1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/03/03:聖日礼拝(旧音源)
2013-03-03 42:08

2013/03/03:聖日礼拝(旧音源)

2013/03/03 聖日礼拝(旧音源)




00:03
みなさん、おはようございます。
プログラムが複数されていますことをありがとうございます。
今日も御言葉を開く時が来ましたので、
先ほど読んでいただきましたマルコの福音書の15章のところから一緒に見ていきたいと思います。
一言、お祈りをさせていただきます。
神々深い天の父なる神様、
今日もこうして私たちに命を与えて、この水戸へと招き、また導いてくださってありがとうございます。
聖礼様が豊かに臨んでくださり、お一人お一人を育み、またこの一週間も支えて守り、導いてくださるように、
その週の初めの朝、こうしてあなたをあがめ、また賛美礼拝できるこの特権をありがとうございます。
どうぞこの礼拝の室であるあなたが、今ここにいてくださり、また最後まで共にいてこの恵みの時を過ごさせていただけますように、
また御言葉を通してあなたの御旨を教えてくださり、またあなたをあがめることができますように、お一人お一人を整えてください。
特に次男節の中にありますから、
私たちが節様を覚えるとともに、その週のお苦しみを私たちが共に味わい、また目標のうちに十字架を覚えるものとさせていただけるように、
そして更なる恵みの時、そしてやがてのその栄光の時まで、どうぞ一人一人がこの週と共に歩んでいけるように、
また弱きところにもあなたが力を与え支えてくださるようお願いをいたします。
今日もここに集えたことをありがとうございます。弱さを覚えておられる兄弟姉妹方を覚えます。
神様どうぞ、あなたが癒し主でありますから癒してください。
そしてまたそこに立ち会って、主を賛美礼拝できますように。
避けられない事情があって今日ここに集えなかった兄弟姉妹を覚えますが、
どうぞその場にあって、祈り心を持って主を拝し、またそのつこめをそこで成していくことができるように、
感謝と喜びを主に支えるものとしてくださるように、
また今日も十字架を覚え、
イエス様と共にこの十字架の道をひたすら歩む者としてお一人お一人を導いてください。
御言葉が一人一人の心に留まりますように、
語る者を主の御手に隠して主御自身が現れてくださるようお願いをいたします。
03:01
続きます聖三式の上にも主の恵みが豊かにありますように、
イエス様の尊い御名前によってお祈りいたします。
アーメン
こうして礼拝を共にさせていただいておりますが、
礼拝そのものは本当に恵みであります。
しかしもっと恵まれる礼拝をするにはどうすればいいのかということを考えますが、
決して受け身にならないで、
礼拝に行って何かをいただこう、恵みをいただこう、祝福をいただこう、
それも礼拝の素晴らしいところでありますけれども、
しかし本来礼拝というものは捧げるものですから、
精霊の導きで今日ここに礼拝の場に集えた、
そして主に何を捧げましょう。
精一杯の私の持てる力を、それこそ心を込め精神を込め力を尽くして賛美を捧げよう。
精一杯の大きな声で歌詞をすっくり味わい、
そしてその中に自分の思いを込めて、
そして味わいながら、イエス様を想いながら声を出して精一杯主を捧げるんだ。
あるいは今日礼拝で祈りを捧げるんだ。
そして祈りを主に聞いていただく、また主の声を祈りを通して聞くんだ。
それとか御言葉にありますように、
精霊を受けよう、そうだ精霊を今日受けよう、精霊に満たしてもらおう。
そのための礼拝なんだ。
受け身ではなく積極的に主に働きかけて、主に捧げていく。
それは奉仕であるかもしれない。奉仕も強いられてするものではなくて捧げるものだ。
主に喜びと感謝の表しとして精一杯のことをさせていただこう。
こんなものでも用いてくださるならありがとうございます。
私のできることを精一杯この礼拝の場で捧げさせていただきましょう。
そんな礼拝、そういう礼拝が一人一人捧げることができたら、
人数は関係ないと思うんですね。
3人であろうが、15人であろうが、100人であろうが、10,000人であろうが、何万人であろうが、
その一人一人、私は今日どういう礼拝を捧げたのか、それが一番の大事なところだと思うんですね。
人はどうあれ、私は精一杯の礼拝を主に捧げるんだという、
そういう思いで礼拝を捧げていくときに、今までと違うそういう礼拝が捧げることができますし、
06:01
そういう礼拝をしていきますと、礼拝が終わったその時から次の礼拝、
