1. ジャパニーズウイスキー 竹鶴政孝の100年
  2. 第一話 ジャパニーズウイスキ..
2022-10-11 42:14

第一話 ジャパニーズウイスキーは、どうして生まれたのか?


日本で独自に作られたウイスキ―「ジャパニーズウイスキー」が誕生しておよそ100年、「ジャパニーズウイスキー」の生みの親ともいわれる竹鶴政孝、通称マッサンがジャパニーズウイスキーを作り始めるまでに、どのような苦悩があったのか。
関係者への取材や再現ドラマを交えながら、その過程をひも解いていきます。
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ナレーション:速水けんたろう
出演(スペシャルサンクス):
 アサヒビール株式会社 佐藤一、ザ・スコッチモルトウイスキー・ソサエティ 福田恵夫
脚本:齋藤智子
演出:岡田寧
音楽協力:
 Piper Iwai/shomartmusic/Artlist Music Licensing For Video/PerituneMaterial/甘茶の音楽工房
プロデューサー:富山真明
制作:株式会社PitPa
総合企画プロデュース:細金正隆
制作総指揮・監修:竹鶴孝太郎

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サマリー

竹鶴政孝さんはウイスキー作りに生涯を捧げていることから、ジャパニーズウイスキーは生まれ、世界的な評価を受けています。竹鶴雅隆さんの人生を中心に、ジャパニーズウイスキーの歴史とその魅力についてお話します。また、日本のウイスキーが生まれるまでの歴史も取り上げます。ジャパニーズウイスキーは、節酒造の長年の情熱と安倍喜平社長のサポートによって誕生しました。竹鶴正高さんはスコットランドで本格的なウイスキー作りを学び、ブレンド技術も習得しました。ウイスキー作りに込めた正高さんの冒険はこれからも続いていきます。

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ジャパニーズウイスキー 竹鶴政孝の100年 第一話
ウイスキーのブレンダーとして、生涯をウイスキー作りに捧げた男がいます。
これが、竹鶴政孝のありし日の肉性です。
この番組では、ジャパニーズウイスキー作りに生きた竹鶴政孝の人生を中心に、
ジャパニーズウイスキーのこれまでとこれからを語ります。
彼の人生には、業界を超えた日本人のものづくりのマインドが詰まっています。
ジャパニーズウイスキー 竹鶴政孝の100年 第一話のテーマは、
ジャパニーズウイスキーはどうして生まれたのか スコッチウイスキー
ジャパニーズウイスキーの誕生と歴史
もともとは、その名が示す通り、スコットランド生まれの上流種でした。
この琥珀色の美酒が日本に入ってきたのは、幕末から明治にかけてのこと。
明治期のウイスキーといえば、さつまいもを主な原料にして作られたアルコールに甘味料や香料を混ぜていました。
イミテーションウイスキーと呼ばれました。
それが、大正13年、1924年に、ことぶき屋、現在のサントリー株式会社山崎工場で、
国産初の本格派ウイスキーの上流が始まります。
昭和の高度経済成長とともに、ジャパニーズウイスキーの人気もピークを迎えます。
元号が平成へと変わり、国内消費に限りが見え始めた21世紀に入ると、
メイドインジャパンのウイスキーは海外へと羽ばたきます。
2001年、ニッカウイスキーのシングル家族与一十年が、イギリスのウイスキー専門誌主催のコンテストで、世界最高得点を叩き出しました。
同じ年、メルシャンの軽井沢ピュアモルト12年が、ロンドンで開催されたコンペティションで金賞を受賞。
2003年には、やはり国際的なコンペティションにおいて、サントリーの山崎十二年が金賞を受賞しました。
ジャパニーズウイスキーは次々に世界にその名を轟かせていくのです。
今や、ジャパニーズウイスキーは世界五大ウイスキーの一つに数えられる。
ウイスキーの本場、スコットランドから世界最高峰のモルトという称号を与えられるまでになりました。
料理を選ばない口当たりの良さ、芳醇な香り、日本人のものづくりのスピリットが詰まった技術力、
