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2025-08-12 34:22

#0224 遅咲きプロ初勝利の森田駿哉投手(巨人)にからむ自分周りの数々の因縁


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サマリー

森田駿哉投手のプロ初勝利を祝うエピソードです。彼のキャリアの変遷や中堅選手としての成長、高校時代の活躍に触れています。また、巨人の森田投手の初勝利を受けて、彼の周囲にある因縁や過去の出来事に焦点を当てます。大学時代やアジア選手権の思い出を交えながら、森田投手の成長と関わる人々とのつながりについて語ります。遅咲きのプロ野球選手、森田駿哉投手の初勝利に関する因縁とエピソードに焦点を当てています。

森田駿哉の初勝利
こんにちは、こんばんは、おはようございます。
ヨメルジャイアンツのですね、8月12日の、今日のカードは、中日戦ですけれども、
中日の先発王の雄大、王の雄大投手に関してはね、ちょろちょろっとね、自分の知っている限りの、
本当に数少ないんですけれども、直接やり取りをしたりとか、間接的に聞いた話とかをね、過去にも話してたと思うんですが、
相対するですね、ジャイアンツの先発ピッチャーがですね、森田駿哉投手というね、3本なんですが、
先週、プロ初勝利をね、先発でしましてですね、おめでとうみたいな感じの雰囲気になってましたですね。
ヒーローインタビューも受けてということだったんですが、
ヒーローインタビューに出てくる時にですね、アナウンサーの森田投手に対しての呼び声が、
若武者みたいな言い方をしてたんですけど、若武者が出てきましたみたいな感じの、ちょっと違うかもしれない、それに近いようなね、
若武者という言葉だけはすごい耳にね、入ったんですけど、その時にんん!?っていうもうめちゃくちゃな壮絶な違和感を僕は感じていまして、
なぜかというとですね、森田投手って、今年で28歳、今現在ね、満年齢で言うと、
28歳なんですよね。早生まれでもうすでに29歳になっている同学年の同期もいっぱいいるんですが、この世代ってね、岡本世代、岡本和弥世代なんです。
岡本和弥世代っていうのは、イコールで言うと、高橋孝奈世代でもあり、ロッテの小島くん世代でもありですね。
ジャイアンツだったら岸田くんですね。岡本同級生で。
で、あと日本浜浅間とかですね、プロに入った選手で言うと、ホフトバンク栗原ですね。
その辺の世代なんですよ。なんでこれポンポン出てくるかというと、僕はこの世代が高校、サムライジャパンですね、日本代表で、
AAAのアジア選手権に甲子園が終わった後ですね、夏の甲子園が終わった時に招集を受けて、
タイで行われたアジア選手権に出場した際に、ちょっといろいろな事情というかあってですね、
この時にオフィシャル的な入り方で一緒にタイに行ってですね、取材活動だとか。
今なら多分問題ないと思う。10年以上前の話なんで。
サムライジャパンの公式サイトの記事を担当して、ちょっと大変だったんですけどね。
発注者さんが東京に残っていて、元受けの発注者さんが東京にいて、仕事を出してる人は一緒にタイの現地に行って、ほぼ一緒に行動するということになっていて。
親元の発注者さんが目の前にいるのに、一度東京の発注者さんの指示を仰がなきゃいけないみたいな感じで、
ちょっとあの、なんて言うんだろう。発注元からこういうしろだとか、こうやってくれとかって指示が出て、僕がなかなかそれに答えられなくて、
めちゃめちゃ悩みながら苦労していたところで、その発注元の親会社の方が同行していて、僕の姿を見ていて、
そんなことしなくていいっすよとか、そんな苦労してまでやらなくていいって、大丈夫ですよみたいな、なんかちょっとそういう変な三角関係になっちゃってですね。
東京からケンケンゴーゴー、当時LINEが入れてすぐぐらいの声だったんで、全部LINEでね、ほら国際電話みたいなあれないじゃないですか。通信さえ通じればね、ただで通話もできるので、ケンケンゴーゴーのやり取りをして、
どうしても要望した通りの原稿にならないかというのを仕掛け直して、こうやって押さえ押さえ押さえ押さえみたいな感じで、この経験を経て僕はですね、時間を切迫するような、新聞記者さんとかそうですね、こういう仕事はもうやらないというふうに決めましたね。
