改めたあいさかさんから、この本を全く読んだことない人、ひょっとしたらあいさかトーマって名前知ってるけど読んだことない人に向けて、この本ってどんな本なのかって本当に簡単にイントロしていただけると嬉しいんですけど。
そうですね、ブレイクショットの奇跡っていうのは、実はこの内容を語るのが意外と難しい小説でもあって、
書店ででっかいポスターをご覧になった方はわかるかと思うんですけど、大絶賛のコメントをいただいてるんだけど、
よく読むと何言ってるのかよくわかんないというふうに思われた方がいると思います。結局どういう話なんだっていう。
簡単に説明すると、冒頭からある車を製造している場面から始まる。
そして1台の車があっち行ったりこっち行ったりするのと同時に小説の内容も変わっていく。
描かれる人物達というのは車に関わる人たちなんですけれども、
それを通じてある1台の車の変遷を人生のように捉えることによって、
社会の様々な断面を見ていく。そういったようなものだと捉えていただければいいかと思います。
ありがとうございます。本編に入る前に、今回の想定家の河原淳さんにデザインしていただいていると思うんですけど、
河原淳さんといえば、あいさかさんも交流がある佐藤清宗さんが河原さんの想定をされていて、
この間この番組でゲストに出ていた時もその辺の話も伺っていたんですけども、ぜひ聞きたいんですけど。
清宗さんは想定を河原さんに渡す時にプレイリストを渡すと。
彼は音からって言っていたんですけど、あいさかさんの場合はどういう感じでオーダーをされたんでしょう?
今回河原さんとお仕事するのは初めてだったんですけれども、基本的にはオーダーを受け付けるタイプではないと伺ったんですね。
ユキシタさんの時はいろんな打ち合わせを経てだったんですけど、私の方から特に何も申し上げずにお願いするってなってから、
ゲラが河原さんのところへ行って、そして出てきたデータが基本的にはこれ。そういったところでした。
じゃあ、あいさかさんの原稿を読んでいただいて、自由にやってみてください。
そうですね。ラフの案が出てきた時に若干2、3意見を申し述べたことがありますけども、それ以外は基本的には河原さんにお任せするという形。
2、3意見をお出しした時にすでに基本的なイメージはこの調子だった。少しコントラストが違ったんで、そこだけ変わりました。
上がってきたもの、そして今完成している河原さんの想定ありますけど、これに関して何て言うんでしょう。
河原さんとあいさかさん、直接やりとりがあったかわかりませんけど、何て言うんでしょう。
これはこういうものなんですよって言語で彼から説明とかそういうものは特にはない?
一度もなかったですね。でもなかったんだけど、何を言わんとしているのかがすぐにわかったので。
写ってる人物のようなものが何者であるのかとか、なんでこういう構図ってこういう色なのかっていうのがすぐわかったんで、
あそこはやっぱりお任せしてよかったなと思ったんですね。
表面にいるのが、これ人間じゃないんですけど実は、
羽がありますよね。
ほぼ見た人は多分何であるかっていうのがわかるんですけど、
それが中頃にこの人というか、人じゃないものに対する言及があって、
なんでちょっと虹色っぽいカラーが表面に出ているのかっていうのがすごくテーマに関わっている。
だからこれは、受け取った時に思ったんですけど、
多分、初見でパッと目に留まりやすくて、見ただけで多分かっこいいデザインだなと思っていただけると思うんですね。
読んだ後にもう一回じーっと細部まで見ると、本当に隅々まで小説の内容に関わるものがデザインされている。
そういうものだなと思いましたね。だから本当にいいぞ、想定が。
ありがとうございます。実際にこの想定をまた、想画を撮ってもまたこの本の紙自体にも印刷されているので、
非常にさすがカーネさんだなというふうに個人的にもちょっと思ったんですけども。
さあここで実際いよいよ本題に入っていきたいんですけど、
このブレイクショットの奇跡について、冒頭でもご感想を述べさせていただいたんですけど、
とにかく緻密だなっていうところで、そこに迫りたいんですが、
その前に、やっぱりこのブレイクショットの奇跡の着想、いつ何がきっかけでどんな形で生まれたのかっていうのを、
プロット構成、キャラクター、設定、社会の状況とかいろいろあると思うんですけど、何から来たんでしょうね。
最初はですね、打ち合わせから始まりました。今まで過去2作本当に自由にやらせていただいて、
それは本当にありがたかったんですけど、ちょっとその3本目はですね、
現代日本って大まかな方向だけを決めていて、あとはちょっと人の意見を聞いてみるターンが欲しいなと思ったんです。
そうでないとやっぱり自分が描きたいものっていうのが潜在的にもっといろいろあるのに、
自分の気持ちだけで描いちゃうとそれを見失ってしまうんじゃないかっていう。
それで今人に期待されているものっていうものを聞いてみようというところで、
お話を伺った、早川処分の皆さんのお話を伺ったのが、
2024年の2月の末頃であったかと思います。
その時にまさにここに今実はいらっしゃるんですけど、
塩沢さんと篠さんと、それからもう早川処分にはいらっしゃらないんですけど、
別のプロモーション担当としてくれた方も参加だからですね、いろんなアイディアを聞いて、
それは例えば外国の戦争にある形で日本が関わっているっていうことを示せるような小説っていうようなお話。
それから短編連作風にそれぞれがつながっていく話はどうだっていう話。
それからもう一つは善悪の淡いをいくものっていうような、そういうようなお話だったんです。
