1. ゆいなわさんの「聞く人」ラジオ
  2. v117 南総祭礼研究会代表・大..
2024-08-22 43:32

v117 南総祭礼研究会代表・大西純夫さん「山車が境内に突っ込んでいく瞬間」

今回は、南総祭礼研究会代表・大西純夫さんにお話を伺いました。
千葉県館山市でグラフィックデザイナーとしてのお仕事をされている大西さん。
写植のお仕事をされていたお話、そして大好きな祭りへの思いなど、様々にお聞きしました。
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/6513739a0bc9d6e1d690bae1
00:05
皆さんこんにちは、ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。 今回は、南総祭礼研究会代表
大西純夫さんにお話を伺いました。 千葉県立山市でグラフィックデザイナーとしてのお仕事をされている大西さん。
まずは、そのお仕事に至った経緯について伺いました。
まず、大西さんは、お仕事としてはどんなことをされているんですか? という質問だとしたら。
英語でカタカナで言うと、グラフィックデザイナーなんですね。
田舎のグラフィックデザイナーなんですけど、基本的にはパソコンを使ってデザインをして、
それをデータにして印刷して納品するという、印刷屋なんですけど、今時は自分のところで印刷しないので、
印刷は外注になるので、デザインが仕事ということなんですね。
じゃあ今、立山でそういうお仕事をされていて、もともと若い頃というか。
若い頃は、大学出た時に就職宣戦に脱落して。
というか、就職宣戦を受けなかったのかな。
脱落して、文字が、レタリングという文字を書くのが好きだったんですね。昔からね。
それで文字に関わる仕事がないかなということで、写真食事という教授を。
昭和50年前くらいかな、49年とか40年代の後半ですね。
世の中が写真食事機という商業文字を作る機械が大ブームがあって、
それの技術を習得すると、一生苦に困らないよという文句に騙されて。
騙されてその業界に入って、2年くらい勉強しながらアルバイト的なことをやって、
それから社職屋というんですけどね。社職屋さんに就職して、それからまた2年くらいしてから独立したんですよ。
当時は機械は相当高かったんですけど、腕が、自信がつくと結構儲かったんですね。
そういう良い時代だったんですね。
商業文字って今パソコンで活字は簡単に作れるけど、当時は社職を使わないと商業文字というのは作れなかったんですね。
03:03
だからみんな社職屋さんが神様だって言って、仕事をお願いしますお願いしますって持ってくる時代があった。
だからそこで社職の機械を持ってやってあげると、結構給料が良かった、給料というか手取りが良かったんですね。
そういう時代があって、だから自分の腕を磨くことで、自分がこれで一生生きていけるっていう、そういう時代の中で取り組んだんですけどね。
でも、その社職が、黄金時代が意外と短かったんですね。
だんだんコンピューターがMacが出始めた頃で、だんだんコンピューターに文字ができるようになって、それがだんだん進んで社職が衰退していく中で、
私がさっき言った、15年くらいかな、社職やってたのは。
結構腕も自分の中では上達したなと思っている中で、一生食えるなと安心してたところが、マッキン・トッシュ君が出てきて、
マッキン・トッシュ君が出てきて、我々が一生懸命勘で、
社職の文字っていうのは、日本語の文字っていうのは幅があるんですよ。例えば横に組むときに、例えば何々しってっていう時に、
しの空間と手のここの空間が並べたときにすごく大きな空間があるんですね。それを詰めることで、デザイン的に文字が読みやすくするっていう、そういう
詰め印字なんていう言葉で言ってたんですけど、それが勘でやっていくわけですよ。例えば3ミリの文字と、3ミリの文字っていうのは3ミリの幅で並んでるんだけど、そこを2ミリにするのか、
2.5ミリにするのかっていうのは、それを勘で詰めていくわけ。それがぶつかっちゃえばダメですよね。詰めすぎちゃって開きすぎちゃって。
そういうのを覚えることで、ますます技術が評価されて、これはあの人に頼まなきゃいけない。そういう世界なんですね。そういう世界があったんですよ。
ただ、マッキン・トッシュ君が出てきたら、ピッてやると、ボタン一つでピピピッと詰める。
