2026-01-26 21:50

#128 Tipe-B これは「ナレッジ系ポッドキャストの極致」です

#128 これは「ナレッジ系ポッドキャストの極致」です

吉本隆明の思想について自分なりの読み方を加えながら、話しています。吉本隆明の思想のラディカルさを感じていただけたら嬉しいです。


メールやコメントがいただけましたら、1つあたり最低10分ぐらいそれについて話します。

公式HP https://sites.google.com/view/ssbcradiodonky   

メール MarbleBlues09113@gmail.com

SNS https://x.com/mb_kmb0


サマリー

吉本隆明の思想と著作を通じて、彼のカール・マルクスへの影響が探求されます。自然と身体の疎外関係、神的現象力、そして関連する純粋疎外について深い考察が行われるエピソードです。このエピソードでは、身体の理解と歴史的な現在性についての深い考察が展開され、特に言語や名がどのように共同的な観念を形成し、自分自身の身体との関係性に影響を与えるかが探求されます。

吉本隆明の思想の基盤
こんばんは、マーブルブルースをやってます松田です。
今週は1人1エピソードをやろうという集で、私の方はよく読んでいる人の本をベースに考え方を追っていきながら、聞いている方がうまく自分の中に取り入れてもらえたらいいなと思って準備したんで、聞いていただけたらと思います。
今回取り上げる方っていうのが吉本隆明という方です。 1924年東京月島生まれ、2011年に亡くなりました。
詩人思想家っていうような括り方をされていて、戦後最大の思想家なんて呼ばれたりしています。
今回取り上げる著作っていうのが3冊あって、カール・マルクスっていう本と、神的現象論・序説・神的現象論・本論の3冊になります。
タイトルからわかると思うんですけど、神的現象論・序説と本論はもう一続きのようなものなので、一応本としては2つに分かれているので、3冊というカウントの仕方してますけど、内容としては序説と本論に関しては一連のものになっています。
この吉本隆明っていう人の凄さというか、この人の著作の中でやったことで言うと、この吉本隆明っていう人によって何かものを考えるとき、何か思考をするとき、
何か問題を新しく設定するときの新しい領域が作り出されてしまったってことですね。
ただこの神体っていう領域を外さないことによって、人の振る舞いに対する神的な領域の規制性、
どういう制約がかかっているのか、逆にこの制約によって人の振る舞いがどうやったら変わるのかっていうことを論じることができるような世界を作ったってことですね。
さっそく吉本隆明の考え方のベースのところに入っていくんですけど、その考え方のベースになるのがカール・マルクスって著作の中で論じられているって言われていて、
ここから基本的に抜粋しながら、ページ行って引用した文章を読み上げながら、ちょこちょこ間に自分の考えを入れながら話していくという形式をとりますんで、
もし気になった方は買っていただいたりしていただければいいのかなと思います。
カール・マルクス、一応公文社文庫のものを使うんで、一応この中でこの本に限らずなんですけど、吉本隆明の思想の基軸としてはマルクスの自然哲学というのが軸になっています。
自然と身体の疎外関係
そのマルクスの自然哲学というのが、まず最初に踏まえておかなきゃいけない点というのがあって、自然と身体の疎外関係は時代が移り変わっても変わらない本質的関係だということですね。
ここはもう単純に意味はあんまり現代化でしなくていいんですけど、自然と身体の疎外関係というものは本質的関係でいつになっても変わらないものだから、そこを考察していくということですね。
今回取り上げる3冊以外にいくつも本を出しているんですけど、基本的にこの線、自然と身体の疎外関係というところだけは必ず抑えて読んでいけば間違いないと思いますので、ここだけ最初に抑えておこうかなと思いました。
では早速入っていくんですけど、ページP41。非有機的身体と有機的自然として相互に侵入しあい、また相互に対立しあいは疎外関係であった。
その自然と身体の疎外関係に関するところをちょっと説明しておこうかなということで引用したんですけど、ちょっとここだけじゃわかんないんで、どんどん読んでいきます。
