はい.第210回は
THE TYRANNY of STRUCTURELESSNESS
https://www.jofreeman.com/joreen/tyranny.htm
を読みました💁
今回もまた非常に難しい…しかし,女性解放運動をベースとした組織論とか人の行動,集団原理のようなものをお話されていましたので,とても参考になると思います.ぜひご一読ください.
ではでは(=゚ω゚)ノ
- TYRANNY
- STRUCTURES
- group
- value-free
- laissez faire
- ELITISM
- Elitist
- the women's liberation movement
- organization
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00:05
はい、1月6日、木曜日ですね。時刻は9時11分になりました。 今日もなんか曇ってはいるんですけど、気温は高くなりそうですね。
はい、おはようございます。耳のkeethこと久保原です。 では本日も朝活を始めていきたいとおもいます。本日は
ちょっとまあ抽象的な記事かな、またになると思うんですけど、THE TYRANNY OF STRUCTURELESSNESSというアイドルの記事ですね。もうちょっと読んでいこうかと
ちょっとですね、昨日読んでいた、なんだっけ、 記事があるんですけど
オーガナインセンシャルバウンダリープロブレムズですね。Too many cooks are not enough kitchensという記事を読んでいて、そこで引用されていた記事なんですけど
こちらをですね、今日は読んでいこうと思います。まあなんか途中、なんだっけ、なんかの章ですね、パーソナルパースペクティブの個人的観点の話をされていて、
その辺の時に引用されている記事だったんですね。 それがちょっとなんか論文に立脚したものですので、ちょっと難しいかもしれないですけど、ここを
読んでみたかったという感じですね。
では早速入っていきたいと思います、本文ですね。ジョリーンことジョー・フリーマンという方の
記事だそうです。はい、この論文の最も古いものは1970年5月にミシッピ州ピューラで開設された
南部女性権利組合というものが招集した会議での講演になりますと。でこの文章は3年目のノート、
まあ1971年に掲載されましたけど、編集者はこれを使いませんでした。 その後いくつかの運動地に投稿されたんですけど、掲載の許可を得たのは一社だけで他は許可なく
掲載したと。それ良くなくない?本人の許可を取らず勝手に掲載したんですか?
そうはあかんでしょう。まあでもそんな掲載したくなるような記事だったんですかね、もしかしたら。最初に公式に発表されたのは第2の波、
1972年の第2巻第1号であったと。でこの運動出版物における初期のバージョンはジョリーンが執筆したものになります。
あ、てことは本人かな。この筆者本人か、が執筆したものになりますと。
で異なるもの、バージョンというものは、バークレー社会学史第17巻、1972年か1973年の151か165ページですね。
とかMSCですね、1973年7月号の76か78ページ、もしくは86か89ページのジョーン・フリーマンの執筆にも掲載されておりますよと。
この作品はですね、世界中に広まっていたと。で数多くの人々が雑誌、書籍、ウェブサイトのために通常作者の許可や知識なしにこのタイラニーを編集、再販、カット、翻訳しています。
以下のバージョンはここで引用した3つをブレンドしたものになりますと。うーん、
なるほどですね。 それは良いか悪いかちょっとわからないですけど、とりあえずブレンドしてみたらしいですね。いろんなところに掲載されたもの。
その本文に入りましょうか。女性解放運動が形作られてきたこの数年間、運動の主要な組織形態としてリーダーレス、構造レス、そしてグループと呼ばれるものが非常に重視されてきましてと。
03:12
唯一ではないにしても。この考え方の源というのは、私たちの多くが身を置いている過剰な構造化された社会と、それが私たちの生活を他者に支配させる必然性。
そしてこの過剰な構造化と戦っているはずの左派の人々や類似のグループの継続的なエリート主義に対する当然の反応でありました。
しかし構造化されないという考え方は、そうした傾向への健全な対抗手段からそれ自体が女神のような存在になりつつあり得るのです。