今後の日曜日の礼拝が待ち遠しくて仕方ない、
今日はもっと捧げればよかった、今度はもっと精一杯の、力一杯の、全身全霊を込めた礼拝を捧げよう、
そういう思いが湧いてくるのであります。
そういう意味では、説教者も反省しないといけないと思うんですね。
見言葉を取り継ぐという、そういう使命を預かっていますから、
今日はこの見言葉を精一杯皆さんと分かち合おう、
至らないところがたくさんありますけれども、その中でも精一杯のものを皆さんと共に分かち合いたい、
そしてまた反省もし、あそこは十分でなかった、
でも今度はその次はこういうことをこういう風にしよう、ああいう風にしよう、
そんなことを日々思っているわけであります。
今日の分かち合うこの見言葉は、丸子の福音書の中からのことでありますが、
これは柔軟説のシリーズで来ておりますが、
ヨシ様は自分がなさった予言通りに捕らえられて、そして傷つけられ、痛めつけられ、
そして十字架、刑を受けるというところに追い込まれているという、
そういう状況が今日の箇所でありました。
彼らはイエスを長老してあげく。
あざ笑って、そしてあらゆる限りの、今でいういじめですね、
そういうものをした。
あざけり、罵り、そして鞭打ち、そして殴る、蹴る、
そして茨の冠をわざわざ作って、それを頭にかぶせて、そんなことをしたわけです。
ヨシ様はもうそれこそ顔中血だらけ、体も内の傷がたくさんあって、
もうズタズタにされている、血まみれのような状況の中で、
イエスは十字架につけられるために連れ出されていくという、
そういう状況を私たちは目に浮かべるわけであります。
今日の箇所を開く前に、私たちはこの聖書を読んでいて、
たくさんの言葉に出会いますけれども、
09:01
これはもう何千年も古くからこの聖書が読まれ、
そして多くの人々とこの聖書を分かち合ってきたわけであります。
ところが本来の聖書が言っている意味が少しずつ変わっていき、
あるいは違った意味でそういう聖書の言葉が使われているということも中にはあるんですね。
例えばヨシ様が、「狭き門から入りなさい。」ということをおっしゃった。
その狭き門がちょうど今の日本ではそういう時期にも当てはまると思うんですが、
なかなか入りにくいそういう学校とか就職とか競争率が高い、
そういう状況を狭き門、なかなか狭き門で入れないという、
そういうふうに言われますけれども、ヨシ様が言われた狭き門というのは、
そういうものとは少し違います。
それは聖書を読んでいくと分かります。
あるいは洗礼を受けるという、これもバクテスマ、聖書に書かれているもの、
そして教会でなされている洗礼式のことですが、
洗礼を受けるという、そういうものも違った意味で一般的に使われるようになりました。
これも今のちょうど時期にいいと思うんですが、
高校野球で活躍したそういう学生がプロに入りまして、
そしてあれだけ活躍した高校球児がプロでどれだけやれるだろうか。
ところが試合に出てみると、見事に打たれる。
そういう時に、彼もプロの洗礼を受けたんだなというような、
そんなことを聞きます。
これも違った意味で取られている。
十字架というのはどうでしょうか。
皆様はよくご存知でありますけれども、十字架というのも、
もう一度私たちはこの意味、あるいはその十字架に込められた本当の意味というのを
改めて覚える必要があろうかと思うんですが、
これも新学校の時の話なんですけれども、
食事の時にこのテーブルについていた二人の学生が話をしていました。
実は今度の日曜日に奉仕している教会で、ちょっと証をしてみなさいと言われた。
12:00
いやそんな、まだ一年生でしたことがないから、どうしようかというような話をしている。
そしてそれを聞いていた学生が、それも十字架かなというようなことを言ったわけですが、
たまたま隣のテーブルで食事をしていた校長先生。
聞くともなく聞こえてきたので、このように言いました。
そんなもの十字架のうちに入らないと言ったわけですね。
十字架というのは本当にどういうものなんだろうか。
学生にとっては何かそういう大変だと思うようなこと、いやいやだなと思うようなこと、
それを十字架というふうに表現したわけですけれども、
なぜ十字架とはどんなもんだろうか。
どんなものなのだろうかということを、改めて私たちはもう一度考える必要があるのではないか。
ここにも十字架が描かれていますが、本当にこのきれいな見分かれた、
時にはスチールのきれいな、そういう十字架も見ますし、
ペンダントとかやるようにつける、そんな十字架も見ます。
ただして、十字架とは一体何だろうかということですね。
