私は世の光である
はい、こんにちは、カズです。今日は、奇跡講座シリーズの④を撮っていきたいかなと思います。
あの、奇跡講座シリーズね、全然更新されてなくて、あの、あれなんですけど、まあ、この僕のね、あの、音声配信はほぼ100%ですね、僕の気分で、
まあ、配信タイミングとか内容とかを、もうほぼ100%気分でね、決めてるので、あの、こんなね、雑な感じになってるんですけど、
まあ、それは、あの、僕がね、常々お伝えしてる、ねばならないのモチベーションではなくて、えー、まあ、やりたいっていうね、これをやりたい、やってみたいっていうモチベーションで行動してくださいよっていう、
まあ、そういうね、あの、実践だと、あの、捉えていただいてね、あの、そういう言い訳は自分にしながらね、あの、今日も雑な配信をしていこうかなと思います。あの、お付き合いいただければ幸いです。
あの、今日は、あの、まあ、奇跡講座な気分だったんでね、これを配信するってことなんですけど、あの、何気にワークブックをパラパラめくって、読み返していたらですね、やっぱりいいことが書いてあるのでね、あの、書いてあるなと思ったので、
えー、これをね、お話ししていこうと思います。あの、奇跡講座のワークブック編のレッスン61の内容ですね。えー、私は世の光であるっていうこれについて、ちょっとまずはね、引用から始めていきたいと思います。
えー、奇跡講座ワークのレッスン61、私は世の光である、ですね。
神の子でなくて、誰が世の光だろう。だから、この主題概念は、あなた自身についての真理を述べているにすぎない。
プライドや傲慢さや自己欺瞞の声明とは正反対のものである。それは、あなた自身が作り出した自己概念を描写するものではない。
あなたが自分の偶像の数々に付与した特徴のどれかについて語っているのでもない。
神により創造されたままのあなたについて語っている。単純に真理を述べているだけである。
自我にとっては、今日の概念は自己賛美の典型である。しかし、自我は謙遜を理解せず、謙遜を自己卑下と取り違えている。
謙遜は、救済における自分の役割を受け入れて、それ以外の役割は受け入れないことで成り立つ。
世の光であることが、神からあなたに与えられた働きであるのなら、自分は世の光ではありえないと言い張ることは謙遜ではない。
傲慢さだけが、この働きが自分のものであるはずがないと主張するのであり、傲慢さは常に自我からのものである。
真の謙遜は、あなたが今日の概念を受け入れることを要求する。というのも、それが真実だとあなたに告げているのは神の声だからである。
これが地上におけるあなたの真の働きを受け入れる最初の一歩となる。それは救済において自らの正当な場所につくための大いなる一歩である。
それはあなたの救われる権利の肯定であり、あなたに与えられている他者を敬う力の承認である。
はい、ちょっとね、あの丸々ほとんど引用してしまったんですが、あのやっぱりね、奇跡講座はこの文章の巧みさも相まってですね、その表現の巧みさみたいなね、上手さみたいなものも相まってすごくいいなぁと僕は思うんですけど、
はい、まあ私は世の光であるでした。 まあ、あの神の子ってことですよね。
神の子ではなくて誰が世の光だろう。だからこの主体概念はあなた自身についての真理を述べているに過ぎない。
っていうね、出だしで始まりましたけど、うーん、だから真理を述べているに過ぎないんですよね。なんか、なんだろう、
石が落ちたら、これは石ですねっていうのと同じ感覚なんだよっていうことだと思うんですよ。
あなたは神の子ですよっていう。だって真実だからそうでしょっていうことなんですよね。
なんだけど、あのやっぱり僕ら、ここにもね、謙遜っていう言葉が出てきましたけど、
謙遜したがるんですよね。あの、いやいや神の子なんかじゃありません。私はそんな大層な存在ではありませんって。
謙遜という姿勢で僕らそう、自分を比喩したくなるんですけど、自己比喩をね、ここでもありましたけど、比喩したくなっちゃうと思うんですけど、
ここに書いてある通りにですね、プライドや傲慢さや自己欺瞞の声明とは正反対のものである。
それはあなたが、あなた自身が作り出した自己概念を描写するものではない。
あなたが自分の偶像の数々に付与した特徴のどれかについて語っているのでもない。
謙遜と傲慢
神により創造されたままのあなたについて語っている。単純に真実を述べているだけである。
っていうことなんですよね。あの、謙遜じゃないってことなんですよね。
私は神の子じゃないですっていうことは謙遜ではない。それは傲慢だって言ってるんですよ。
さっきも読みましたけど、自我にとっては今日の概念は自己賛美の典型である。
自我は謙遜を理解せず、謙遜を自己卑下と取り違えているって書いてるんですよ。面白いですよね、この辺は。
謙遜、そうそうそう。
世の光であることが神からあなたに与えられた働きであるのなら、自分は世の光ではありえないと言い張ることは謙遜ではない。
って言ってるんですよ。だから謙遜じゃないんだよそれはって言ってますね。それは傲慢なんだって言ってます。
傲慢さだけがこの働きが自分のものであるはずがないと主張するのであり。
ってことですね。傲慢なんだっていうことですね。神のことを否定するのは傲慢だって言ってます。
で、傲慢さは常に自我からのものであると。そうですね。
で、じゃあ謙遜は何なんだって言ったら続いて書いてありますね。真の謙遜はあなたが今日の概念を受け入れることを要求する。
というのもそれが真実だとあなたに告げているのは神の声だからである。
なんですよね。本当の謙遜は私は世の光であるっていうこの生命を確かにそうですって受け入れることこれが本当の謙遜だって言ってるんですよね。
なぜならばこの生命は神の声だからだっていうことなんですよね。神がそう言ってるのにいやそのそのアイデンティティは私にふさわしくありませんそれは間違いですって
神に対して言うっていうのはそれこそあなたの自我から発する傲慢だっていうことなんですよね。
真の謙虚さと働き
この自分では謙遜謙虚さを示したと僕ら思い込んでいやあの神の子じゃないですよ
大した人間じゃないですよみたいに言いたくなる。なんかそれがいいことのように僕らなんとなく思ってると思うんですけど
いやそれは傲慢なんだっていうわけなんですよね奇跡講座からの見方からしたらねそれがやっぱりあのすごいなんだろう
なんかこのことを聞いて僕も結構変な謙遜さ謙虚さみたいなもの
奇跡講座からすると変な謙虚さ謙遜さを美徳と勘違いして割と生きてきた方の人間じゃないかなと思うんですけど
この奇跡講座の論理を聞いた時にですね
あそうかっていう感じだったんですよねすごく自分が神の子であるっていう概念を受け入れることのものすごい強力なね
後押しになったかなとあの思います なのであの今日はあのぜひねこれをあのこのことをね
あのまた改めて頭に入れてちょっと覚えていただきたいなと思います
あの神の子であるという生命を受け入れることは傲慢ではないあの傲慢ではないんですよ逆なんですよね
あの真の謙虚さっていうのはそれを受け入れること私は神の子なんだ神の創造物なんだあなたに作られた神の子ですっていうことが真の謙遜謙虚さです
でそれを否定することは自我から来る傲慢です
はいこれが地上におけるあなたの真の働きを受け入れる最初の一歩となる
はいということでしたはいちょっとね3分ぐらいで本当は終わろうと思ったんですけど意外と長くなっちゃって今日はこの辺にしたいと思いますどうもお聞き下さりありがとうございました