それとあと、人間にはこういうタイプの人がいるんだということを初めて知ったというか、まあまあまあそのコロッコロ言うことが変わるなのね、ちょっとプロデューサーみたいな人にこういう系統の人が多いんですよ。
もういわゆる朝言ってたことと夕方言ってることが全然違うとか、急にこうしてくれって言ってくるのが違うことを言ってくるくせして、僕が戻すと差し戻ってくる内容は元々言ってた話で帰ってきちゃったりとかして、
要は後世する人とかにその帰るっていう内容とかが全然伝わってなかったりとかしてですね、先祖帰りみたいになってたりとかして、「何なんだこりゃ!」みたいなのが結構あってですね、まあまあいい経験になったと言いたいところですが、僕は結構しつこいっていうかですね。
その後もね、まあまあ今回この回だけでね、決めつけるのあれだからつって、日本に帰国してからも1回仕事したの、その時にも同じような展開になりまして、もうこれはダメだなということで、今はもう全く付き合いないんですけども、ないというか、まあ向こうも多分ね、会わないと思ったんでしょうね、きっとね、これダメだぐらいに多分向こうは能力がないぐらいに多分思ってると思う。
そうかもしれないですけどね、まあちょっとそういうのって仕事ではよくあることだと思うので、まあそれはいいんですけれども、ちょっと脱線しましたね。はい、元に戻します。で、その岡本世代なんですよね、その森田俊也投手は。なので決して若武者などではないんです。もう中堅どころというかですね、むしろ出てくるのが遅咲きのね、遅咲きの中堅選手といったところと言うべきだと思います。
で、森田俊也投手、実は高校時代、富山商業高校の出身なんですが、この時はですね、もう本格派、本格サワンということでですね、ドラフト的にもすごく注目をされていましたし、甲子園でね、活躍したんですよね。
サムライジャパンとその後のキャリア
で、この甲子園での活躍に関してもですね、ちょっとね、あるんですが、まあ経歴をたどるとその後法政大学に進んで、法政大学でね、ちょっとあまり思うような活躍ができなかったんですよね、故障なんかもあって。
で、その後社会人の本田鈴香に進んで、もうプロはないよなっていうふうに正直思ってたんですけど、巨人が指名するという形になったわけです。ある程度ね、復活というか。
その時にはね、今もそうですけども、まあどちらかというと、快速球で、スライダーで、堂々勝負っていうのがね、富山商業の時はそういうピッチングスタイルだったんですけども、実際それだけの能力があったんですけども、そうではなくて、経験をある程度、故障歴とかもあってね、そういったいろんな人生経験ですね、どっちかというと野球経験とかを経てですね、
味のあるピッチングをできるようになってきたということで、実践派ということで、ある意味即戦力、社会人上がりの即戦力という形でね、ジャイアンツは取ったわけです。ただ1年目はちょっとね、キャンプの時点でね、ちょっとまた故障してしまってですね、手術もしたんですね、これね。
プロ1年目としては夏場からの復帰ということになって、今年もね、ある程度期待はされてたんですけども、やっと今になってまた出てきたという、そういった経歴になっております。
で、このモーリッタ投手、先ほどの甲子園での話に戻りますが、これ、甲子園ではどうだったんだっけかな、とりあえずですね、初戦にですね、ちょっとこれも絡みがあって、初戦に東京、西東京代表のですね、日大鶴ヶ丘と対戦したんですね。
で、この時は秋山投手という、確かこれも左ピッチャーで左同士の投げ合いみたいになったと思うんですけども、この試合に勝って、一躍注目もさらに上がっていったという感じだったんですけど、これがね、ちょっと待ってください。
富山商業。ちょっと調べますけど、商業と日大鶴ヶ丘ね。で、どういうことかというと、ちょっと今調べながら話しますけど、実はですね、とある親しいライターを通じてですね、この時なんですけどね。
富山商業サイドの方で、実はですね、映像を探してるという話があったんですね。要は攻略するのに事前にちょっと映像をっていうのは、これどこの高校でもやってると思うんですけれども、その際にですね、ちょっと映像がニュースでできなくて、
探してるらしいという、まあそういう他のライター自体にちょっと、木下さん持ってないですかって話になったんですよ。で、僕はまあその東京都大会も、過去の配信でも言ってるかもしれませんけども、東京都大会千葉、埼玉、神奈川ですか、この四つの地方大会についてはテレビ放送してるものについては極力ログが、もう1回戦とかから極力ログがしてるんですよ。