日本古来の画学の調べとスコットランドの民族音楽が融合したかのような唯一無二の存在感。
ジャパニーズウイスキーの人気と海外展開
大正13年、1924年に国産初の本格ウイスキーの上流が始まってから、およそ100年の月日が流れました。
世界が認めるジャパニーズウイスキーはどのようにして生まれたのでしょうか。
ジャパニーズウイスキーはコンビニエンスストアの棚でも見かける身近なウイスキーでありながら、一方、プレミア価格のついた高級ウイスキーとしての顔も持っています。
インターネットではジャパニーズウイスキーが何十万、何百万という価格で取引されています。
ここで、ザ・スコッチモルトウイスキーソサイティ代表、福田茂雄さんにお話を伺いましょう。
福田氏は、1980年代にイギリスでウイスキーのマーケティングに携わったのをはじめ、外資系ウイスキーのブランディングに携わり、海外のウイスキー事情に精通していらっしゃいます。
福田さん、世界のウイスキーと比べて、ジャパニーズウイスキーの魅力はどのようなところにあるのでしょうか。
作り方がきちんとしている。
一つは、なんとなく日本人にとって飲みやすいっていうのもあるんじゃないのかな。
ジャパニーズウイスキーの持っている繊細さっていうのかな、柔らかさっていうのが評価される。
ジャパニーズウイスキーは、日本料理と同じように繊細さが魅力なんですね。
続いて、朝日ビール株式会社ウイスキーアンバサダー佐藤恵さんにお話を伺います。
佐藤氏は、マスターオブウイスキーの称号を持つウイスキーのプロフェッショナルです。
マスターオブウイスキーは、ウイスキー文化研究所が認定する日本で10人しかいない最難関のウイスキーの資格です。
佐藤さん、昨今のジャパニーズウイスキーは、なぜこんなに価格が高騰しているのでしょう。
もともと商品があまりないっていう部分で、その割には非常にウイスキーファンが拡大しているので、
普段の日本だけじゃなくて世界でウイスキーファンが拡大している中で、日本のウイスキーの評価が高いので、非常にニーズが多いというところで、
物が少ない中で欲しい人が多いので、そういう原理で値段がどんどん上がっちゃってるんだと思います。
そもそもウイスキー作りには時間がかかります。熟成という工程が必要不可欠です。
ウイスキーの原酒は本来無色透明で、何年何十年と時間をかけることで琥珀色、いわゆるウイスキーの色に育っていきます。
車や洋服のように毎年モデルチェンジを繰り返す商品とは対照的に、ウイスキーは熟成という時間を味方にすることで品質が担保されていきます。
時を重ねれば重ねるほど価値が出る。類稀なる商品です。
長ければ長ければ良いっていうことではないんですが、長い熟成に耐えられただけの元々のポテンシャルを持ったものっていうのは当然量が少なくなってきちゃう。
毎年エンゼルシェアでどんどん少しずつ蒸発して減っていっちゃいますので、例えば40年とか45年とかになりますと、
ウイスキー作りの手間と熟成の重要性
もう本当に量が少なくなっちゃう。最初に仕込んだ量が遥かに少なくなっちゃうので、それは高くなりますよね。
マサガカさんはそもそも5年以上熟成させないと私は出荷しないってずっと言ってた。
5年は熟成させた原種じゃないとちゃんとしたものができないっていうので5年にこだわってたというふうに私は思います。
エンゼルシェア。原種を樽に入れて熟成する過程で、原種は蒸発し当初の量からめべりします。
人々はそのめべりしてしまう量を天使のわけまえと捉えたのです。
ウイスキーは天使にわけまえを与えることでその味に深みを増していきます。
熟成とブレンド、この製法技術がウイスキーのおいしさを決定づけます。
45年前のが今やった分ですからウイスキーっていうのは好きなもんですが、他のもんだと45年も経ったらもう高等品です。
それはまだ生きているんだから。
竹鶴雅隆はウイスキーの本場スコットランドから持ち帰った技術をもとに
ことぶきや後のサントリーの山崎工場で初代工場長として本格的な国産ウイスキー作りに取り掛かりました。
その後日華ウイスキーを創業し日本にウイスキー文化の種をまき見事花を咲かせたのです。
竹鶴雅隆、ジャパニーズウイスキーを作った男は江戸時代から続く酒蔵の後取りでした。
