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【Music Skip】 Vol.142 「知らなかった沖縄」沖縄慰霊の日にあわせて20220624
2026-06-25 23:50

【Music Skip】 Vol.142 「知らなかった沖縄」沖縄慰霊の日にあわせて20220624

2022/6/24の敬和キャンパスレポは、沖縄慰霊の日に合わせて、沖縄に関する2月の集中講義の内容をベースに再編集してお送りしました。放送日前日の6月23日が、沖縄慰霊の日になります。集中講義の話題のうち、対馬丸事件、石垣島事件、沖縄の移民、新潟と沖縄の関わりなどについてお話ししました。また数字で沖縄を知るために、428、515、623の3つの数も紹介しています。MCは田村。




感想 1

shinyai
shinyai Program Fan ポッドキャスター
2日前
田村さんはその後、現地取材を実施し、「沖縄を救った日系人ー比嘉太郎ー」というドキュメンタリーを制作しました。この作品は、東京ビデオフェスティバルで入選を果たしています。 沖縄を救った日系人ー比嘉太郎ーhttps://youtu.be/NJiOUztgQEc?si=Crxtbv9JRnAD-uii
13:58
「田村さんは比嘉トーマス太郎さんという方について調べられたそうで、その話を聞かせていただけますか。」

サマリー

この放送は、沖縄慰霊の日に合わせて、2月に行われた集中講義の内容を再編集して届けたものです。番組では、沖縄戦の組織的戦闘終結日である6月23日、日本復帰の日である5月15日、そして対日平和条約発効日である4月28日という3つの重要な日付を紹介しました。また、学童疎開船の対馬丸事件、石垣島事件、沖縄から国内外への移民、そして新潟と沖縄の昆布貿易を通じた意外な繋がりについても触れ、沖縄の歴史と文化の多層的な側面を掘り下げました。

沖縄慰霊の日と重要な日付
田村千尋
敬和キャンパスレポ
この番組は、蕎麦田市富塚にある敬和学園大学の大学生が、大学に関わるイベントや人、新発田のことなどをテーマにお届けします。
みなさん、こんばんは。
この番組は、敬和学園大学から大学のことや新発田、新潟のことを伝える30分番組です。
今日の進行は、国際文化学科4年の田村千尋です。
今日は、6月24日、沖縄慰霊の日に合わせて、沖縄に関する2月の集中講義の内容をベースに再編集してお送りします。
放送日前日の6月23日が、この沖縄慰霊の日になります。
1945年のこの日、太平洋戦争の沖縄戦を戦っていた司令官たちが地下壕で自決したため、組織的な戦闘はこの日に終了したとされています。
この日、伊都満市間舟の平和記念公園では、沖縄全戦没者追悼式が開かれます。
今年は日本復帰50年の節目ということで、5月15日の沖縄復帰の日が大きな節目として注目され、テレビでも多くの番組が放送されましたね。
今日の放送は、2月に行われた集中講義、情報メディア特論・国内研修の後で収録した内容から、
4月1日の放送内容に入れられなかった部分を中心にお送りします。
田村千尋
授業の中では、琉球新報社・デジタル推進局長 滝本拓美さんのゲスト講義がありました。
この講義の中で、数字で知る沖縄として3つの日付が紹介されました。
田村千尋
428、515、623、3つの数字の日付が出てきました。
皆さん、お分かりになりますか?
