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5月29日です。
今は、国史石の吉竹高木遺跡、八百居の風公園に来ています。
1990年代の最初、80年代で終わり、吉戸狩りが発掘される直前ぐらいに、吉竹高木遺跡が発掘されて、
福岡市の沢楽という、非常に室見川のほとりの広い庭屋があります。
ここは、八百居時代から遺跡がたくさん出てきます。
そこで、三種の神器が全て揃った奴が、
あ、津川さん、おはようございます。ライブやってますから、声聞こえます?
なんか風が結構ブーブー入ってるんじゃないかなっていう気がするんですけど、
今ね、風は目立った感じで吹いてはないんだけど、時々外でやってるとね、風が結構吹く、音が結構入っちゃったりするんで、
今、僕がいるところは、飯森山という、標高300メートルぐらいかな、音声…
旅行ですか?ありがとうございます。
福岡市の西の方の平野に今、ぽつんと僕立ってるんですけどね、
周りが広い公園で、八百居時代のモニュメントがぽつぽつと置いてあるようなところで、
さっき言った吉竹高木遺跡っていうのなんですけど、ここはですね、当時3世紀ぐらいだっけ、
としてはですね、初めて三種の神器ですね、三つと、まがたまと鏡と剣が、
いっぺんに揃った形で出てきたという、すごくこう、非常に驚くべき遺跡なんですよね。
そういうようなのが出てきちゃったもんで、とんでもないものが出たということで、
さわら王国っていう名前が付けられてね、本当に異星を踏みしたんだけど、
直後に吉野原が出てきちゃったもんで、そこでね、ちょっとブームが終わっちゃったっていうところがあるんだけど、
亀冠ロードっていうのが今ここに、今ちょっと風が吹いてきたんだけどもしかしたら、
ブーブー言い出してるかもしれない。
ここの、今僕が立ってるのがね、あちこちに亀冠のモニュメントがずらっと出てて、
この建て方が面白くてね、
例えば地面の一部を1メートルぐらい掘り下げた、カステラ状にしたやつをぐっと上に持ち上げたっていうような感じのね、
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モニュメントになってて、今ここの地面の下はこうなってんだよっていうような、
今ものが目の前にあって、亀冠なんだけれども、
僕がここにいるのが、丁寧に研ぎ分けられた銅剣っていうね、銅剣が今出てきたとこだよっていうのがここにあるんだけど、
どこだったか3種の神器が全部出てきたっていう、
トレンチウォールっていうんだな。
複数の聖堂祭が服装された亀冠。
これはすごい、見事ですね。
これが銅剣と砕玉っていうのが一緒に入ってる。
こったまんさん、こんにちは。
どうもどうも、今ちょうど公園に生きてて運動不足なんで、
ウロウロとしてるとこだけど、めちゃくちゃ天気が良くて、
今僕は2000年の歴史に囲まれたところに立ってるんですけどね、
福岡市の佐賀区っていうのは本当に歴史が古くて、
もう2000年前から。
だって今僕がちょうど北向いてるんですよね。
北向いてる目の前の遠くにね、うっすらと野古の島っていうのが見えて、
その野古の島の向こうにですね、
野古の島っていう言葉自体も古いんですよ、ものすごく。
野古っていうね、この言葉すごく古くて、
この辺古い名前がいっぱいあって、
昨日ライブに出てた甲太郎さん、甲太郎さんが今塾っていうとこ住んでるんだけど、
あそこの辺が今塾とか今塾とかね、今山とか今っていう名前がものすごく多くて、
その当時の2000年以上前からの今っていう名前なんですよね、あの辺っていうのはね。
そういうようなのとか、野古の島の野古っていう名前とかね、多いんですよ。
それからその鹿の島の鹿っていうね、のもそうなんだけど、
鹿の島っていうのがレレの金印が出た島なんですよ。
それが今僕の目の前に、目の前っていうか、
今北向いてるところに今見えているというね、そういうロケーションなんですね、今ここが。
で、西を向くと飯盛山っていうポツッとね、
ご飯の茶碗をひっくり返してご飯のね、なんか山を作った鹿のように見える山、
