00:01
はい、おはようございます。小松でございます。今日も歩きながらの配信で、前回、藤澤先生の不法な話をしたんですけども、
第2弾というか、後半戦の話をしていきたいなと思いますね。3話になるかわかんないけど、2話で多分終わるかなと思うんですけども、
前回は、大学で一番ゼミに入りたい先生のところに入って、それで研究が面白くなったなっていうような、そういう感じの話をしてみました。
そこからの繋がりでもうちょっと深掘りしたいんだけど、研究が面白いっていう風に感じたのは、何でかなっていうのを、やっぱりすごく言語化するの難しいんですよね。
でね、それがその大義名分とか理想とかね、そういうところじゃないなっていうふうに思うんですよ。
まあ、はっきり言うと自分のビーングね、ビーのあたり、自分らしさとか、自分の根幹とかね、地金のところをやっぱり満たす感じがしたんでしょうね。
それでね、前回言ったけど、農学部というのは実務的な分野なので、Doが多いんですよね、Doing。規定があったり、計算があったりね、法律、法則があったりね、そういうのがあったりはするんですけど、
今ちょっとごめん、英字がちょっと通りましたけど、そういう法律のところでね、いろんな計算式があって、Doingね、Doが多いんですよね。
で、その中でやっぱり藤沢先生はね、やっぱりビーングの方の立ち位置がすごく多かったなっていう、Doingもされるんだけど、結局自分のビーングのところにやっぱりなんか刺激を与えてくれたのかなっていうふうに思うんですよね。
それで、受験勉強をして大学って入ることが当時はあって、今は全然その辺りが対応化して、そればかりじゃないんだけど、かなり大学入りたかったところが農学部だったんで、特に第一志望が明治大学だったんですよね。
それでね、1990年度の入試って、史上最大の人数なんですよ、受験生がね。だから20倍30倍ぐらいの、40倍はなかったかもしれないけど30倍はあったよね。
そういうところの難易度が激高いっていうところで、僕なんか受験の勉強の頭じゃなくないしね、きつかったんだけど、本当にまぐれで、ちゃんと地道にやりましたよ。地道にやっても入れるわけじゃないっていう難易度だったんですけど、でも入れたんですよね、明治大学に。
それでね、受験を通り越してやっていく中で、やっぱりね、周りもそうだし僕もそうだけど、ドゥイングやっぱり多いんじゃないかな、これをすべきとかこれしないと大学に行けないとか、入ったからありがたいんですけど、入ったら入ったらなりにね、必修科目がある。
03:08
点数はどうでもいいのかもしれないけど、それをね、コツコツと取っていって積み上げてようやく大学卒業するっていう風になるわけなんですけど、成績はね、結構良かったんですよ。よく、教育懇談会とかね、ありますけど、それで一度ね、父が行ったときに、めちゃくちゃ小松さんはいい成績っていうふうに。
優良化っていうやつがあるよね。ほとんど優だったんで、たまに負荷が1個か2つぐらいだったかな。理習、もう1回取り直しましたけど、ほぼほぼ優だったよね。そういうようなところがあって、別にそれがね、自慢とかそういうんじゃないんだけど、やっぱりドゥイングなんですよね。
なんかね、うまいこと飼いならされていてですね、僕はそれがドゥイングじゃないんだよね。今の価値観、本当にもう先祖帰り、子供帰りしてるかもしれないけど、やっぱドゥじゃなくてビーなんですよね。だからね、ビーっていう潜在的な大事な部分を気づかせてくれたっていう意味ではね、やっぱすごく恩師ですよね。
だから大学卒業したらね、地元の市役所の話もあったし、ちょっとね、大声かかって市役所に来ないかっていうようなね、そういうなんかお誘いもあったんですけど、ちょっと断ってしまってですね、やっぱ大学院に行きたいなっていうふうに。
それからね、大学院を明治大学で2年、そして京都市議会で2年、そして半大で3年くらいして、大学院を入団院という変な言い方ありますけど、そういうふうに進めていったんだけどね。
そういうふうに振り切っちゃったというか、レールを外すというか、違うレールを見つけてそこから分岐して、細いレールで不安定なんだけど、それを信じて動いていったっていうのが多分藤沢先生から気づいたね。
別に先生は大学院行ったらとか研究したらって一言も言わないですよ、全く。でも自分から動き出したっていう、そういう勇気を与えてくださったっていうのがね、やっぱり先生なのかなというふうに思いますね。
とはいえですね、Beingだけでは研究できないじゃないですか。だからやっぱりDoの頭もやっぱりあってですね、Doがないとここまでなかなかいけないですから、毎日一つ一つこの研究の素材を、例えば本100冊読むとか、あと研究方法を自分なりに精査して、この研究方法でいくとか、それをちょっと事前でプレ調査するとか、
写真撮るたびに警官の、それで少しフィールドワークするとかね、いうことはあると思うんだけど、その作業一つ一つをリスト化して、それがクリアされていくっていうね。
06:08
それなんかね、ゲームをやってて、ゲームの様々な、いろんな困難なところあるじゃないですか。それをクリアに克服していくっていうね、ちょっとしたゲームに近い感覚がどうしてもあったんですよね。
だからそういうゲームをクリアするような快感というか、精神的な充足感っていうのが、やっぱり研究のBeingをしている中で、Doも満たされみたいな。
そういう循環の中で気がついたら、地元の天橋建ての警官研究をやって、先生も来てくださったんですよ、宮津までね。川崎から宮津までわざわざ。
いろんなところをご案内したりとか、稲で泊まってもらったりとかね、そんな風にして、すごく良い付き合いをさせていただいたところもあったりしました。
