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最後の決断だけ自分でする。それだけでは、たぶん足りない。三部作「AIに何を渡して、何を渡さないのか」の中編です。私は毎日、スマートフォンに向かって喋る形で日記をつけ、整理はAIに任せています。でも、最初に喋るところだけは渡さない。喋っているうちに、あのとき本当は嫌だった、あの一言が嬉しかった、と後から気づく。その心の機微を自分の言葉にするところに、日記の意味があるからです。ダイエットとマラソンのトレーニングも同じで、今日体を動かしている行為そのものが、望む生き方の始まりになっている。道元禅師の「修証一等」に通じる話です。AIにできるかどうかではなく、自分がどう生きたいかにつながる行為かどうかで決める。便利だからとAIに任せているうちに、自分の生き方まで預けていないでしょうか?
📮 文章版はニュースレターでも配信しています → https://koubunosho.substack.com/
#副住職 #蓮城院 #禅 #AI活用
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最後の決断だけ自分でする。それだけでは、たぶん足りない。三部作「AIに何を渡して、何を渡さないのか」の中編です。私は毎日、スマートフォンに向かって喋る形で日記をつけ、整理はAIに任せています。でも、最初に喋るところだけは渡さない。喋っているうちに、あのとき本当は嫌だった、あの一言が嬉しかった、と後から気づく。その心の機微を自分の言葉にするところに、日記の意味があるからです。ダイエットとマラソンのトレーニングも同じで、今日体を動かしている行為そのものが、望む生き方の始まりになっている。道元禅師の「修証一等」に通じる話です。AIにできるかどうかではなく、自分がどう生きたいかにつながる行為かどうかで決める。便利だからとAIに任せているうちに、自分の生き方まで預けていないでしょうか?
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サマリー
AIに何を渡し、何を渡さないかを考えるシリーズ中編。人生の選択肢整理や日記の文章整理はAIに任せられても、自分の気持ちを確かめ、悩み、最後に決める過程まで委ねるべきではないと語る。スマートフォンに自由に話す日記では、話すうちに隠れていた感情や相手への気づきが現れるため、最初に語る行為そのものに意味がある。ダイエットやマラソンのトレーニングも、結果だけでなく、体を大切にする生き方を今始める実践として捉え、道元禅師の修証一等と結びつける。次回はAIとの距離感を、仏教の「いかだ」のたとえに戻って考える。
AIに任せることと任せないこと
どうも、コウブンです。
栃木県の片田舎にある蓮城院というお部屋で、副住職をしております。
今日はですね、シリーズものをお送りしたいと思います。
AIに何を渡して、何を渡さないのか、その中編をお送りしたいと思います。
前回はどんな話だったかと言いますと、
AIはあくまでも道具なんだから、便利なところはどんどんと使った方がいいんじゃないか、
そういうお話をしました。
調べ物をしてもらったりとか、あとは文章を整えてもらったりとか、
難しいニュースを要約してもらったりとか、
そういうところは私自身、毎日のようにAIを使っています。
そういうふうな扱い方をしてるんですよね。
一方で、AIに渡さない方がいいものもある。
そういうお話もしました。
その一つとして、人生の大きな決断とか、
例えば、結婚するのかしないのかとか、仕事を辞めるのか、続けるのか、
ある人との関係を続けるのか、それとも終わらせるのか、
もちろんAIに相談するのはいいんですけども、
選択肢を整理してもらったりとか、メリットやデメリット、
そういったものを考えてもらったりするのもいいんですけども、
でも、じゃあ私はどうするんだ、というところ。
その最後の決断までは、AIに委ねるものではないんじゃないかなと。
声でつける日記と心の機微
前回はそういうお話をしたんですよね。
でも、その後、改めて考えてみたんです。
最後の決断だけ、自分ですればそれでいいんだろうか。
決断に至るまでに、いろいろありますよね。
悩んだりとか、自分の気持ちを確かめたりとか、言葉を探したりとかね。
実はそういう時間にも意味があるんじゃないかなと。
今日はそういうところをもう少し考えてみたいなと思うんです。
実は私、毎日日記をつけております。
といっても、ノートにきれいに文章を書くというんじゃなくて、
スマートフォンに向かって、その日あったことをとにかく喋ると。
そういうやり方なんですよね。
今日はこんなことがあった。
この時、こう感じた。
こんなことをやった。
自分はこう答えた。
思いつくままにね。
結構あっちこっち行ったり来たりしながら、喋りまくると。
それを文字起こしして、最後にAIに整理をしてもらっているということなんですよね。
だから、私は日記にAIをかなり使っているということなんです。
でもね、最初に喋るところだけはAIに任せない。
任せられないと言ってもいいんですけど。
とにかく自分の気持ち、自分の感情。
それをきちんと出す、吐き出すということなんですよね。
もちろん、AIに最初から、今日は何がありましたかとか、