カーニングをやられちゃったんですね、マッキン・トッシュ君に。そのカーニングが射食屋さんのレベルを表す一つの評価だったんですね。
それでそれができない人は、射食の文字を一文字カッターナイフで切って、インガシっていうのに焼くんですよ。インガシを一文字ずつ切って、糊で詰めていくんです。
06:03
横尾忠成っていうデザイナーがいましたけど、あの人は詰め文字っていうか、詰め組み班っていうのかな。それを始めた人なんですよ。
新聞なんかも当時は、新聞の広告なんかもいかに詰めて文字を並べるかが、デザイン業界では勝負みたいなところがあったので。
見てる人はそんなにわからない。そういう時代の中で詰め打ちのできる射食屋さんが優遇されたんですけど、マッキン・トッシュ君に全てを取られて、
何だったんだよみたいな。そういう時代の流れで射食が衰退してきて、今のマックで、マックっていうかコンピューターで組み班をする時代になったんですね。
そういう中でなんとか、結構射食屋さんっていうのは、私はさっき言ったけど文字が好きだったんですね。文字が好きだったから文字の仕事に就きたかったんですね。
例えばマッキン・トッシュが現れても、射食は捨ててマックに乗り換えれば文字と関わっていけるんですね。
私はさっき言ったように、射食の黄金時代に射食の仕事をやろうって言った人たちは、その中にはお金が欲しい人がいたんですよ。この仕事をやれば儲かるぞと。
そういう人たちは文字にはあまり関心がなくて、仕事自体に関心があったんで、射食がダメになると移行ができなかった。
値段も安くなるし、誰でもできるようになるから、その人たちは別の仕事に就くとか。
私の場合は文字になんとか関わってこれて、Uターンして立山に来たときに、コアの川名さんなんかに世話になりながら文字に関わる仕事をマックを使いながらやって、なんとか今まで辛うじて生きているっていう。
信じられないんだけどね、生きているんですよ。
じゃあ最初にある文字にっていう思いみたいなのは何ですか?文字が好きっていうんですか?
文字が好きな子とか運動が好きな子とかいろいろいるんだけど、私は小さい頃から文字が好きで、例えばノートの表記に数学算数とか理科とかいうのを定規でみんな文字を書いてた子供だったんですね。
それで友達のノートに書いてあげたり。それでレタリングって言ってたんですけど、レタリングの仕事に就きたいなっていうのを心のどこかに思ってて。
高校の3年の時に進路を決めるときにレタリングの学校に、当時は専門の学校があったからそこへ行こうかなって言ったら親に反対されて、そんなもんで食えるわけない。
09:12
とりあえず行く行かないは大学出てから決めろということで、普通の経営学部か何かの大学に入って。
4年間過ごしたんですけど、その就職の時に、さっき言ったけど就職宣戦に積極的に参加しなかったんだね。
いくつかは受けたんだけど、それどうでもいいよみたいな。それでその文字の仕事に進んだということなんですね。文字が好きだったのかもしれないね。何故かわかんないけどね。
何か惹かれるものがあると。
なんか絵が好きな子とかいるじゃないですか。それと同じように文字が好きだったのかもしれない。
考えてみればこの年まで文字に関われて良かったなって。
そうですよね。
何とか生きてこれて良かったなと思ってますけどね。
そこにやっぱり自覚というか文字っていうのがあったっていうのがやっぱりね、小さい頃からあったということなんで。
なかなか好きな仕事を続けていくっていうのはね。
難しいところもありますよね。
難しいけどね。いろいろな世の中の波がありますからね。そういう意味で言うと、いろいろあったけど、今はなんか幸せだったかなって思いますね。
じゃあその社職をされてたところから、マックに行くっていうのはそんなに勉強はつるでしょうけど。
やらなきゃいけないっていう義務感みたいなのがあったんですよね。生きていけなくなっちゃうから。マックをこなさないと仕事ができなくなっちゃうっていう。
そういう意味はあったけど、でもそれがたまたま好きな仕事だったっていう。
そっかそっか。それによって社職という文字もやりながらグラフィックとかそういうところもやっていくみたいな。
そうなんですね。最初は社職屋さんっていうのは文字の組み班なんで、デザイナーがいてレイアウト用紙を作って、
ここにこのくらいの大きさで文字を並べなさいよって。タイトルはこのくらいの大きさにして横にしましょう縦にしましょうって。
