導入:褒め言葉としての「優しい」がもたらす窮屈さ
ハロー、MARIKOの何を言ってるかわからねぇと思うが、感じたことをありのまま話すぜっ!
今日はですね、私ちょっとタブレットを食べながらだから、咀嚼音が入ってしまったかも。
今日はですね、「優しいですね」って人にあんまり言わないでおこうかなって思っている、思ったっていう、そういうお話をします。
ちょっとこれリアルな、大切な人とのリアルなやりとりで感じたことなので、その人は私の音声、そんな聞いてないと思うんだけど、存在は知ってくれてて、こういうことをやっているっていうのね。
もしかしたら耳にしてしまう可能性もあるかもしれないけれども、その人への批判とか腹立つとかっていうよりは、純粋に私が感じていることっていうのはありのまま話しますっていう、そんな内容です。
優しいってあんまり人に言わないでおこうかなって思ったっていうね、そういう話をしますっていうことなんですけど、これは私がね優しいよねって言われたからなんですよ。
言われてあんまり私は人に言わないでおこうかなって思ったんですよね。
なんでそう思ったかっていうのを話すんですけど、なんかすっごいね優しいよねって言われたのはね、シンプルにもうめっちゃ窮屈って感じたんですよ。優しい人って思われるの窮屈みたいなね。
これわかる人いてます?優しい。優しいよねって多分褒め言葉だったりとか、そこがあなたの良さです、魅力です。
その人にとっては、そう言ってくれる人にとっては、このこのまりこさんの、まりこちゃんの魅力の一つは優しいところっていうことだと思うんですよね。
それは大変ありがたいことなんだけども、すごく私は窮屈って感じてしまって、
「狂っている」と言われた衝撃的な出会い
で、もうちょっとそのどういう話の流れでとかを、もうちょっと紙くだいっていくんですけど、
そういうふうに言ってくれた状況はね、何か数人の人と久々に会って再会してて喋ってて、
私の表現とかこの発信とか、この存在自体がすごく秘めてるものがあって、面白いし、魅力があるっていうことを、
なぜかその一緒にいている人全員が私のことを褒めてくれだして、恥ずかしいし、嬉しいけど汗汗みたいな感じで、なんだこの空気って感じでやったんですよね。
すごく内側にものすごく秘めたものがあるんだと思うみたいなことを言ってくれた人がいて、
その話の流れで、私はあることを思い出したんですよね。
何を思い出したかっていうと、今から多分6年前ぐらいになるかもしれないんですけど、5年ちょっとその辺はもうどっちでも曖昧なんですけど、
私はとある方にですね、出会ってすぐに喋り出して会話を始めて2言目ぐらいに、その時はその方は私のことを苗字で呼んでくれたんですけど、
この音声では苗字をちょっと明かしてないので、
マリコさんは、「マリコさん、あなたは狂っていますね。」って言われたんですよ。
本当にゆっくりなトーンでね、静寂の中で静かに、
マリコさん、あなたは狂っていますね。って言われたんですよ。
本当にその方はですね、私の人生の中ですごく、1回しかお会いしてないんですけど、ものすごく大切な人になったんですよ。
恋をしたとかっていうことじゃなくて、男性なんですけどね、異性として惚れてしまったっていうよりは、存在そのものに見せられたっていうか、引き付けられたっていうか、
私の中に入り込まれたっていうか、もうちょっと不思議な感覚だったんですよね。
なんか今っぽい、この令和の今っぽい表現で言うと、喰らったってやつかもしれないんですけど、喰らったんですよ。
紙粘土アーティストとの対話とその影響
彼が私のことを狂ってますねって言う前にですね、
彼は紙粘土のアーティストだったんですよ。紙粘土で造形物っていうんですか、立体作品を作る方だったんですね。
このだったって過去形はね、おそらくもうお亡くなりになってるんですよ。
親族の方から連絡をいただくような間柄ではないので、詳細というか事実はわからないんですけど、おそらく肉体はもう、
私がお会いしたあのボディ、あのボディって言い方変ですけど、あの肉体にはもう、きっと見たまっていうかね、魂は入ってらっしゃらないかなって思うんですよね。
生前は紙粘土のアーティストさんだったんですよね。
その作品を拝見した時に、あまりにも美しくて、私は写真撮るのが好きなんですよね。
なんかね、夢中でシャッターを押したんですよ。ミラーレスイッチが持っていっててね。
なんかその、ディテールもだし、画角もだし、そんな大したミラーレスじゃないんですけど、
自分が持っている、その日持っていたカメラで、最大限その世界を切り取りたいと思って、
ギャラリー?お寺の一室、和室でね、そこを展示場にされてて、畳とかにそのまま直接作品を置かれたりとか、
展示の仕方も素敵だったんですよね。
あんまり解説とかも、全然書いた紙とかポップみたいなも何も置いてなくて、
本当にただただ作品と対峙するみたいな、そういう空間だったんですよね。
写真撮影はOKだったんで、私はこう夢中で写真を撮ってですね。