放送してるものに関してはですね、もちろん独自で撮ってるわけじゃないので、中継ですね、テレビ中継の録画をしているので、あるよって感じで、まあ結構軽い気持ちでですね、まあその映像、準決勝と決勝だったかな。
はい、あのいいよっつって、DVDですかね、当時の場合ですとね、に焼いて、まあ提供したんですよ。で、まあこんなのどこでもやってるしなというのが、まあもちろんある反面、まあちょっとある意味ね、自分の出身である東京の、しかもニッツルもね取材、学校に行って取材したことはまあないんですけれども、
あのー、リトルリーグで一緒にね、プレーしていた、2つ下の、2つ下なんだけど、そのチームでキャプテンをしてたっていうね、すごい子がいたんです。その子がね、ニッツルにその後進んで、甲子園に出てですね、まあまあ背番号10番とかでね、出たり出なかったりみたいな感じだったんですけど、まあでも甲子園で試合に出場していて、
その人の兄貴がですね、高校時代に僕の1個上の先輩でいてですね、まあその兄弟とはまあお世話になったというかね、縁があったという感じなんでしょうけども、まあそういうことでのニッツルということと、まあもちろんあのライターになってからもですね、
特にまあ東西、秋冬、秋春ですね、東京大会とか都大会の時とかでですね、普通に試合後の囲み取材とかで、萩生田監督かな、だと思いますけども、取材なんかもまあお話を伺ったこともあると。
で、まあその萩生田監督の同級生で、日大山形の出身の人物がいるんですが、その人物が僕と草野球で同じチームだったことがあってですね、長くね、ある程度長い間あってですね、今でもまあそれなりに信仰があるというですね、
まあそういう関係のニッツルをちょっとなんか売ってしまったようなね、そういうなんか罪悪感みたいなものがあったんですよね。で実際これね、
この時のピッチングがかなり森田くん高く評価されたという経緯があるんです。で、これがですね、実はその10年までじゃないですか、何年後だったかな、その後ですね、
たぶん少なくとも5年以上後だったと思うんですが、今度はですね、その野球学会、今はね野球学会と言われている、その野球研究者の集まりのですね、大会がいつも暮れに、その学会の大会が暮れにあるんですけども、12月にですね。
それ僕毎年行っていて、まだ野球学会が野球科学研究会というふうに呼ばれて、まずその野球科学研究会というのを順を追ってですね、その後野球学会に、3年前になったんですけども、野球科学研究会というのはたぶん11年くらいだったと思うんですけどね、最初ね。
そのうちの第3回の時に僕は、ボールの回転の研究をしている国学院大学の人事先生と、ここのところもお名前出してました、野球アナリストの金澤圭さんですね。
人事先生のお声掛けによって、その金澤くんと僕、あと僕ですね。もうその3人で1時間半の、そういうお話をいただいている時間を30分で3本という形にして、パネルリングって言うんですかね。
森田投手の初勝利
まあとにかくその、なんか喋るみたいな話で、ストップウォッチでこういう計測ができて、こういうデータが出てますよみたいなことを僕は喋らせていただいたんですけど、それ以来ですね、あとは任意なんですけど、僕会員になりますみたいなこと言ってね。
まあ年会費、まあ何千円とかぐらいなんですけど、まあ年会費を支払ってですね、ずっと会員になっていて、まあ毎年ほぼほぼ、まあ2日ぐらい開催されるんです。少なくとも1日だけでもという感じでね。
まあ大抵2日間両方ともという形で、必ず赴いてるんですが、そこでですね、5年後ぐらいだったと思うんですけども、富山のですね、そういう発表、僕の場合は招聘されての発表だったんですけども、それ以外にもですね、
自分が積極的に、要するに任意参加でですね、ポスター発表といって、一枚の文章紙にですね、文章紙一枚分のスペースと文章紙一枚分の研究発表の披露する、あれが与えられるんですけども、そこで参加したい人は自分の研究発表みたいなものをポスター、そこにポスターに書いてですね。
で、所定の時間、1時間とか2時間ぐらいだったかな、そこ100人近く参加するんですけども、張り出すわけですよね。で、張り出したとこに、実際のその担当の人が、研究を担当した人が実際にそこで立ってですね、来る人来る人に説明とかディスカッションとかができる場っていうのがその学会の中でね、あるんですけども。
