テセウスの船のパラドックス
こんばんは、おはようございます。こんにちは、楽しくおしゃべり❗まこにぃの部屋です。
今日もやっていきます。いつも聞いてくれて、本当にありがとうございます。そして、いいねやコメントもとってもとっても嬉しいです。
さて今日はね、日曜日ということで、雑談ベースのお話になりますけども、
今日はね、ちょっとテーマがありましてですね。 今日のタイトルはですね、それでも僕は僕のままというお話をしてみたいと思います。
あらためまして、まこにぃです。よろしくお願いします。今日はですね、ちょっと不思議で少し、少し切なくてでも温かい話をしようと思います。
テーマはね、テセウスの船。 テセウスの船って知ってます?
これ僕、なんでこの話しようと思ったかというと、昨日ね、なんかテレビでね、ドラマでテセウスの船って出てきたんですよ。
あ、そういえばテセウスの船ってどんな、どんなあれだったかなと思って調べて、
まあ、あのちょっとこの話してみようかなと思ってですね、あの記事とかにもしたんですけども。
よかったら、あのノートの記事も見てみてほしいんですけども。
テセウスの船でね、聞いたことある方もいるかもしれませんし、テセウスの船って初めて聞いた方もいるかもしれませんけども、
ちょっとね、耳を傾けていただけると嬉しいです。
テセウスの船って何かというとね、あるところに一艘の船があったんですね。
まあこれをテセウスの船と言うんですけども、このテセウスの船がですね、いろいろ長い航路の中でですね、部品が壊れたり少しずつ取り替えられていきますね。
砲とか甲板とかね、舵とか釘などね、いろいろなものがやがて変えられていくとさ、全ての部品が新品に新しくなっていくじゃないですか。
その時ね、こういうことを言った人がいるんですよ。この船はまだテセウスの船なんだろうかと。
どういうことかというと、最初に作られた部品じゃなくなっているじゃないですか。
もともとの部品からも全部が生まれ変わっていたとしたとするでしょ。
全ての部品が最初に作った部品と入れ替わった時に、この船は果たしてテセウスの船なんだろうかと。
最初のとは全く生まれ変わっちゃったから、全く別の船なんじゃないのっていう、なんかこうそういうパラドックスのお話です。
なんかちょっと哲学的なね。
もともとあったやつから全部の部品が入れ替わっちゃったので、それは元のテセウスの船と同じものなのかっていうお話ですよ。
よくわかんないかもしれませんけど。さらにね、もっと言うと、その取り付けられた、その変えられた部品を
また元のように
まあ壊れているかもしれないけど、元の船、元のように組み立て直したとしたら、一層の船ができるじゃないですか。
この船は何なのかっていう。これは偽物なのか、もう一つの本物なのかっていうね。
これがよく言うテセウスの船というね、パラドックスのお話なんですけども。
僕がこの話を知った時に、これって人間そのものだなって思ったんですよ。
自己の変化とアイデンティティ
人の体って、数年ごとにほとんどの細胞が入れ替わるって言われてるじゃないですか。
骨も皮膚も血もね。つまり、今の僕は生まれた時の僕とは全く違う素材でできて、材料でできている
となるとですね、それは本当に僕なんだろうかっていう。 僕は僕なんだろうかっていう疑問が生まれてきません?
このテセウスの船の話を聞いて、人って
そういえば細胞生まれ変わって何年後かには全ての細胞が新しくなるっていうふうに聞いたことがあるので、
そうなった時に、僕は果たして僕なんだろうかっていう。
でもね、そう言われてもさ、じゃあ僕は別の人間なんだとは思わないじゃないですか。
なぜなら僕の中には記憶と思いがあるからですよね。
泣いた夜とか笑った日とかさ、悔しかったあの瞬間とかさ、その全部が今の僕を作っているっていうことなので、変わっていくことは壊すことじゃなくて、
生きているという証なんじゃないかなと思うんですよね。
例えばね、僕自身の話しましょうか。 昔僕はね、何かと楽な方を選んできました。
これは時々話してますけどね。面倒くさいことは避けてきて後回しにして、まあいっかーって済ませてきたりとかですね。
でもね、ここのところではずっとモヤモヤしてました。 そんな時に出会った言葉があります。面倒くさいをコツコツやる。
これはね、いろんな人が、たぶん西野さんとかが言ってたんじゃないかなと思います。
その前にはね、鴨頭さんとかとも出会ったのも大きなきっかけになったし、そこから西野さんと出会ったりとか、いろんな本を読んでみたりとか、いろんな人の話を出会ったり、話を聞いてみたりとかしてね。
そんなことがありまして、そういう言葉に出会うんですけども、正直ね、最初はピンと来なかったです。
でもね、少しずつその言葉に導かれるように、逃げずに見つけ合うことを少しずつやっていきました。
そんなことをしていたらね、仲間と出会ったりとか挑戦を続けているうちに、気づけばチーム東海というところのコミュニティを作ってリーダーというものを、
という役割をね、担っていたりします。 もちろん、今の僕と昔の僕はまるで別世みたいなんですけども、でも昔の僕がいなければ今の僕もいません。
怠けて逃げて傷ついて、その全部が今の僕の一部になっているんじゃないかなと思います。 だから、もし昔の部品で
昔の僕をもう一度作ったとしても、きっとそいつは僕の中にちゃんと生きていますね。 ほら変わったじゃんって笑いながら
僕の今の僕を応援してくれる気がするんですね。 チームは同じです。
チーム東海もさ、僕がやっているチーム東海も最初の頃からずいぶん形が変わったなと思います。
仲間も増えたし、活動も広がった。 だけど、挑戦、創造、応援という軸を
ずっと変わらずやってきています。 だからこそメンバーが入れ替わっても、その思いが続いている限り、それは同じ船なんじゃないかなと思います。
新しい風を受けて航海を続けるテセルフスの船なんだなって 思います。もしかしたら
本物は一つじゃないのかもしれません。 部品は全部取り替えた船も、古い部品でできた椅子をも
どちらも生きたいと願うならそれぞれが本物です。 人もチームも同じですね。
過去の自分も今の自分も どちらも嘘じゃない。どちらも僕です。
変わることは悪いことじゃありません。 変わることは次への光へ進むこと。
変化の中で自分という船を走らせることですね。 壊れてもいい、迷ってもいい。
そのために何を積み直すか、 何を積み残すか、
それを選ぶのが僕たちの生き方なんだと思います。 例えばそれが入れ替わっても大切な思いが残る限り、
僕は僕のままここにいる。 はい、最後まで聞いてくれてありがとうございました。
あなたの中にもテセルフスの船も、 あなたの中のテセルフスの船も、
きっと今日も静かに前へと進んでいます。 今日のお会いでも、まこにぃがお送りいたしました。
それでは皆さん、お幸せに。 またねー。今日もありがとう。