あとね、遠出で言うとゼミ旅行があったんですよ。先生も農村計画の専門家でもいらっしゃるので、いろんなところのフィールドワークをされることが多くて、その拠点の一つが山形県の佐貝市っていうのがあって、
寒い川の鋭都会で佐貝なんだけど、そこにね、先生がずっと通い詰めている村があるんですよね。火葬地域にいるときにどうしたら火葬が免れるというかね、その中でも人は生きていけるのかということで、
まあこれ前回ハードウェアの話したじゃないですか。でもね、大事なのはやっぱりね、メンタルというか精神なんですよね。ソフト的なものがちゃんとうまく機能していないと、やっぱり満足しないわけでしょ人って。
その一つの現れというか、外在がされるものっていうのがやっぱりですね、景観なわけですね。一つのサインというかバロメーターというか指標というかね、そういうものとして景観を尺度というかね、そういうものとして見ていくと、もっとこの地域にいたいとかね。
ここからちょっと離れていこうとかっていうのが、わかるんじゃないかっていう仮説を先生持っていらっしゃったんですよ。それがね、景観はしそうだっていう言葉なのかなというふうに思うんだけど。
そんなあたりをね、やっぱり自分なりに考えたときに将来的に僕はですね、その後農村社会学も研究ね、分野ちょっと移動して、そしてさらに藩大とか京都芸大では環境心理学とか音響心理学とか、いわゆる実験心理学のほう行ったんですよね。
そういう人の精神とか心理の変化っていうのがその刺激ね。刺激は視覚的なものもあるし、サウンドスケープみたいな聴覚的なものもありますけれども、そのあたりの差分によってどれだけ心理量が変わっていくか、その相関関係を見ていくっていうのが研究なんですけど。
09:18
そのあたりの手法とか分野をね、自分でそれも決めていきましたけどね、その根幹となったのがやっぱ藤沢先生のね、景観はしそうなんだみたいな感じなんですよね。
そういうところね、土台ね、これこれしなさいとかね、なんとかってDoは一切言わないんですよ。それなんていうのかな、口癖なんていうのかなっていうね、僕に言わせればって言い方をするのがまたちょっと臭いというかね、すごいなんかね、含みがあるんですよ。
含みがね、ちょっとこううんちくというか含みというか、まあこれ先生も亡くなったからなんか悪口になるかもしれないけど、まあなんかね、人を惹きつけるなんかがあるんですよやっぱりね。そういうところがね、やっぱなんか僕は惹きつけられてしまって、特に若い時ってそういうのを惹きつけられることが多いじゃないですか。
だからね、そういうふうなところが良くもあるし悪くもあるっていうわけじゃないんだけど、まあ研究とかね、この分野に行こうかなと思って。サウンドスケープの研究もね、そんなの研究するためにどっか行きますじゃなくて、やっぱりこの藤沢先生の感覚があったからやっぱりやろうかなと思ったし。
そういう出会いってありません?人って。なんか自分が根幹から変わるというよりも自分の根っこが見つかってそれでこの方向で生きていこうっていうふうに確認をするような、そういう人っていますよね。僕は結果的にね、そういう人になってしまってるんですよ。
やっぱり多くの人にそういうきっかけを提供したりとか、人生変わったって人もたくさんいらっしゃるし、音楽ね、演奏僕ピアノしますけど、そういう時でもそういうのがあったりとか、そういうね、伝道師と言い方は大げさだけど、そういうふうに今させていただいているのはやっぱり藤沢先生の影響が強いなと思いますよね。
そういうことがあるので、いろんな僕の進路もね、今、聖火大学で25年ありがたく仕事させていただいてますけれども、それが続いているのもやっぱり根幹で言えば藤沢先生のおかげであるし、自分の努力とかそういうのももちろんあるんだけど、そこを好き勝手にさせていただいたっていうのはね、ひとえに心の自由を与えてくれたって感じかな。
藤沢先生のおかげかなと思って。後半は僕は就職した後、警官学会っていうものを立ち上げて、日本警官学会。会長もされて、事務局もずっとされててですね。奥様が事務局の実施的なことをされてて、本当に功労者だと思うんですけど。
12:17
何度か兄弟で研究会やったときも、相当いろいろ僕も関わらせてもらったり、何度も僕も研究の論文を出したりもして、いい交流させていただいたんですよね。
黒川貴昌さんという方がいらっしゃる、今亡くなりましたけど、警官学会にも割とつながりがあって、僕は藤沢先生に大学1,2年生か3年生のときに、教制の思想っていう黒川貴昌さんの本僕すごく好きで、先生にちょっと見せたんですよね。
こんな人がいるんだ、なんていうのかな、思想的なものとしては彼素晴らしいと思うよ、みたいな偉そうなことを言ったら変だけど藤沢先生おっしゃってですね。それがご縁か分からないけど、黒川貴昌先生が学会長だったり、僕も何度か話をしたりとかしたこともあるし、
ご縁をつなげた、僕は黒川先生と藤沢先生をつなげたのかもしれないなというふうなところを思ったりとかしましたし、大きな転機というか、自分も道が55歳ですからね、55というか、その転機をやっぱり僕も迎えているのかもしれないですね。
ある程度先生の年齢ぐらいの時に僕は大学で先生の授業を受けたので、ちょうど56代、午前後ぐらいだったと思いますよ。この時に小松が大学3年生だったのかな、みたいなことも思うしね。
いやー本当年取るってやっぱすごく年齢重ねるような気持ちで、やっぱり転機はあるし、それでも変わらぬものもあるし、大きな反数する、これまでの決して短くはない自分の人生を鑑みるきっかけになったなと思って、本当に心からご冥福をお祈りしたいなということでね。
今日も藤沢先生との思い出をね、ちょっと喋ってみました。