そこにですね、富山の高校野球の先生、学校のある先生がですね、富山のデータ研究みたいなものですね、データ分析みたいなものになっている、すごく得意にしている方が研究発表を出してたんですよ。
で、そこでちょっと興味があって、僕がそのお話を伺いに行ってですね、話をしてた中で、そこにはね、なんでそこに行ったかというと、僕は大学時代の、どんどん横道に逸れていくことが多いんですが、枝分かれすることがすごい多いんですよ、この話は。
大学時代にですね、僕は南式野球のですね、いわゆるサークルですね、に入ってたんですけども、サークルと言っても結構ガチでやってる人が多くて、人数がすごい大増大だったので、学年ごとにチーム組んでたんですけどね。
学年ごとにチーム組んでてもしょっちゅうその学年対戦、異なる学年ごとに対戦という形でしてたんですけども、2つ上の同じ学科の、同じ土木学科の出身の方で、その野球サークルで一緒だった方が富山の出身でですね、
その人はですね、その後地元に戻って、県の高校野球の審判をされていたんですよね。上手かったんですよ、その人もね。小柄でしたけどね、ショートとかピッチャーとかやってたりとかしてですね。
で、その人のことを知ってるんじゃないかと思って、そのデータをすごく詳しくて、野球学会で、当時は野球科学研究会ですけども、発表されていた先生のところを訪ねたんですが、実はその先生が本当にすごい人で、県の高校、いろんな公立高校が的山なんで中心だと思うんですけども、
甲子園に富山商業が出た時なんかもですね、その方がですね、鶴のデータ分析みたいなものをですね、買って出たんですか、頼まれたのかわかんないんですけども、やることをやってたんだそうですよ、この2014年なんですけども、その富山商業をね、
鶴が丘を2対0で下した時の試合でですね、それで、何の因果かですね、映像提供した僕が対面そこでしたわけですよ。で、まあその話をしたらですね、ああ、あの時はですね、本当にあの映像が役になったんですって言われてしまったんですよ。
僕としては今日中めちゃくちゃ複雑な思いで、いろんなところからこれ繋がったんですよね。で、軽い気持ちで、ああいいよって菊池くんに頼まれて映像を渡して、しかもですね、その富山商業の監督からもですね、もちろんその金品とかはないんですけども、ありがとうございましたよ、礼状、お手伝いなら礼状もくださったんですよね。
で、まあでも僕としてはまあそんなのどこでもやってるでしょっていう感じで、まあたまたまね、あの最終的に誰か他の人がまあ提供してたかもしれないのを俺があれしてただけでしょうみたいなふうに思ってたんですけども、そのデータ分析を担当した方からもですね、特に相手のその秋山投手のですね、狙い玉を絞ったりとかですね、まあ癖まではいかないんですけども、そういう傾向ですね。
あの投球の配球の傾向を絞り込むのにものすごく役に立ったと言われてしまってですね、あちゃーみたいな感じになったんですよ。
で、そこで投げてたので、まあその試合でも当然投げてたのが森田投手で、まああの狙い玉の他にも攻撃面、あの投球のね、相手出したの研究とかにもまあ役に立ったという話もちょっとかかってしまってですね、何とも言えない気持ちにさせられたというのがあるんですね。
で、まあ森田君に関してはそのAAAのアジア選手権の時にも、まあ単独でインタビューすることはなかったんですけどもね、彼が先発する試合、要するに高橋コーナーと森田投手がダブルエースみたいな感じの扱いだったんですね。
もうこの二人はもう完全に先発でという話で、まああと、あそうだ、一人忘れてた、岸君ですよ、何だっけ、岸慶一郎君でしたっけ、今西部にいるですね、名督義塾ですよ、彼が前にも言ったかもしれないですけど、
当時は二刀流で6番レフトでラインナップに入ってピンチになると左の時には小島がリリーフ、で小島君が左を押さえると岸がリリーフっていう形で出てくるっていうね、あのレフトからピッチャーへみたいな感じで。
そういうあれになってたんですよね、それで幅が大きさしてたんですけども、だから逆に左少なかったんですけども、小島君がリリーフで先任みたいな感じになったので、森田君がもうローテーションみたいなのもきっちり投げるところ決めて先発するという形を取ったわけです。