それっていうのは多分それぞれ別々の成果物のようなものを想定されてお話されたのかもしれないんですけど、
これ全部できるんじゃないかなっていうふうにふと思った。
全部できるっていうからには何かその中心を貫くガジェットが必要だ。
あるこの日本の社会構造というか、改装化された現代日本みたいなものから始まって、
ついに日本って国境も越えてどっかへ行く何かっていうのが必要だっていうふうに考えたときに、
それは多分日本の場合は車だっていうふうにその日の夜ぐらいに考えたんですね。
家に持ち帰っていろいろプロットを組んでいって、
ストーリーという意味では物事の最初から最後まで、小説で描かれる時間の最初から最後までっていうものは
大体1ヶ月ぐらいかけて考えていた。
最後に残ったのはいかにして語るかっていうことなんですね。
普通に順番通りに話していくっていうこともできるし、少しあちこち入れ替えるってこともできる。
ただ、あちこち入れ替えていくと読んでいるほうが混乱するかもしれないなって思っていた。
最後に決めたのは、きっかけとして決まったのはですね、
どういう具合だったか忘れたんですけど、早川秀夫がオッペンハイマーの原作の本を出してるからか。
それでマスコミ向け先行試写会に僕も行けたんですね。
で、見たときにシャッフルしろっていうふうに最後の方で思った。
クリストファー・ノーラーがここまであちこちを入れ替えてくれるんであれば大丈夫だと。
特に最初に読んだ方、この小説について読んだ方はですね、
突然出てくる中央アフリカ共和国の話は一体これはなんだっていうふうに思われるかもしれない。
でもなんだって思われたとしても、最後まで読んでいったときにちゃんとわかればそれでいいと思った。
あれを普通に時間の順番に語っていくと、だいぶ浮いたパートが突然出てくる。
それはそれで違和感があるはずだっていう。
それにもっと言えば、中央アフリカの内戦状態の地域に生きてる少年兵であれ、
あるいは日本の富裕層であれ、サッカー少年であれ、
同じ一つの世界に生きてるってことを示すっていうときに、
やっぱり単に車の変遷によってどっかに行くっていうだけじゃなくて、
差し込まれるようにして、他の主人公たちが生きているのと同じように断章化されて差し込まれている方が、
同じ世界を生きているんだけども、全く違う前提で生きてる人たちの話がむしろ戦略に伝わるんじゃないかなと思って、最後にこういう構成になった。
なるほどね。ありがとうございます。今、中央アフリカの話もありましたけど、
会議があり、そしてシャッフルがありっていうのは裏話で非常に面白かったんですけど、
なんか率直に僕、今回思ったのはですね、前回のインタビューを改めて自分で配置をさせていただいて、
やっぱり当時はやっぱり同志少女と生きることになったときは現実が追っかけてきたというか、
それで藍坂さん自身が寝込んだっておっしゃってて、やっぱり相当心を痛めていたっていうのはやっぱり言わずの罠だと思うんですけど、
その後、歌われなかった海賊への時はあえて少しフィクションというか、話したみたいに何かのインタビューであったと思うんですけど、
まさき現代日本、そして当然ね、現実っていうのはあると思うんですけど、でもそういう意味ではさらに3作目では現実を離れさせるようにちょっとさらに考えられたのかな。
でもとはいえさっきの話でやはり紛争があったと思うので、その辺のバランスと感覚というのはどういう感じだったのか。
どういうふうに語ったとしても、多分世の中に戦争があるっていうこと、現実から自分の問題意識っていうのは乖離できない。
こういうふうにある程度の厚さを持って、特に今申し上げたように世界を横断してみていくっていうテーマを持ったならば、
多分それは戦争を行っていない国だけで完結するもんじゃないっていうテーマが出てくるわけですね。
ところが書いてたらラッパーが出てきた。ラッパーが出るからにはラップをしてくんないといけないんだけど、僕はラップが作れないので、
前聴いてた曲とか色々聴いて、即興でやる時の韻の踏み方とか一生懸命勉強してからパパパッと書いてた。
あるいはまあ最大の脱線ポイントはそのブレイクショットっていう写真名および、そのビリヤード要素が全てアドリブで出てきたっていうところ。
このタイトル本当にこれで良かったなというふうに思ったけど、実はそれに関わる部分は全て原稿に取り組んでは出てきちゃったんです。
じゃあ意外とそういう意味での根幹っていうのは後からみたいなところがあるってことですね、結果的にも。
そうですね、ストーリー何を根幹と捉えるかによるんですけど、ストーリーラインは何も変わってないんですね、ある意味で。
ただそれが結局一体自分は何のテーマを書いてるのかっていうのを原稿に入った段階で発見するっていう瞬間があった。
よく覚えてるんですけども、書いてる最中に、僕はもう最初から最後まで、頭から最後までっていう順番で書くんですけど、こういう断章化されたものがあったとしても。
この場合は、ある二人がね、バーに向かったところにビリヤードの台が出てきて、で、なんかいわくありげなマスターが出てきたって。
これも予定になかったんですね。で、なんでここでビリヤード出したんだっけなっていうことを考えた。
てか、ビリヤードが出てきちゃったんだけど、これなんだっけって思っていろいろ考えてたら、最初にスパーンって打つやつをブレイクショットって言ったような気がするっていうふうにふと思い出して。
で、そこからあれこれ考えてみればブレイクショットが写真面の方がいいし、なかったらテーマもブレイクショットなんじゃないかっていう。