ウイスキーは一つの商品を世に送り出すまでにとてつもない時間と労力がかかる商品です。
こんなに手間がかかる本格的なウイスキーなど商売にならない。
それはただの増落だ。
フードによって味が変わる。品質を均一に保つことが難しい。
そんな商品は大量生産には向かない。
そんな風に本格的なウイスキーの商品化に疑問を呈する人が少なくなかった時代。
時は20世紀初頭。
大正7年、1918年、第一次世界大戦の最中、竹鶴雅隆は半年もかけた船旅で丹心スコットランドへ渡り、ウイスキー作りを学びました。
竹鶴雅隆がジャパニーズウイスキー作りに取り組み始めてから100年近くが経とうとしています。
今、ジャパニーズウイスキーは本場スコットランド人もおなる世界標準の味となりました。
無色透明の原酒が熟成を重ねて琥珀色の美酒になる過程は、西雲の志を抱いた青年の人生とも重なります。
広島県竹原市
明治27年、1894年、竹鶴雅隆は広島県竹原で江戸時代から続く竹鶴酒造の分家に生まれました。
3番目の男子、三男でした。
しかし、本家の10代目が旧姓し、11代目がまだ幼かったため、正高の父親が貢献人として酒造りを引き継ぎました。
その時点で、正高の人生は決定したも同然でした。
すなわち、作り酒屋の主となる、という人生です。
散歩を山に囲まれ、南には小島が浮かぶ穏やかな瀬戸内海が広がる継承地は、
ロマンチストを育む土地だった。
そう、正高自身が振り返っています。
正高少年は、冬に行われる酒造りに魅了されました。
父の号令の下、当時という職人集団が一斉に酒造りに乗り掛かります。
工事部屋で菌が繁殖する瞬間や、仕込み樽の中で泡が沸き上がる光景は、まるで魔法を見ているようでした。
当時、日本酒の酒蔵は4人均一であり、酒造りの期間、そこで働く人々は勤欲をしました。
酒造りは神事だったのです。
大阪大学、正高、18歳。
正高が18歳を迎えた頃、時代が変わります。
富国強兵、文明改革の明治からロマンティシズムを謳歌する大正時代へ、新しい時代がやってきたのです。
正高は、科学的に日本酒の製法を学ぶため、大阪へ向かいます。
新しい時代が来たのに、自分は旧家の跡取りとして生きるのか。
敷かれたレールを歩まなくてはならないのか。
正高は、大阪大学で醸造学を学び始めました。
その頃、日本の酒造メーカーは、産業革命によって広まった琥珀色の薄藍の酒、ウィスキーを作ることができませんでした。
当時、日本製のウィスキーといえば、甘味料が入った合成酒ばかりでした。
ものづくりをする人間なら誰しも、西洋のモノマネではなく、本物を作りたいと願っていました。
けれども、誰もその製法を知らなかったのです。
いよいよ時が満ちて、国内の酒造メーカーには上流酒、つまり本格ウィスキーを作りたいという機運が芽生え始めていました。
大正5年、1916年。
正高は、大学の11歳年上の先輩、岩井喜一郎が乗務を務めていた縁で、摂津酒造に入社しました。
当時、摂津酒造は、洋酒のOEM製品であり、
摂津酒造が製造したイミテーションウィスキーや、ワインを卸していたうちの一社が、鳥井新二郎氏が率いることぶき屋、
後のサントリーホールディングスです。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
さつまいもの製造は、大正5年、1916年。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
主力製品は、さつまいもを主な原料として作られています。
合成種になきたらず、本格的なウイスキー作りを目指していた瀬津種造は、
マサタカの技術者としての熱意と技量に注目しました。
合成種になきたらず、本格的なウイスキー造りを目指していた瀬津種造は、
ウイスキーの本場、スコットランドへの留学に抜擢されたのです。
もちろん、マサタカはこの話に胸が躍りました。
しかし、マサタカの両親は、
酒蔵を継がせるために大阪に出したのです 弁学を収めて立派になった後取りが戻ってくることを心待ちにしていて政たかの
両親の驚きはいかばかりだったでしょう 政たかの両親を説得したのは
なんと節種像の社長2代目 阿部喜平氏でした
阿部氏は自ら政たかの故郷 竹原まで出向いて政たかの両親を説得します
竹原竹鶴種像 社長さんどうぞ頭上げてください
