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1813年2月のある晩のことです。 ロンドンの小さな家で一人の若者が寝自宅をしていたんですけど、名前はマイケル・ファラデー、製本屋で働く21歳の職人です。
その時、表の音を強く叩く音がしました。窓から外を覗くと、通りに立派な馬車が止まっているんです。 降りてきた使いの人が一通の手紙を置いてきました。
明日の朝来てください。デイビー。 デイビーはイギリスで一番人気の科学者です。そしてほんの少し前ファラデーにこう言った人でした。
科学の道は貧しいぞ。いくら打ち込んでも食べていけない。 製本の仕事を続けなさい。断った本人が夜に馬車をよこしたんです。一体なぜでしょうか。
ファラデーは鍛冶屋の息子です。 学校では読み書きをやっと習った程度でした。製本屋で働きながら一人で科学を学んできたんです。
けれどその頃のイギリスでは、科学はお金と時間のある紳士たちのものだったんですね。 製本屋の職人が入っていける世界ではなかったわけです。
そんな若者が後にイギリスで一番の科学者と呼ばれるようになったんです。 話はファラデーが子供の頃に遡ります。
ファラデーの一家はロンドンの馬車置き場の2階の部屋に住んでいました。 父は鍛冶屋でしたが体が弱く仕事を休みがちでした。
ファラデーが9歳の時、パンの値がひどく上がったんです。 一家は暮らしていけなくなって町から施し受けることになりました。
ファラデーに渡されたのは1週間でパン1個だったという話があります。 12歳になるとファラデーは新聞を配る仕事を始めました。
ある家に新聞を届けに行った時のことです。 戸が開くのを待つ間、ファラデーは隣の家との境にある鉄の柵に頭を突っ込みました。
そして今自分はどっちの家の側にいるんだろうと考え込んだんですね。 その時待っていた戸が開いて慌てて頭を引いたら柵に花をぶつけて鼻血が出たという話が残っています。
そんなことが気になってしまう子だったんですね。 14歳でファラデーは製本屋に見習いとして入りました。年期は7年。
製本にはお客様から頼まれた本が次から次へと回ってきます。 ファラデーは仕事が終わるとその本を読んだそうです。
ある日製本を頼まれた百貨辞典がファラデーの手元に回ってきました。 その中の電気という項目をファラデーは夢中になって読みふけたそうです。
お館はそれを咎めるかと思うと全く咎めることもせず、それどころか店の奥の場所をファラデーの好きに使わせてくれたんです。
今私たちが電気を使って暮らせるのはこのお館のおかげと言ってもいいくらいですね。 ファラデーは読むだけでは終わらなかったんですね。
わずかな小遣いで古いガラスの瓶を買ってパチッと火花の飛ぶ電気を起こす機械を作ったんです。 そして次に作ったのが電池。
この頃電気の実験をするには電池が必要だったんです。 けれども学者の使う電池は金属の板を何百枚も重ねた高いものでした。
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しかもすぐに終わってしまうんです。見習いのファラデーに手が出るものではありませんでした。 そこで自分で作ったんです。
半ペニーの同化7枚と自分で丸く切り抜いた亜鉛の板を交互に重ねました。 よほど嬉しかったんでしょう。
友達の手紙にはおどけてこう書いています。 なんと7組もの板しかも半ペニーほどの大きさ。
私が自分で切ったんです。 小さな電池でしたが思っていた以上の力が出てファラデー自身が驚いたほど。
これでファラデーは自分の手で電気の実験ができるようになりました。 仕事が終わるとお館が使わせてくれた店の奥で本で読んだ実験を一つずつ試していきます。
読むだけだった電気が自分の目で確かめられるものになったんですね。 試せば試すほどもっと知りたいことが出てきます。
そこで夜には街の科学の講義にも通い始めました。 講義を聞くにはお金が必要です。
見習いのファラデーには気軽に出せる額ではなかったんですね。 そこで父と同じ鍛冶屋になっていた兄が自分の稼ぎから出してくれたんです。
聞いた講義は自分が学ぶために丁寧にノートにまとめていきました。
1812年の2月、ファラデーに思いがけないことが起きます。 親方がファラデーのノートを店のお客のダンスさんという方に見せたんです。
ダンスさんはノートを見て感心してファラデーに1枚の入場券をくれました。 それは法律研究所という科学の講義をするところの入場券でした。
ダンスさんはそこの会員だったんですね。 しかも講義をするのはあのレイビーでした。
レイビーの講義には上流の紳士や淑女が詰め掛けて周りの通りや場所で一般になったと言います。 レイビー自身も元は田舎の薬屋の見習いだったんだそうです。
そこから身を起こしてイギリスで一番の科学者になった人なんですね。 ファラデーは4階の講義に通いました。
座ったのは階段のようにすり上がった客席の一番上、 講義をする台から一番遠い席でした。
ファラデーは夢中でメモを取りました。 家に帰るとそれを清書し図を書き入れます。
講義を聞くうちにファラデーの思いはどんどん膨らんでいきました。 科学の仕事がしたいなぁ。どんなに下っ端でもいい。
ファラデーはイギリスの科学者たちの団体をまとめる偉い学者に手紙を書きました。 けれど返事は来ませんでした。
屋敷まで聞きに行ったファラデーに門番があっさりと返事はありませんと答えました。 その年の10月7日ファラデーの7年の年期が明けました。
翌日からファラデーは別の店で雇われの製本職人として働き始めます。 ところが新しい親方はひどく怒りっぽい人でした。
朝から晩まで仕事に追われて本を読んだり実験をしたりする余裕がほとんどなくなって しまったみたいですね。