本当に飯盛山で描くんですけど、古代ロマン、はい、
あこたまさんありがとうございます、古代ロマンです、そうなんですよ。
この飯盛っていうこの山の中腹に飯盛神社っていうのがあって、
これがもういつからあるかわからんという古い神社で、
福岡市を見渡してるんですけどね、この福岡市の一番西にある山と、
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それから東の方を今向いてるんだけど、東の方は遠くに山々が今見えてて、
その途中に若杉山っていうのがあって、そこに中腹に一つ神社があるんですね。
これ面白いことにですね、古事記に国有名神話ってあるのご存知ですかね、
一番最初高麦原から、いざなみのみことといざぎなみのみことっていうのが、
下に行って国作ってまいれって言われて、
二人でコロコロコロコロッと海をかき回したら、コーロコーロってかき回したらね、
おのころ島っていうのができたと。
おのころ島っていうのをね、そこに降りて、
で、そこから国をずっと作っていったんだって言うんですよ。
で、そのね、いざなみのみことといざなみのみことがね、実を言うとですよ。
実を言うと、このさっき言った西側の飯森山に片一方が、
そして福岡市の反対側に遠くに見えている山の中部に、もう一つ反対側がね祀られてるんですよね。
福岡市をね、両方から挟んで見渡しているという、
そういうロケーションにその国有名神話の出てくる神様がいるということで、
どれだけ古いのと。
やっぱり相当古いんですよ、この福岡っていうところ。
相当古いですね。
だってあの鹿野島に西暦57年に中国の皇武帝から贈られた金銀がですよ。
漢の皇帝ですよ。
その漢の皇武帝という皇帝から贈られた金銀ですよ。
それがね、57年という時代に。
それがこの鹿野島にあるわけですからね。
どれだけ古いんだという、
そういうようなところに今僕は立ってるというわけですね。
いや考えてみればすごい話ですよ。西暦57年の漢の皇帝が、
この辺にあった国に送ってきたというわけなんで。
この辺にあった国は那国って言われてるんですけど、
漢の和の名の国王って金銀の中には書いてあるんで、
那国って言うんですけれども、
そこから先の大和大国はどこにあるかわからないという話になってて、
大和にあるのか、それとも九州にあるのかという、
そういうところなんですけれども。
実際ここに那国今立っている状況から、
この那国の次が大和大国ですよって言ってるわけなんでね。
この辺じゃないのとか思うんですけどね。
これは明治というか江戸時代以来ずっと、
京都大学系と東京大学系で論争で今でも決着がついてないですね。
秘密子に与えられた親義和王の姻というのがあってね。
親親ですね。親し義は義ですよね。
で和王。まさに三国時代の曹操の頃の義ですよ。
その曹操の頃の義の時に日本には秘密子がいたわけで、
その親義の和王の姻を秘密子が送られているわけだから、
その印鑑が入った墓が見つかれば完璧。
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もうそこが大和大国だっていうことになるんだけど、
もうそんなのないんでね。
もうどこにいるかもわかんないということで。
こたまんさん。僕の地元の松江ですか。
松江って言ったら出雲ですよね。
ああもうあれはやっぱりね。
あれも相当古いですよね。あそこも。
だってあそこは潮流で大陸からの潮流で
あの辺に確か流れ着くんでしょう。
あのいかだやら船やら。
だから相当昔からのこの博多と同じくその松出雲という
あの辺も相当昔から大陸と交流があっているんで、
やっぱりあれですよね。
そう神話の国ってよくあのカンナ月って言うじゃないですか。
僕ら子供の頃からねなんか変な名前だなって
カンナ月って何でカンナ月って言うんだろうって思ってたら
あの出雲にみんな行っちゃうからって言うんですよね。
神様がみんな出雲に行っちゃうから神様がいなくなるからカンナ月と。
だから出雲後ろに撮ってみれば神様がいっぱい集まってくる