この思想はこの言葉が多く使われるのと同様に、ほとんど検証はされていませんけど、女性解放のイデオロギーの本質的で
疑う余地のない一部ともなっています。構造化されないというところですね。
運動の初期の発展にとって、このことはあまり需要ではありませんでした。運動は早くからその主目的と主な方法を意識改革と定義し、構造なきラップグループというのはその目的のための優れた手段でありました。
ラップグループはその緩やかでカジュアルな雰囲気が議論への参加を促し、そのしばしばサポート的な雰囲気が個人的な洞察を引き出すものであった。
もし、これらのグループから個人的な洞察以上の具体的なものが得られなかったとしても、それはあまり問題ではありません。
難しいところですね。そういう初期の段階であったりとか、そういう運動的なものっていうのは、あまり最初から構造をいっぱい作ってしまうと、そういう組織形態としてガッと動くようにすると、
なんか進まないとか結構バッティングするという気がします。なので最初は確かに構造ない方がスタートダッシュとしてはいいんじゃないかというふうに読んでて思いましたね。
あんまり僕はそういう女性解放運動とかに関わったことが実はなくてですね、中はどんなふうな運営というかマインドでやられているかというのはすみません、僕は不勉強なんですけど。
まあ今のは読んでてそういうふうな感じはしましたね。 なんか難しいですね、その構造レースというか構造化されないという考え方そのもの。
ある程度、まあ確かに適応はされるし構造化しないことによるメリットは本気であると思いますが、
どっか多分デメリットの発生になってくると思うんですよね、大きくなればなるほど。 スケールするには必ずどっか構造は必要になってくると思うんですよね。
はい。 基本的な問題っていうのはその個々のラップグループが意識改革をやり尽くして、もっと具体的なことをやりたいと思うようになってから現れるものですと。
なぜならほとんどのグループは自分たちの課題を変えるときにその構造を変えたからなかったからです。 女性たちはそのいわゆる無構造化という考え方をその用途の限界に気づかないまま
徹底的に受け入れていたのです。 もはやあれですね、これは受け入れたというよりも妄心に近いかもしれないですね。
無構造であるということをですね、何か深刻化じゃないですけどそんな感じでほぼ脳死で受け入れていたってことだと思います。
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人々はその構造なきグループっていうものを非公式会議とかを他の手段は抑圧的なものでしかありえないという妄心からそれらが適さない目的のために使おうとしたと。
はいはいはいはい。 全てに対してこの構造なき組織とかそういう考え方っていうのをどんどん使っていたんですね。
でもそれが結果適さない目的な時もありましたと。 もし運動がこのような処方的な発展段階を超えて成長するのであれば
組織や構造に対する偏見をせなければなりません。 どちらも本質的に悪いものではないですと。
しかし誤った使い方をしているからといって、それは頭こだしに否定することはさらなる発展のために必要な道具を自ら否定することになりますと。
私たちはなぜ無構造化がうまくいかないのかっていうのを理解する必要もありますよね。 難しい。やっぱり組織って結局人なので水物というか変化していくものだなってつくづく感じるので。
良い悪いは全然あるだろうし、合う合わんも全然あるだろうし、 ずっとですね振り返りをしていくって結構大事なことだなとつくづく思います。
はいでは続いて公式非公式の構造ですね。 フォーマルもしくはインフォーマルストラクチャーですけど。
私たちが信じたいこととは反対に構造のないグループというものは存在しません。 どのような性質の集団であれ、何らかの目的のために一定期間集まった集団には必然的に
何らかの形で構造を持つことになります。 その構造は柔軟かもしれないし時間の経過ともに変化するかもしれない。
グループのメンバーにタスク、パワー、リソースを均等に配分するかもしれないし 不均等に配分するかもしれません。それは関係者の能力、性格、意図に関係なく形成されるものになります。
私たちは個人であり、異なる才能、素質、背景を持つという事実そのものがこれを必然的なものにしているのです。
しかしそれは人間の集団の本質ではありませんから、関係や交流を拒否してこそ無構造に近づけることができるんですと。
