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4月20日となりました。
今朝、木月の学校で大阪万博2025の話をされていましたね。
4つの視点から何が間違っているのかということについてお話をされていました。
大阪万博2025についてはですね、3年ぐらい前に決まったんでしたっけね。
その時からずっと僕は興味があって、途中途中のですね、いろいろな予算が足りないとかね、木製の大屋根とかですね、そういうものを気にしながら追ってきているんですけれども、
なぜこうやって僕がですね、大阪万博に関心があるのかというと、
僕がですね、1970年のエキスポ70って言ってたんですけれども、
あの万博に相当ですね、一国民、それも子供として深く関心を持っていたという、そういうことがあったからです。
それがね、今日はお話をきっかけにしてですね、何がそのように子供を熱狂させていたのかということについてね、お話をしたいと思うんですね。
僕はね、小学校4年生だったんです。
1970年の3月に開幕なので、3年生の終わり頃に開幕をしたんですけれども、
もうすでにその頃にはですね、もう国民全体の中に待ちに待ったというのがもう完全にこう雰囲気が醸成されていたんですね。
それが溢れていって、子供の私にも来たというような状況だったんですけれども、
もう人ごとじゃなくて、自分ごとだったんですよ、万博が。
だって僕ら福岡に住んでいる者にとって大阪の万博って別にね、そんな近くでやってるわけでもないし、行けるわけでもないしですね、
他人ごとのはずなんですが、それも子供ですからね。
それが自分ごとのようにですね、大騒ぎをしていたというのは一体何だったのかなというところのお話なんですね。
やっぱり一つは、そのような雰囲気が醸成されるための盛り上げっていうのはね、もう至る所にあったんですけど、
例えば当時カラーテレビがですね、一般にどんどん普及されていった時代ということがありまして、
カラーテレビの新型機種がどんどん出てきていたんですが、そのカラーテレビとのタイアップっていうのがやっぱりありましてね、
万国博をカラーで見ようっていうキャッチフレーズがありましたよ。
パナカラーとかですね、今はないのかな、キドカラーとかですね。
そういうカラーテレビのコマーシャルでどんどん万博の楽しそうな雰囲気が、
お茶の間ですね、今は言うのかな、お茶の間っていう言い方。
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お茶の間に伝わってきてて、日常の自分たちの生活にどんどん万博が入ってきていたというのがありますね。
万博に行ったらこんなに楽しいよ、でも行けなくても大丈夫だよ、カラーテレビがあるからね、というね。
次にね、カメラとのタイアップですね。
まだ当時は映るんですみたいなのはないし、オートフォーカスもまだまだ出ていなかった時代じゃないかと思うんですけれども、
その中で万告白を映そうみたいなキャンペーンがあって、カメラのコマーシャルですね、見ると。
万博会場を映していきましょうよ、というようなのがありましたしね。
あとテレビで言えば、万博が始まってからは、万博アワーっていうのが夜の9時ぐらいからかな、あって。
今日こんなことが万博ではあったんだよ、みたいな毎日の振り返りが行われていたりとか。
学習雑誌ですね、僕らの科学と学習とか撮ってたんですけれども、あと小学館ですね、小学何年生みたいなね。
ああいう学習雑誌で毎月のようにパビリオン紹介ですね、何とか館とかね、そういうのの紹介。
写真とかね、紹介されて。もう僕ら子供はもうそれ見て、わーって思っていたわけですね。
あと当時あったんですが、朝日グラフみたいな写真週刊誌のみたいなものなんですけども、そういう中で各パビリオンの特集とかね、やって。
ボロボロになるまでね、それも見てましたね。
あとね、様々な企業のおまけアイテム的なものがたくさんあって。
よくあの折り畳みの紙でね、パビリオン一覧みたいな感じで、百何十個のパビリオンのイラストがバーっと書かれているようなのとかがあって。
そんなの見てですね、わーっと胸を躍らせていたもんですね。
あともちろん音楽ですね、こんにちはというね、南原さんの。
あれは実を言うと1967年頃からもうすでに音楽が巷に流れていたんですよ。
僕は小学校1年生だったんですけど、「こんにちはこんにちは世界の国から」っていうね、意味がわからなかったんですよ。
なんだろうと、世界の国からこんにちはって。まあそうだろうねと。
なんでこんな歌を歌うかなみたいなね。
当時ブルーコメッツのグループサウンズの初のレコード大賞でしたっけね。
ブルーシャトーっていうのがね、流行っていた頃にこんにちはとか言ってたわけですからね。
何なのかなと思っていたんですけど。
それが1970年、5年後に、当時から言えば3年後か、3年後に控えていた万博のことだったんだっていうのを知るのはずっと後になってからなんですけど。
