精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。この番組では、精神科医療を作った人々、現代の精神科トピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で現在、開業医のマリモと、
その姉で、障がいを持ちの方の就労支援事業を所経していて、つい先日、4ヶ月の初孫が、キャーキャーとぬいぐるみに向かって話しかけている様子を見てキュンキュンした桜がお送りします。
心の傷を癒すということを見てみようです。なんか精神科っぽい話になりそうです。これは?
はい、ありがとうございます。今回、安勝雅先生の心の傷を癒すということっていう本があるんですけど、
プラスそのドラマ、NHKでドラマ化されてて、映画館にもなってたんですけれども、それをですね、今年私が触れる機会もあったので、話そうかなって思うんですけれども、
まず最初にですね、話っていうのは、この震災などの心の傷の話をしていくので、今現在心の傷で苦しんでおられる方は、もしかしたら聞いていると辛くなることがあるかもしれないので、ここでちょっとそっと止めていただければなと思います。
そうですね、しんどくなったらそこでやめていただいてもいいですね。
はい、よろしくお願いします。
前回の続きからお送りします。
安先生が患者さんに実際に関わられて、治療に関わられた後ですね、この阪神大震災で心の傷を負った方々っていうのを、どんなふうに、もちろん病院で安先生自身は治療していくことにはなるんだけれども、
それだけで足りるのかっていう問題も当然出てくるわけですよ。
2年後、安先生が取材を受けるんですね、新聞社に。
新聞記事が載っているんですけれども、ちょっとそこのところ引用したいなと思うんですけどね。
阪神大震災から起こって、2年後の5月のアサイ新聞の記事が、
第一に深刻な心の傷・トラウマを受けた人たちへのケアが必要である。
第二に生活再建の行き詰まりという問題がある。
どちらも長期的で解消・解決の難しい問題である。
このような苦悩は単に心のケアの技術論で解決できないと私は思う。
少なくとも被災者に住む人は、どれだけ復興が進んでも苦悩する人たちの存在を決して忘れてはならないだろう。
専門家の心のケアのレベルを超えて、政策・立案という次元から他人への気遣いという次元まで、
様々なレベルでのケアを考え、実現することが必要なのだと私は考えている。
という文章を持っています。
アン先生は、診察室だけじゃなくて、その人が生活する中での社会の動きというのも大切ですよね、
ということを書いてくれているんですよね。
だから僕らとしては、傷ついている人がいているという意識を忘れないことが大切なのかなと思うんですよね。
本当に日々安全に安定して過ごしていると、ついついみんなこうだろうみたいになっちゃいがちですけど、
本当に苦しみをまだずっと引きずっていらっしゃる方はいるということですもんね。
そうなんですよね。
大きな震災とかっていうと、もちろん分かりやすい一つだし、大きな戦争でも一つですけれども、
でも個人的にそれぞれ大きな傷を負っているという可能性がありますしね。
例えば個人的に事故だったりとか、暴力だったりとか、いろんな心の傷を負う方っていうのはあり得るので、
そういった方っていうのがもしかしたら身近にいるかもなぐらいの気持ちっていうのは大切なんですよね。
心の傷っていうのは見えないこともあるので、そういった感度が高くなるのが社会としての進化なんかなとも思うんですけどね。
そうですね。意識を持てる人をいかに増やすかということですよね。
この新聞の文言の中の政策立案っていう次元から、隣人、他人への気遣いっていう次元までって書いてあるじゃないですか。
この政策立案ってすぐわかりやすいんですよね。ニュースとかで出るし、こういうことをやろうよって文言にできるんですけど、