決勝戦でも投げたんじゃないかな森田君が確か先発して、まあ韓国に負けてしまったんですけども、2対1とか2対0とかだったと思うんですけど、ということでその囲みで何回か喋ったんですけど、あの時の方がね、なんかもっとニキビとか当たり前ですけどね、ちょっと多かったりとかしてね、田舎の子っていう感じのね、森田君のね、今の方がなんかむしろ美白してるみたいなお肌の整理すごいしてなくないっていう感じとかね。
目もね、今の方がパッチリしてますね。
大学時代の出来事
前はなんかもう少し線みたいな、笑うと線みたいになってる目だったってイメージだったんですけど、今はね、パッチリしてますね。
この間ヒーローインタビューの中で見てたね、二重みたいでね。
まあまあそういう感じでしたが、そういういろんな因縁があってですね。
しかもですね、これがまたね、もう一つだけあるんですけど。
この時はですね、代表監督がですね、その後あの早稲田の監督、早稲田大学の監督もされてて、早稲田大の出身の高橋博さんというですね、方が代表監督だったんですよね。
それがどんどん横に枝分かれしちゃうんですけど、高橋博さんというのは、ナルト工業、その後ナルト渦潮高校の監督を長く、早稲田の、もちろんチェンシー時代は早稲田のご出身なんですけど。
されていて、旧自演でご一緒することが多い、里崎智也さんの恩師でもあるわけですよね。
で、まあそういうのもあるんですが、高橋博さんがですね、このモリッタ島州をサムライジャパンに招兵するにあたってですね、
実はあるですね、北新越地方の大御所でですね、今でもですね、当時はですね、超強豪校の監督が長いことをやられて、もう今でも伝説的な人になっちゃってる。
今でも別の学校に移ってですね、指導を続けらっしゃっているですね、大御所的な人がいてですね、その人が、日本荒野連の幅を利かしていて、アドバイザー的なこともされていてですね、
このモリッタ君をですね、高橋博さんがですね、呼びたいというかね、入れたいと、メンバーに入れたいというふうに言った時に、この子はね、心臓が弱いから、心臓が弱いって、ハートが弱い、つまりその、気が弱いっていう意味なんですけど、
だから、やめた方がいい、ダメだっていうふうにね、言ったという話があるんですよ、最初ね。で、実はその話を聞いたのは、高橋さん本人からじゃなくて、某にしといた方がいいんじゃないかなと思って、東京のですね、東東京の某強豪校で、今でもしょっちゅう解説とか出てきて、こうですよ、こうですよっていうふうに言ってる人ですけども。
これね、ちょっと本当にね、聞いてる人が少ないと思ってるから、これね、本当にね、結構ヤバいこと言ってるかもしんないんですけど、その人と高橋さんはですね、これどんどんね、ややこしいことになってきます。
もっと以前にですね、その方が高校代表の監督で、そういったアジア選手権とかに出たときに、高橋さんがコーチとして一緒にやったことがあって、よくいろんな、今でも相談してたという話で。
で、その方が言うには、某北進選手の大物監督がですね、「森田、やめたらダメだ!」っていうふうに言ってるんですけど、「どうしましょう?どうしたらいいですかね?」っていうふうに相談を受けたそうなんですよね、高橋さんから。
で、その東京の某競合校ですね、タッパ飯とかね、選手のね、体作りで定評のある学校ですけども、監督さんが、「いやいや、それは君の好きなようにやった方がいいん決まってるよ。あんまり気にしなくていいんだよ。」っていうふうに言って、アドバイスして、電話だったそうですけど。
で、結局、結果として、その後の歴史は知らないですけども、もちろん高橋さんが、まあ森田投手を選んだというか、まあまあそれはスタッフ全員でということだと思うんですけどね、選出したということになったそうなんですよね。
選手としての成長
で、まあ森田投手の一つが一応キャリアとなって、そのまま法政大学に進んだというのがあるんですよ。まあプロは結局出さなかったってことですよね、その辺ではね。まあその辺はまた高校と大学との関係とかもね、いろいろあると思うんですけども。
そういう、なんて言うんですかね。僕はあんまりないんですよ、そういうの。ライターっていうとね、いろんな親しくみたいなね、当事者の方とすごい親しくとか、間に入り込むぐらいになってみたいなイメージっていうのは外だと思ってるかもしれないんですけど、
僕は本当に1回か2回取材して、それ以上繰り返し取材してる人っていうのは本当に少なくてですね、数えるほど多分10人もいないんですよ、そういう人は。他の人はね、なんかものすごい仲良くやってたりね、上手いことやってて羨ましいなと思うんですけどね。