レイアウト用紙作ってくるわけですね。それに従って社職屋さんはその文字を用意するわけ。
それはバラバラでいいんですね。後で切り張りするから。
ただ私はその時に文字が好きだったせいか、自分でレイアウトをしたかったんですね。
だから立派なっていうか大きな仕事でデザイナーが入っているような仕事ばっかりじゃなくて、
例えば街のどっかの商店が知らし作ってよって言った時にデザイナーなんか入れなくて、
じゃあ私がちょっと考えてやってみますっていうのが好きだったんですね。
12:00
それでデザイン心っていうんですか、そういうのがあったんで、そういう仕事も受けられるっていう。
そんな感じで仕事を続けてこられたんですよね。
結構幅広くお仕事としてはいろいろされてきた感じなんですかね。
東京にいた時には、東京に郷土印刷ってあるんですよ。
当時は大日本特派郷土と言って、三大印刷会社だったんです。
甲子川ですね。
甲子川ですね。
こっち近くですね。
文京区なのに。
文京区。
そっかそっか。
はいはい、あの辺で。
郷土印刷の中にね、私さっき独立したって言ったんですけど、常駐業者っていう枠があって、
独立した人たちを囲い込むんですね、郷土印刷が。
独立した人たちが何人か集まった部屋を用意して、
そこへ郷土印刷の仕事だけをやらせるっていう仕組みがあったんですね。
そこへ潜り込んで、
郷土印刷だけの仕事、そこは私にとっては楽だったんですよ。
そうか。
郷土印刷の大量の仕事がいつも流れてきて、
みんな営業の偉そうな人が頭を下げて、
すいません、今日やってください。明日の朝まででやってください。
じゃあしょうがない、やったやった。
分かりたけえよ。
そういう時代があったんですね。
そこで仕事やってて、立山にしてからはそんな大きな顔してらんないですからね。
いろんなところに回って、
印刷屋さんとか、いろんな商店とかね、
チラシ作ったり、名刺作ったり、ポスター作ったり。
もちろん立山市の仕事もいくつかやらせてもらってね、
観光パンフレットとか、冊子とかもいろいろやりましたけどね。
そうやって、だんだんだんだん。
そうか。
じゃあそういう形で、グラフィックの部分とか、
印刷とか、ホームページもちょっとやってたりとかということで、
そういう全般のことを一通りやりながらって感じですね。
仕事はね。
やっぱりそうやって長くやってくると、
世の中の事情というかも当然と変わってきてます。
そうですね。
見るものというか、情報に触れるものですよね、メディアみたいな。
そうですね。
情報に触れるというか、東京に行った頃も、
与えられたものを与えられた形で納品するということだった。
立山に来てからは、やっぱり印刷物というのは非常に、
立山市の印刷物だったら立山市の中だけのことで、
向こうから原稿が降りてきてという感じなんで、
新しい情報とかは直接入ることはなかったんですけどね。
向こうの作りたいものをこちらが考えてあげることはできるんですけど、
向こうが何を望んで、どんな結果を求めているのかというのは、
なかなかそこまでつかみ切れなくてね。
15:01
あとはね、行政の仕事なんかだとね、
こちらのアイディアがなかなか通らないんですよ。
例えば、十年以上前に立山市の観光ポスターを作った時に、
キャッチコピーとかを入れて、自分の気に入った写真をマックにして、
キャッチコピーなんかを入れて作ったこともあるんですけど、
なかなか受け入れられない。
やっぱり硬いのかな。
今までと違ったというのは、やっぱり今まで通りでちょっと違うみたいな。
そういうところを求めているみたいで。
そっかそっか、がらりと変えちゃうと。
がらりと変えるのがなかなかできないということですね。
自分で提案して仕事を取る場合もあるんですけど、
そういう場合はこっちからデザインを見せて、
それで向こうが納得すれば進めるっていうこともあるんですけどね。
文字が好き、レタリングが好きという思いから
社職のお仕事をされていた大西さん。
マッキン特殊が出てきたことで、その仕事が衰退していったそうです。
ただ文字が好きという思いがあったからこそ、
今のお仕事を続けられてきたとのこと。
もう一つの好きなことということで言ったら、何ですか?
やっぱりお祭りですね。
お祭りになっちゃうかね。
お祭りは?
お祭りは子供の頃から北条地区っていうんですけどね。
生まれというか?