この隣人への気遣い、横にいる人への気遣いって、これねすごく難しいことだと思うんです、実は。
できるっていうか、小さい時から環境的にそういうのに触れて気遣いっていうものを知れた人、わかった人はいいんですけど、
これ本で勉強したり、その政策立案で何かこう誰かに説明してもらって理解するっていうものではないので、
すごいこれは教育というか赤ちゃんの時からの積み重ねなので、これを本当に忘れずに、今ちょっと日本人いろいろなってきてるので、
まず自分っていうふうになりがちなんですけど、これは忘れずにずっと教育は続けていってほしいなって思ってたことなんです。
PTSDを受けた方への気遣いというところからのスタートで、それも含めてやっぱりこの人への気遣い、言葉もないふうになりうるっていうところもそうなんですけど、
やっぱり丁寧なお付き合いというか、いい距離感というか、意識をしていく人を増やしていけたらいいなって本当に思ってます。
例えばちょっとした本当に声かけとかね、席を譲るとか譲られるとか、こんにちはと声かけするとか、
そのレベルがちょっとまた変わってはいいし、少し人への気遣いっていうのがそれぞれできる社会っていいですよねっていうところですけどね。
これがやっぱりないと、PTSDで苦しんでる方のこの苦しみに気づくっていうアンテナがすごく立ちにくいだろうなって思います。
そうですね。それがあると自分も心の傷を負う可能性もあるし、もっとあと癒されやすい社会になってるわけなので、そういう社会になれればね、やっぱりいいかなと思うんですけどね。
いいなって思いますね。
そういった社会のことを、このアン先生が書いてるのは品格っていう言葉を使ってましたけどね。
素晴らしい。
社会の品格ですというようなことが書いてたと思うので、やっぱりそういうのを高めていくっていうことがね、やっぱり大切なのかなと思いますね。
あとですね、もう一個あるんですけど、もう一個はですね、僕たちにというか、心にケアにあたる精神科医とかカウンセラーとかにやとは思うんですけれども、
まあそれのちょっと重い言葉なんかなっていうことがあってね。
ちょうどアン先生が亡くなる年の半年ぐらい前ですわ。
多分アン先生がガンと告知されて、投票されておる頃に書いた文章だと思うんですけどね。
ちょっと読んでみますね。
阪神大震災は人々の心をどう変えたのかっていうことの文の一部なんですけども、
被災体験の心理的側面とは、それは心の傷や苦しみだけではない。
なぜ他ならぬ私に震災が起こったのか。なぜ私は生き残ったのか。
震災を生き延びた私はこの後どう生きるのかという問いが、それぞれの被災者の中に回答のないままもやもやと渦巻いているのだ。
この問いに関心を持たずして心のケアなどあり得ないだろう。
苦しみを癒すことよりもそれを理解することよりも前に苦しみがそこにあるということに我々は気づかなくてはならない。
だが問いには声がない。それを発する場を持たない。
それは隣人としてその人の肩腹に立たずんだとき初めて感じられるものなのだ。
臨床の場とはまさにそういった場に他ならない。
そばに立たずみ耳を傾ける人がいて初めてその問いは語りうるものになるものとして開かれてくる。
あんまりわいわい言わずにそばに立たずんで話を聞けということを安先生の姿勢として書いているのですが、
多分ずっと彼はそうしていたんだろうなと思うんですけどね。
映画の中でもそうでしたね。
そうでしたよね。そこがなかなか今の僕の診療スタイルではできないなと思っていて。
時間に追われていて、患者さんが来ているのであんまり待たせてもと思うし、
いっぱい時間をかけた後で自分にできることなんてそんなにないよなと思って、
5分ぐらいで話を切り上げてしまうということが毎度毎度なので、
いろんな診療をやっているので本当につらいなと思っているのですが、
これも事実かなと思うんですよね。
でも安先生がおっしゃったこの言葉の気持ちはいつも持っているじゃない?