人数が増えるともう任せなくなっちゃうっていうかやりきれなくなっちゃうんですよね。なのでどうしても中蔵になっちゃって、一度取材したことがあるような人でももう10年以上未だにね、特にプロに行った人とかなんかね、会ったこともないみたいな感じにどうしてもなりがちでケアできてないっていう感じなんですけども。
数少ないよ本当これね、こういういろんなものが絡んだところに森田選手が入ってくるんですね。ただ森田選手とね、そういう囲みでちょっとやらしただけですし、その後ももう一切全く会話もしてないというか会うこともないみたいな感じなので、遠く目から密かに応援はしてます。
プロに行けた時だけでもね、氏名があるかもしんないというだけで、えーマジかっていうね、それは良かったなというね思ってたし、これも最後の岡本世代だと思うんですよね。
これジャイアンツはね、そういう意味では、今はもういなくなっちゃいましたけど、勝喜、大阪トインの出身の勝喜も商兵してて、商兵ってかトレードでね、ロッテから獲得していて、戦力外になってからかな、でその後また今オリックス、また戦力外になって行っちゃいましたけども、勝喜がいた時はですね、岸田がその代表のね、AAAの代表では、
岸田が3番、岡本が4番、勝喜が5番っていう感じだったんですよね。なのでそのクリーンナップを全員がジャイアンツが揃えていたというね、もしねこれが実現、またね一群でその3人がラインナップに出てきたら面白いなと思ったんですが、残念ながらそれは実現できなかったんですが、
あの森田投手がね、これまた出てきてくれたおかげで、その2014年の時のですね、サムライジャパン高校日本代表アジア選手権に出たメンバーのですね、岡本と岸田と森田がバッテリーを組むようなことがあればですね、
その時はですね、実は栗原選手がキャプテンで、あのソフトバンクにいるね、栗原選手がキャプテンで、前にも言ったと思うんですけど、栗原選手は当初はマスクを被ってたんですよね。でも決勝はね、確か岸田君がマスク被ってたのかな、じゃあいやどうだったかな、ちょっとこれはね調べないとわかんないんですけど、
大会途中で栗原選手がちょっと肘の調子が悪くて早急が難しいっていうふうになってきたので、彼がですね、DHかファーストかなんかに回って、で元々キャッチャーだったのを親子もできるそうだっていうことでね、一塁をやらせていた岸田がキャッチャーをやる時もあったりとかして、
ちょっとどっちが最終的にね森田同士と組んだか、ちゃんと調べないと定かでないんですけども、そういういろんな絡みがあってですね、この3人同級生ですので、ジャイアンツファンの人はね、ちょっとこの三角関係というか、まあ三角関係でもまあまあ仲いいと思いますけども、岸田、岡本、そして森田さんと、
この3人は同級生なんですということをね、認識していただけるとより楽しく観戦できるかなと思います。こういったねつながりの話って面白いですよね。僕にとっては本当に、ライター生活の中でですね、多分ね、他のライターさんはねこんなことだらけだと思うんです。
なんかあの人とこの人とこうなって、あの人とあの人はこうでこうで、これもくっついちゃってみたいな絡みがいろんな糸が絡むような形になってると思うんですが、僕はあんまり少なくて、本当数少ないこういういろんなものがこうわっちゃわっちゃと絡んだ、面白い因縁だなというふうなお話でございました。
録音とコミュニケーション
ということで、この間ね、かしもとさんコメントでいただきまして、なんかこういう録音をする時にですね、ライブにしちゃって流しちゃってくださいよ的なね、そういうご要望がありまして。
まあ結構ね、「あ、今やろう!」みたいな感じで突然録音してるんですよ、いつも。だからちょっと今時間もまちまち。前はねタイマーセットして必ず夕方5時ってしてたんですけど、ちょっともう今はめんどくさいからもうどんどん公開してっちゃおうみたいな感じでね、今はちょっと公開しちゃってるんで。
またひょっとしたらこれね、夕方5時に定期的にセットする可能性もありますけどね。あとはですね、ライブもですね、ちょっとコミュニティみたいなところっていうんですか、発信できるところがあるので、そこでちょっと1回ぐらい予告してライブでやってみようかなと思うんです。
はい、ということでまたの公開をお楽しみにしてください。それではバイバイ。
34:22

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