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おはようございます、小松でございます。
今日もね、お部屋の中からね、撮っておりますよ、ということで。
今日ね、京都人っていうわけじゃないんだけど、僕はタンゴ人なのね。
タンゴって京都の北の北部のところだけど、そこで18年育って京都で1年間浪人して、
いろいろ回り巡って、30歳の時に京都にね、
その前はあれだ、京都芸大ね、京都市立芸術大学に26から28まで2年間いて、
それで30の時に、成果大学にね、赴任した時から今までずっと25年間ね、京都ということで。
だからね、もう30年ぐらい京都にいるんだけど、でもタンゴ人よ。
でもね、そこまでいると京都っぽいよねって感じでね。
京都的な音の考え方というかマナーみたいなものをね、ちょっとあの、
辛辣な状態だけどね、京都の街の一角に住んでいるので、
いろいろ音は聞こえてくるところでね、感じるところを今日喋ってみたいなというふうに思います。
それでね、よくある京都のみならずの話なんだけれども、
公共空間の過剰なアナウンスってあるじゃないですか。
例えばエスカレーターは立ち止まらずに上がってくださいとかね、
電車が来ますので白線か黄色線の内側に下がってお待ちくださいとかね、
この場所はお静かにしてくださいとか、いろいろこう、
それが録音されたアナウンスもあるし、生身の人間のアナウンスもあると思うんですけどね。
そういうね、看板であるとか、録音された人の声とか、
生身の人間の覚醒された声っていうのが本当にたくさんあるんだよね。
それがね、もう本当に環境を汚してるような気がするんですよね。
汚してる木じゃなくて、汚してるんですよね。
本当それはね、どこでもそれは日本ではあるし、
中島義満先生のね、哲学者のうるさい日本の私っていうね、
超超超有名な1990年代のね、辛辣な本がありますけれども、
それはもうね、そういうところを一切、うるさいからもうね、
止めろ止めろってね、中島義満さんは言ってるんだけどっていうね、
文句ばっかり言ってるんですよ。文句じゃないんですよね。
そこの哲学的な思考によってそこの責任の主体ですよね。
ただために一応こうフィールドワークをされているようなそんなね、
お話の本ですごく有名な本で、僕もすごく共感するところが多いんですけれども、
結局まあそれらの本もね、含めてもうね、
責任をね、パーティーするために何かが起こった後で、
何かこう何もしてないんじゃないか、こう異性者はとかね、
公共空間の公共団体の人は何してるんだみたいなことをね、
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言われないようなエビデンス作りで音が使われてるっていうのが結構ありますよね。
特に公共交通とかね、さっき言ったような公共施設とか、
公的じゃなくて商業的な部分においてもエスカレーター諸々のね、
危険が何か伴いやすいようなところに音が出てるんですよね。
するとね、静寂がいいかどうかはまたこれも価値観ではあるけれども、
明らかにその音が巷にむちゃくちゃ溢れ返っているという、
しかもお静かにしてくださいっていうところもありますよね。
例えばクラシックコンサートのコンサートホールの中とかですね、
あと静寂を求めるような場所っていうのがいくつかあると思うんですけどね、
例えば庭園なんかそうですよね、静寂を大事にしてるようなところの庭園でも、
説明の、昔はテープって言ったけどね、
今はICレコーダーみたいなものが音を出してるっていうのがいくつもありますけれども、
これがね、結局静寂の押し売りでその音自体が静寂じゃないんだろうっていうね、
そういう矛盾があるわけですよね。
それを僕はいちいちイライラしてたら身が持たないから、
自分の中でスルーしてるっていうのがありますよね。
それって僕だけじゃなくて、あなたもそうじゃないですか。
そういうのがあった場合は聞いて聞かぬフリをしてるだけみたいなね。
そういうね、小エネみたいな感じになってることがめちゃくちゃ多いんじゃないでしょうかね。
それによってなんかね、耳が塞がれてるんだよね。
本質じゃなくて、なんとなく生きていくというような
小エネの頭とか耳とかね聴覚が形成されてるので、
ちょっとやそっといろんな音があるけれども、
まあいいかっていう風になって結局騒音が増えるっていうね、ところなんですよね。
本当になんとかしてほしいという、特に聴覚過敏の方とか、
僕なんかもそういうところあるけど、音が入ってきたら影響されるんですよ。
そこは頭の中でノイズキャンセリング、ノイキャンできる人がいたらいいんだけど、
大体の人そんなことなくて不器用じゃないですか、それね。
そういうのがね、ちょっとね、多すぎるなって静寂を求めに京都に来てるんだけれども、
観光客とかね、オーバーツーリズムの方々はね、
めちゃくちゃうるさくて消しからんとは思うんだけど、正直。
でもね、その公共空間が出してるような音のマナーっていうのを、
押し売りしてることによって音が多くなってるっていうところがね、
どうしてもあるんじゃないかなっていうふうに思うんですね。
それがね、多分異性者とかね、管理する人はね、やりやすいんですよね。
効果があるって言ったほうがいいのかな。
視覚的に、例えばデジタルサイネージでお静かにしてくださいっていうね、
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そういう画像とかね、動画がふわーっと流れていたとしましょうよ。
でもそれってね、高速力ね、弱いというか、
アテンションね、注意力あんまないと思うんですよね。
無視することができるし、音はね、四方八方から入ってくるから無視できないけれども、
視覚って自分の目の後ろって見えないから、
いわゆるスルーしがちになっちゃうんですよ、視覚情報っていうのはね。
そういう吸引力が弱いので、安直に音に頼ってね、
注意することによって音がうるさくなるっていうね、
悪循環があるんでね、これもうどうしようもないなみたいな感じですね。
京都のみならず日本、他の海外どうなんでしょうね。
僕たくさん海外行ったことないから分かんないけど、少ないんじゃないですかね。
よくあるのが海外でどこかもよく知らないけれどもね、
なんかウロウボイの言葉かもしれない、話かもしれないけど、
電車が発車するときに、日本の電車ってすごいことアナウンスするじゃないですか。
まもなく2番線から各駅停車の西若石行きが発車しますみたいな、
ドアが閉まりますとか、白線の内側にとかね、
そこでピロピロピロみたいな発車メロディーが鳴ったりね、
ごめんね、僕発車メロディー作ってる1人なんだけど、
それちょっと自己矛盾になるけどね、
それになって音を出しながらそれで行くっていう感じで、
発車するんだっていうのが分かるじゃないですか。
でも海外っていきなりスーッと発車するよ、スーッてね。
そこであー発車したみたいな、言ってくれなくちゃ困るっていうようなことは、
これも国民性とかっていう言い方にしたくないんだけど、
自己責任的な感覚っていうのがやっぱあるんじゃないでしょうかね、海外は。
どことは言わないけどね。
二言論はめちゃくちゃ大嫌いなんだけど、
それで比較してね、よくしましょうってことは言いたがないんだけど、
そういうね、精神性っていうのがね、やっぱね、
受け身でなんとなく生きてるなみたいなところがね、
どうしてもあるんじゃないかなっていうふうにね、思ったりしますね。
ということで今日はね、京都的なマナーって言いながら、
まず静寂のね、押し付けみたいなものをね、話してみました。
また次はね、京都的なマナーで、
今度はコミュニティとかその辺りのアコースティックコミュニティの話をね、
したいなと思っております。