散々それを満足、納得いくまで撮った後に、やっとそのご挨拶っていうかね、
作家さんとかその他諸々の方に、
その場にいる人たちが夢中で写真を撮る私を放っておいてくれたっていうかね、そのままにしておいてくれたっていうか。
それで散々納得いくまで写真を撮って、初めて作り手の方にご挨拶をさせてもらって、
名前を自己紹介してね、とても素敵な作品でしたみたいな感じで、ご挨拶と一言お伝えしたら、
二言目ぐらいに言われたんですよ、狂ってるって。
もうなんかビッシャーンって自分の中でバリバリバリーみたいな。
これはね、なんかすごく、
なんだろう、狂ってるって言われたかったみたいなところがあって、
冗談で変わってるよねーとか、そんな誰も知らんってなんだそんなマニアックなこと、
いつもすごい話ディープよなー、そういうことじゃなくて、そういうノリじゃなくて、
私の中のこのどうしようもない狂気みたいなものを、すごく一瞬で受け止めてくれたって感じだったんですよね。
肯定も否定もせず、
マリコさんあなたは狂ってるんですね。狂ってますね。
なんかもうすごく安堵したんです、私は。狂ってるって言われて。
自己表現における「狂気」と「マイルドさ」の葛藤
で、その後もその方とメッセージで何回かやりとりをさせてもらって、
なんでかっていうと、帰り際にですね、その方はね、
マリコさん、何かあったら、何もなくても全然いつでも連絡くださいねって言ってくれはったんですよ。
えーっと思って、もちろんそういう男女の下心というか、そういうトーンのことではなくて、
何か話しきれなかったことがあったとしたら、いつでもご連絡どうぞっていう、そういう感じだったんですよね。
私はお言葉に甘えて、正直に言ったんですよ、狂ってるって言っていただいたことに、
なんかちょっとすごくほっとしたんだみたいなことを多分送った記憶があるんですよね。
ちょっとやりとり見返してないですけど。
でもその、私の自分の中のこの狂気を出してしまったらそのまま、
多分こういろんな人が、傷つくというかざわつくというか、
なんでそんなことを言われなくちゃいけないんだっていうようなことがいっぱい吹き出してくると思うってね。
だから、すごく私は何かこの言葉を発するときに、ものすごくマイルドにするんだけど、
でもそうすると本当に言いたいことからはちょっと遠ざかってしまうみたいなね。
こんな言い方じゃなかったんだけど、今思えば多分そういうことを言いたかったのかなっていうね。
そういうことを言って、その狂気があなたなんですみたいなね。
そういうことを言ってくるって、すごくね、
本当に魂で会話をした、対話をしたなっていうメッセージ、やりとりだったんですよね。
で、そんなことをいただいたにもかかわらずですよ。
かかわらず、命を使ってというか、その時点で多分、
5病気、5病気だったんですよ、おそらく。
だからその残りの命の時間を使って、
あの展示っていうか、あの古典とかを開かれたと思うんですけど、
最後にっていうかね、そこからすぐ亡くなられたんじゃないと思うんですけど、
しばらくはね、フェイスブックとか更新されてたんで、
でもその晩年っていうんですか、そういう時にあって、
すごくそのダイレクトな言葉をね、こういただいて、
いただいたにもかかわらずですよ、私はなんか、
ああそうか、もっと出していいんだなとか思ったけど、思ったのに、
やっぱりなんかこれを言うと、
びっくりされるっていうか、もっとシンプルな、正直に言うと嫌われちゃうかなとか、
惹かれちゃうかなとか、勘違いされて炎上したら嫌だなとか、
結局保身ですよね、自分が嫌な目にあいたくないなっていう、
そういうのが出てきちゃって、結局そこからも割と表現、
なんかこう、ちょっと棘があるような文章を書いたりするのが好きなんですけど、
それでもかなり自分の中ではマイルドにしちゃってるんですよね、
しちゃってて、出し切れてないなみたいな、そういう感じで、
そこからまた数年来ちゃってるんですよね、
友人からの「優しい文章」という評価への違和感
で、やっと話戻るけど、やっぱ優しいねって言われたのはですね、
その人の話、逆さの話になっちゃったからすごい話が飛んじゃったけど、
その知人、2人で会ってるときに、
私がその人の話をしたんですよ、狂ってるって言われたんだって話をして、
そしたら、友人の一人が、
でもそのマリコちゃんの、人を傷つけないでおこうっていう風に、
ちゃんとそういう風にしてる文章を優しくて、私は好きだよって言ってくれたんですよね、
トゲとかを丸めてる感じがね、好きだよって言ってくれて、
それね、その人ね、過去にも結構何回もそれを私に言ってくれてるんですよ、
私の文章とか表現に対して、
そういう風にしてくれてるから、私はスッと受け取れるみたいな感じ、
言ってくれるんですけど、
私は結構なんか、そういう優しいよね、優しく返還してるよねっていうのが言われるたびにやっぱり窮屈なんですよね、
なんかちょっと無理して返還してるんだよなっていうのは多分あって、多分あるんですよ、
