してもらうということ。それを要求したわけですね。
ピラトは、それじゃあこのユダヤ人のイエス・キリストを施策をしてくれというのか、というといや違う。この暴動の時に人殺しをした暴徒たちと一緒に牢に入っているこのバラバを謝面してくれということを彼らは要求したわけです。
12:08
ピラトはいろいろと人を使わせて、このイエス・キリストが何をしたのか、どんな罪を犯したのか、そしてそれをここに述べているわけですが、十二節。
ピラトは、では一体あなた方がユダヤ人の王と呼んでいるあの人を私にどうせよというのか。彼には一切の罪を認めることはできないということを彼は言っているんですね。
ですから謝面するとするならば、当然このイエス・キリストであって人殺しをしたバラバではないはずだ。それはピラトにとっては明らかなことであったわけです。
ところが、ここに今日のテーマであります十一節。
誰が見ても明らかにイエス・キリストが許されるべきだ。罪を犯していないし何の処罰にあたることが見当たらない。許されるも罪を犯していないわけですから。
しかし許されるべきはバラバだと皆が言っている。それは最賜たちが群衆を煽動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。
ルカの封印書では彼らを解き伏せた。そういうふうに書いています。群衆をそのように煽動した。そういうことがここに書いてあるわけですね。
ですからピラトもそうです。最賞たち。それ以外にいわゆる群衆というたくさんの人たちがそこにいたという状況になっているわけですが、この群衆というところに私たちは今日光を当てていただきたいと思うんですね。
ある人が道端でじっと立って空を見ていました。そこを人々が通っていくんですけれども、ある人がこの人は一体何を見ているんだろう。それをまた見ていた通行人が、あの二人は一体何を見ているんだろう。
それがやがて3人、5人、10人、20人ぐらいの人が、自由報でも出たんだろうか。そういうふうに見ています。そうすると最初に空を見ていた人が、すっとどこかに行って帰ってしまうということがあるわけですね。
15:16
その人は何か目想していたのか、何か空を見て考え事をしていたんだろうと思うんですね。でも人々はそうして集まってくるということがあるんですね。
映画の話になりますけれども、フォレスト・ガンっていう映画を見たことがある人もいるかと思うんですが、いろんな前置きは起きますけれども、彼はあるとき、それこそふと思い立ったようにして走り出すんですね。
家を飛び出して行って、とにかく走り出した。何か忘れたいのか、いろんなことを思って、とにかく走ろうと思ったんですね。そしてどんどんどんどん道行く道を限りなく走っていくわけです。1日2日3日どんどんどんどん走っていく。
それこそアメリカ大陸を横断しよう、そういうような勢いでとにかくひたすら走っていく。それをある人が見たときに、これは何か、彼は何か考えがあって走っているんだろう。それをまたカメラマンが映す。
そしてそれがニュースになる。そして彼は毎日毎日走っていますから、髪の毛は伸びて、髭も生えてきて、まるで仙人のような、そういう形に、ただただひたすら走っていく。それを見ている人たち、あるいはテレビで見かけた人たちが、何だろうか何だろうか、自分も一緒に走ろう、これは何か平和運動ではないだろうか。
ということで、それが一人二人、それこそ十人百人、大勢の人がフォレスト・ガンプの人と一緒に走るんですね。
そしてそれも大きなニュースになっていく。そしてある日、突然彼は走るのをやめたわけですね。彼自身は自分と一緒に走っている人がどういう状況なのか、一切もう感知しないというか、そんなことを目にも入っていないわけです。
そしてある時、ふと立ち止まって、僕は家に帰ると言って、またひたすら家に帰って、ながら家に帰っていく。そういうシーンがありました。
自分一緒というのは、何かそういう真理があるんでしょうか。誰かがこういうことを言っている。そうすると、そうだそうだ、何かみんなが言っているからそうだ、みんながしているから一緒にやろう。
18:11
その人の言っていること、あるいはその人のしていること、それが一切何をしているのか、どんな意味があるのか、そして私はそれに対してどういう反応をするのか、そういうことを一切吟味しないで、問いかけもしないで、ただみんながしているから私もしよう。みんながそう言っているから、それがいいんだろう、私もそういうふうに言おう。
そういう文集真理というのはあるのではないか。みんながそうするから、みんながそう言っているから、これは協調性とは違うわけですね。協調性というのは、それこそしっかりそのことを把握し吟味し、自分も自分らに納得した上で、その人たち、その人たちの私もそれに賛同して一緒に叫んでいきましょう、一緒にやっていきましょうという協調性。