生まれは北条地区の三原町という海岸寄りの、
今のココスのあたり。
ココスのすぐそばに生まれたんですね。
そこは三原町という地域の中で、
三原町には三原町の出汁があったわけですね。
それに小さい頃から、親父が役員をやってた関係で、
出汁についてるんでね。
子供の頃から出汁に乗っていたのがあれかね。
やっぱり好きだった。
乗ってたから好きって言うわけじゃなくて、
好きだから乗ってたってことですね。
結構嫌いな子も多いですからね、お祭りって。
兄弟でもね。
お兄ちゃんは好きだけど弟は嫌いとかね。
不思議なんだけど、なぜ好きなのかって聞かれても、
よくわからないけどね。
たまたま好きだったみたいな。
じゃあずっと小さい頃から参加して。
参加っていうか、子供なりにね。
お菓子もらったりね。
そういう中で参加はしましたけどね。
例えば東京出てからも、
祭りの時は帰ってきたりとか。
そうですね。欠かさず帰ってきましたね。
18:00
じゃあもう何十年も祭りには。
そういう意味で言わせれば、
今71歳だから、
60年以上は毎年お祭りやってるかね。
やってるっていうか、参加させてもらってるかな。
じゃあ当たり前といえば当たり前のものみたいな。
そうですね。
当たり前っていうか、
お祭りは中心だったね。
生活の中の中心っていうか。
一般の人はお正月が来て、新年が。
新しい年が始まる。
我々はお祭りが来て、
新しい年が始まって、
次のお祭りまではずっと我慢する。
我慢する、なるほど。
あと何日って指を動かす。
そういう類の人間がいるんですよ。
例えば太鼓の音とかは、
僕もたまに帰ってくると聞こえるじゃないですか。
あ、来てるな、みたいな。
大体太鼓の音が聞こえると、
まずどこでやってるかっていうのは大体わかるんですけどね。
わからない、遠くで聞こえたとしてさ、
もうそれはそこへ行かなきゃいけない。
確認しに行かなきゃいけない。
ちょっと収まらないというか。
そういうことですね。
太鼓とだしが好きだったのかな。
よくいろんなお祭りって、
いろんなやり方があって、
お祭りの準備をするのが好きで、
好きな人とかね、
だしを引っ張るのが好きで、
腰を担ぐのが好きな人とか、
いろんな楽しみ方があるんだけど、
私はやっぱりだし自体が好きだったのと、
なぜか、あと太鼓が好きだったんだよね。
太鼓は叩かれてる?
太鼓は子供の頃習って、
林方って言うんですけど、
太鼓は叩いてますけどね。
最近は叩かないです。
だしそのものが好き?
だしそのものが好きなんだね。
何でしょうね、だしそのものが好きっていうのは。
何でしょうね、やっぱり、
お祭りにはだしが出るっていう、
特別なものっていうのがあったのかもしれないね。
それでそのだしが出ると、
楽しいお祭りができるっていうのがあったのかもしれないね。
不思議だけど、
だしがないとやっぱりダメだね。
あーそうですか。
最近は、
若い人では、いろんなお祭りに参加する人がいるんですよ。
1年のうちで10も20も、
友達がいるんでしょうかね。
求められていく場所もあるんでしょうけど、
私の場合は他はやらなかったんですよ、一切。
自分の町内。
自分の町の三原町のだしが好きだったんだね。
特にそこの自分の生まれの町?
他のだしにはあまり興味がない。
そうなんですね。
やっぱり地元というか、落ち着ける場所というかね、
21:02
そういう気持ちがあったのかね。
ただ、東京から帰ってきて、
3年かな4年ぐらいで引っ越したんですよ。
今、新明町という同じ工場地区の中で、
新明町というところに引っ越して、
だから三原町から新明町に引っ越したから、
三原町とはさよならしたんですね。
さよならしなくても大丈夫なんですよ。
別のところに住んでても、
俺は昔三原町でやってたから、
ただ、私としてはやっぱり、
住んでるところのお祭りが、
正しいお祭りの姿だと思って、
新明町になって、新明町のお祭りに参加させてもらって、
新明町の出汁を引き寄せたんですけどね。
それで今はずっと新明町でやってるんですけどね。
三原町と同じように、新明町も小柳区に入ってますけどね。
そうなんですね。
じゃあ、例えばお祭りももうちょっとしかありますけど、
新明町に来たら、探したら、お兄さんがいらっしゃるとですね。
最近は出汁のそばにあまりいなくなっちゃったけど。
そうか。今って出汁とか出る機会が増えてる気がするんですね。
増えてますね。
それなんでなんですかね。
いろんな記念祭、記念があると、
出汁を出して、みんなで喜ぼうという風潮が高まってきたというか、
もう一つは出汁が簡単に出せるようになったんだね。
前は出せなかったんですか?