おそらくその彼女が思っている優しさとはっていうのと、
ちょっと私が本当にこの人生でその域に行きたいって思っている優しさっていうものとかが、
ちょっと質が違うのかもしれないとか思って、
MARIKOが考える「真の優しさ」
優しい言い方にするとかね、否定しないとか傷つけないとか、
もちろんそれは優しさでコミュニケーションの潤滑油でなんだけども、
自分の表現みたいな時にその優しさで自分の表現をマイルドにすることも私は窮屈だって感じているし、
私は否定しないことが優しさとか、そうだよねって共感したりすることが優しさ、
それも優しさなんだけど、もっと本質的な優しさがあるって思ってるんですよね。
それも優しさでそれが必要な場面もあるんだけど、
私はもっと本当のことを言いたいし、言われたいしとかね、言われてズギュって多分来るけど、
客観的に見たら私という人間に対して本当のことを言ってやろうってなったら、
もう多分存在消えちゃうんちゃうかってくらいフルボッコだと思うんだよね。
これは脱線しちゃうからだけど、
彼女の考え方が浅いとかそういうことじゃなくて、
私が思う優しさとはみたいなところとちょっとズレがあるんですよね。
それは本当に時と場合によってって感じだと思うんですけど、
こういう優しさが必要な時もあるよねとか、
あれば厳しくっても本当のことっていう優しさが必要な場面とかもあるので、
本当に否定じゃないんだけど、私はね、多分、
そうだよねとか、共感とか、多分そういうことじゃないんですよ。
他者への「優しい」という言葉の使い方の考察
私がやりたいことっていうか、私が人と関わる時においてというか、
リアルな場面ではね、大臣関係の本当に準括として、
いちいちぶっとぎるみたいなんて、
そういうキャラだったらあれやけど、
それはそれでねって感じなんですけど、
文章だってそれはコミュニケーションの一つなんだけど、
リアルな場面でキャッチボールを相手の話聞いて、
ふんふんってして返していくっていうコミュニケーションとまたちょっと違うじゃないですか。
自分が発信して自分が表現したことに対して、
誰かが反応っていうか何かを返してくれて生まれていくコミュニケーションだから、
自分からまず出すっていうこの時に、
マイルドにしすぎる感じが私はやっぱり窮屈だし、
さらにそれをそこが優しくて好きだよって言ってもらえると、
好きって言ってもらえるのは嬉しいけど、
なんかちょっとそれも窮屈っていうか、
私はこうやってマイルドにすることで人に読んでもらえる文章になるんだなとか、
いいと思ってもらえるんだなっていう感覚もね、
ちょっとつかめたっていうか、その彼女が言ってくれる、今までも言ってくれてるから。
だけど、なんかこの窮屈なままでいいのかなみたいなね、そういうのもあって、
それで一番最初の話に戻るけど、もう23分喋ってるから、
誰も最初に言ったことを覚えてないかもですけど、
だから私は人に対してね、優しいとこが素敵ですねってね、
あんまり言わんとこうかなってね、あんまり人に言った記憶もないけど、
もしかしたらその人は優しくなんかいたくないって願ってるっていうか、
優しいって言われるたびに窮屈かもしれないしね、
とかちょっと思って、あんまり優しいですねっていうのが褒め言葉として、
あんまり使わないほうがもしかしたらいいかもしれないっていう、
そういう話を今しております。
でもどうなんだろうな、作品とか見て、優しい作品だなとかあるじゃないですか、
なんかすごく優しい、優しいですねみたいな、
そういうふうに批評っていうか評価っていうか感想を述べるときもあるしね、
だから本当に彼女が言ってくれた優しいよね文章、
そうやって狂ったとこあるけど、マイルドに受け取れるようにしてくれてるの、
私は優しくて好きだよっていうのは本当に彼女の感想なんですよね。
ひろゆきみたいなこと言ってるけど、それってあなたの感想ですよねみたいな。
だから感想、私もこれからもこれすごく優しさを感じたなとか、
そういう瞬間あると思うから、
人には言わないでおこうと思ってるけど、やっぱりそうとしか表現できないときもあるから、
なんていうのかな、難しいけど、
でも作品とかを見て、なんていうの、優しい気持ちになりました、
とかってこっちのことじゃないですか、今しゃべりながらひらめいたけど、
でもあなたが優しいからですよね、とかってなると、もしかしたら窮屈かもしれないですよね。
もしかしたら、俺は中身はド変態で、もう狂ってるんだけど、
世の中だって狂ってるって思ってるんだけど、
でもこんな世の中にちょっとでも光を灯したいから、
だから優しい気持ちになってほしくて、
俺なんかちっとも優しかねえけど、
でも光を何か一筋でも、とかって気持ちで何かを作ったり、
言葉を発したり、表現したりしてる人がいたとしてですよ、
その人に対して優しいですねって言うよりも、
もしかしたらその人の表現を、作品を受け取って、
優しい気持ちになりましたって言う方がいいのかもしれない、もしかしたら。
いやわかんないけど、どう思います?