私にも子供がおりますご両親に無理難題を申し上げていることは 重々承知しております
頭を下げてお許しいただけるのであればいくらでも下げさせていただきます 私も年じゃけん政たかが帰ってくるのを楽しみにしとったんじゃ
申し訳ありませんお父さんお母さん 申し訳ありません
政たかお前も知っている通り長男はシンガポールに行ってゴムの栽培を始めてしまった 次男は北海道の寄仙会社に入ってしもった
もう竹鶴種像を継ぐ人間は政たかお前しかおらんのじゃよ 分かっております
でもどうしても行きたいんか そのスコースコットランドです
行きたいです お父さん
可愛い子には旅をさせろという言葉もございます 安倍さん
私はあんたにお父さんと呼ばれる筋合いはないんじゃよ お父さんわかっとるよ
ジャパニーズウイスキーの誕生
私だって獅子は我が子を谷底に突き落とすというからな 父は谷から這い上がる我が子を崖の上で黙って見守る
それもまた親の務めだそうです その通りですお前が愛の手を打つな
しょうがもんがー この子は今前時からそうなんです足元も水に階段から落ちて花を打って階段が
血の海になってしもうた時も 覚えておりますあの時の母さんの驚いた顔
それなのにお前は母と笑っておった はいあれのおかげでずいぶん鼻が利くようになったです
この子はいつも笑っているんです 困った時も苦しい時も
安倍さん あなたは
正高の何がそんなに気に入ってくださったんですか まだ彼が入社して間もない頃のことです
ある朝私が出社すると上流灯のそばで誰かが寝ていたのです それが正高くんでした
どうしたのかと聞くとウイスキーの調合を研究していたら帰りそびれて 上流灯のそばが暖かいからそのまま寝てしまったというのです
研究に夢中になって2日間徹夜していたそうです 正高らしい無邪気に笑っておりました
そうですか 笑っておりましたか
お父さんお母さん 私には本物のウイスキーを作りたいという夢があります
今 日本には合成酒と言われるイミテーションのウイスキーしかありません
いつまでも偽物を作っている時代ではない 合成酒を作っている職人なら日本国中全員が思っています本物を作りたいと
気は熟しました 日本人として本格的なウイスキーを作る時代に来ているのです
そのためには スコットランドで本場のウイスキー作りを学ばなくてはいけない
そしてそれを学ぶには 正高君のこの不屈の笑顔がどうしても必要になる
そう思っているのです そこまで言っていただけるとは
はい 過方者かもしれないな正高は
はい 正高
もしかするとお前は どのような谷底でも笑っていられる男なのかを知れないな
はい この表現者が
ジャパニーズウイスキーの歴史は 正高のスコットランド留学を後押しした
節酒造社長 安倍喜平の情熱から始まりました
正高のスコットランド留学
その熱い思いが正高を始め 岩井喜一郎氏や鳥居真次郎氏へ波紋のように広がって
ジャパニーズウイスキーが大道を始めたのです わしも年じゃけん正高が帰ってくるのを楽しみにしとったんじゃ
正高には この父の言葉が忘れられませんでした
それでも 実家の酒造りを継ぐことはありませんでした
そうして正高は体に染み付いた酒造りの精神をベースに 生涯をかけてウイスキー造りに取り組むことになるのです
腹をくくったのです 神戸甲正高24歳
大正7年 1918年
正高は神戸の港から旅立ちました 正高の両親
節酢酒造の阿部喜一郎氏をはじめ 琴吹屋の鳥居真次郎や
後に朝日ビール社長となる山本ためサブローラに5式のテープで見送られながら アメリカ経由でスコットランドへ渡ったのです
その目的はただ一つ 本格ウイスキーの製造を学ぶこと
酒鶴正高くんの陽光春髪を記念して 万歳山荘
いってきまーす
時は織島第一次世界大戦の最中 冒険映画さながらの旅を続けながら
たった一人で世界に立ち向かいます ウイスキーはイギリスの他の方の
スコットランド地方が本場で スコッチウイスキーと申しまして世界的に有名であります
スコットランドは7月には花が咲いて 茨がさえずります
雪の美しいこと 湖の美しいこと その湖の水の綺麗なこと
山一面に シェザーという香りのゆかしい花が咲きます
この湖から流れ生きる水が スコッチウイスキーの風味の水となるのであります