428、515、623です。
623は放送日の前日、6月23日ですね。
沖縄戦の組織的戦闘の終わった日、沖縄移礼の日です。
515、これは今年50年の節目となった日本復帰の日、1972年5月15日です。
待望の本土復帰ではありましたが、弾の軽減は実現せず、
当時の琉球政府行政主席であった矢良長平さんの苦渋に満ちた表情と演説がよく知られています。
そして、428、これは全く予想できなかったのですが、1952年に対日平和条約が発行した日です。
田村千尋
本土の人々にとって、主権を回復、独立を取り戻した日ということになるのですが、
沖縄、奄美、大浅原の人々にとっては、本土が切り離された日として記憶され、
沖縄では長らく、屈辱の日と呼ばれてきたことになります。
対馬丸事件と学童疎開
田村千尋
さて、沖縄戦の話は集中講義で様々勉強したのですが、
今回はまず、学童疎開、学童疎開戦が撃沈され、
しかもその事実が秘密にされたという、対馬丸事件についてなどをお話ししています。
2月の収録の際に話した内容をお聞きください。
田村千尋
岸田さんは、確か対馬丸事件をまとめましたよね。
岸田瑠々
はい。対馬丸はかつて存在した学童疎開戦です。
もともとは日本優先が作った貨物戦だったのですが、
第二次世界大戦の際に戦争のために使われることになって、末期になると疎開戦となりました。
なので沖縄から九州まで、子供を運んでいる役目を負っていたわけですね。
そんな対馬丸なんですが、対馬丸事件では米兵の魚雷に撃沈されてしまいます。
疎開の最中でした、これも。
子供も含めて他に乗っていた方は、1788人のうち1484人が死亡するという悲劇になってしまいました。
当時米軍はこの海域を丸の死体安置所と名付けて、次々と待ち伏せで攻撃をしていたみたいなんですね。
岸田瑠々
丸の死体安置所というのは、船ってだいたい丸丸丸という名前がついているじゃないですか。
田村千尋
そうですね。
一戸信哉
なんとか丸。
岸田瑠々
海外でもそのことが結構知られていたみたいで、
要はこれは日本船がいっぱい通って、撃沈する場所として認識されていたということになるわけですね。
この対馬丸事件なのですが、人がたくさん亡くなってしまったというのもつらいところなんですけれど、
その後観光霊というものが敷かれまして、対馬丸事件について話してはいけなかったんですね。
岸田瑠々
そのことを知った人たちが。
なぜかというと、この後まださらに沖縄は九州への疎開を実施することになるんですが、
それをするにあたってやっぱり撃沈されてしまった事実があると、
みんな疎開に行きたくないなーってなってしまって、そうなると国としては困るので、言うなと口止めがされていたことになりますね。
県民には正確な情報が伝えられずに口をつぐむことを強要され、
生存者と遺族はその後、それぞれ生き残ったことと送り出したことに対する自責の念に駆られたそうですね。
一戸信哉
要するにアメリカはきっと民間戦だということが分かっていたんじゃないかと思うんだけど、
そこは曖昧に今されているところですね。
今もやっている話じゃないですか。
民間人がいるところに爆撃してはいけないというのと同じように、
民間戦なのに爆撃してはいけないはずなんだけど、
やっちゃったわけですよね。
岸田瑠々
そうとは思わなかったといえば。
一戸信哉
これで学童疎開がどれくらい進んだのか進まなかったのかよく分からないですけど、
やっぱり難しかったわけですよね。
もっとちゃんと疎開できていれば、
沖縄戦における子どもたちの犠牲ももっと防げたのかもしれないし、
どうだったんだろうね。
そこまでは今回は終えなかったですよね。
岸田瑠々
そうですね。
石垣島事件と捕虜の扱い
一戸信哉
あと、戦争関係は今の鶴島を回るためにも、
他のメンバーは石垣島事件を調べていて、
この事件は米軍を殺しちゃうんですよね。
石垣島に附属してパラシュートが降りてきたみたいだったんですけど、
一戸信哉
それを殺してしまって、
虐待した末に死んでしまったのか、殺してしまったのか、ちょっと曖昧ですけど、
そのことで後に虐待した人たちが、
戦争犯罪でPC級戦犯で裁かれるっていうことになるんですよね。
これはいろんなところで起きていて、