で、最初何か一つのきっかけから連鎖していろんな物事が動いていく。その動きを果たして追うことはできるのか。
そしてブレイクショットという車主が車がどこへ行ったのかっていうことを追っていく物語でもある。
だから車主名、タイトルが決まると同時にですね、テーマがもう一回再発見された。
ストーリーは変わってないんだけども、自分が書きたかった物語はそこでやっと見つかったっていう気がしたんです。
なるほど。
車主名は後なんですね、じゃあ。
車主名は本当に後で、プロットでは全然違う名前だったので。
もう言いなくなったらこれ以外ないだろうっていうふうに思えるんですけどね。
その中でね、さっきの連鎖短編というふうに言っていいのかわかんないんですけど、
やっぱりいろんな中央アフリカの話もあって、当然最初の機関口の話もあって、その後不動産、アキトク不動産だったりいろんな設定が出てくる中で、
そうするとそれぞれの登場人物だったり、そういうものもこの順番に出てきたのかとか、
この順番に文字通り1章、2章、3章、4章、5章、6章で書いてたんですか?
それはどうでしたかね。
後藤ハルトとかね、それから桐山秀夫とか、ああいう子たちは最初に出てくるんですよね。
後藤ハルトの視点というのはなかなか出てこないんだけど、彼こそが主人公だとは思って書いてたから。
ただですね、それに彼のような感じの子が出てくるっていうのは、一応掴んでプロットに少しずつメモってはいくんですけども、
話自体はもう一つ、順番から考えると、車があるということは車を組み立てる人がいる。
組み立てる人がいた後に所有者がいる。所有者は中古車になって別の人のものになる。
最後に実は馬のところに行っちゃうっていうふうに考えるという視点もあった。
問題はそれらをどう繋げていくかということなんですね。
後藤ハルトみたいな子と桐山秀夫みたいな子がどう繋がるのかって考えたときに出てくるのが車の扱いっていうことでもあった。
それは相互に作用してたし、いろいろ相互に順番に考えてたと思います。
車の所有者が必ずしも主人公とは限りない。その世代を通じて複数の主人公が繋がったりもするわけなので。
だから言ったり来たりしてましたね。
例えば後藤の友彦と桐山当時の僅かな関係性なんかはワイドアートの方で出てきたかなっていう。
個人的には起業家の端くれなんで、やっぱり最初の当時と友彦の話がすごい刺さったんですけど。
今の話に行くと、やっぱり後藤ハルトが主人公的なある意味というかね、結構明確にズバッと言われたんで。
そうすると、キャラクターとしてはまず後藤ハルトが出てきたんですか?
そうですね。群蔵劇ではあるんだけど、群蔵劇だからこそ話の中心にいるのは誰なのかということを多少明確にしないといけない。
例えば後藤友彦の話をしている時も、結局友彦っていうのは常にハルトの存在を気にかけているし。
あるいはそれからだいぶ遠い桐山親子の桐山彤司の方であったとしても、後藤ハルトっていうのがなんとなく気になる存在でないといけない。
潜在的にはひょっとしたらこいつ自分の息子より優秀なんじゃないかって思ってるから、ちょっと嫌な見方をしてるわけですね、桐山彤司って。
多分なんだけど、最初から最後までドラマを展開させ続ける誰かっていうのが群蔵劇の中に必ず必要だと思ったんですよ。
不動産社員とかは途中でドラマからは知り遂げてくれても構わないんで、別にあれでいいんですけど、
そうではない中心人物っていうのを一人考えた時に、もっと言うと門崎もそうなんだけど、出てないところも含めて必ずドラマが展開している人物っていうのが必要だと。
やっぱり門崎と後藤と桐山集合はすごく考えてましたね。門崎なんかはすごく気に入っているキャラクターだし、
反対に真田は大脱線大会の産物なんで、あれも彼がやってることって本当に全部ないことばっかりなんで、反対の意味で彼は楽しかったです。
これね、なかなかネタバレできないんでちょっと心苦しいんですが、あえて僕らわかってる同士でこれだけ聞きたいんですけど、門崎が。
もう最後の最後で門崎のネタバレみたいのもあるじゃないですか。あれは最高だったんですけど、やっぱりあれはもうある程度最初の時点で。
構成は決まってましたね。門崎もそうだし、ひょっとしたら宮園っていう衣装からはみ出しまくってる社長もそうなんだけど、
登場しないとこでも生きてるっていうことをきちんと実感してもらう必要があったんですね。門崎は視点人物にならない唯一の中心的人物でもある。
門崎の抱えている生き方、あるいは彼女の葛藤っていうものが、この小説のすごく重要なところに出てこない場面があったとしても。
だから彼女に関しては造形にすごく気を配って作ったし、思い入れが深いと思う。最初に出てきた時に、ある妙な場面で後藤春人と出会うところがあって、
その時点で門崎のことをすごく考えて書いてはいるんですけど、自分が想定していたよりだいぶ冷たくて他人を遮断している人間として出てきちゃったんです。
それは何でかというと、彼女が今まで経験してきた人生みたいなものを一通りシミュレートしてから書いていくから。
だから彼女はだんだん書いていくに従って明るくなっていってくれた。特に後半に行くに従って口調もだんだん変わっていくし、
でもそれが僕の考えていた門崎は本来の在り方でもある。最後にちょっとした展開があって、
彼女の人生もこれから続いていくわけなんだけど、なんかそこがすごく気に入ってますね。
この転がり方が本当にいい感じに出てきてくれたんで。
本当に恐れ入ったんですけど、今いろんなキャラクター、登場人物が出てきましたけど、