P39の自然は、存在そのものが本質であるが、人間は自分の自然的存在そのものから自分を区別することを知っているものである。
別の言葉で言えば、自己、自己意識によって対照化し得るものであるが、その根底にあるのは自然、すなわち自然的存在であるということである。
自然と人間というのを対立して考えるものではなく、自然の一部としての人間がいる。
ただこの人間を区別するものは何かと言えば、自己を意識によって対照化している。
それによって人間という、ある種自然との区別の仕方はあるけれども、その根底にあるのは自然な存在、自然的な存在である。ここですね。
次にP39。人間は自然の有機的自然として対照的自然を人間の有機的肉体と成し得るという相対の関係として設定される。
感覚に移った自然も同じように人間の感覚的な自然となる。意識も自己にとっての意識という特質から自然を意識によって捉えるや否や、意識は自然の意識として存在するというように。
自然と同一の規定を人間は持つということですね。繰り返しになりますけど、しかし疎外という関係を持っているという視点からすると、人間は感覚、後に感観、感覚の観に、観量の観で観観って多分読むんですけど、
感覚、後に感観で捉えられた自然、後に感界、環境の環に、世界の界って感界って言うんですけど、感界を自己意識、これも後に幻想で別の、この吉本隆を活用している人なんかは創現、幻想の、幻想とこの創造の層を入れ替えて創現って言ったりするんですけど、
まあ自己意識、幻想、創現として疎外する。それは自然の非有機的神体化。さらにその意識、幻想、創現は身体の有機的自然化として自然、感界に疎外される。
人間側は非、人間側、つまり有機的神体側からすると、自然を自分の感覚で捉えたときに、もうそれはある種、ここは後々見ていくとわかるんですよね。ここからこれの説明をちょっと神的現象力除接の方でしていきますか。
P23。生命体、生物は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然に対して一つの岩を成している。この岩を仮に原生的存在と呼んでおけば、生命体はアメーバーから人間に至るまで、ただ生命体であるという理由で原生的領域を持っており、したがってこの疎外の打ち消しとして存在している。
さっきの疎外の関係というものが、原生的疎外という言葉に入れ替わっているというか置き換えられていて、その原生的疎外の説明になるんですけど、人間、引用された文章にあるように、高等であれ原生的であれ、アメーバーでも人間でもということになるんですけど、生きているだけで無機的自然、自然と岩を成している。
自然との関係性において岩を成している。その岩が原生的疎外、まあ疎外の関係性であるということですね。
一番重要なところですね、P37。
人間の原生的に疎外された領域を他の一切の高等生物と隔てている特質は、神的な領域を持つということ自体ではなく、神的な領域を持つという神的な領域を持っている点に求められる。
自分の今悲しい気持ちになっているということとか、不安になっている、嬉しい楽しいということを対象化できるという領域を、対象化しているという神的な領域を持っている点が人間の特質であるということになりますね。
神的現象と純粋疎外の探求
ここで注意点があるんですけど、今一応原生的疎外の論述として今2つ引用したんですけど、後に純粋疎外の論述もここに含まれているんですね。
と読みます、自分は。原生的疎外というものの論述として書かれているんですけど、おそらくこれ純粋疎外の論述も案に含まれているだろう。
それはどこかというと、神的な領域を持つという神的な領域っていうのは原生的疎外じゃなくて、純粋疎外の段階なんですよね。
ということで、純粋疎外の論述のところに入っていくんですけど、P104。この純粋疎外の領域では私たちの意識は現実的感覚と自然体としての身体に依存すると考えない。
同時に依存しないとも考えない。依存することと依存しないこととは共持的である。言い換えれば一つの錯誤である。
このような神的な領域はあらゆる個体の神的な現象が、自然体としての身体と現実的感覚とが実在することを不可否の前提としているにも関わらず、