関係や交流を拒否するんですね。すると無構造に近づくことができる。 つまり無構造の集団を目指すことは客観的なニュース記事、価値のない社会科学、自由な経済を目指すことと同様に有益であり
疑問に満ちているということですね。 自由法人の集団というのは自由法人の社会と同じくらい現実的である。この考えは強者や幸運なものが他者に対して疑う余地のない
ヘゲモニーを確立するための円幕となります。 このような覇権が簡単に確立できるのは構造がないという考え方が非公式な構造の形成は妨げないが
形式的な構造だけは妨げないからだと言っています。 同様に自由法人の思想というのは経済的強者が賃金価格財の流通を支配することを妨げるものではなく
政府がそうすることを妨げるだけであります。 このように無構造化というのは権力を覆い隠す方法となり、女性運動では通常最も権力を持つ人々によって最も強く主張される。
09:09
彼らが権力を自覚しているかどうかは別としてですね。 集団の構造が非公式である限り意思決定の方法のルールというのは一部の人にしか知ら
れず、権力の意識はルールを知っている人に限定されます。 ルールを知らずイニシエーションに選ばれなかったものは混乱したままあるいは自分でもよく分からない
まま何かが起こっているという被害妄想に悩まされることになります。 これはまた結構皮肉的な言葉だな。そうですね。
自分から入っていったのに結局自分から被害妄想に悩まされることになるという結論は なかなか大変ですね。
無構造の集団を目指すっていうところのやっぱり なんですかね魅力はもちろんあるんですけど危険性というのをしっかり理解していかなきゃいけない
というのは強くこれは感じますね。これ読む限りですけど。 じゃあ続けていきましょうか。
誰もがあるグループに参加しその活動に参加する機会を得るためにはその構造は暗黙の ものでなくて明示的ではなければなりませんと。
意思決定のルールっていうのはオープンで誰もが利用できるものでなければならず それは形式化されている場合にのみ実現できますと。
結局形は必要だということですね意思決定をするには。 これはグループの構造を形式化することでインフォーマルな構造が破壊されるというふうなことを言いたいわけではありません。
そうだよね。別にルールを作るだけで別にインフォーマルな構造を破壊したいという意味では全然ないですね。
フォーマルに必ずしたいという意味ではないということですね。 しかしインフォーマルな構造が支配的な
支配力を持つことを妨げ関係者が少なくともグループ全体のニーズに対して責任を持たない場合ですね。
それを攻撃する何らかの手段を利用できるようにしましょうと。 でストラクチャーレスっていうのはいわゆる無構造ですね。
組織的に不可能でありますと。 私たちは構造化されたグループが構造化されていないグループかを決めることは実はできません。
それはもうそうあるべきというか。 人が集まった瞬間勝手に構造ができるとさっきも言った通りですね。
まあそれが単なる右往の衆で、その場にいる空間内にいる人々が数が多かったからそれを集団と言っている意味ではなくて、ちゃんと目的とか意思があってそこに集ってきた人たちがそのグループとしてなるんですけど、そのグループが形成された瞬間構造化は必ずあるというふうにすでに述べられているのでそうですよね。
はい、なので構造化されたグループがそうじゃないグループかというのは実は決めることはできませんが、
形式的に構造化されたグループを持つか持たないかということを決めることができます。 形式的かどうかというのが決められるんですね。
したがってこの言葉は言葉が表す考え方を指す以外にはもう使わないことにします。
非構造化とは特定の方法で意識的に構造化されていないグループのことを指します。 構造化されたグループとは構造化されたグループそのもののことを指します。
また構造化されたグループっていうのは常に形式的な構造を持っており、また非公式なあるいは秘密の構造を持っている場合ももちろんあり得ます。
特に非構造化集団ではこの非公式な構造がエリートの基礎を形成しています。
12:05
はい、もうそろそろゲストアウト崩壊しそうです。構造という言葉が出過ぎてちょっと僕頭が混乱してきた。
とりあえず非構造化とは特定の方法で意図的に構造化されていないグループのことを指します。
これはまあ理解できる。 構造化されたグループとは構造化されたグループのことを指します。
文字通りってことですよね。構造化されたグループは常に形式的な構造を持っている。 これはいわゆる意図的な構造ですよね。