この登場人物を果たせるというか、それにあたって相坂さんの場合どういう感じで作っているんですかね。
そうですね、なんていうか、ドラマの中で彼ら彼女らにどういう役割があるのかって考えてから、
基本的な人物像っていうのは出てくるんだけれども、
でもそのテーマに奉仕するのが登場人物の役割じゃないとは思ってるんですよね。
だから出せないところも考えて、一体彼女、彼らは何を持って生きているのか。
単なるその口調とか特徴だけじゃなくてですね、価値観。
何を重要と思い何を重要じゃないと思っているのかっていうようなことを一通り考えていくっていうことですね。
そうするとやっぱりいわゆるキャラクターが自立していくっていう瞬間がある。
そういう人物が何人もいたんだけど、そうしていくとプロットに従っている存在っていうよりも、
自分の執筆の中でどんどん変化していく存在になってくれてくれる。
そういうのは多分いい登場人物の条件だと思うんですよね。
振り返ってみて、愛坂さんの中でいい意味でキャラクターが思わぬ動きをして、
後から振り返るとこのブレイクショットの軌跡の中ですごくいいティッピングポイントになったみたいな。
それがね、語るとネタバレなんだけど、真田がまさにそれで、
あれは単なるモブキャラABCの役割だったんですよ。
なんか出てきた時からなんかちょっと様子がおかしいなと思ってて、
描いていったらどんどんどんどんやべえ存在になっていっちゃったっていう。
最後の最後まで実はずっと関わり続ける。
あとは宮園なんかもそうですね。なんかはみ出しまくってる人がいるっていう。
最後の方でちょっとある人物と思わぬ形で会ってから終わるんだけど、
あの場面も確か想定にはなかったと思う。
ただあれがあることによって、彼っていう人間がどういう風に今後も他の人物たちと関わっていくのかということがわかってこれる。
みんな本当に描いてて楽しかったですね。今回はなんていうか、
毎回長編描くと1人か2人、誰だかよくわかんないまま終わっちゃう人もいるんですよ。
今回はね、みんながだいたいどういう人間なのかを把握できたし、
描いてるうちにそれはそのプロットになかった、あるいは設定みたいなものの、
ワープロに移行のプロフィール表みたいなものを描いてる時にもなかった、
その人の価値観みたいなのがどんどん新しく見えてくるっていうような、
割と幸せな出会いをしましたね。
そうなんですね。そういう意味でも字が違いますけど、改めて奇跡っていう感じの、
全てがハマった感じがセンスながらしたので、やっぱり今の話が変わってすごいなと思ったんですけど、
改めて、やっぱり伏線の設計と改修が本当にすごいなと思うんですけど、
裏話的に作ってみたいけど、これかなり改修するの実は大変だったみたいな、そういうのないんですかね。
これもちょっとネタバレになっちゃうかもしれないけど。
なんつーかね、技術的な意味で苦労したのは、
年表からずれないようにするっていう、
出来事の流れと小説からの出てくる順番がアフリカパートも含めてあちこち入れ替えてあったりするものですから、
矛盾が生じないようにするためには、まずこの人は何年の何月にこういう出来事があって、
ここでこういうことがあって、こっちで言うんだけど、順番的にはこうなんだけど、この出来事はここで出てくるっていうのを
Excelで一生懸命表認してから書いてた。それでずれないようにするのが大変でしたね。
冒頭って割と、これは別にネタバレじゃないと思うんですけど、
第1章で最初のブレイクショットのオーナーとして桐山陶次が出てくるところって、実は2024年代じゃないわけですよ。
もうちょっと前から始まってるこの話っていうのは。
だんだんいろんなストーリーがくだらに連れて現在に接近していくっていう作り絵になってるんだけども、
そこで現実と相互を期待したり、あと登場人物の年齢が途中で変わっちゃったりすると大変まずいので、そこは大変でした。
ただね、伏線に関して言えば、要はこういう考え方をしていると、どう語るのか、つまりどういうふうにしてそれを提示していくのかっていうのは割と後にくるものになりますね。
最初に自分の中で時系列中心に考えた物語ってのは先にある。
それをあちこち入れ替えたり、ちょっと断章化させてあっちこっちに差し替え込んだりしてるのが今回の作り方だから。
伏線っていう伏線は自然に出てくるんですよ、そうなると。
なんでかっていうと、一貫性を持ったやつを事後的にいろいろ動かしてるわけだから。
それっていうのは別に、2回目に読んだ時に多分この小説で、1回目に読んだ時には多分感触が違うようなものとして見えると思う。
その時に、ああなるほどこうだったのかって思っていただくのももちろん伏線の役目ではあるんだけども、
一人一人の眼差しとか価値観というものがどういうふうに形成され変化していったのかっていうことを考えてから順番をいろいろ考えると、
結果的にそれは普通の小説とは違う順番になっていくわけだから、そこに結果的に伏線のようなものが生じていく。
そんなに謎解き者でもないんで、ここは実はこうだったって思うためにこれを仕組んでみたいなものを一生懸命考えてたっていう記憶はないんです。
まさに謎解き者ではそんなにないんでっておっしゃってて、いわゆる小説って例えば謎解き者とかいろんなあるじゃないですか。
その時に何かこういい意味ですけど配読してて、小説って本来というかすごく自由なもので、ジャンルっていうのも都合上分けているものもあるから、
先生ながら相坂さんがすごい良い意味で自由に楽しんで書いてる感、いろいろ大変なことがあったと思うんですけど、それが伝わってきますか?