でも、ここでいう文集真理というのは、それこそ赤信号をみんなで渡れば怖くないというような、一切その間にことが流れていく、その中に自分もそこに身を置いていくという、そんなことがあるのではないか。
それは時として危険な時があるわけですね。文集真理のそういう怖さというものも、私たちは知っておかなければならない。私たちは周りの人が何を言おうと、周りの人がどうして言おうと、それは参考にはすることは必要だと思うんですね。
今みんなはどういうことを考えて、どういうことを言っているんだろう。しかしそれは何を言っているのか、あるいはその根底にはどういうことがあるのか、そういうことをしっかりと問いかける、あるいは検証する、そして確かめて、それじゃ自分はそれに対してどういう考えを持っているのか、そういうことをしっかりと自分自身持って、賛同するなら賛同する、協力するなら協力する。
意を唱えるならば意を唱える。そういうものをしっかりと持っていないと、安易にその文集真理に任せ、そして流されていってしまう。そういうことがあるだろうと思うんですね。
特に今日の箇所でもその蔡首相という、いわば権力者、軍首にとっての権力者、その人が言うこと、だから軍首も安易に蔡首相さんが言うんだからそうだろう、蔡首相さんが言うんだから私もバラバを釈放するように私も叫びます。
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そんなことがここにあったわけですね。それは蔡首相たちの煽動ですから、これは策略であったわけですが、そのことをしっかり吟味しないで、安易にそれに乗ってしまうというその軍首たち、それがここに表されているわけです。
一方、ピラトもどうでしょうか。ピラトもいろいろ調べさせたけれども、一切このイエス・キリストに罪を認められない。彼がどんな悪いことをしたというのかと軍首たちに言っているわけですから。
彼はこの段階ではしっかりと自分自身に問いかけ、そしていろんなことを検証し、そしてたとえ大将や軍首たちがどう言おうと、私にはあの人が罪を犯したとは思えないし、実際に調べてみても何の罪も見当たらない。
このように開放されるとするならば、イエス・キリストではないのか。彼はそう言ったわけです。ところが、軍首たちがみんながみんな、イエスを十字架につけろ、バラバを開放しろ、イエス・キリストは十字架につけられろ、そういう風にして叫んだというんですね。みんながみんな、イエスを十字架につけろと叫んだ。
ここではピラート一人が孤立し、そしてその他みんなは敵に回すような、そういう状況になってしまったわけですが、その結果十五節、ピラートは軍首の起源を取ろうと思い、バラバを釈放した。
魔界の福音書では、ピラートは自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、軍首の目の前で水を取り寄せ、手を洗っていった。この人の血について私には責任がない。もう自分たちで始末するがよい。放棄してしまった。
ルカは彼らがイエスを十字架につけようとあくまで否定し続け、大声で要求したので、ついにその声が勝った。ピラートは自分の主張したいこと、自分の信念、それを曲げて、そして軍首の声に同調した。
24:25
要するに彼の思いが負けて、軍首の声が勝った。ピラートもまたその軍首心理に委ねて、こんなことでは自分一人では立っていけない。そして不利になる。もしかしたら総督の地位も脅かされるかもしれない。
やはりこれからやっていくにはこの軍首たちの起源を取っていかなければいけない。そういうふうに彼は考えたんでしょうし、もうこのまま放っておいたら暴動になってしまう。収拾がつかなくなってしまう。
彼のとった決断は、もう分かった分かった、もうお前たちの好きなようにしなさい。私はもうこのこととは一体関わりをしない。そのようにピラートは軍首と同じように言って、このバラバを斜面し、イエス・キリスト十字架につけるということに同意したわけです。
これが今日のマルコの福音書の6節から15節で書かれていること。こうして最初たちのイエスに対するこの妬み、それが軍首心理を巧みに操って、そしてイエス・キリストを十字架につけるように持っていきたい。
最後の砦となっていた創毒キラートも、その軍首の声に負けて自分自身の信念や、あるいは魂を売ってしまったということも言えるわけです。
そして十字架につけるようにとこのイエス・キリストを渡した。最初たちの思惑通り、策略通り、軍首たちを煽動して、お前たちに、軍首たちに十字架につけるように言わせた。その思惑通りにことが進んでいったわけです。
そして神の御幸を十字架につけるという、これは人類にとって最悪のシナリオ、それが出来上がったわけです。