その前提を繰り込んでいるためあたかもその前提なしに存在するかのように想定できる神的な領域である。
これが純粋疎外の説明ですね。先ほど言ったように多分神的な領域を持っている神的な領域というのが
純粋疎外の段階だということの裏付けというか、そういうことだと思います。
この論述の中で一番難しいのが、神的現象がそれ自体として存在するかの領域ということだと思うんですよ。
神的な領域というのは、その前提としての自然体としての身体と現実的な感覚が実在するということを
神的な領域に繰り込んだことなんですよ。
つまりどういうことかというと、人が悲しいとか楽しいとかということを対象化するということは、
その悲しいとか嬉しいとかっていうことは、身体がないとありえないよねっていう。
身体とか自然からの疎外っていうことじゃないとありえないよねってことを理解して
そういう神的現象を対象化している領域なんで、すでに神的現象の段階、起きている段階ではもう
自然体とか感慨っていうのは神的現象の中に繰り込まれてしまっているということなんですね。
ここも純粋疎外の説明で重要なんですけど、私たちの純粋、P-105、私たちの純粋疎外は原性的疎外はもちろん
現実的感慨との感慨の対象も、自然としての身体も決して排除しない。
ただ、純粋疎外の神的領域ではこれらは一つの作合という異質化を受けた構造となる。私たちの純粋疎外の概念は
原性的疎外の神的領域からの切断でもなければ、単なる強雑物の排除でもなく、いわばベクトル編用として想定されるということができる。
ここの説明をしていくと、先ほど言ったように神的現象という純粋疎外の段階では、神的現象の中に前提として身体と感慨がもう繰り込まれてしまっている。
ただ、その繰り込まれている現実的感慨も自然としての身体も
ベクトル編用を受けた状態での身体であり感慨であるという、ある種幻想化している、関連化された感慨であり身体であるということ。
で、ここのベクトル編用の段階で自分としては言語的作用が働くというふうな設定をしたい。あくまでも言語的な作用であって、言語がそのまま直接作用しているともあんまり考えにくい。
言語と身体の間に何か、何かの構造があるという読みがあります。
次に本論、神的現象の本論の方に入っていくんですけど、ここで一応用語の説明になるんですけど、本論では序説で時間、
まあ出てきてないんですけど、用語としては序説で時間化と空間化っていう用語が主作の中に後々取り上げられているんですね。
ただこの用語っていうのが了解と関係づけに言い換えられています。時間化、時間性に関しては了解、空間性に関しては関係づけっていうふうな対応として言い換えられています。
で、なんで空間とか時間っていう用語を避けるようになったのかっていうことなんですけど、こちら自分の読みとしてはこの時間空間っていう、まあそういう時間感覚、空間感覚自体も神的現象の一部として阻害されているだろうっていう、まあそういう問題意識があるからこそ、こういう言い換えがされたんだろうなっていうようなふうに読んでいます。
で、まあこの了解関係づけの中心、元になっているのは身体だっていう。ここも後々結構はてなマークがついてくるんですけど一応今の主張では身体が中心に置かれている。
で、まあ身体論から始めます。で身体論の前に目の近く論というところがあるんですけど、まあそこはちょっと飛ばして身体論から始めます。
身体の理解と歴史的現在性
で、P98。この了解は二重性を含んでいる。個々の身体が了解するという意味と、身体一般が了解するという意味である。個々の身体が了解するという意味では、その了解の系列は個々、個々人によって違ってくるし、了解の深さとでも言うべきものも個別的であり得るはずである。
人間がある事象について了解する仕方とその高さとは、順次期からの学習や見聞を含めて、ある国家、社会、文化的な環境の歴史的な現在性によることは全く明瞭であると思われる。ところで、身体はこの歴史的な現在性をどこにどう刻みつけているのだろうか。
身体は身体が自分の身体を了解する時の了解の仕方に、歴史的現在の意向を確認するというはずである。
ここを引用した理由としては、個体的なものだと思われていた身体について、身体を了解する段階では、どうやら共同的な身体への了解の仕方が入ってきているということなんですね。