そう思っていただけると本当に嬉しくて。
やっぱり先ほどの話とも重なるんですけど、特に同志少女を書いてた時はまだ書いてる段階はすごい元気だったんですよ。
ただその後また変なことになっちゃった、やっぱりロシアウクライナ感が。
そしてそれへの自己回答を出さなければならないっていう気持ちで作った歌われなかった海賊絵はだいぶやっぱり書いてから精神的にボロボロになっちゃったし、
24年の前半あたりまでだいぶその後遺症と戦うのに必死だったんです。
それがね、じゃあどこからだいぶ持ち直したかというとブレイクショットの奇跡に取り組み始めてからなんです。
エンジンがかかってからは早くて、実はこれはプロトが終わってから本来の原稿に取りかかってから書庫が上がるまでは1ヶ月半しかかかってない。
爆速で書けたんですけども、その間なんでそんなに早く書けたかというと、要するにそれは楽しかったから。
今おっしゃっていただいたように、いろんな分野にまたがる書説ではあると思うけれども、ジャンルっていうものに回収される必要はないんだっていうふうに思った。
特にその素材から離れて歴史を語るということとも違うし、別に無理矢理ミステリーを入れる必要もなければ、何か特定のジャンルに回収されるためにはこれをやらなきゃいけないみたいなことも考える必要もない。
それでもなおかつ楽しくできるのがエンターテイメントの多分素養だと思った。間違いなくエンターテイメントの書説ではあるんだけども、それは何かのジャンルに属することが必須だということではない。
だからこそ多分楽しかったなと思いますね。
その一方であえてコンセプチャルな質問なんですけど、僕の中ではやっぱりこの本を見た時にキーワードが出てきたのが、バディとかパートナーとか相棒っていうのがちょっと出てきて。
それは例えば、スバルとセレナだったり、トウジとヒデナオだったり、シュウゴとトモヒコだったり、タツヤマとシキもかもしれないですけど。
でもその中でいろんな人が出てくる中で、やっぱりいかに相棒っていう言い方があるんですけど、パートナーが人生を左右するかっていうのをすごく感じたんですけど。
いわゆるこの小説の中でもいいですし、相坂さんが人生の中でいろんなご自身にとってのパートナーだったり、いろんなパートナーのタイプを見てきた中で、幸せな関係性にそれはみんなあった方がいいじゃないですか。
でもこの中でもいい形でのパートナーとして、少なくともこの小説の中では割と覆えられるパートナーと、そうじゃないパートナーと、その辺の境目って結構紙一重だけどどこにあるのかなって。
すごく難しいですね。根本的には同じビジョンを共有できているかどうかにあるかと思います。
それこそ小説家っていろんなパートナー作っていかないと一人では商業出版できないんで、私はそういうところも恵まれてきましたけど。
でもそれでさえ多分、編集者と小説家で全然目指すものが違うものを想定して一冊の本に取り組んでたら、もうあっちこっちで揉めまくると思うんですよね。
そういうことを経験したわけじゃないけど。
それでもなおかついろんな人がコンビ的なもの、バディ的なもの、相棒的なものに出会っていくっていうのは、人との関わりの中で人が変わっていくっていうことをやっぱり描いてみたかったから。
それはいいことだけとは限りなくて、変わった結果偉い目にあるっていう人たちもたくさん出てくるけれども。
でもまあそれがだから、ブレイクショットというものに結局的にその修練していくのかもしれないけれども。
ビリヤードの弾がつかれてあちこちにね、その散らばって、あれついたら次はこっちに行って、こっちに行った結果これをついてっていう風になっていくように、人間関係っていうのも単一では存在しない、当然ではあるけれども。
それがどういう風になっていくかっていうのは本当に難しい。
後藤春人はテーマというか小説全体の主人公だというふうに申し上げたし、彼の価値観というのは非常に自分も尊重してはいるんだけど、それでも人間の関係性の中で何かいいことをやらなきゃって思って、実は結果的にとんでもないことになっちゃったということも出てくる。
善意に基づいて人間関係に関与することっていうのが必ずしも素晴らしい結果を得るわけではないんだけれども。
それでもやっぱり人とは人との関わりの中で変化していかざるを得ないし、そこを絶っちゃったら社会的な存在であるということを諦めるということしかなくなるわけですよね。
結果的に良くなるかどうかっていうことに関してはそれはいろんな出会いがあると思います。
