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2022-05-07 10:20

#69 文二郎、お遍路を語る

亀っちの昔話編

■出演
亀山 敬司(DMM.com 会長)
長谷川 文二郎(42 Tokyo事務局長)

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はい、DMM.comの亀山です。
Forty2の文二郎です。
急に急遽、お遍路の続編になりましたね。
お遍路も旅だからね。
そうですね。お遍路はとてもいいですよ。
僕はそれぐらいしか言えないですけど。
ずっと全部回ったんだっけ?
そうなんですよ。歩き、最終的にヒッチハイクスも含めたんで、あれなんですけど、四国を一周するんですよ。
本当に外周っていう感じで、1200キロ以上ぐらいあるんですけど、それのだいたい4分の3とか、半分以上。
600キロ、700キロは徒歩で行って、それ以外は人に車に乗せてもらったりとかして、なんとか回りきりましたね。
お遍路は、俺もちょっとトライしたけど、3日目ぐらいで仕事内で思いついて、いきなり帰って仕事しようと思って辞めちゃって。
煩悩だ。
そんなに払えなかったよ。
そうですね。お遍路を知らない人に説明しておくと、四国の外周らへんのお寺が88個ぐらいあって、
そこを1から順にどんどん回っていく。
で、回ったところでお経を唱えて、それでまた次に向かってっていうのを一周する。
そういうのが四国88カ所参りみたいなのを言われてますよね。
ルールとしては本当に僕すごいなと思ったんですけど、歩きじゃなくてもいいと。
気持ちだから車で回ってもいいと。
自転車でもいいし、なんならタクシーで回ってもいいという、金に物を言わせてぐるぐるぐる。
実際いるんですよね、そういう人たちが。
ぐるぐる回っても全然いいよというような、ご利益があるとされてるやつですよね。
それってどうなの?歩く時とかお参りする時とかに何か志向を働かすみたいな、そういうことなの?
そうだと思います。
目に近づくとかそういうことなのかな?
そもそも自分もそこまで仏教に明るいわけではないので、間違ってたら訂正いただきたいんですけど、
そもそも空海、工房大使とか呼ばれる空海がぐるぐる回ってたとされる、そういうところなんですよね。
四国で結構空海ゆかりがあって、高知県の辺りで悟りをちょっと開いたりとか、
瞑想してた場所があったりとかで、結構修行場として使ってたみたいなんですけど、
なんか宗派として結構過激な宗派というか、かなり修行メインの宗派だったらしくて、
なので、ぐるぐる歩いて回ることによって志向が研ぎ澄まされるみたいな、そういう修行だったみたいな説はあるようで、
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それのゆかりで88カ所参り、知ってる人は何となく見たことあるのかわからないですけど、
白装束みたいな白い帆帝みたいなのを着て、傘をかぶって杖みたいなのを持って歩くんですよ。
お参りするときに、それがユニフォーム的な感じでみんなそれを着て回ってるんですけど、
それの由来がそもそも白装束じゃないですか、死ぬときに着るやつなんですよ。
死人の着るやつを着て、その杖もお経みたいなのが書いてあって、
なんでかっていうと、いつこの修行の中で死んでもいいように、
白装束を先に着て、それでその杖も母標の代わりみたいな、
そういうような、結構、昔はだからハードな修行だったみたいな感じですね。
なるほどね。やってみたい人はお返事をぜひ一回どうぞみたいな感じでね。
俺が三日でやめちゃったけど。
そうなんですよね。僕の話にちょっとなりますけど、そもそもお返路に行くとき、
僕はすごい曲がった生き方をしてしまって、そんなにお返路に行きたかったわけでもなくて、
クラウドファンディングっていうのをやりたくて、ちょっとお金集めをしたくて、
その話題性として、僕、ゆとり世代なんですけど、
ゆとり世代が悟りを開いたら面白いんじゃないかっていうキャッチーさに惹かれて、悟りと言ったら何だろうっていうので、
悟りって調べたらお返路が出てきたんで、ゆとり世代がお返路回って悟りますみたいな、
そういうやつでお金が集まったんで行くことになったんですけど、
本当にごめんなさい。本当にお返路関係者の方々はすいませんって書いてあるんですけど、