26節、27節、イエスの大乗書にユダヤ人の王と書いてあったとか、
強盗を一人は右に、一人は左に十字架につけたとありますから、
まず第一は、罪人が背負う十字架というものがあるわけです。
これは当時の死刑の道具として用いられた十字架。
その十字架、それはただ二つの木の柱というのでしょうか、
それを組み合わせたものが丘の上に立っているわけですね。
そこに罪人、罪を犯した人、それも死刑にあたる罪を犯した人が、
そこにつけられるという死刑の道具。
その死刑の道具がこんなツルツルとした磨かれた、そんなところにつけられるはずがない。
ただ柱をそういうふうに切ったザラザラしたような、
棘のついたような、決して磨かれていない、そういう十字架。
それを十文字に組み合わせてしているもの。
死刑の道具としての十字架。
当時はこの十字架につけて、そして苦しめ苦しめ苦しめて死に至らしめるという死刑の道具。
15:05
それはあまりにもむごい死刑の方法でした。
もう見るに絶えない、そして聞くに絶えない。
うめき声をあげる、そして苦しみもらえている、その罪人を見るのは忍びない。
そしてそれこそ昼間であっても夜中であっても苦しい叫び声が町中に聞こえる。
そんな声を聞いて眠れるはずがない、それほどの恐ろしい十字架刑。
それはあまりにもむごいというので廃止になりました。
死刑の道具というのは後、例えばギロチンであるとか、あるいは抗死刑であるとか、あるいは今では電気術とか、そういう風になったわけですね。
一瞬にして死刑囚の命を絶つという、そういうことを今はしているわけです。
しかしこの十字架刑はそうではない。苦しめ苦しめ苦しめて、そして死にいたらしめるという、もう本当にむごい十字架刑。
それがこの十字架であったということです。
そしてもう一つの十字架、それは21節。
アレキサンゼルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が田舎から出てきて通りかかったので、彼らはイエスの十字架を無理やりに背負わせた。
ここに無理やり背負わされる十字架というのがあるわけです。
これは実際にあったことですね。
イエス様が十字架をかすがされて、そしてここにありますゴルゴダの丘というところに向かう途中のことですが、
おそらくそれを見る人たちの人書きができていたんだと思うんですね。
そこにたまたまクレネというところから来ていたシモンがいたわけですが、何をみんな見ているんだろう。
そして人が書き分けて見に行くと、なんと一人の人が十字架を担いで、そして血まみれで歩いている。
倒れそうな状況の中で彼はそれを見ていたわけですが、
おそらくローマ兵の一人がこれ以上イエスは十字架を担いで歩くことはできないと判断したんでしょう。
その時に誰かこの十字架を担ぐ者はいないかということで、
18:01
そこのお前、お前が十字架を担げと指差されたんでしょう。
それがこのシモンであったわけです。
シモンにすれば一体何が起こったんだろう。
私の方に指差している他にシモンというのはいるんじゃないだろうか。
そうすると、いやいやお前だお前だ。
お前がこの十字架を担ぐんだ。
そしてゴルゴダまでこれを担いでいけと言われた。
なぜ自分がこんな十字架を担がされなければいけないのか。
私はただここに通りがかっただけではないか。
このイエスやらも知らないし、何のことか、何が起こっているのかさっぱりわからない。
しかしローマ兵は無理やりにそのイエスが勝ち入れていた十字架を、
このクレネジンシモンに背負わせたという事実があったわけです。
ここにアレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネジンと書いてあります。
クレネジンであるシモンが十字架を無理やり担がされた。
それでいいはずなのに、アレキサンデルとルポスとの父。
ここに彼の家族の名前が記されてある。
これがどうしてだろうかということを私たちは自問しながら聖書を読んでいくときに、やがてそれがわかります。
使徒の働き、使徒行伝の中に彼らの名前を見たり、ローマ人への手紙の中でこの息子たちの名前が出てくる。
それはやがてできるその教会の尊い重要な働き人として、このアレキサンデルやルポスがその名前が記されている。
自分たちのお父さんであるこのシモンは、このイエス様の十字架を無理やり担がされたそのシモンであったわけですね。
何が起こったんだろうか。シモンの中に何が起こったんだろうか。
無理やり担がされたその十字架を通して。
このシモンは当時は信仰がなかったでしょうし、イエス・キリストもどういう人なのか知らなかった。