ただね、それでもね、同じビジョンを共有できる、誰かと出会えるかどうかっていうのは本当に人生を左右してくれると思う。
宮園と出会って桐山当時っていうのは少なくとも人生が大きく変わってる。
でもよーく見てると本当は変わらない方が良かったのかもなっていう視点もある。
あるいは後藤遥と桐山修吾っていうのはもう、いわば運命の人間であって、桐山修吾の素質ってものを見出したのが後藤遥だった。
それは言ってみればマイノリティキー性でもあるわけですね。左利きっていう。
だからその2人で同じビジョンを見ることっていうことが彼らにとっても最大の人生の目標なんだけど、
いつしかそれが自分自身を枷にはめていくようなことにもなってしまうかもしれない。
だからこういうふうにしてみると本当にいろんな一見いいことに見える、
共に夢を追うことっていうことでさえもひょっとしたらつらいことなのかもしれない。
それでも関わりをやめるってことは多分答えとして出てこない。
これから先は本当にオビとかでも書いていただいたんですけど、物語が終わったとしてもその後のドラマっていうのは続いていくし、
いろんな登場人物の人生これから大変なんだろうなっていう気はするんだけれども、
そこも彼はずっとラッパーではあり続けだったし、
もちろん音楽活動も続けてたんだろうけど、
これはネタバレと言っていいのかどうか、
しばらく黙ってたっていうことをちらっと最後視察されるんですけど、
なんでその間黙ってなきゃいけなかったのかとかもいろいろ考えたんですよね。
何を説明し何を説明しないのかによってその人の誠実さが問われるから、
ちょっと何かやっちゃった時にリカバリするのはすごく大変になってきちゃうんです。
あるいはこれは小説の他のテーマにも関わるところなんだけども、
これは別にネタバレしてもいいんで、
あえて言うと主人公の二人はゲイなんですよね。
スポーツ文化の中でゲイでいられることって本当に難しくて、
だからこそそれを書いたんだけど、
一方であるコーナー・ウィルソンっていう主人公の視点には一回も入ってこないんだけど、
ずっと物語に関わってくるアメフトのフットボール選手がいるんですね。
全く関わってないように見えて致命的なところで関わっている彼が、
なんでそのとんでもない発言をアルバムでして、
それが彼の人生そのものを変えちゃうんだけども、
なんでそういう子を書いたかっていうと、
結局彼はゴート・ハルトと反対側の局にいる人間だってことなんですね。
フォームソーシャルの中でゲイが生きるのはものすごく難しいんだけど、
コーナー・ウィルソンはその反対で、
フォームソーシャルのキング・オブ・ジョックスっていうふうにあえて作詞で出てくるんだけど、
そういうふうに価値観に染まりきった人間だった。
その価値観が通用しない相手があるキーパーソンがいるんですけども、
思わぬ国からやってきた思わぬ人に出会ったときに、
それが通じなくなったことにブチ切れちゃうわけです。
そこでやってることって本当に許されないことではあるんだけど、
誰もどうせ聞いてないと思ってるからドワーンと言っちゃうことっていうのは、
長らく生きてれば結構な人がどこかでは経験するかもしれない。
それが今、こうか不こうか、
ちょっとした表紙に世界に断罪される瞬間っていうのが来てしまった。
果たしてそれってどこまで責任を持てるんだろうかってことなんですよね。
それによってズタズタにされていく人間を描くっていうこと自体は割と簡単にできるんだけども、
でもそこからもう一回立ち直っていく姿も描きたかった。
ボコボコになった後のコーナービルソンが何をして、
中央アフリカまで行って、
なんであんなことを最後までいろいろやってたのかってことを考えると、
そこから立ち直る道もきっとあるんだよっていう。
じゃああの時に、後藤ハルトとコーナービルソンがある瞬間に関わるんだけど、
ハルトがあそこで関わることをやめますって言ったらよかったのかって言うと、
そうでもないなっていうふうには思った。
あれがなかったことにしていいのかって言ったらそうでもない。
多分彼自身の人生にとっても、
一回ズタズタになるんだけど、そこから再起するっていう。
それはいろんな人にとって、
小説の中で描かれる人生のありようでもあるんだけれども。
なんかすごい、やっぱり今の話を伺ってて、
読みながら、ここにもメモで、
キャンセルカルチャーって言葉は適切かかりませんけど、
それと許すことについてって、僕がちょっとメモしてるの。
大丈夫ですか?