出汁を出すっていうのはね、結構大変なんですよ。
出汁小屋から出して引っ張ればいいっていうわけではなくて、
事前の準備とか、道路の使用許可取ったり、
そういったいろんな準備があって、
役員の数も少なかったんですよね、前はね。
出汁を出すってことがなかなか大変で、
あとはお祭りの出汁は、私の中では年に1回、
これが守られるから教習も沸くし、
大事なものになるしっていう考えがあったんですけど、
昭和50何年かな、
城祭りっていうのができたんですよ。
立山城ができてから、お祝いで出汁を出すって言って、
昔は城祭りって言ったんですけど、
今はもう辞めちゃったけど、
里見祭りっていう名前に変わったんですけどね。
そこへ出汁を、立山市が主催して出汁を出すようになった。
正確に言えばお祭りではないんですけどね。
イベントなんですけど。
とにかくそこへ出汁が出るということで、
八幡のお祭りが9月の10月15日で終わって、
一月ぐらいでもう一回出汁が出るということで、
24:01
みんなが教習がなくなったんだね。
そうかね。年に一回のみたいなこと。
我々は子供の子供中学、若い頃、20歳ぐらいとかそういう頃は、
八幡のお祭りで2日目で出汁が終わるときに、
終わりの太鼓ってやるんですけど、
それが終わりの太鼓が終わって、
城神の電気が消えるとみんな泣いてましたよ。
そうですか。
もう来年まで見れねえ。
ああ、なるほど。
泣いていました。
でもそれが泣かずに済んだからね。
一月後に見れるからね。
そうですよね。
ああ、なるほど。
それがいいのか悪いのかね、
出汁好きの人には出汁が出てて、
賑やかしをやってる間が楽しいから、
何回も会ってもいいんだろうけど、
本来のお祭りの良さみたいなのを考えると、
私が思うには年に1回にして、
大事に大事にそのお祭りを年に1回楽しんでもらいたいっていうのはあるんだけどね。
そっかそっか。
でもそんなことは今時昭和の人間だと言われた。
ああ、そっか。
そうなんですね。
ああ、なるほど。
世の中変わってほら、
三越なんか特にそうだけど、地元だけではできないようになっちゃってるから、
他所から来る人はいろんなところを駆け持ちでやってるんで、
そういう事情もあるんだろうけど。
だからお祭りが自分の地区で年に1回だけなんていうのは、
ちょっともう昔の人の一部の考え方かもしれないね。
そういうことですね。
だからそれがね、やっぱりそういう風になってきちゃって、
これからはもっと進んでいくと思うけどね。
ああ、なるほど。
私がやってる法中地区のお祭り、八幡の祭礼っていうのは八幡町って言うんだけど、
それは特にこの辺では大きなお祭りなんで、
盛大にやってるんでね、衰退するっていうのはまだないと思うんですけどね。
他の地域はほんとにだんだん衰退しちゃってね。
一極集中になっちゃうのかなって。
やっぱり人数は当然必要なわけですし。
だからその地域で、地域の例えば三原町なら三原町のお祭りをやるっていうのは、
これは守られてるんですけど、そこにいる人たちは自由だよと。
もうどっから来ててもとにかく三原町の形、格好してればそれでいいんだよっていうね。
そういう時代になってきてね。
だからお祭りの形もだんだん変わってくるかもしれないけどね。
でもそれはそれで私はいいなと思ってね。
時代とともにお祭りが変わっていくからね。
祭りが好きで、出汁が好きで。
太鼓の音が聞こえたら、どこでやってるかがわかる。
わからなかったら行ってみる。
以前は年に一度の祭り。
27:01
その太鼓が終わったらまた来年と涙していたというお話もいただきました。
実際にやられてる方って、世代とか若い方とか聞きます?