そういうふうに聞いてもらったりして、そしてこんなことがありました。
そういうふうに答えて。
その時どう感じましたかと聞かれて、また答える。
そういうふうに進めれば、たぶんね、すごく形の整った日記はできると思うんです。
でも、自分から自由に喋っていると、ちょっと違うことが起きるんですよね。
喋っているうちに、そういえば、あの時自分は本当に嫌だったんだよなとか、
あと何気なく聞き流していたけど、あの人の一言、自分はすごく嬉しかったんだよなとか。
その出来事が起きた瞬間に気づかなかった、自分の心の動きっていうのがだんだんと出てくるんですよね。
場合によっては、あの時自分が言った言葉はきっと相手を傷つけてしまったんじゃないかな。
そういうことに後から気づくこともあるんですよね。
そういう自分の心の機微というんでしょうか。
それを自分で自分の言葉にしていくという。
私はそこに日記をつける意味があるんじゃないかというふうに思うんですよね。
だから、完成した、整った日記が欲しいというだけではないんですよ。
一日を振り返って自分の心をちゃんと見るっていうところですね。
そういう生き方をしたいから、日記をつけているということなんですね。
ここが大事じゃないかなと思うんです。
ダイエット・マラソンと実践する生き方
これは、最近私がやっているトレーニングにも少し似ているなと思ったんですよね。
私は実は今、ダイエットとかマラソンを目標にして毎日体を動かしているんですけども、
もちろん体重が落ちれば嬉しいし、マラソンが完走できればそれも嬉しい。
でも、結果だけが全てなのかというと少し違うんですよね。
どういうことかというと、健康でいたい。自分の体を大切にしたい。
あとは年を重ねても自分の体を使って元気に生きる人でいたいとか、そういう自分でありたいと思っているんですよね。
だから、今日トレーニングをしている行為そのものが自分の体を大切にして生きるという、
そういう自分の望む生き方になっているんじゃないかなと。
まだ理想の体になっているわけではないし、マラソンを完走しているわけでもないんですが、
そこに向かって今日も体を動かしている。
その時点で自分が望んでいる生き方を始めているんじゃないかな、そんなふうに思うんですよね。
道元禅師の修証一等
そういうふうに考えていたら、仏教のある言葉を思い出しました。
相当宗の大本山、平平寺をお開きになった道元禅師という偉いお坊さんがいるんですが、
その方の教えに、首相一等という考え方があるんですよね。
首相の宗、これは修行の宗ですね。収めるという字です。
将は、ここでは悟りという意味ですね。将後とも言いますね。
つまり、修行と悟りを完全に別々のものとしては考えない。
修行を頑張って、その先の未来に悟りがある、そういうご褒美があるというように単純に考えるのではなくて、
今まさに行じている、行っているその実践と悟り、それを切り離さない。
つまり、実践そのものがもはや悟りなんだと、そういう考え方ですね。
もちろん、私が今話しているAIとか日記、筋トレ、その話と首相一等がそのまま同じだというわけではないんですが、
ただ、私はここが少し似ているな、通じるものがあるなって感じているんですよね。
何かを達成した先だけが大事というわけではなくて、今自分がどういうふうに行っているのか。
そこにその人の生き方が現れているんじゃないかなというふうに思うんです。
AIとの距離感をどう決めるか
そういうふうに考えると、何をAIに渡さないのかという問いも少し見え方が変わってくると思うんですよね。
AIにできるかできないか、それで決めるんじゃなくて、
これは自分がどうありたいのか、どう生きたいのかに繋がっている行為なのか。
もしそうなら、たとえAIにできたとしても、自分でやる意味があるんじゃないか。
そんなふうに思うわけですね。
日記をきれいにするところは、AIにお願いする。
調べ物もしてもらうし、文章も整えてもらう。
でも自分の心を見ること、悩むこととか、何を大切にしたいのかを考えること。
そして最後に自分で決めること。
そこまでを全部便利だからという理由だけでAIに渡すんじゃなくて、
自分で行う。そこに自分の人生があると。
そんなふうに私は思っております。
ここまで話して、一つ疑問が残ります。
だったらAIは一体どこまで使えばいいんだろうかというところですね。
便利なところは全部使えばいいのか、それとも使いすぎないように距離を取ったほうがいいのか。
自分でやるところと、AIに任せるところ、その距離感をどう考えればいいのかというところを、
次回は後編では、最初にお話した前編でお話しした仏教のいかだのたたえ。
それをもう一度戻って、そのことについて考えてみたいなと思います。
AIを拒絶するわけでもなく、かといって全てを預けるわけでもない。
どういうふうに付け合えばいいのか。
それで三部作を締めたいなと、そんなふうに思っております。
最後に皆さんにも一つだけ質問をしたいなと思います。
便利だからと、AIに任せているうちは、自分の生き方まで預けていないでしょうか。
そんなことを考えてみていただければなと、そんなふうに思います。
今日はこのあたりで終わりたいと思います。
伝承院福住宿の幸文でした。ではまたね。
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