僕は歩きで回って回ったんですけど、やっぱり、そもそも皆さん聞いてる人の近所の道でもいいですけど、
ただひたすらずっと真っ直ぐ歩くって結構苦痛なんですよね。
なぜなら何の情報も入ってこないというか、人と話してる暇もなければ、
一日歩いても次のお寺に着かないとかがザラにあるので、
本当にずっと一人で歩いていく。
肉体的にも疲れてくるからあんまり思考も回らなくなってきて、
本当に無の境地に回ってくると。
なおかつ山の頂上とかにお寺があるんで、
お寺付近になってくると山を登らなきゃいけなくなってきて、
山登ってくと県外になってくから、
前回神山さんが言っていたボリビアで味わったような、
誰とも連絡がつかない、
猪が隣にもいるかもしれないみたいな、いろんな恐怖と孤独で、
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本当に泣きそうになりながら歩いていくみたいな、
そういうので1ヶ月ぐらいを過ごすんですけど、
やっぱりそれを繰り返していった最終的な境地が、
やっぱりあったかい布団で寝れるだけで、
本当に幸せに感じれるようになったりとか、
あと四国から帰るときに電車に乗ったんですけど、
電車が動いただけでめっちゃ嬉しかったんですよね。
それは分かるよ。
俺も海外とか行ってたときに野宿みたいになるときがあってさ、
そのとき寒いときだと、
もう太陽が真っ白しくて震えながら、
太陽が昇ってきたみたいな。
ここですごい共感できてるけど、
夜がめっちゃ寒くて、
体が動かなくなるんですよね、夜明け前に。
寒すぎて。
寝れないぐらい寒いもんね。
太陽の光が体に差してきたときに、
なんかあったかい、やった、もうちょっとで動けるみたいな。
確かに。
でも昔の人たちってみんなそうやって生きてきたんだよね、多分。
そうなんですよ。
太陽にあんだけ感謝することってなかなかないもんね。
本当にそうですね。
太陽ってあったかいなって。
自分がやっぱりお辺路で感じたのが、
自分のできる範囲っていうのが結構分かったなって思って。
というのも太陽も自分でコントロールできないじゃないですか。
あとは孤独っていうところもコントロールできないというか、
自分が感じてしまっているところを、
なんとなく見つめることしかできないというか。
私、山に入っちゃったから電気を引いてこようとか言っても、
すぐには引けるわけでもないし、
だから怖いって思っててもしょうがないというか。
もう受け止めるしかないっていうのが、
すごいお辺路の行く先々で思ったことで。
だからもうしょうがないから頑張ろうみたいな。
ちょっと言語化が難しいんですけど、
そういうのはすごいお辺路で味わえたなっていう。
自分ってこんなにちっぽけな存在なんだなというか。
大きい山に入った時に、
高々僕が登っているのをすごい俯瞰で見えた時があって、
そうするともうでっかい山の中に僕が一人なんて、
超ちっぽけな話じゃないですか。
だからこんなちっぽけな人間なんだなっていうのを、
すごい感じたんですよね。
でもどっかにいたら、
俺なんかもう旅先に行くのは、
カイチョウ亀山というよりも、
ジャスト亀山っていう流れ。
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一人の人間として、男性として。
それもただの親父みたいな。
だから肩書きがない時に何がっていう、
そこは大事なことだよね。
そういうものに守られたりとか、
話してるとこがあるからね。
だから昔の言葉って、
世を捨てるじゃないですけど、
出家するっていうのは世を捨てるっていう言葉で言い換えたりしてましたけど、
ちょっとその気持ちがわかったというか、
なんかこの社会っていう属性みたいなところから抜けると、
またちょっと人間として自分が、
みたいなところの主語で物事を考えると、
また何か違った気づきが得られるのかなみたいな。
今回文次郎思いに語るで、
もうお前脇役になっちゃったな俺。
たまには60回ぐらい撮ってきて、
やっと1回自分が結構喋るみたいなね。
このペースで。
文次郎さんコーナーでしたみたいな。
そうですね。
なのでお返答お勧め編でした。
皆さんお返答お願いします。
次回から聞き役に徹します。
ありがとうございます。
またね。
10:20

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