神あり月って言うんだけど。
考えてみればなんで出雲に行っちゃうんだろうって思ってたら
神様がみんな、あそうです。
えーと autistic そうです。
すしま海流が対象期で反転する。
そうですよね。
だからこれも本当に思って、やっぱり
全国の神様がね出雲にね、周りに行くんだっていうわけですよ。
考えてみればみようで。
本当は大和朝廷が中心だって言うんなら
みんな大和朝廷に座ってるんですよ。
朝廷がね中心だって言うならみんな大和朝廷の神様のとこにね
天寺総務神がそこいるんだ
天寺がそこいるわけじゃなくてその末裔のねが今いるんだけど
でもその天寺がそのね祖先だって言うなら
その祖先が降りてきた高地方の宮崎がのところ高地方のね
そこに行くなら分かるんだけどそうじゃなくて出雲に行くわけでしょ
なぜ出雲にみんな行くのかっていうところがねすごく不思議で
これやっぱね古代の断片が残ってるんじゃないのかなって思うんですよね
出雲ってやっぱ中心だったと思うんですよね
2000年ぐらい前は中心というか日本の中心じゃなくて
あの辺の中心として一つの大きな国というか勢力があったと
で和国僕らが僕が今住んでいるこの和ですね
和には和としてあのあのあったと一つの文化があったと出雲にもあったと
で国を見えとほら国譲りがあるじゃないですか出雲にはね
であれ国譲りで譲ったみたいになってるけど実際譲ったんじゃなくて
大和朝廷から取られちゃったのを大和朝廷の方がその神話でね
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いやー出雲がね譲ってくれたよって書いてあるの書くのがやっぱ普通でしょうから
だから出雲の大国主でしたっけ
彼らに取ってみればもう取られちゃったと
でも取った方としては気持ちよく譲ってくれたよって書いてるだけのことで
そういうようなね歴史の書っていうのは侵略者に都合よく書くのでね
そういうふうに言ってるだけであってやっぱ違う
そこに大きな王国っていうか
大和朝廷に匹敵するぐらいの朝廷って言っていいぐらいのものがきっとそこにあったので
そういうところの神話が残った断片としてね
やっぱ古事記とかに残っているんじゃないかなってやっぱ思いますよね
同じように僕らの今僕が立っているここも
大和朝廷はまた別の朝廷っていうか和っていうかね
そんなのがあっても何にもおかしくなくて
太宰府は完全に朝廷の形をしてるんですよね
長安の都にそのまま模した形になっている大理があって
南城通りとかいうのがあってね
でもう大和のね何ですかね
なんていうの出たと縁の朝廷っていう言い方するんだけど
そこの出張所みたいな扱いになってるけど
でもその出張所ならあそこまで本当に
都の形をしたものを作る必要がなくて完全に都の形なんですよ
なんで都の形を作らなきゃいけないのかっていうね
朝廷本当の朝廷が大和だったらそんな朝廷の形
都の形そのまま模したものを作る必要もないわけで
そんなことをいろいろ考えるよりもそこに別ののがあったんだよって
考えたほうが普通ではありますよね
無理して全部大和って言ってしまう必要も何もなくて
こっちはこっちであったんだよって
和の五王っていうのがあるんですよ
三陳成功部っていう三王陳王ってね和の五王っていう
これがね実はの5世紀4世紀5世紀空白の4世紀5世紀とよく言われるんだけど
そのところでね実はその日本古事記には出てこないんですよ
日本書紀にも古事記にも三陳成功部という和の五王という
全く出てこないというか出てきても誕生日とかね
その誰々の兄であり誰々の親でありという
そういうような隕石と関係も全くそれらに値する人はいないんですよ
で例えばは三陳成功部っていう部は武士の部で和王部っていう言い方
和王部って言ったらなるほどって聞いたことが
もしかしたらあるかもしれないけどもこの和王部っていうのがね
あのえっと大和田へとねあの雄略天皇雄略天皇に否定されているんですね
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大八世の和歌たけるって言うんですよね