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生贄を捧げるということは彼らは知っておったわけですが、この神の御羊が生贄として捧げられるということは、これは全てを作られた、そして人間を作られた神にとって本当に悲しむべきこと。
私たちにとっても今思うと、こんなことを人間はするんだな。もちろん最初長たちや軍首にとってこのイエス・キリストが神の御幸を認めていませんから、こういうやつは十字架にかけられたらいいんだ。
というそのことでしかないわけですけれども、私たちもここを読むときに、これは人類にとっての最悪のシナリオが完成したんだなと思って、もう仕方のないことでありますが、しかしこれでは終わらないわけです。
このイエス様が十字架を追い、そして十字架につけられるという、このことが、やがて人類の救いを完成するという、これは人類にとっての最高の神の奥義が隠されているということ。
彼らはまだここでは気づいていないわけです。神の奥義、それは私たち人間にはわからない。
罪や悪の仕業によって霊の目が閉じられている。霊の耳が聞こえなくなっている。しかし精霊が望むときに全ては明らかになる。
この十字架のこの技は人類の最高の技である。神の最高の奥義であったということを後知るようになるわけですね。
その恵みは2000年たった今も変わらずに人類の上に三千と輝いている。それは私たちが証明しているところです。
この一連の裁判の被告人として立たされているイエス・キリスト。それに対して人の思惑や扇動や惑わしや、そういうもので流されていってしまう、
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やはり私たちは二言葉を開くときに、そこにおられる主イエス・キリスト。
イエス・キリストはこの状況の中で何を思い、どんなことを考え、そして何を祈っておられたのかということを、そこを私たちは常に外さないようにしたいと思うんですね。
イエス様はこの裁判の中で、ただただ静なる神を見ておられたに違いない。そして祈っておられた。何を尋ねてもイエス・キリストは一言もお答えにならなかったということがその前にも記されていますが、
ピラトや最首長たちや軍首たちがいろんなことを言っている。その中でただただひたすら全身全霊を込めて静なる神に祈っておられる。それはやはり自分に託されたその杯を飲むこと。
これから向かっていくゴロブダの丘の十字架の上で自分は十字架に架かること。これが人類を罪から救う神の御業であるという、そのことにのみ焦点を合わせてこの一時を過ごしておられた。
神の御子イエス・キリスト、これが神の子羊として捧げられる御本人ですね。彼はその祈りの中でひたすら静なる神の御心を求めて祈っている。それを精霊が覆ってこの時を支え守り、そして十字架へと導いて下さい。
まさに三位一体の神のその世界がこういう裁判の中でも事実として存在しているということ。これが神の国、あるいは神の世界と言われる、そういうものであろうと。そのように思うんです。
いよいよ、これからイエス・キリストは十字架への道を歩まれるということになるわけですが、私たちもこの道と共に、ゴルゴラへの道を共に歩ませていただきたいと、そう願っています。お祈りをいたします。
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天の父なる神様、今日も御言葉を通して群衆の真理を覚え、またそこに建てられたイエス・キリストを木曽のうちに覚えたことでありますが、私たちの弱さはこの群衆にも表されていますように。
あるいは最終的にはピラートと同じように弱く、そして流れに流されてしまいやすいものであります。
みんなが言っているから、みんながそうしているから、自分自身問いかけもせず、確かめもせず、そして流れに任せている方が楽である、そういう愛な思いや考えで流れに乗ってしまいやすいものです。流されてしまいやすいものでありますけれども。
どうぞもう一度、どんな時にも父なる神様に祈り、また精霊の導きに委ねて、このお方に問い、また答えを導いていただけるように、そして決して自分の神からの与えられた信念や魂を売ってしまうことのないように、
神様どうぞ私たちを守ってくださるようお願いいたします。そして神の御心がなりますように、また私たちが地の塩、世の光となれるように、神様が私たちを守り導いてくださるように、私たちの救い主イエスキリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン
35:13

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