うん、大丈夫です。
許すことについてっていうことをちょっと思ったんで、
やっぱりいろんな、今挙げていただいた人物たちも、
みんな何て言うんでしょう。
いろんな過ちとか、社会的に何か物議かもしても、
結局、ある意味普通に人として、
過ちを認めて、謝って、みたいなところがあって。
でもそれでも今、世の中を見ると叩いたりみたいにありますけど、
この小説の中でやっぱりそこで、
ちょっと抽象的ですけど、
許すとまたリスタートできるよ、みたいなことを、
個人的には、しかもそれを説教臭くなく感じて、
希望をすごい感じたんですけど、
その辺の全体の、何て言うんでしょうね、
世界観というか空気観っていうのがすごく素晴らしくて、
あやさかさんはその辺を今の話を通じて、
やっぱり何か通廷するものとして大事にしたいみたいな。
それはやっぱり登場人物を考えるってこととも繋がってくるんですけども、
全ての登場人物の立場ってのを一回考えてみたんですよね。
さっき言ったコーナー・ウィルソンのなり方とかも。
冒頭で出てくるラッパーとかも、
あれはプロットにいなかったんで全部後付けではあるんだけども、
なんで彼が会場にそもそも来てたのかっていうことが、
なんで具体的な想定もある、
変な格闘技の団体のイベントに参加して、
ぼこぼこ変な試合をやって、
正直あんま上等じゃない試合に勝ったぞって泣いてたとかいう話題があるのかっていうと、
一応考えてはきてるんですよ、それぞれの。
来歴とか、かからないにしても、
一体何に彼らは苦しんでいるのかっていう。
そういうふうに考えると、
やっぱりそれらにはそれらない理由っていうものがある。
だからOKっていうことじゃなくて、
しばしばやっぱり、
今現在ネットでも、
毎日のように誰かがやり玉にあげられている時に、
そのやり玉にあげられている人たちっていうのは、
僕らの世界から見ると、
タイムライン上に突然その状態で出現して、
何の脈絡もなくめちゃくちゃなことを言って、
そしてみんなで叩いていいっていう条件が成立したから、
ぼこぼこにぶん殴っていくっていうような存在になっているかのように、
フィクションよりも捉えにくいものになってるんですね、今。
だってそういうのも知らなくても、
その人を批判することだけはできるっていう環境があるから、世の中に。
でもそうじゃなくて、一回踏みとどまって考える時に、
必ずその人の生き方っていうのがある。
そこに至るまでの前提っていうのがある。
それは前提があるからOKっていうんじゃなくて、
前提があるってことを考えないと、
本当に何でか、
ただのおもちゃにしちゃうことになっちゃうと思う。
物語だからこそそこまで考えられるんだっていうふうに思ったんですよね。
多分、コーナーウィルソンがある時点でやっちゃうこととかっていうのを現実で見てたら、
そこで初めて彼を知りましたっていう人も含めてすごく批判すると思うし、
なんとなく自分はその側にいると思う。
なんだけれども、
生身の人間だっていうことを忘れずに、
今一つそっちの側を考えると、そこから許されることは本当に難しいし、
涙でのことじゃないんだけれども、
ただそこで終わりじゃないからっていう。
そこで終わりじゃないからっていうのは現実もそうだと思う。
出ないとね、本当に何ていうか、
自大劇の悪役じゃないけど、出てきてやっつけられたからめでたしめでたしっていうものになっちゃうと、
それはやっぱり現実と違うんで。
今の話がかかってて、
最後の方で、
大丈夫かな、
ある登場人物がツイートして、
それに対する反応が周りから今までと違いますが結構、
それに対する反応に対する彼の反応が、
これ自体、
愛坂さん自身の声もあるのかな、みたいなことは深意見しすぎですかね。
なんであの描写がいきなりどのように出てくるかっていうと、
アクチュアルな現代を捉えるときに、
やっぱりネットって欠かせないなとは思ったんですよね。
毎日のように愛をできようとっていうのは起きるし、
彼は元々バズりたかった方の人間なんだけど、
いよいよ世界のバズが訪れるともうめちゃくちゃな切り取り方をする人がいる。
その人の言いたいことを無視して、俺の言いたいことを押し付けてくるみたいなものが、
当時代になったことはないけど何度も横から見てきたんです。
ここで先ほどのテーマと重なるんだけど、
言わば第三者をコンテンツにしてしまう瞬間というのが必ずあるんです。
今、多少ネットと関わっている人は。
何だったら自分もコンテンツにしてしまう。
でもコンテンツになる前に、あるいは人をコンテンツにしてしまう前に、
生身の人間だということを忘れないだけでもだいぶ違うと思うんですよね。
この辺の描写というのは、誰かをコンテンツにしてしまう前に、
あるいは自分をコンテンツにしてしまう前にという気持ちで描いていた。
これはあえて伺いますけど、
あいさかさん自体がアカウントが新しくなったじゃないですか。
これは何か意味があったんですか?話せれば。
あれは何もない。
単にアマチュア時代からやってたやつ、いつまでもやってるのか、
アカウント名がカッコ悪いから、
正直あそこで一回やめようかなと思ったことはあったけど、
ちょっと告知だけやるのを作るのに、
区切りが欲しかったから新しくアカウントを作った。