当時のスコットランドには100以上もの蒸留所が立ち並び 蒸留所ごとにウイスキーの味が異なっていました
正高が学ぶことはいくらでもありました 正高はグラス号大学に席を置きながら蒸留所を回り
見るもの聞くものすべてをノートに書き記します グラス号大学の講義は大阪大学で学んだこととほとんど変わりませんでした
正高が一番関心を寄せていたのは 蒸留所での実習でした
しかしスコットランドウイスキーの製造は国を挙げての産業であり その製法は国家機密に等しい重要な情報でした
ですから異国から来た若者を迎え入れる蒸留所はほとんどありませんでした
tell me how it works please what go home tell me please
no ah tell me please please
それでもなお正高の好奇心が止まることはありません その強い思いが引き寄せたのでしょうか
正高の理解者が一人また一人と集まってくるようになります 一人目はエルギンにあるロングモーン蒸留所の
グラント工場所 続いて最大の理解者が
グラス号の西南にあるキャンベルタウン ヘーゼルバーン蒸留所のブレンダー
ピーターイネス博士です キャンベルタウン
ヘーゼルバーン蒸留所 当時キャンベルタウンはスコッチウイスキーの中心地であり
イネス博士はブレンダーの第一人者でした スコッチウイスキーの製法を学ぶため何のコネクションもないまま
古軍奮闘する正高に博士は一つの提案をしました ヘイユー正高
ウチュライクトゥティッジミーハウトゥメイクジャパニー酒 えっ
酒の 日本酒の作り方を教えろっていうのか
イネス博士は 日本の酒づくりに興味を抱いたというのです
ウイスキーづくりにバクガーを用いるに対して日本酒には米麹を使います 正高は異国の地で青い鳥を見たような思いで日本から種麹を取り寄せました
うわぁ アメージング
全球正高 ありがとう
するとイネス博士は正高が各地の上流所で実習ができるよう取り計らってくれました そればかりでなくウイスキーの微妙な味や香りの作り方
いわゆるブレンダー技術についてもじきじきに伝授してくれたのです イネス博士が本当に日本酒づくりに興味を持っていたのか
あるいはひたむきに探求を続ける正高が気に入ったからなのか 今となってはそれはわかりません
イネス博士もまたジャパニーズウイスキーの誕生に大きな役割を果たした一人と言えるでしょう イネス博士の応援を得て正高は各地の上流所へ通い詰めました
まるでジグソーパズルのピースを合わせるかのように 一つ一つの情報を丹念につなぎ合わせて正法を学んでいったのです
リタとの出会い
それは後に竹つるノートと呼ばれ 国産ウイスキーづくりの大きな礎となっていきます
そして もう一つの出会いは
なんと苦しい陽光だ 頭に入らん
いやいや 辛抱せよ
と正高が竹つるノートの片隅に書き留めたのは 留学が78ヶ月を過ぎた頃でした
正高をホームシックが襲ったのです 誰一人日本人のいない異国で自分の存在がちっぽけなものに思えてきたのです
正高は日本から持参したつづみを鳴らしながら 大正ロマンを象徴する流行歌を口ずさみました
その甘美な恋の歌で正高は泣いていました 命短しい
恋せよ 乙女
Dad, why did you die leaving us behind?
Daddy, I miss you.
そんな頃です 正高が憂いを帯びた瞳を持ったスコットランド女性リタに出会ったのは
グラス号大学で正高の同級生の姉であったリタは父を亡くしたばかりでした 故郷を思い泣き暮らしていた正高と父を失い沈んでいたリタ
二人を近づけたのは悲しみだったのです 心からお悔やみ申し上げます
I would like to show my great condolence.
リタ Thank you, 正高
You're so kind. スコットランドの夏
正高25歳 スコットランドの夏はタータンチェックスカート姿の更新に合わせて
至る所からバグパイプの音色が聞こえてきます その光景が正高には
まるで日本の盆踊りのように見えました 正高はリタと共にバグパイプの音色に耳を澄ませました
そして日本とスコットランドの間にリタと自分の間に 何の隔たりもないことをハートで理解したのです
Touch me, 正高! Wait, リタ!