新潟だと直江津っていうところの捕虜収容所で、
やっぱり同じようなことが起きてるんですけど、
みんな敵だから、戦局も押し詰まって大変なことになってるっていう中によっては、
敵の兵隊がパラシュートで降りてきたりしたら、
殺してしまえみたいなことになっちゃってたんですよね。
そういう捕虜の扱いみたいなことは一般の人は知らなかったわけですよね。
そういうようなことも起きた。
それは何十人も渡って飛び込むっていうことになるんで、
石垣島には慰霊碑が残っていると、その時見てたら出てましたね。
岸田瑠々
直江津にも確か慰霊碑と記念館のようなもの建ってますよね。
一戸信哉
あります。直江津の港のところのフェリターミナ近くにありますね。
田村千尋
敬和キャンパスレポ
音楽紹介:BEGIN「島人ぬ宝」
田村千尋
さて、ではここで一曲お届けします。
今日の曲はこちら。
ビギン シマンチュの宝
シマンチュの宝は2002年発売のビギン23枚目のシングルです。
1990年に恋しくてでデビューしたビギンは、
当初沖縄の要素のない曲をリリースしていましたが、
2000年の長早々のあたりから沖縄の音楽を楽曲作りに活かすようになりました。
シマンチュの宝はNHKの沖縄本土復帰30周年のイメージソングとなり大ヒットし、代表曲となりました。
今年2022年5月にはシマンチュの宝20周年ミュージックビデオがYouTubeで公開されています。
それでは聴いてみましょう。
ビギン シマンチュの宝
敬和キャンパスレポ
沖縄の人々の移民
田村千尋
さて、今日の敬和キャンパスレポは、沖縄慰霊の日に合わせて、
4月1日に放送した沖縄特集の中からお届けします。
2月14日から行われた集中講義、情報メディア特論、国内研修で、
本来現地に行くはずだった沖縄をどのように学んだのか、
田村千尋
受講したMCの木田さんと私田村、
指導を担当した国際文化学科、一戸信哉先生の3人でお話ししています。
田村千尋
この後は沖縄の人々の移民のお話をしています。
岡浜市鶴見区のリトル沖縄は、最近NHKのドラマ、チムドンドンにも登場して話題になっていますね。
また、ジョン・カビラさん、カビラ爺さんのお父さんで、
占領下の沖縄でラジオ放送をスタートさせていった、カビラ長江さんのこともお話ししました。
田村千尋
最後に、新潟とのつながりということで、
昆布をめぐる新潟と沖縄のつながりを探るお話もしています。
それでは後半をお聞きください。
一戸信哉
日本人がいろんなところに移民していったっていう話が出てくるわけですよね。
昔、南米に移民した人とか、ハワイに移民した話とか、
新発田の人がハワイに移民した話とか聞きますけど、
でもやっぱりそのボリュームで言うと、移民していった人たちの多くは、
実は沖縄から行ってるっていうことがね、ちょっと調べるとわかるんですよね。
そうすると、沖縄からどういう人が、なぜ行ったのかみたいなのがいろいろ出てくるんですけど、
行った先がハワイとか、戦前に日本が支配していた南洋軍島っていう島とかね、
ここも後に戦争で攻撃されて悲惨なことになっていったんですけど、
あとは戦後は南米に渡った人たちもたくさんいますし、いろんなところに行ってますよね。
あと調べたら當山久三っていう人がいて、その人が最初ハワイに移民するところだったかな。
それをみんなをハワイ行きましょうキャンペーンみたいなのをやった人として、
移人として沖縄では知られている人、そういう人のことも出てきましたね。
田村千尋
岸田さんは横浜や大阪、本州の都市部に移住した人たちのことを書いていましたよね。
岸田瑠々
そうですね。じゃあまず横浜の方は、神奈川県の横浜市の鶴見区、
ここには現在も沖縄移民の2世3世の方が根付いているそうなんですが、
こちらへの移民は1897年頃に始まって、1900年代から1960年代にかけて多くの沖縄の方が鶴見区に移住したそうです。
というのも当時鶴見区の河川付近に工場がいっぱい立ち並んでいて、そこでの労働を求めてのことだったそうですね。
一戸信哉
もちろん仕事を求めて行ったんでしょうね。
岸田瑠々
やっぱり文化の違いとかがあって、内地の方々とあんまり交流がなかったり、やはり差別的なことも受けたりというのはあったみたいです。