でそのたける大八世の和歌たけるっていうののたけるという字の一字を取って
部にしたのであろうというふうに否定してるんですけどめちゃくちゃ無理が
なんで向こうのこれも正式に向こうのね
あの中国の歴史書に正式に書かれている名前が部なんですよ
だから和王部って言っているんですけど
なんで雄略天皇が自分の名前の陽明をね
大八世の和歌たけるそれを陽明じゃなかったか
その一部をね何でそれを知らせるのかと
新書に書いてるから部って書いたから向こう部って言ってるわけであってね
ちゃんともしあれだと大八世の和歌たけるって書くはずですよ
和歌たけって言うらしいですけどね
たけ和歌たけって書くはずなのにそうじゃなくて
でまあたけにしたってその前の三地政公和王公という人との
隕石関係は全く違うとせとか誕生日とかも違うというので
まあそんなのは聞き書きだから間違えたのであろうとされていて
なので中国の使者に吐き出ている和王部和王の和の号っていうのと
いや当時からねもう大和朝廷が統一してたんだから
大和朝廷の王に違いないから
大和朝廷の当時の人たちを否定しようということで
一個一個無理をして当てはめていって
合わないところは聞き間違いであろうとして当てはめているというのが今のね
当時の日本の歴史の
ねえそういう説明に今なってるんだけど
そんな難しいことしなくたっていいじゃん
別におったと考えればいいじゃんっていうふうに考えるんですけどね
そこのところは一体どうなんだろうなーってちょっと思うところですね
実際にここ住んでるとね別じゃんって普通に思いますね
で当時当然のようにこうねこう征服されてきてるわけなので
じゃあその征服されたのがいつかっていうとおそらく
岩井の反乱527年のね岩井の反乱って言われてるやつで
岩井っていうのは畜生の国の宮津子とか畜生の君とか言われてるけれども
彼が彼は大和朝廷の役人であった形にされてるわけですね
その彼が反乱を起こしたから鎮圧したよっていうのが
527年の岩井の反乱って言うんだけど
当時の天皇警戒天皇ですか
その警戒天皇がやっつけて反乱を鎮定して
また平和になったよっていうやつなんだけど
それもどうかわからないですよ
後からの書き付けで岩井という人がいて
その人はうちらの役人だったんだけど
でも反乱を起こしたから制定したよっていう言い方知ってるんだけど
実際はこの岩井という人が
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ここの和の吾王から続いてくる
ここの王国の王朝の最後の王だったかもしれないですね
それをやっつけてその時に完全に山戸がこちらを征服したというふうに考えて
行く方がもしかしたら自然かもしれないと
それまでは山戸の朝廷と別のここに和というものがあったと考えれば
何も不思議もないなっていう
なんか地元美意気っていうところもあるかもしれんけど
普通に無理のない考えじゃないのっていう気はするんですよ
なんでそういうかというとその警戒天皇がこんなこと言ってるんですよ
ほらバルチック艦隊とロシアの日露戦争の時に
あこったまんさんお疲れ様です
リーさんそろそろはいありがとう温泉行ってらっしゃい
そうそう今日こったまんさんはお休みでいいところに行かれてますよね
どうぞ行ってらっしゃい
でその日露戦争の時に都合部八郎がZ旗を掲げてZ旗だそれも
ZだZ旗を掲げてここ国の後輩この一斉にありって言ってるんですよ
でだから各自奮闘努力せよって言って
日本海戒戦に臨んでるんですよねって本当にそうなんですよ
それに負けちゃったらバルチック艦隊ウラジオストクに入って
そこからフラフラフラと戦艦が出てきて
朝鮮半島に兵隊を送る立ち切られてしまうので確実に日本は負けるんです
だから絶対どうしちゃならないからバルチック艦隊どうしちゃならないから
全部撃滅するんだって必死になって頑張れってこれ負けたら大事だぞって言ったのが
都合部八郎の広告の後輩この一斉にありっていうね
今考え思ったZ旗だZですよ
ロシアのプーチンも今Z掲げてねやってますね
なんか不幸しましたね何かで何かプーチンもこの前5月9日に