しかしこの十字架を担がされ、そして一緒にゴルゴダの丘に行き、そしてそこで起こった出来事を通してこのシモン自身が変えられたわけです。
彼に信仰が与えられたわけでしょう。
その信仰がやがて家族に及びおそらく奥さんに及び、そして息子たち娘たちに及んでいった。
21:03
そしてやがてこの教会の中の重要な中心的な働きをする人たちとなっていった。
家族が皆このイエスを死と信じる者たちへと変えられていったという、その証としてアレキサンデルト・ルポストの父、そのシモンがイエスの十字架を無理やり彼に背負わされた。
これに類する多くの証がこの教会を通して語られてきました。
おそらく皆さんの中にもそういう証を持っておられる方もおられると思うんですね。
無理やり十字架を背負わされた。
私たちには何でこんなことをさせられるのか。何故無理やり十字架を負わせられるのかというようなそういう出来事が起こった時に、その時は分からない。
ただ何故ですか。どうしてですか。何故私なんですか。
そういうことが起こる時に、後わかるでしょう。聖書は言うわけですね。
その無理やり背負わされる十字架を通して神は何かをご計画なさり、そしてやがての時、それが周りの人たち、自分の愛する者たちにその恵みが及ぶように、そして皆がそのことを通して救われるように。
諮問もその時分からなかったんですけれども、後、家族皆が礼拝に行き、教会の働きをし、そして人に伝える。
そういうものを見た時に、このあの時、無理やり背負わされたというのも、神様の御心として自分に与えられた恵みであったんだということが分かったわけです。
三つ目。三十節三十一節。この頃に十字架から降りて来いとか、十字架から降りてもらおうか。そういう風に書いてあります。
この言葉の意味はまさに死刑の道具としての十字架。しかし私たちは聖書を読んでいくうちに、この十字架というものがただ死刑の道具ではなく、これは何か別の意味を持っているのではないかということが分かってきます。
これを神の奥義といいますが、その目に触れるもの、目に見えるものは現れていないんですけれども、その奥に、それこそ奥に隠されたものとして、本来の意味とか神様の計画とか、そういうものが隠されているんだ。
24:15
ですから、ここに救ってみようという言葉がありますが、この十字架形を見ている最初立法学者、あるいはローマ編、あるいは群衆の人たちが見ているこの十字架と、そうではない神様の奥義としての十字架というものがあるということを私たちは知るわけです。
ですから、福音書に現れている十字架はまさに死刑の道具としての十字架。しかし後、パウロなどが書いてある手紙、その中に十字架というのが出てきます。
それはどうもこの死刑の道具としての十字架ではない。何か別の十字架として書かれているということがわかるわけです。
それは救いの十字架。なぜイエス様が呪われ、痛みつけられ、苦しめられ、そして罪を犯していないのに十字架形につけられたのかという、それを私たちは後知ることができるんですけれども、それは神の愛がそこに表されたという。
それが神の奥義である。十字架を通して私たちが救われるということがこの十字架の意味であるということがわかってきます。あるいは身代わりの人としての十字架、そういうことも意味としてあるわけですね。
はっきりとイエスには何の罪も認められない。それなのにイエス様は十字架形で、そこでその罰を受けて命をそこで捨てられた。あるいは捧げられた。それは事実です。しかしそこに隠されている神の奥義としての十字架。
それが神の愛であり、神の救いである。そういうことを聖書を読んでいくとわかります。
イエス様を語る時に決して外してはいけないのは、それは罪ということですね。人間が持っている罪。この罪というのは神様の御心から離れた生き方をすること。
神様が願っていることではないことを、私たち人間が勝手にそういうふうにやってしまう、言ってしまう、生きようとする。それを神様は忍耐をもって見守り、そして常にそうじゃないよ、それはいけないよをたたりかけ、導こうとしておられる。
27:17
しかし私たちはそんなものを聞く耳もない。そんなものに従う思いもない。私はこうするんだ。私は勝手にこうして生きていくんだ。そういうものを含めて罪というわけですね。
それは神様にとっては心の痛むこと。それを本来ならば神の御心に沿わないことをしているということは罪である。罪に対してはその報酬として償いをしなければならない。
それが十字架系であるとするならば私たちは十字架系にそせられなければならない。それほどの罪を私たちは犯してきたんだ。あるいは今も犯しているかもしれない。神様の目にはそう見えるわけですね。