この時は沖縄タウンと呼ばれていて、今でも現地の方々には親しまれているそうです。
もう1個、大阪市の大正区も大体同じような流れを沿っていて、
こちらの方は第一次世界大戦後の、その頃大阪が宝石産業で栄えていて、
岸田瑠々
でかすぎる労働者として沖縄の方はそのまま大阪に渡って、その後そこで暮らしちゃおうかなというふうに移住していったというのが歴史になるみたいですね。
今はサンクス平尾と呼ばれる商店街があるらしくて、そこがリトル沖縄と呼ばれているそうです。
一戸信哉
やっぱり沖縄から出てきた人に対する差別みたいなのがあって、それでみんなそこでまとまって暮らしていったというような背景もあった。
岸田瑠々
そうなりますね。やっぱりいづらさがあるので、そうすると団結していってリトル沖縄が生まれていくという流れがあるみたいです。
日系アメリカ人と沖縄
岸田瑠々
田村さんは比嘉トーマス太郎さんという方について調べられたそうで、その話を聞かせていただけますか。
先ほど一之平先生がハワイにも移民がいたという話をしていたんですが、
田村千尋
ハワイ移民の日系二世の方でして、比嘉トーマス太郎さんは、アメリカで兵役に就いていたんですね。
真珠湾攻撃により日米海戦が起きてからは、最も危険なヨーロッパの最前線で戦いを行った人で、
イタリアに派兵された時に、戦争に負けたイタリア人の悲惨な姿を見たことで、沖縄の人々を助けたいという気持ちが生まれて、
沖縄に行き、戦後は沖縄の方々を助けたり、沖縄の方って戦争が終わっても終わったと認識していなかったということがあったじゃないですか。
沖縄の中の人々の登校を呼びかけたり、多くの方の命を救った人なんですね。
一戸信哉
沖縄戦の最後のところの話ですね。組織的戦闘の終了というやつですよね。
6月23日に組織的戦闘は終了しているんだけど、別に何かの宣言が出たわけではないので、
その後もみんなガマの穴の中に入ったまま戦いを続けていった兵士もいるし、この中に一緒に巻き込まれていた人たちもいっぱいいるわけですね。
もう終わったんだよということを説得するのにものすごく大変だったって話ですよね。
言い方は沖縄宝芸が喋れた。
田村千尋
それがすごく役に立ったというインタビュー記事を読みました。
一戸信哉
沖縄宝芸という言い方が沖縄の人の言葉で話しかけて、もう大丈夫だよと出てきても大丈夫だよということを説得したみたいな。
この人もいわゆる日系アメリカ人ですよね。
一戸信哉
日系アメリカ人はやっぱり戦争が始まった時に収容所にみんな入れられたりとかあったわけですね。
そういう時にこういう人たちはアメリカ人として自分たちは国に忠誠を誓うということを示すために突進して戦争に行ったという話も出てきました。
そういううち人の一人。
だから結局沖縄のことを調べているんだけど、日系人の歴史みたいなところにも重なってくるんですよね。
田村千尋
敬和キャンパスレポ。
川平朝清と沖縄放送史
一戸信哉
岸田さん放送の話を。
岸田瑠々
放送カビラさんについてまとめました。
一戸信哉
川平朝清。
岸田瑠々
そうです。
川平朝清さんという方が沖縄にいらっしゃいまして、そちらの方が今の放送の基礎を築いたというか、欠かせない方であるというお話ですね。
一戸信哉
あれですよね。ジョン・カビラさんとかのお父さん。
カビラJ兄弟のお父さん。
この人が沖縄の放送の基礎を作ったみたいな。
岸田瑠々
そうですね。ただ調べた感じだとどちらかというと、本当に基礎を作ったのはお兄様なのかなという感じがあって。
一戸信哉
カビラ兄弟がいたんですね。
岸田瑠々
そうなんですよ。沖縄のラジオのアーカラを作ったのはお兄さんの方みたいなんで、そこでアナウンサーをやってたのがカビラさんみたいなんですよね。
一戸信哉
沖縄の放送局というよりは米軍の放送局みたいな感じで最初スタートするわけ。
岸田瑠々
そうです。
一戸信哉
誰もラジオを受信するものを持ってないのに、とりあえずやるみたいな感じで放送始まったみたいな。そんな話だっただけ。
岸田瑠々
そうですね。長生さんがその後NHKの養成所の方に入って、本土の方で放送のことについて学んできて、
それを沖縄に持ち帰るかと思いきや、その後さらにアメリカに留学と。