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ファラデーは友達にこう書いています。 今のところにいる限り科学は時間とお金に恵まれた人たちにすっかり譲るしかない。
今とても気がめいている。科学の世界へ入っていく道はどこにも見えませんでした。 それでもファラデーはただ待ってはいなかったようです。
机の上にはデイビーの4回の講義を聖書したあのノートがあります。 そんなファラデーの背中を押したのはあの入場券をくれたダンスさんでした。
デイビーに手紙を書いてみなさいと勧めてくれたんです。 ファラデーはこのノートをデイビー本人に見てもらおうと考えました。
そのために一冊の本に仕立て直すことにしたんです。 製本はファラデーの一番の腕です。
仕事を終えた後残ったわずかな時間で少しずつ本に仕立てていきました。 ろうそくの明かりの下で紙をそろえ糸でかがり表紙に革を貼ります。
背には金の文字を押しました。出来上がったのは店の棚に並べても恥ずかしくない立派な一冊でした。
ファラデーは手紙を書いてその一冊を添えてデイビーの元へ送りました。 製本の仕事から抜け出して科学に使いたいという手紙です。
製本の腕で科学の音を自分で叩いたというわけですね。 1812年12月24日のクリスマスイブ
デイビーから返事が届きました。 ファラデーは震える手で封を切ったことでしょう。
大変な熱意と記憶力と注意力が見える。 年が明けたら会いましょう。
年が明けてファラデーは王立研究所へ出かけました。 デイビーは控えの間の窓の側でファラデーの話を聞いてくれました。
けれど話を聞き終えるとこう言いました。 科学の道は貧しいぞ。いくら打ち込んでも食べていけない。
製本の仕事を続けなさい。 ファラデーはがっかりしました。
断られたんですね。 ファラデーはまた製本台の前に戻りました。
朝から晩まで怒りっぽい親方の下で人の本を閉じます。 それでもファラデーは学ぶことはやめませんでした。
仕事が終わった夜、ロウソクに火を灯して学んだことを確かめ直します。 わからなかったことを調べて書き留めていきます。
いつ来るのか本当に来るのかもわからない機会のためにです。 ロウソクが短くなってもファラデーはペンを止めませんでした。
そして1813年2月のあの晩がやってきます。 寝自宅をしていたファラデーの家の音を誰かが強く叩いたんです。
通りの馬車から降りてきた使いの者がデイビーの手紙を置いていきます。 明日の朝来てください。デイビー。
ファラデーはその手紙を何度も読み返しました。 期待していいのだろうかまた断られるのではないか。
その夜ファラデーはなかなか眠れなかったことでしょうね。 次の朝デイビーをファラデーにこう聞きました。
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まだあの時と同じ気持ちですか。 ファラデーは答えました。はい今も科学の仕事がしたいです。
研究所で実験の手伝いをしていた助手が喧嘩をしてやめさせられたばっかりだったんです。 その席が一つ空いたんだそうです。その席にデイビーをファラデーを呼びました。
あのノートを送り自分に会いに来た若者。 給金は週に25シリング。それに研究所の屋根裏の部屋がつきます。
聖文職人の稼ぎより少なかったと言われます。 給金は減る。それでも科学の仕事ができる。
ファラデーは喜んでその申し出を受けました。1813年の3月。 ファラデーは王立研究所の助手になりました。21歳になっていました。
助手になって間もない頃ファラデーは手紙にこう書いています。 抗議の手伝いをした。
手を貸したとまでは言えない。指を貸したというところか。 それから18年が経ちました。1831年の10月。
ファラデーは研究所の地下の実験台にいました。 目の前に細い針金を巻いた筒があります。
ファラデーがその中に磁石を差し入れると、繋いであったケーキの針がピクリと動きました。 電気が流れたんです。
磁石を引き抜くと針を反対に振れました。 入れると振れる、抜くとまた振れる。
磁石を動かすだけで電気が生まれたんです。 それまでは電気を起こして使い続けるには電池が必要でした。
けれど電池は高くすぐに弱ってしまいます。 若い頃どうかで電池を作ったファラデーが、今度は磁石を動かして電気を起こして見せました。
磁石と銅線があれば電気はいくらでも生み出せる。 今私たちの家に届いている電気はこの日の発見の上に成り立っているんです。
研究の傍らファラデーがずっと続けたことがあります。 王立研究所のあの講義室。
若い頃一番遠い席からデビューを見つめていたあの講義室です。 その講義室で今度はファラデーが前の台に立って語る側になりました。
子供のためのクリスマスの講演です。 ファラデーは難しい科学を子供にわかる言葉で楽しそうに語りました。
そのわかりやすさは死のデイビーさえしのぐと言われるほどでした。 歳をとってからもファラデーは町で新聞を配る少年を見かけるといつも優しく声をかけたそうです。
家の者にはこう話していました。あの子たちを見るといつも応援したくなるんだ。 私も新聞を配っていたからね。
マイケルファラデーのことを辞書論に書き残したのはサミエル・スマイルズです。 スマイルズはこう書いています。
自分で道を見つけようと決めた人はいつでも十分な機械を見つける。 もしそれが手元になければ自分で作るのである。
返事がなくても断られてもあなたが手を止めずに続けていることはありますか。 よかったらコメントで教えてください。
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次回は10歳で宝石工場に入り、機械の上に本を置いて読みながら医者になり、振り返り渡ったリビングストーンのお話です。
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