マリモ先生も。
どうしても時間に追われて、たくさんの患者さんと話をしなきゃいけないというタスクがあるので、
人数が増えれば増えるほど、1人にあてる時間って短くなっちゃうから、
ここで切り上げて、ちょっとでも多くの方に僕の時間を追ってこう思うからそうなっちゃうんだけど。
そうなんですね。ここが人間の時間とかには限りがあるので、
でも安先生のこの姿勢を持ち続ければならない人とか、そういう局面の人っていうのもいてるのよね。
そうですね。タイミングありますよね。
そういう人っていうのを、そこをうまく見極めないといけないし、
それをうまく作るっていうのも僕らの仕事なんかなというところがあるんですけどね。
だからその方はその方に送られている、つまり治療者が送られている状況にもよると思うんですよ。
言い訳にはなるんやけれども、町の診療所のわーって見てる場面なのか、
あるいはもうちょっと時間を取れる診療所なのかとか、お金をしっかり払ってやるカウンセリングなのかとかで、
あるいは相互病院なのか、精神科病院なのかで、その場で違うので、
ちょっと全てがこれはできないんですけれども、でも対象にこういったところも必要なんですよね。
こういったこともやっぱり心のケアには必要なのかなっていうことですわ。
そうですね。本当に聞いてもらって、理解してもらってっていう時間が必要な時っていうのは、
患者さんそれぞれにタイミングとしてあるでしょうしね。
いつもいつもやったら一人ずつが長い先生もいらっしゃって、
その先生がすごい良い先生なのかって言ったら、私それは違うと思ってて、
このタイミングをいかに見極めて、今日はもう短くて大丈夫とか、
今日はちょっとちゃんと効かなきゃなっていう、そこの判断はやっぱりメインの条件やと私は思います。
そうですね。今に生きる意思としてはもちろんそれができないというところがあるんですけれども、
でも効率だけにいっちゃうと、こういった大切な部分が抜けちゃうことがあるので、
ということですね。
だからこの心のケアを受けなあかんっていう人も、
一人じゃなくていろんな人と関わるということ。
とりあえずその人しかいないときには、寄り添う人っていうのが必要ですよっていうことを
アン先生は言ったんかなと思うんですけどね。
僕らが何を知っておけばいいのかなと思うんですけど、
とりあえずはこの心の傷を持つ人、持つかもしれない人がいてるよっていうことに
思いを致すっていうことが大切なんかなと思うんですけどね。
それぞれの立場で配慮ができればいいのかなと思ったりとか、
それが社会で進めば社会が進歩したりとか、
社会の品格が進むかなっていうことなんかなと思うんですけどね。
そうですね。最後に誰も一人ぼっちにさせないことで自立するのは、
多くの依存先に頼れること。
この依存っていう言葉の解釈っていうのがすごく私難しいなと思ったんです。
日々障害を持っている方と一緒にお仕事をしているんだけど、
頼ったりお願いしたりすることをね、
自分が弱いからだみたいなイメージを持っている人もいるんです。
だからそうじゃなくてね、みんなチームを組んで、
あなたの目標達成のためにいろんな知恵を出し合って相談することが
ベストなので、遠慮なく何でも相談して言ってねっていうことを言うんですけど、
そう言って頼ったりお願いすることが弱いから、
お願いしたりしない方がいいって考える人もいれば、
何でも相談してねっていう言葉をそのまますごくストレートに取って、
自分ができることもしなくて、
全部やってやって、これ決めて、自分で行く行かない、
それすらも誰か答え出してって言ってくる人もいるんですね。
ここの依存っていう言葉の取り方っていうのも人それぞれやし、
なかなかマリモ先生が考えている感覚とは違う感覚で取っている人もやっぱりいるよなっていうのは、
ちょっと私、誰も一人ぼっちにさせない、いろんなところに頼りましょうっていう言葉から
ちょっと考えてたんです。日々の支援の方のことを。
これをその人その人によって本当に感覚とか置かれている立場とか環境が違うので、
統一な考え方、見解とかっていうのをお互い持つっていうのは、
実はすごく難しいことなんかなと思いました。
それはさ、個別性なんじゃないの。
そうそう。
もちろんその方に対してはこういうのが適切な、
依存先はこれぐらいにしとくのがいいという感じにするのが良くて、
でも違う考えの人とか違う条件の人には違う話にそこはなるのかな。
そうなんです。
一人ぼっちにもちろんさせないのはすごく大事なことなんだけど、
いろんな頼り先を持つ方がいいよっていう言葉も同じ意味じゃないですか。
その言葉をやっぱり捉える人によっては違う意味になっちゃう。
それは自分で決めないといけないことだよ。