カビラさんは台湾の方で台北高校という場所に通ってたんですけど、そこが結構英語教育に力を入れてたらしくて、日本ペラペラみたいなんですよね。
その感じでアメリカに留学し、帰国であったアメリカの方からまた色々メディア系について学んで日本に帰ってきて、
その後、RBC琉球放送の米兵向けの英語放送部局長補佐というのに抜擢され、そこから本格的に沖縄の放送史を支える感じになっていく感じですね。
一戸信哉
だから結局は長生さんもそういう意味では、アメリカと沖縄の間に立って放送を作っていくところで、色々努力をしたということですかね。
長生さんの話は結構色んなところに記事が出てますし、2019年ぐらいにJウェーブという、
一戸信哉
すごいジョン・カビラさんがお父さんにインタビューしたシリーズがあって、それがまだポッドキャスで流れてるんですけど、
なかなか面白い沖縄の歴史を放送の側面から見ていくという内容でしたよね。
新潟と沖縄の関係というのを色々調べていったときに、貿易の話があってというのも少し出てきて、
新潟と沖縄の昆布貿易
一戸信哉
長生さんが調べてくれましたけど。
抜け荷事件というものでして、現在の新潟県台内市あたりの場所で抜け荷事件というものが発生されて、
田村千尋
そこでは非常にその時代、新潟で高価であったはずの珊瑚や種塗りの原料が安い値段で流通していたという記憶があったんですが、
それは薩摩から貿易で持って来られた品物で、
この薩摩は琉球を経由して中国から珊瑚や種塗りの原料を買い付けて新潟を始めとする北欲地方で売りさばいていたという話なんですが、
ここで琉球、沖縄が関わってくるのは、新潟で北海道の昆布などの海産物を貿易で薩摩藩が沖縄に持って行って、
そこで今沖縄でも昆布料理が、昆布の消費量が盛んで昆布料理なども郷土料理となっているんですが、
そこの由来は新潟を経由して貿易で持って来られた北海道の海産物だったという。
先生補足ありましたらお願いします。
一戸信哉
だから要するに砂穀時代にこっそり薩摩藩が新潟で貿易をやって稼いでいたって話ですよね。
これに摘発があったことにより、新潟の港は長岡藩には任せてられないみたいなことになって、それで幕府直轄になるんです。
そういう経緯を辿っていくんです。こっそり何をやっていたかという話でしょ。
こっそり何をやっていたかというと、北海道の方の海産物を新潟で買い付けて、
それを薩摩というか、いわゆる鹿児島に持って行くんじゃなくて、沖縄まで持って行って、
琉球まで持って行ったものを今度は中国から入ってきたものと取引することをやった。
一戸信哉
中国から入ってくるものをまた多分、要するに砂穀時代にも関わらず、琉球ではたくさんこっそり取引できるから、
それをまた琉球から持ち込んで、こっそり日本というか新潟で売り捌くと、儲かったと。そういうことじゃないですかね。
はい、ありがとうございます。
一戸信哉
これだから昆布の料理ね。沖縄の、何かここに書いてもらっている。この時に書きましたけどね。
クブイリチっていうね、昆布の料理があるんだけど、これ何で沖縄で郷土料理みたいになっていったかというと、多分これなんですよね。
だから昆布は、昆布を北海道から沖縄まで持って行った時に、それは多分中国に売ってたんですかね。売ってたんでしょうけど、
それはやっぱり途中で沖縄にも残るので、それを食べたってことなのかなと思いますけどね。まあ、郷土料理になっている。
エンディングと今後の展望
田村千尋
さて、エンディングです。
今日は、沖縄慰霊の日に合わせて、本土復帰後10年の締めを迎えた沖縄について、2月の集中講義の内容を元に再編集してお届けしました。
2月の集中講義では、沖縄に行くことを断念せざるを得なかったんですが、9月に再挑戦ということで沖縄に行く計画を進めています。
2月からだいぶ期間が天いてしまって、学んだことがうる覚えになりつつあるので、沖縄に行く前にもう一度学習し直して、実りのあるものにしたいと思っています。
今日の敬和キャンパスレポ、これにて終了です。皆さん、おやすみなさい。
敬和キャンパスレポは、敬和学園大学の提供でお送りしました。
23:50

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