で、非公式なあるいは秘密の構造を持っている場合もあります。それもそうだよね。勝手にDMとか送って自分たちの派閥じゃないですけど秘密のグループを持っていることもあるし、
その構造化されたグループ全体の中で意思決定をしていない勝手な構造を持っている場合ももちろんあり得るということですよね。
特に非構造化集団ではその非公式な構造がエリートの基礎を形成している。 あーなるほど。やっとわかった。はい。
じゃあ続けていきましょう。続いてThe Nature of Elitismですね。 エリート機質ってやつですけど。
エリート主義者っていうのは女性解放運動で最も乱用される言葉でしょう。 ってことは、女性解放運動をする方は結構そのエリート主義と戦ってきた歴史があるということですね。つまり。
50年代にそのピンコって、ピンコってなんだ?っていうものが使われたのと同じぐらい頻繁に、それと同じ理由で使われますと。
正しく使われることはほとんどない。はい。運動の中では一般的に個人を指しますが、その対象となる人たちの個人的な特徴や活動というのは
大きく異なるかもしれません。 エリートという言葉は集団に対してのみ適用されるため、
エリートって個人に使うにゃくで集団に対してのみ適用される。個人は個人として決してエリート主義になることはできませんと。
エリートという言葉は集団のみ適用されるからだと。 へー。どんな個人でもその人がどんなに有名であっても実はエリートにはなれないと。
これは多分エリートの言葉の定義というよりも、女性解放運動でエリートという言葉が使われるときは、そういう使われ方をすることが多いってことかな。
集団に対して使うのかな、もしかして。 はい。
正しくはエリートとは自分たちが属する大きな集団に対して、通常は大きな集団に直接の責任を負うことなく、しばしば彼らの知識や同意なしに権力を持つ小さな集団のことを指します。
もう日本語難しいけど、まあでも言われりゃそうかもしれないですね。 大きい集団のことに対してエリートっていう、エリート集団っていうことはあんまないですもんね。
だいたい一部の小さな権力を持った、かつなんかとにかく頭の良さそうな人たちを指すことが結構多いよねーって感じです。
で、ある人はその個人が有名であろうとなかろうと、そのような小さな集団の一員であったり、その集団による支配者を提唱することによって、
エリート主義者となりますと。主義者ともなるわけですね。 で、悪評はエリートの定義にはならない。最も演出のエリートは通常一般大衆に全く知られていない人々によって運営されています。
知性的なエリートっていうのは通常自分が有名になることを許さないほど賢いと。
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知性的なエリートは通常自分が有名になることを許さないほど賢い。
ちゃんと身の振り方というか、どう評価されているか理解してやってるんでしょうね。
一方、演出のエリートっていうのは一般大衆に全く知られてない人々によって運営されている。 なかなかエリートの中にもいろんなタイプがあるんですね。
では続けていきましょう。エリートですけども、エリートっていうのは別に陰謀ではない。
小さな集団が集まって、自分たちの目的のために大きな集団を意図的に乗っ取ろうとするみたいなことは滅多にないよと言っています。
エリートとはたまたま同じ政治活動に参加している友人たちのグループであり、それ以上でも以下でもないと。
彼らは政治活動をしていようがいまいが、おそらく友情を保っていようがいまいが、おそらく政治活動をしていると。
この2つの現象の一致があらゆる集団にエリートを生み出し、それを壊すことを難しくしているんですと。
んー、なるほどですね。まだエリート自体が別に悪いわけじゃないんだろうけど。
んー、なんか人の思い込みがエリートをなんか悪にしてしまっている感をちょっと今読んでて思いましたね。
で、このような友情集団っていうのは、集団が設定した正規のコミュニケーションチャンネル以外のコミュニケーションネットワークとして機能しますと。
もしチャンネルが設定されていないのであれば、彼らは唯一のコミュニケーションネットワークとして機能します。
人々は友人であり、通常は同じ価値観や方向性を共有しているため、社交的に話をし、共通の決定が必要なときには相談し合うため、
これらのネットワークに関わる人々は、そうでない人々よりもグループ内で大きな力を持つようになりますと。