「優しい」が窮屈に感じなかった例外:僧侶の言葉
わかんないけど、優しいですよねって言われて、
毎回毎回窮屈なわけでもないんですよね。
昔なんかね、これまた5、6年前かな、めっちゃ長く喋ってるけど、
まあいいや、またテキスト化するんでね、
本当に聞いてくれる人だけ、最後まで聞いていただけたら。
あの、何だっけな、うちんちは家族ぐちゃぐちゃで、
ぐだぐだな人間しかいないんですよ、私を含めて。
お金のことでちょっとゴタゴタあった時に、
何かね、お金を貸してくれとか言われたのかな、親戚に。
それのゴタゴタを何かに書いたんですよね、
フェイスブックやったかな。
そしたら私がすっごく尊敬している、
この方から私は仏教哲学っていうものを主に教わっている方がいるんですけど、
京都の今出川にある宝堂寺っていうお寺の僧院長、僧侶の方で、
その方がね、何だっけな、
私ハッシーさんとも呼ばれる時があるんですけど、
このラジオではマリ子ですけど、
ハッシーさんは優しいですね、優しいですね、優しい、
なんて言われたんだかな、
お優しいからその考えになるんですねっていう感じで言っていただいたことがあって、
なんかそれはそれですごく窮屈さを感じなかったんですよ。
何でだったんだろう、あれは。
この違いね、違い。
違いはね、なんだろうな、
違いはこれ、ちょっと今見えたけど、
これはちょっと音声で語るのは一旦やめとこうかな。
ちょっと温めてしないと難しいかも表現が。
自己発見と「優しい」という言葉への向き合い方
というわけで中途半端な感じで、しかも30分近く喋りましたけど、
人に優しいですねっていうのを褒め言葉的に、
別に褒め言葉で言ったんでもないと思うんですよね、あの時ね。
本当に彼女の素直な感想、
マリコちゃんの優しいところが好きだよって言ってくれた。
そういうことなんで、それもありがたく受け取りつつ、
でもすごく私は窮屈さも感じてしまったので、
人に優しいよねっていう時は、
もしかしたらちょっとこう、
注意をするっていう感じもあるんだけど、そんな世知辛いってね、
そんな神経質な人と関わるのうぜえわ、めんどいわって感じだと思うけど、
優しいですよねっていう言葉を、
だからこれ使うのを気をつけましょうっていうことを、
皆さんと共有したいんじゃなくて、
私はちょっと窮屈だと感じてしまう人間だっていう、
自己認識じゃない、自己発見、
自分ってそういうところがあるんだって発見と、
クラス自分がそうだから、もしかしたらあまり人に
良かれと思って、言い過ぎない方がいいのかなって思ったっていう、
そういう自分が気づいたことのお話でした。
こんな最後まで聞いてくれた方いないと思うんですけど、
30分も喋ってるから、もしいらっしゃったら本当ありがとうございます。
聞いてくださった方いらっしゃったら、
私はこうだよとかね、聞かせてもらえたらちょっと嬉しいんですけど、
スタイフ同士だとレターっていう機能がありますので、
それで感想を送っていただけるし、スタイフじゃない方も、
たぶん概要欄に私、ご感想を送ってもらえるフォームを
たぶん設置してるはずなんで、概要欄かプロフィールか、
プロフィールの紹介、概要っていうの、
プロフィールのところから読んでもらえる文章に、
たぶん匿名フォームも入れてると思うんで、
またそこから感想とか、私はこうですとか、
送っていただけたら嬉しいです。
では最後まで聞いてくださってありがとうございました。
また次回の配信でお会いしましょう。またね。