私たちは人間の弱さとしてそれがわからない。そのこと自体も私たちの罪であるわけです。その罪に対してはその償いをしなければならない。
その罪は神の御心に背くというその罪は十字架系にも値するものなんだということを私たちは認めるときに神様の恵みと祝福があるわけです。
私たちは黙想のうちに十字架を見上げ、またその十字架を心に今思い浮かべるときにどんな光景がここに映るだろうか。それこそ荒削りの二本の柱が十文字に組み合わされている。それがそこに横たえられているわけですね。
ここであるならばゴロゴロの丘にそういう十字架が横たわっている。そしてそこにつけられる罪人、罪人であるこの私がそこに連れて行かれる。
そしてそこに寝かされるというのでしょうか。十字架につけられるわけですからそこに貼り付けにされるわけですね。まずそこに寝かされて、そして縄で結びつけられるとか、あるいは神様のように手足を釘で打たれて固定されるわけですね。
30:03
一説によるとちょうどこのお尻のあたりに何か立てたときにそれが引っかかるように何か突起のようなものが少し出ているというふうにも言われています。
それはやがて立ったときにずるっと落ちてしまうのでそれを支えるようなものがここについていたんだろう。そういうふうにして十字架にかけられています。
それはまさにこの罪人と罪人である私がそこにつけられているわけですね。そしてつけられ終わったその十字架はみんなの見せしめのために立てられるわけですよね。
どういうふうに立てられたのか、それはわかりませんけれども、例えばこのてこの応用を用いるならば、おそらくその一番てっぺんか、あるいはそれをみんながずっと縄かロープで引き上げるとずっと上がっていくわけですよね。
そこに間違いなく罪人、償いをしなければならない私自身がそこについている。そしてその十字架がずっと立て上げられていく。そういうときにふと見上げるとそこについているはずの自分がそこにいない。一体どうしたんだろう。
そこにつけられているのは間違いなく私であったのに、今見るとそこにつけられているのは家様である。私は一体どこに行ったんだろう。今ここにそれを見上げている私がここにいる。これは本当に不思議なことですよね。
さっきまであそこで寝かされて十字架にかけられた。それはまさに私であった。しかし今十字架が立て上げられて見上げたときに私はここにいてユス様があの十字架にかかっている。これが私たちのうちに起こった。ユス様は何かおっしゃっている。私たちはそれを聞こうとする。一体これはどうしたことなんでしょうか。
私がつけられたはずなのに、今こうしてみるとユス様がそこにかかっておられる。ユス様はこれ一体どういうことなんでしょうか。ユス様は何か言おうとしておられる。それを静かに聞くとこれでいいんだ。これでいいんだ。お前はもう十字架につけられたんだ。
そして今私はあなたの身代わりとして十字架にかかっている。命を捧げるべきはこの私であってお前ではない。お前は生きなさい。その代わりに私が死にますから。それがユス様の答えなんですね。
33:11
そんなことあるはずがない。実際にはそんなはずはないでしょう。でも私たちが精霊に導かれて、そして聖書を通して私たちに語りかけている神のお声と神の私たちへの語りかけはそうなんです。我キリストともに十字架につけられた。私は間違いなく十字架につけられたんです。
しかし今生きているのはこの私。ユス様が家にいてそして生かされているこの私。そして実際に十字架について今命を捧げてくださったのはこのイエス・キリストである。その精霊の導きに私たちは今ユス様とともに十字架にあるわけです。
これが愛の象徴としての十字架。それを後、弟子たちやこのキリストを信ずる人たちが印として、この神の愛の象徴として、神の救いの印としてこの十字架を掲げたわけですね。
それは決して別に荒削りの等身大の十字架を掲げるということではなくて、文字でも絵でもいいです。こういうものでもいいです。
そういうものを自分たちのシンボルとしてこの十字架を覚え、そしてそこに私の身代わりとして死んでくださったイエス様を覚える。この十字架を通して私は神様に愛をいただき、神様から救いをいただいたと信じて生きている。
そういう救いとしての十字架が聖書に約束されているということです。
もう一つの十字架は、今度そういうふうにしてこの十字架を自分の内にしっかりと抱き、そして自分の中に刻みつけた人たち。その人たちが今度その使命に生きるための十字架を共に追っていくということですね。