野党のお祭りについては、高校生から。
子どもたちも参加してるけど、実際に出汁を動かすのは高校生以上から40くらいまでかね。
その上の人たちは、小頭長とか世話人とかいう監視役みたいな形で、50、56までの人たちが関わってて。
それ以上はOBになっちゃうけどね。
でもそれOBだからお祭りやらないというわけじゃなくて、
そういう人たちが全員、子どもからじいさんまでが集まって、出汁のどこかにいる。
それが重要なんだね。
そういうお祭りだから。
でもそこに昔は、よそ者が入ると、お前はどこから来たんだ、みたいな話になるんですよ。
だいたい来た人たちは、誰かのつてで来てるんで、
あの人の紹介で来た、どっかの偉い人がね、いいよって言ったとか。
そういう見えないルールみたいなのがあったんだけど、
最近はやっぱりそういうのも薄くなってきてるんですよね。
一時期、コロナとかでできない時期があったじゃないですか。
去年は通常開催ですね。
そうですよね。久々ぶりにやっぱりやるっていう形で、だいぶ盛り上がったなって感じを。
そうですね。
前の年に、通常ではないけど5町揃っての式回しっていうのをやったんですよね。
八田神社の二の鳥までで。
そうだ、そこまでですよね。
そこで曲がって帰っちゃったんだけど。
あれが、それまではお祭りはやれなかったんだけど、
あれがやれたことで、あの時の方が盛り上がったからね。
ほんとですか。
八田神社には入れなかったけど、5町でお祭りがやれたっていうのが。
その5町っていうのが結構法上の祭りではみんな重要にしてるんですね。
単独で何かのお祝いで、どっかの地域で、
例えば六県庁が何かお祝いで出したよとか、
そういうのはいくつかポンポンとあるんですけど、
やっぱり5町揃ってっていうのが八田のお祭りの醍醐味っていうのがね。
そっかそっかそっか。
やってる人は、やっぱり他の町内とすれ違ったりね、
一緒に引き回しするのが嬉しいんじゃないですかね。
まあそうですね。だからみんなが一堂に会するとやっぱり気持ち的に。
30:01
気持ち的にね。ほんとに八田のお祭りっていう。
ただの地域内のお祭りじゃなくて。
だから八田のお祭りについてはみんな何か特別な感情を持ってるのかね。
まあでもやっぱり八田のお祭りで神社に入るときには、
たくさんの経代を埋め尽くした人の中に出しが突っ込んでくる。
やっぱりあそこで参加できるっていうのはね、誇りなんじゃないですかね。
私よく写真を撮るんですけどね。
ハイデンに上がって正面から撮ったりするんですよ。
顔がね、みんないい顔してるんですよ。
あの場面はね、怒ってる人はいないですよ。
たまに喧嘩とかやったりとかね。
引っ張ってる子供から大人がね、生き生きとした顔してるね。
やっぱりそこがあるからやりたいんだろうね、きっとね。
そのためにやっぱり頑張るっていうのがあるのかな。
ハイデンに上がって写真撮るんですね。
撮れるんですか?
撮れます。
私はね、前はね、新兵庫の世話人ってハイデンに上がる仕事だったのね。
祭典やるんで、その時に空いた時間で撮ってたんだけど。
私、八幡の町のポスター作ってるんですよ。
これ作られてるんですか?
これ私がみんな作ったんですね。
町でよく見るというか、いろんなところに貼ってあるやつ。
一応ポスター用の写真とか言ってね。
そうなんですね。
上がらせてもらったりする場合もあるんですけどね。
それはすごい。
じゃあこのための写真とかは当然撮るんでしょうし。
このための写真を、ただ三越の写真はね、
三越は時間が違うんで、別の人が撮ったものをお借りするんですけどね。
なるほど。
なかなかね、瞬間なんでうまく撮れる場合とか、
あとは5丁同じレベルの写真を撮らなきゃいけないんで。
そこの難しさありますよね。
1個だけ忘れちゃったみたいな。
ないですみたいな、そんなにいかないですね。
揃わないとね。難しいんだよね。
そうなんですね。
でもそう思うと、またもうちょっとしたら始まるというか、楽しみな感じで。
そうですね。
準備とかも参加するというか。
いやもう今はね、70歳を超えたんで、現場の準備には関わらないですけどね。
一応、再例委員会というのがあって、そこの役員にはなってますけど。
そうなんですね。
長年、お兄さん自身は関わられてきて、
お兄さんなりの楽しみというか、ワクワクする感じというか、
33:03
特別な思いは浅草松については。
やっぱり役員が終わってからはね、
役員がやってるときはダシのすぐそばで、
いろんな役を掛かりをやってきたんだけど、
終わってからは少し離れて、
近くにはいるんだけど、離れていろんなダシを見てると、
また別の楽しみ方があるような気がしてね。
それはどんな感じですか?