一応、ここでは、身体に歴史的現在の意向が現存する、歴史を積み重ねた上で成立している現在であるということの意向、遺産という文字と構造の意向と呼ぶんですけど、この意向が現存するというはずであるという言い方をするんですけど、
ここはもう言語だというふうに思いますね。言語に歴史的現在性が刻みつけられていると考えたい。
これも予告的、後々これも考えていけたらいいなと思ってるんですけど、
術語性言語と種語性言語によって神的現象の対象化の様式、原性的相外の段階から純粋相外の段階への移行のところの間、あるいは裂け目のところに言語様式の違いが採用してくるんじゃないかというふうに思っています。
p-105。もしある確定される条件、十分な条件が備わっている場合は、身体が自分の身体を了解することと、自分の身体を関係づけることとは同一のことを意味するはずである。
その条件とは、関係づける身体も関係づけられる身体も、ある絶対的な関係性の中での位相が明瞭になっていなくてはならない。
未解の段階では、この関係づけられる身体と関係づける身体の関係性の中での位相が明瞭になっていない段階があって、それが未解の段階として言われていて、
もうだいぶ長くなるんですけど、一応ちょっと全部重要そうなんで、読み上げます。
未解の神聖の中にここで言われるようなことがあるとすれば、人、動物、家族、都市などの名が、単に集団表情によって近くを方向づけているために神秘性がつきまとうということであるかどうかはわからない。
ただ、名によって指示されている自称に共通の体験があるということだけではなく、その共通の体験が、いつも共同の観念をある定まったレベルで喚起させるものであるため、名が自称を指す記号とはならず、名自体に共同の観念が付着してしまうのだと言って以外、言い換えれば、自称は名との関係づけが一義的にはできない状態となる。
この解釈は、自称から名へと観念が逆行してしまう経験いく分か説明するものとなる。未解の神聖にとってある自称の名が、自分にも通じ、他者にも通じ、共同体の誰にも通じるということは、単なる普遍性を意味するのではなくて、自分の神聖にとっての多数の重さとして感じられるものとなるからである。
この状態は、自称があちら側から自分を圧倒し、その名の元に削減してくる構想化、構想化語彙の状態に似ていないことはない。そして、この未解神聖の状態は、身体が自分の身体をうまく関係づけられない状態に根拠を置いている。
名と共同的観念の形成
ところで問題なのは、身体が自分の身体をうまく関係づけられないという時の、うまくの意味である。なぜなら、うまく関係づけられない状態は、多様に考えることができるからである。
未解神聖の場合には、身体が自分の身体を関係づけるという時、この自分の身体という概念は、はじめから共通の身体ということと、区別されていない状態にあるといっていわれ、
自分の身体はこれであり、他者の身体があれであるということは、知覚的には区別されているのだが、この場合に自分の身体は、集団に留付されている共同の理念によって、切り取られる限りでの自分の身体にしかなっていない。
長いですね、これ。ちょっと予約しながらやっていきますか。
未解の段階だと、何か出来事をなぞした時に、名前自体が共同、いろんな意味を含んでしまっていて、一義的な対応を取れないと。
ある事象をなぞしているはずなのに、名自体が他の共同の観念を想起させてしまうために、一義的な影が取れない。
この解釈、この考え方を取り入れるということは、事象から名へと観念が逆行してしまう傾向をいく分か説明するものとなっている。
共同的な観念としての事象を、名が全部背負ってしまうということですね。
未解の神聖にとってある事象の名、事象の重さを課せられた名が、自分にも通じ、相手にも通じ、共同体の誰にでも通じるということは、その言葉が普遍的だということではなく、
自分の神聖にとっての多数の重さとして感じられるものとなるからである。
共同的な意味合いを名が持っているために、自分の神聖にとっては、その共同体の重さが感じられる。
この状態は、共同的なものとして了解されている事象が。
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