みんなが口ずつでいた歌になりましたね。
このようなですね、盛り上げによって、いわゆる子供にまで、なんかわからんけどすごいのがあるぞっていう胸を躍らせるというようなのがね。
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やっぱり、もう行き渡っていましたね。空気の中に万博が入り込んでたっていうかね。
どこを歩いて何をしていても万博の空気を吸っていたというような感覚が当時はありましたね。
それでですね、今度2つ目の話題なんですけどね。今も盛り上げの話には出てきたんですけども、パビリオンですよ。
パビリオンがですね、僕のヒーローだったんですよね。
今の方もしかしたらね、そうないかもしれないけれども、もう独特な形、形状のね、パビリオンがあるんですよ。
例えばアメリカ館とかいったら、もうあのドームが、ドーム球場の走りみたいな感じですか、空気圧だけで屋根を持ち上げてですね、平べったいものなんですよね。
なんか上から見たら、角丸の四角形がポンってそこにあるみたいな感じなんですけど、やっぱりそれはインパクトがありましたね。
これ柱がないとか言ってね、空気圧だけでできてるとかね。絵を描こうと思ったらめちゃくちゃ描きやすかったですね。
あとソ連館っていうのがあったんですけどね、当時ロシアじゃなくてまだソ連だったんですけど、渦巻きのような感じでね。
階段渦巻きながら上にグーッと上がっていって、それもなんて言うんですかね、放射曲線、なんとか曲線、グーッとこう、ギュンと上がるやつですね。
あんな感じで最初なだらかなんだけど、一挙に最後は一気にわっと上がって天空を貫くとんがり、とんがっていくようなね。
それが横から見、上から見たら円形になって、横から見たらね、渦巻き階段みたいになってるというような。
赤と白でできたような独特な形状ですね。
オーストラリア館とか行ったら恐竜がバーンってあって、そこの恐竜の口からなんか巨大なものを吊り下げているというようなイメージであるとか。
日本館とか行ったら上から見たら桜の花びらになっているとかですね。
それぞれ本当にね、魅力的なんですよ。
一番好きだったのはフジグループパビリオンというので、巨大なチューブを輪っかにしたものが繋がっていてですね、前後に繋がっていて。
どこから見ても形状に魅力があるというようなね。
あとサントリー館とかね、立花ミシン館だったっけ、そういうのがいろいろあってね。
描いてたんですよ。イラスト一覧みたいなのをおまけでもらったりしてたんで、それを見ながら描いてたんですよね。
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僕オーストラリア館描けるぜとかね、僕はね日本館描けるぜとかね、日本館簡単じゃんとかいろいろ言ったりしながら。
ソ連館を描けるというのが一つのね、いばりポイントだったわけですけどね。
そんなふうなことで、子供たちの中でパビリオンの絵を描く楽しみっていうのがあって、ヒーローですよ。
まだ仮面ライダーとかが出てくる2年ぐらい前、1年ぐらい前か、71年に仮面ライダーが放映され始めるんですけど、
その前の年、まだウルトラマンぐらいしかヒーローがないような時代、僕らパビリオンをヒーローにしていたんですね。
だから今でもね、当時の様子とか言ってパビリオンが出たらですね、僕はこれ何何館だって今でも答えられるんですよ。
ほとんど多くのものをね。
当時の万博の呼び物といったら、アメリカ館の月の石。
前の年1969年にアポロ11号がね、アームストロング船長が拾ってきたっていうか、持って帰ってきた月の石、それが展示されたということなんですけれども、
それよりもやっぱりパビリオンを見るというのがね、僕らの本当に楽しみにしていたものだったんです。
そういうパビリオンというのがやっぱり万博の花ですよ、やっぱりね。
ということでね、一国民の、それも子供の私にあの万博がどんな影響を与えたかというとですね、
僕は福岡に住んでたから行けないんですよ、当時はまだね。大阪に行くなんて簡単にできるもんじゃなくて。
だけどもう本当にそれぐらい好きなんで盛り上がってたんでね、夢でね、会場巡りしてたんです。
本当に何度も何度も夢見ましたよ。
で、友達と一緒に学校の帰りがけに、万博行こうか、行こう行こうって歩き出したらもう会場にいるんですよ。
おお、アメリカ館だとかね、ここを歩いて行ったらオーストラリア館に行くんだぜとか、頭の中にもう地図が入ってますからね。
木曜広場とか水曜広場とかいろんなね、そんなのがあるんですけど、ここ歩いて行ったらあそこだぜみたいな。
もうそんなの知ってるんですよ、知識ってね。
うわ、こんなに大きかったの、こんなに大きいと思ったら実は小さかったんだとか逆に思ったりとか、そういう夢の中で会場巡りとかしてたんですね。
すごいですね。
で、なんとですね、その4月頃に大阪に住んでるおばからね、チケットが送ってきたんですよ。