現場にいるとやっぱり、ダシの心配をしたり、
実際の運行の手順を確認したり、いろんな仕事があるんだけど、
ちょっと一歩離れてみると、
なんていうかね、眺めるっていうのかね。
本当に楽しいって、若い頃の盛り上がりじゃなくて、
ゆったりとした楽しみ方みたいなのができる。
楽しみの種類が変わった感じ?
ちょっと変わった感じだね。
中には、太鼓が聞こえる場所で、
いっぱいやるのが楽しみだっていう人もいるんだけど、
なんていうか、そばにいなくてもいいわけだね。
若い人なんかそばにいて、バシバシとやりたいんだけど、
いろんな楽しみがあるのかなって。
窓を開けてね、太鼓が聞こえてくるときにね、
若い頃だったらそこへ飛んでいったんだけど、
今時は太鼓の音を聞きながらね、
ちょっとエンガードいっぱいなんていう人もいるんですよ。
それはすごい素敵ですね、そこはそこで。
でも自分は当然そこには参加してたりとか、
過去のものも自分にはあって。
やっぱりそういう経験があればこその楽しみ方かもしれないね。
そうですよね。
そっかー、それはすごい。
今はこういう南宗祭礼研究会で、
紹介というか地域のもののこともされていて、
40いくつって言ってましたっけ?
46か、今年にやったから46ですね、46地区。
それだけあるってことですよね。
お祭りがね。
みんなね、すごいですよ、地域と。
それぞれがこだわりを持って、歴史があって、
どんな小さな祭りでもね。
だから優越つけることができる。
ここはすごいから。
よく優越つけるのは利己志が立派だとかね、
彫刻が立派だとかね。
やっぱりその歴史自体はね、
みんなどこも地域の人たちが支えてきたお祭りだっていうのがね、
本当にね、直接お話聞いたりするとね、
よくわかりますよね。
自分のじいさんが昔これ壊れたときに直したんだとかね。
昔じいさんがだしに惹かれたんだとかね。
36:01
そういういろんなね、
学芸員さんの資料には出てこないような事実が。
本当にその方が知ってるっていう、
そういう肯定的にそうですよね。
それすごい大事なことですよね。
そこは面白いとこなんだけどね。
いろんな話聞いてるとね、
我々はいろいろ回ってるからあれなんですけど、
前に聞いた話と、
違うところで聞いた話がつながることがあるんですよ。
本当はいろんなことすべて知ってればいいんだけど、
たまたまそういう聞いた話がつながるっていうのは、
この間、もう3年、4年ぐらい前かな、
名古屋の柴崎っていう町内があるんですけど、
そこで立ち話をしてた、
私の友人が立ち話してて、
この柴崎の立ちは、
南町の、立山の南町の人形を、
昭和の初めに交換したんだと。
南町の人形っていうのは今、
柴崎の人形はアマテラス大神様だった、今ね。
南町の人形は神武天皇だったね。
今は神武天皇、南町の人形が乗ってるんだけど、
その神武天皇は実は、
柴崎の人形だったんだっていう話を聞いた人がいたんですよ。
でも、そういう公伝の話っていうのは結構あるんだね。
言い伝えだからさ、
途中で変わったのか知らないけど、
結構、そういう公伝の話聞くんだけど、
その根拠は取れないのね。
なるほど、なるほど。
でも次の時に、
南町の人から、
昔いた南町の人が書いた手書記が出てきたんですよ。
そこにね、そのことが書いてあったんですよ。
柴崎の人が話したことがここに書いてある。
ああ、立証されたわけですね。
ちょっと裏が取れなくて。
なるほど。
そうすると、やっぱり楽しいんだね。
楽しいですね。
ああ、面白い。
そういうことがね、
たくさんやってると、
いろんな繋がりが見えるときがあるんだね。
それはたまんないですね、ちょっと。
わからないままだと、
そのまま歴史に埋もれてしまうみたいなことも、
こうやって聞いていくことで、
出てきて、繋がっていって。
だから、まんざらな嘘だろ、そんなの。
あるわけねえだろって思ってることも、
あるとき本当になってくる。