みたいなことをやっぱり言ったりしてるっていうことなんですけど
その実を言うと岩井を沈めに行くときの慶太天皇が同じこと言っとって
広告の後輩この一斉にありって言う言葉じゃなくてね
社職の存亡この戦にありやとか何か言ってるんですよ
社職の存亡というのは広告の後輩と全く同じ意味で
慶太天皇はそこまで言ってるんですよねこれ負けたら大和朝廷なくなるよ
みんな頑張ってねって言ってやっつけて頑張ってるんですよね
非常に何かね考えますよね
だって一つの役人を鎮定するのに
そのこの役人鎮定できなかったら
広告大和朝廷潰れるよって言ってるわけですよね慶太天皇がね
じゃあただの役人じゃないだろうって思うわけですよね
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そうするとねやっぱ普通ここ別の国があったんじゃないというふうに
思っていてもいいんじゃないのというところに今僕が立ってる
ここはその三種の神器がそのまま出てきたところなんですよ
ちょうど30年前か吉野があり直前にね
出てきたところで
そこに今僕が立ってるともう相当大変だったんですよ
あの玉と鏡と剣がいっぺんに出てきたなあつってね
その時はうーんそういうのって確かなかったんですよね
最古のその時代のねその3世紀だったっけ4世紀だっけ
その時代に三種の神器がそのまま入った亀冠が出てくるって
なかったんですよね
これは大変だということで大騒ぎになったんですけど
そこの遺跡に今僕は立ってまして
うろうろしているというところなんですけど
なんかいやなんかツバメが飛んでますツバメが
ああなんかいいですね
ずっと車の中で運転してて運動不足なんで
どっか泊まっていろいろ歩きたいなと思ってたんだね
歩かないとやっぱりダメですよね
腹痛のせいで運動不足
今僕が歩いてるのが古代の川の跡というところを歩いてて
なんか低くなったところに石がね
船上にずらーっと石が今あるんですけど
これ古代の川底なんですよね
面白いなぁって思いますね
えっとそういうなんかライブ配信はやってますけど
ちょっとガンガン歩き始めたらもしかしたら風の音が
ビュンビュン入ってるかもしれないけど
もしかしたらね
こらえてくださいここ高床敷の家もあったんですよねここね
高床敷ですよ
まさに弥生時代のねここは王国跡ですよね
そしてそこを飯森神社が上から見守っているという
ここに来ると本当に古代のそのこのあたりのね
ことを考えさせられますよねすごく
で今ちょっとねその三種の神器について書いてあるところ
今最古の王庫発見がこれがこれだ
この位置がここでか
他に例のない豪華な服装品と書いてありますね
昭和59年から60年1984 85の発掘調査で
整然と並んだ弥生時代の木漢坊亀漢坊が発見
青銅器やアクセサリーがたくさん出土しましたというところで
ほんと玉と鏡と剣がそのまま入っているわ
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いやいやいやいやすごいね写真がドーンと出てますね
はいここ今僕がいるのが
これまで弥生時代の墓は日本の各地で数多く発見調査されていますが
中から服装品が発見されることはほとんどありませんと
大量の服装品がまとまって出土した吉竹高木石の特定集団坊は
極めて稀な存在であることがわかりますということで
ここで出たマガタマとして作られた鉱獄翡翠が
新潟県から来たんだそうですよ
すごいです当時の鉱竜があったということですね
ちょっと道を渡って南の方に
うわ水田にも水が入っているぞ
もう水が入っているな
そうよねもうちょっとで梅雨だもんな
どこからどこからか書いてあった
ここじゃないのか
はいということで
どれくらい喋ったんだろうな
25分喋った
はいということで
ちょっとそんなライブを今日はしてみました
ということで今日何人か聞いてくださってるみたいで
どうも本当に聞いてくださってありがとうございます
はいということで
今これで失礼します
もうちょっと歩いて運動して帰ります
ありがとうございました