それはそんなに深い意味はないってことですね。
ないけど、ただやっぱり振り返ってみると、
本当にツイッター嫌いになってきたんだなというのが、
ほぼ見てる。
私も別に昔は良かったとか、あまり軽々しく言うつもりはないけど、
2010年頃から、
仕様で、本当に母長で使ってた頃からも含めれば、
だいぶやってた方だったんで、
それなりに普通に気楽に日常で思ったこととかをやってると、
結果的に趣味のクラスターというのができてて、
そこで面白かったと思えるものを紹介したりという時期も経験したんですよ。
ただ今はもう、今はね、
SNSというもの自体が巨大な商業的空間になってしまった。
そこではもう、人の、はっきり言えば負の感情、
怒りと憎しみを増幅させ、
嘘で人を惑わせるものこそが受けるんですよ。
なんでかって言ったら、それがお金になるから。
そしてもう、SNSを運用している人たちというものは、
ある時期からもう、ポーズとしてさえも、
正確なものを言うプラットフォームにしていくということを言わなくなってきた。
とりあえず野放しにしておけばいいんだということを堂々と言う人たちがトップに来ちゃった。
そういう空間ではですね、
なんていうか、デマゴーグと怒りが支配。
その空間を支配していく。
私はもう、あそこには不快するつもりはさらさらないSNSの空間に、
ただ告知としてのツールとして扱っている。
ありがとうございます。
もう少しだけ伺いたいんですけど、
以前の対談とかを、僕もちょっと振り返った時に、
やっぱり小説の書き方は、
愛坂さんが元々論文とかも書かれていて、
論文とは似ているけども、やっぱりいろんな影響を受けて、
映像的なアプローチを取るみたいな、
ちょっと抽象的な形式ですけど、
おっしゃってたように記憶してるんですけど、
やっぱり今回、映像っていうところでいくと、
そういう質問もあったかもしれないですけど、
今までで一番これを映画に見たいな、したいな、みたいなのがあるんですけど、
映画になりますっていう質問ではないんですけど、
愛坂さんの中で映像とかっていうのは、
やっぱりよりこれは出やすいものなんでしょうか?
そうですね。そういうところを目指したつもりは全くないんですけども、
結果的にそういうものにはなっていったんじゃないかと思います。
やっぱりいろんな視点を変えていくとこと、
あるいは順番に提示していくと、
一見なんだかよくわからないものが相互につながっていくってこともそうなんだけども、
やってること自体はね、結構今までの前二作に比べると地味なんですけど、
戦闘場面がたまに出てくるぐらいなもんだから。
ただやっぱりこれに映画がついたらどうなるかなっていうのは、
ふと気になってはいる。
その一方でね、結構映像しにくいことも実はやってないんでね。
普通に順番に撮っていくと、
オーンっていうアフリカのパートが出てくる、
車体が出た瞬間にあるところがものすごいネタバレすることになる。
ああ、そうか。
このショーの名前なんだっけみたいな。
だからそういうところは別に狙ってるわけじゃなくて、
でもそれでもなおかつやってみたいよっていう人がいたら、
どうやってやりますっていうふうに聞いてみたいなという気持ちではあります。
中アフリカはね、どうやるかっていうのが一番楽しみではありますけど、
これちょっとですね、リスナーの方から質問来てるので伺いたいんですけど、
ブレイクショットの奇跡では不正を働く隠蔽を行うといった社会、世界に対して嘘をつくことに直面した時に、
それぞれのキャラクターがどう行動するのかというシーンが繰り返し書かれていました。
小説家や脚本家といったフィクションの物語を生み出し、
それを消去ようとする人々は嘘をつくことを仕事をする。
嘘をつくことを許され、それによってお金を得る人々です。
作家であるあいさかさんが取材や創造をもとに嘘をつく、
現実の出来事や史実を踏まえて物語を描く際に気をつけていることは何でしょう?
一言で言えば、誠実な手品師になれるか、それとも飲食町の力者になるかの違いなんですよ。
ここは本当に難しいんだけど。
嘘をつくことが堂々と許されているのはなぜかというと、
嘘は嘘ですよと最初に言っているからなんです。
誠実な手品師というのは種も仕掛けもありませんと言いつつ、
それは種も仕掛けもあるということを前提としたパフォーマンス。
彼らの技術を見てすごいな、どうやってやってるんだろうとは思っても、
それが虚構であるということはみんな了解しているわけです。
これがたぶん小説家として取るべき態度の嘘に対する上限じゃないかと思っている。
誠実な手品師であることができれば。
ところがその誠実な手品師ではなく、手品の技術を用いて
私には実はこういう超能力があるんですと言い始めると、
途端にそれはマジのインチキになっちゃうわけですよね。
確かに。
虚構だという前提を取っ払っちゃうわけだから。
そういう意味で今までだいぶ危うい手法を作ってきた。
ある意味では。
真実の中に実際にはいない人たちを大量投入してきたから。
ただそれでも一応フィクションという前提は維持してきたし、
もっと言うと軽々しく外で歴史を専門家のように語ったりというのは
なるべくなら避けてきた。
今後もだから誠実な手品師でい続けようということです。