そっか、そっか、そっか。
そういうことですね。
面白いですね。
なるほどなあ。
やっぱり、引き出しをたくさん作るっていうのがね、
大事なのかもしれない。
はいはいはい。
そうですね。
そういった意味で、
大西さん自身が本当に祭りっていうのに参加されてたりとか、
39:00
実際今一緒にいたりとか、
そしてこういう形で聞きながら地域のものを知っていくことで、
また楽しまれてる。
そうですね。
祭りそのものをいろんな角度からこう。
まあね、このパンクレットについてはね、
仲間と一緒にやってるんですけど、
大義名分が祭りの力を、
祭りのことをまず地域の人に知ってもらって、
それで地域の人に誇りを持ってもらいたいと。
それでさらにこの誇りをみんなに見てもらって、
地域の活性化につなげたい。
さらに立山市の活性化にもつなげたいなんて大きなことを書いてあるんですよ、
祭礼研究会の趣旨としてはね。
それがなかなか広まったかどうかわからないんですけどね、
こういった形で提供できるのは、
これは多分手前ミスなんですけど、
全国でもそんなにないと思いますよ。
このA4一枚にまとめるってことがね。
祭りの資料が本当にたくさんあるんですよ。
結構さっきも言ったけど、
厚くなったり文字だけになったり、
難しい言葉が足らんだりってなるんですけどね。
なるべくそういうのを使わないでね。
簡潔にやったっていうのが、
地域の人には出来上がった時に各庫に全部配布するようにしてるんですけどね。
嘘だって言われたいんですよ、俺は。
嘘だって言われたい?
自分の書いたことが、お前嘘を書いたろって指摘されたいわけ。
これもそうですよ。
我々が調べて、いろんな調査して、
資料を見て、そこに事実として書いてるわけだけど、
ある人が、これ嘘だよって言ってもらいたいんですよ。
その人は根拠があるわけじゃないですか。
これが違うって言えるものを持ってるから。
じゃあ教えてよって。
そうすると広がるわけね。
叩き台なんですよ。叩いてもらいたいわけ。
なるほど。
ある時に六県庁の出汁をやった時に、
六県庁の出汁の製作者について、
ある人の名前をそこに書いたわけ。
六県庁にする大工の鼓楼の人がね、
鼓楼の人は今、85、86歳かね。
その人がね、
六県庁の出汁作った人は、
違う人だよって言ってきたんだよ。
その証拠は?って言ったらさ、
六県庁の出汁の彫刻の裏にね、
名前があったんですよ。
その人が書いた、一旦名前が。
これは大変失礼しましたってさ。
この人はどちらの方で使わせたらね、
それがわかんねえんだって。
ただ出汁の裏に書いてあるから。
この人とは違うよって。
またそこから物語が始まっちゃうわけ。
その人はどこの人かわからないじゃ
済まないわけじゃないですか。
あの立派な出汁を作ったんだから。
それでいろいろ私も調べたんだけどさ、
42:02
まだ結論は出てないんだけどね。
結構、確信までは言ってるんだけどね。
そういった指摘をしてもらうと、
またさらに調査が広がって、
面白いんだね。
これを鵜呑みにしちゃう人たちが、
まんざら嘘じゃないんだけど、
もしかしたら間違えてるかもしれないけど、
それを本当に読んで、
違うって感じてくれる人を探す一つの手順にもなる。
面白い、そっか。
突っ込んでもらいたい。
確かに。
俺はこうじゃなくて、
こういうことだって知ってるぞみたいなことを、
みんなが思ってるわけですから、そこは。
そうすると声が上がるからね。
そうですよね。
境内を埋め尽くした人の中に出汁が突っ込んでいく。
その瞬間の顔はみな生き生きとしている。
そんな祭りのことを地域の人に知ってもらい、
地域の人に誇りを持ってもらいたい。
そんな大西さんの思いを存分にお聞かせいただきました。
大西さん、ありがとうございました。
それではまた次回、
由比奈さんのキクヒトラジオでお会いしましょう。
43:32

コメント

スクロール