おいでーっつって、家族4枚分で。
で、みんなで夏に行こうって楽しみにしてたんですけど、ちょうどその時ですね、うち白黒テレビだったんですけど映らなくなったんですよね。
大変だ、これテレビ買わなきゃいけないっていうことになって、じゃあもう今だったらカラーテレビだねと。
でもカラーテレビって結構高いよねと。
どうしようと、万博に行くかカラーテレビ買うかだねみたいな家族会議になって。
それでね、カラーテレビ買ったら万博見れるから、カラーテレビでいいんじゃね?になっちゃったんですよ。
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それでね、カラーテレビを買った引き換えに万博行かなかったんですよね。
もう1年後に大後悔しましたね。
カラーテレビなんて後からいくらでも買えるじゃんと。
万博行っときゃわかったって。
めっちゃくちゃね、あのー、後悔したんですけど。
目の前のカラーテレビがどうしても欲しかったんでしょうね、小学4年の頃の私はね。
その2年後ですね、僕6年生を卒業した後、母が大阪旅行を連れて行ってくれたんですけど、その時まだ残ってたんですよね、あの跡地が。
日本館がね、まだ残ってたんですよ、その時。
これ感動しました。
そしてやっぱり夢で見た通りに大きかったですね。
大きいと思いましたね。
あとまだお祭りいろばが確か残ってたような気がしますね。
屋根がね、大屋根が残ってたような気がして。
その大屋根からね、太陽の塔がポーンと首を出しているところもね、それがね、実際目の前で見られて、わー、大きい。
こんなところで開かれてたんだなーと思ってね、と思いました。
はい、ということで、どんな盛り上げがあったのかと。
パビリオンっていうのが一体どういうものなのかとね。
それだけやっぱりパビリオンっていうものの影響力が強いんだよということとね、
あとは私への影響という話してきたんですけど。
もうあのやっぱり当時の鉄砂の校長がおっしゃってたように、すごかったんですね。
当時の技術というものが今でも可能になっているものっていうのはね、本当にたくさんあるし。
日本の様々な出来事というか様々なことが万博一色だったんです、あの頃はね。
子供のですね、それも大阪じゃなくて福岡という返協の土地に住んでいるね。
返協とか言ったら福岡の人から怒られる。自分が言うからいいか。
当時はね、本当に大阪、東京の人から見たら福岡なんてめちゃくちゃどいなかだろうと思うんですけど、
そういうところに住んでいる一子、子供の僕にまで溢れ出すような魅力を感じさせてくれた、
そういう万博ってなんでそういうふうにできたのかと言ったら、
やっぱり日本国の様々な企業やサービスやそういうものを挙げての一体化したプロモーションだったんだろうなというふうに思いますね。
ヒーローを作ったというところですね。ファビリオンというヒーローを作ったということですね。
様々なあったんですよ。ダイタラザウルスだったっけ?
すっごいジェットコースターね。5つのコースがあるようなジェットコースターで、
それぞれ特色があるようなね、そういうものとか空中ビュッフェだとかですね。
動く歩道も言われてましたけど、いろいろなものがあったんですよ。
月の石もそうですけど。でもやっぱりファビリオンだったんですよ。
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ファビリオンが僕にとってのヒーローだった。
そのファビリオンのことが全く見えてこない今の万博ですね。
1年前から見てもまだ見えないという。
それはやっぱり確かにね、盛り上がらないだろうなと思います。
僕は関心があるんだけど、そう盛り上がっているというのではないんですけども、
クイーンを見にね、2月の8日、オーストラリアじゃない。なんでオーストラリア?
大阪に行った時に、やっぱり脈々のラッピングしたバスとか電車が走っていたり、
道のあちこちに脈々があったりとかね、
商店街を歩いていたらポツポツと看板みたいなのが置かれていたりとかで、
やっぱり大阪に来ると違うなと。大阪に来たら盛り上がっているんだなと思ったんですが、
一昨日、息子の嫁のお母さんが大阪からちょっと訪ねてこられたので、
僕を迎えに行って、帰りにいろいろ話していたら、
いや、大阪は全然盛り上がっていないですよって言われていたんですよ。
そうなんですか?なんも盛り上がっていないですよって言われて、
そうなのかと思って、ちょっと寂しい気がしたところです。
そういうような盛り上げを、もうちょっといろいろやってくれたらいいなと思ったんですが、
鉄山校長の今朝の話にあったように、4つの理念というかゴールというか、
そういうものがそこから間違っているというような状況の中では、
うまくプロモーションできなくて仕方がないのかなというような気がしたところです。
はい、ちょっと長くなりましたね。
ということで、僕のエキスポ70というお話でした。