どっちでもかめへん自分で決めたらいいんやよって言った時に、
一人ぼっちにさせられたみたいになる人もやっぱりいるんですよね。
解釈とか経験の違いで。
だから全然ちょっとこのアン先生の言葉が、
言葉の使い方とかその言葉の取り方っていうのは、
その場その場とかその人その人で大事に使うというか、
いうのは必要になってくるよなって思いました。
なるほどね。
やっぱり支援という意味では、
この依存っていう言葉にちょっと敏感になるかもです。
なるほど。
その支援といったいその支援という意味では、
自分の心の傷ついているケアっていうところからはちょっと外れるかもしれないんだけど、
支援という意味では、
その依存っていう言葉にちょっと敏感になるかもです。
なるほど。いや、依存という言葉は僕が出しただけなので。
そうかそうか。
自立するっていうのは、多くの依存先を持つことですよっていうことが、最近よく言われてるよねって言っただけなので、
このアン先生の言葉にあるわけじゃないし、このドラマにあるわけではないんですけれども、
この頼るっていう言い方をすると、確かにちょっとそういう両面があるんですけれども、逆に頼れないっていう人も多いので。
そういう時はすごく大事かなと思うんですけど、なかなか言葉だけを聞いていると、
今これポッドキャストなので、聞いているとちょっとそうじゃないんだけどなっていうことにもなるかもなってちょっと思っちゃったんです。
なるほどなるほど。
心の傷を負って、本当に癒しが必要な人にとっては、寄り添いとか、本当に静かなトーンで、そうかそうかっていうことがすごく大切っていうのはわかるんですけど、
それがどの場面でも通用するっていうものではないっていうところは大前提かなって思いました。
それはそうですね。いろんな状況があるのでね。
そうなんですそうなんです。
やっぱり、あなた自身が決めることですよって言わなきゃいけないことも当然あるので。
これはね、今回はPTSDのことなので。
いやいや、もちろんPTSDの場面の方でも、そんなふうに言わなきゃいけないことももちろんあろうかなって思うんですけど。
この多くの依存先のことで言うと、それを言うのが例えば一つの支援だという考えを持つ人もいている支援者やね。
例えば精神科医だったりとか、あるいは作業所の職員っていう一つの側面があんねんけど、でもそれじゃない人もいてると。
親御さんがいてたりとか、お友達がいてたりとか、隣人の方がいてたりとかっていう人はまた違う話、もちろん同じことを言いませんから。
またそういった場面で違う話が出たりとか、違う考えがあったりとか、違う立場でいろんな支えができるということが大切で。
1個の場面では別退支えましょう、支えないとダメだよっていうことを言ってるんじゃなくて、
1個の場面、一対一としてはあなたが決めなければならないことですねって言わなければならない場面っていうのも当然あると思うんですよね。
すべて私に依存しといてっていうことではなくて、それがその方への接し方というか、
適切な指導な場面もあるので、ここで言うと依存っていうのは、すべて自分に別退頼ってきなさいっていう意味じゃなくて、
いろんな場面がありますよね。
そうなんですよ。この言葉の解釈っていうのがその人に、人間って自分に都合よく解釈するから、そこは違うよっていうのも知っててほしいなと思っただけです。
なるほど。
ごめんなさい、安先生の生きてきた、やってこられた、本当に寄り添うとか、一人ぼっちにさせないっていうところは本当に素晴らしいし、私も感動したので、
また安先生を忘れずに、私も今回初めて知りましたけど。
いやいや、こういったことっていうのは、とっても大切な上積みというか、本の表紙というかなんですよ。
その中身、日々のことで言うと、これはこんな綺麗なことで片付けられないのが当然です。
安先生の臨床でももちろんそうだし、僕らの臨床の中でもそういうことですよ。
こんな綺麗な言葉だけで片付けられることはほとんどないので。
そこはね、綺麗に出てくる場面っていうのはこういうことではあるんですけども、日々の中ではそういうことでもないことが多いかな。
ほとんどそうですよね。
その中でこういった気持ちを忘れないっていうことが大切かなってところよね。
柱としては持っておきたいですね。
自分の置かれている状況を俯瞰的に見るっていうか、上から見るっていうことだよね。
僕は今、自分はこの人に対してこういうことをやってて、この人に対してはこんなふうなことを自分は思ってるからこういうことをやってるんやっていうのを分かった上で、
いろんなことをしていくっていうのが支援者とかには、例えば質の高い支援者には求められることなんかなと思うんですけどね。