そしてその中でできた友人を通じて、何らかのインフォーマルなコミュニケーションネットワークを確立しない集団というのは稀ですよと言っています。
結局はインフォーマルなコミュニケーションネットワークが作られていくと思います。
少なくともそういうグループができている時点で。
そうすると、いわゆる派閥的なものが発生する気はしますけどね。
続いていきましょう。
グループによってはその規模にもよりますけど、このようなインフォーマルなコミュニケーションネットワークを複数持っている場合もあります。
ネットワークが重なっていることもあります。
このようなネットワークが一つしか存在しない場合、その参加者がエリートであるかどうかを望むにも関わらず、
そのネットワークは他の非構造化グループのエリートになります。望んでなくてもなっちゃうんですね。
構造化された集団の中でそのようなネットワークが一つしかない場合は、
その構成や正式な構造の性質によってエリートであるかどうかというのが決まります。
このようなUGネットワークが二つ以上ある場合、グループ内で権力を抗って派閥を形成することもあれば、
一つが意図的に競争から外れて、もう一つがエリートとして残されることもあります。
これは上手いこと逃げた場合ですね。
構造化グループにおいては通常二つ以上のそのようなUGネットワークが形式的な権力をめぐって互いに競争します。
ネットワーク同士で、要は派閥争いということですね。
これらはしばしば最も健全な状況である。
そうなんだ、むしろこれは健全なんだ。
なぜなら他のメンバーは権力をめぐる二つの競争者の間を仲裁する立場にあって、
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その結果一般的な忠誠を捧げた相手に対して要求を出すことができるからである。
うーん、中立の立場であるからですね。
そのUGの非公式なコミュニケーションネットワークの必然的なエリート主義的、もしくは派閥的な性質というものは、
女性運動に特徴的な新しい現象でも、女性にとって新しい現象でもない。
このような非公式な関係は何世紀にもわたって女性が属していた統合された集団に参加することを排除してきました。
どのような職業や組織においても、こうしたネットワークはロッカールームの精神や古い学校の絆を生み出し、
集団としての女性、一般の男性個人も同様ですけど、
こういう女性が権力や社会的報酬の厳選に平等にアクセスすることを効果的に妨げてきました。
過去の女性運動のエネルギーの多くは、女性の排除に直接差し向かえるように、
意思決定の構造や選考プロセスを形式化することに向けられました。
周知のように、こうした努力は男性だけの非公式なネットワークが女性を差別することを防いだわけじゃないんですけど、
それをより困難にしてしまったというのは事実としております。
むずい。
言ってることは大体そうだなーって気はしますね。
ここでも男性女性っていうワードを出すの結構難しいですね。
なんかそれ別に男性だから女性だからっていうわけじゃないじゃんっていう意見も全然出てきそうな話がずっと続きそうなんですけど、
ちょうど30分を超えたので、ここで区切ろうと思います。
ちょっと、ざーっと見てみますけど、どこで区切っても多分これ区切り悪いので、
映画でここで一旦今日は区切りたいと思います。
いや、ちょっと朝からほんと難しくて大変なんですけど、
明日も読み切れるかちょっと分かんないです。
明日もちょっと長いんですけど、しっかり明日は朝早く起きてスタートしていきたいと思いますので、
もしよろしければ参加してみてください。
では、今日の朝方はここで以上にしたいと思います。
本日は大地さんですね、あとレノアさんと、おそらく僕の画面では見えてないスーさんが参加されていると思います。
今日もご参加いただきありがとうございました。
明日もこれの続きをゆるく読んでいきたいと思いますので、興味ある方は聞いてみてください。
またこの後ですね、この記事自体もツイートしますので、もし興味があれば見てみてください。
ちょっとほんと難しいんですけどね。
というところで、今日の朝方はここで以上にしたいと思います。
木曜日ですね、あと1日2日ですけど、今日も1日頑張っていけたらなと思います。
それでは終了したいと思います。お疲れ様でした。
20:34
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