ミッションといいますが、誰でも私についてきたいと思うなら、自分をつて自分の十字架を追って私に従ってきなさい。
この自分の十字架を追うということは何だろうか。本来自分は神様の御心に沿わないことをしてきた自分、それは罪人であって、そして本来十字架につけられなければならないにもかかわらず生かされ、そして今こうして用いられている。
36:08
そこにはやはり何らかの意味があるんだろう。そういうふうに思うんですね。その使命、あるいはミッションといいますが、それは一体何だろうかということを考えます。自分の十字架を追って私に従ってきなさい。
これは後キリスト社、クリスチャンともいいますが、そういう人たちの生き方を言っているわけですね。ですから本来クリスチャンとかキリスト社と言われる人たちは、これもどんどん意味が変わっていって、私たちは時々間違ってそれを解釈しているのではないだろうかと思うんですね。
キリスト社というのは、こうしなければならない、こうでなければならない、そういうものではないわけです。
自分が本来罪人であり、そして十字架刑にも値するほどの罪を犯してきた、そういうものが私が命を捧げることをしないで、イエス様が代わりに十字架に就いて、その罰を身代わりに受けてくださった。本当に私はこうして救われた感謝です。ありがとうございます。
このお方をこれからも私の神と信じて生きていきます。このお方に従って、そして救いと神の愛をいつも自分の中に覚えて、そしてこれから生きていきますという、そういうものがキリスト社でありクリスチャンであるということですね。
こうしなければ、ああしなければ、こうでなければ、それはまた後からついてくるもので、それは精霊に導かれてするものであって、できることもあるしできないこともあります。そんなことは問題ではないわけです。
この私がどう生きていくのかという中で、このお方を私の師として生きていこう。そして十字架は私を救ってくださった救いの印であり、また神の愛がそこに表されている、その十字架をいつも私の心に覚えながら生きていきますという、そういう人たち。それがキリスト社であるということ。
そういう人たちに与えられた使命、ミッションというものがあります。これはミッションというのは、特にこの全権大使として使わされるという、尊いその使命、大変名誉ある、光栄ある務めであるということですね。
こんな私が全権大使として用いて、そして使わされるんだ、本来罪人であり十字架にもかからなければならなかったそのものが生かされて、神様を用いようとしている。これに意気を感じないものはないわけですね。
39:15
こんな私が、そして自分のために命を捨てて身代わりとなって死んでくださった。このお方に私はすべてを委ねて、この方のために何かできることはないだろうか。意気に感じるという、そういうものが私たちの中に湧いてくる。それが神様から与えられているミッションであるわけですね。
そして同じように、あなたたちと同じように今世にはたくさんの罪人がいます。自分勝手に何もわからずに生きている人たちがいます。あなたもそうであったように、その人たちにもこの神の愛と神の救いを知らせ、そしてその人たちがまた帰られて、そして神様の器として用いられていくように。
あなたは生きなさい、出て生きなさい、そしてそれを鍛えなさい。そのための十字架を掲げて生きなさいという、これがキリスト社に与えられているミッションであるわけですね。これは決して重荷とはならない。ただただ感謝と喜びをもってそれをさせていただくという、そういうものに過ぎない。
そういう生き方を与えられたということを感謝していく。それがキリスト社であるということ。
今日はこのカルバリの丘に建てられた三本の十字架の真ん中にあらてつけられる家様。そこに私たちも共にこの十字架を覚えて、この十字架をさらに深く覚えるものとさせていただきたいと思います。お祈りをして聖三式に入らせていただきます。
天の父なる神様、今日は十字架をもう一度覚えたことであります。この十字架に隠された神の奥義、神の愛とその救いがあったということをもう一度覚えて、この神様の恵みと祝福に生かされ、
そしてまたそこに私たちの生き甲斐を覚え、そしてこんなものをも用いてくださるこの種の憐れみとまたご愛を覚えて、それに応答していくものとして一人一人を用いてくださるように。続きます聖三式の上にも、豊かな恵みがありますように、神様の尊いお名前によってお祈りいたします。
42:06
アーメン
42:08

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