結婚 正高25歳
大正9年 1920年
正高とリタは親族家族の猛反対をものともせず グラス号の町役場で入籍をします
時に 正高25歳
リタ24歳 ちなみにこの時も正高を助けたのは雪津酒造の社長
安倍喜平氏でした リタと結婚する決意をしたためた正高の手紙を読んだ安倍氏は
はるばるスコットランドまで説得に行きましたが リタと正高の強い意志に突き動かされ
結果的にリタとの結婚について 竹原の両親を説得してくれることになったのです
お父さん お母さん
どうか2人の結婚を許してやってください 安倍さん
あんたにお父さんと呼ばれる筋合いはないんじゃよ 私は正高君にウイスキー作りという夢を託しました
息子のように思っております 正高とリタは瀬戸内海を放出とさせるキャンベルタウンに心境を構え
正高はイネス博士からより深くブレンド技術を学んでいきます
キャンベルタウンのヘイゼルバーンというところに約5ヶ月間くらい 研修を日本に帰ってくる前に
研修されたところなんですけども ヘイゼルバーンでイネスさんというそういう博士に
徹底的にブレンドの技術を叩き込まれた というふうに自分でおっしゃってるんですね
これはもう無くなる何年か前に言われたんですけども 私は本場スコットランドでブレンドの技術を徹底的に叩き込まれてきたと
今でも本場のスコットランドの技術者を脅かすほどの力を持っていると思うっておっしゃってるんですね
でもそこから先があれで それって自分だけでも持ってたってダメなんで
それを私が与一工場の技術者に徹底的に教え込んだっていうことが書かれている 結婚当初
マサタカはリタのためにスコットランドに残ることを提案しました しかし
ウイスキー作りを真摯に学ぶマサタカの姿にリタは言いました マサタカ
私はあなたの夢のために行きたい あなたのウイスキー作りの夢を応援するために
私が日本に行きます リタ
ありがとう 必ず君を幸せにしてみせる
もはやジャパニーズウイスキーを作ることは マサタカや阿部喜平だけの夢ではありませんでした
その夢に多くの人が賛同を始めていました 日本酒との出会い
ウイスキーとの出会い スコットランドとの出会い
そしてリタとの出会い これら一つ一つの出会いが
ジャパニーズウイスキーの夜明けにつながっていくのですね ここからは竹鶴マサタカのお孫さん
竹鶴光太郎さんにお話を伺いましょう 竹原
現在の広島県竹原市は瀬戸内海に面して 秋の小京都と歌われる風光明媚な土地柄です
現在でも人口3万人に満たないこの町で300年続く作り坂や 竹鶴首相の後取りとして育ったマサタカは
どのような少年時代を過ごしたのでしょうか その竹原の
竹鶴首相の本家からですね 聞いた話なんですけれど その時の手紙を見せてもらったんですね
マサタカが中学生の頃に文通をしてたと
表は手紙ですので日本語でパチッと住所が書いてあって 自分の名前が書いてあって中身は英文で書かれてました
それを添削してるんですよね その添削の相手は彼のいとこかなんかで
その方と手紙の文通をしながらですね 自分たちの英語を添削してたという状態だったようです
そういう教師もいないしそういう方もいなかったんだと思うんですね だから自分たちでやるしかないと
時は明治後期 ごくごく限られた人間だけが英語を使う時代
マサタカはいとこと英語で文通することで積極的に英語を学んでいたというのです なぜマサタカは英語に熱中したのでしょう
高太郎氏はその理由は竹原の風土にあったのではないかと想像しています それは高太郎氏が初めて竹原の地を訪ねた時に感じたことです
日課にいた時に広島の営業所の営業をやってたんですね 本県が近所なんで初めて訪ねたんです
正高の葛藤
その時に竹原という町を見たわけですけれど 瀬戸内海に面して 後ろは山が小高くて 町が古い ほぼ江戸時代のような町並みで前に瀬戸内海があると
だから背中は山 前は海 しかも向こう側に島が見える海ですよね 限りない海じゃなくて瀬戸内海なんで
なんか窮屈に感じたんですよね 僕はね 僕は北海道生まれなんでそういう風景ってあんまり馴染まないんですよね
山は向こうの方にあるし 海はただ広いみたいな世界で なんか盆栽っていうか 景色が小さい感じがしました
景色が小さく感じた
だからそれを見てですね 正高がですね それ以上の世界を見たいという気持ちをすごく感じたんですね
もうすごく感じたんです
正高の兄たちは成人して世界へ飛び出していました 長男はシンガポールでゴム栽培のプラント経営に携わり
次男は炭鉱基線に入社して北海道にいました それぞれ明治から大正へかけての新しい時代にふさわしい大きな仕事に身を投じていたのです
正高は本家で生まれて育ってますので 当然その場所を継ぐと ただ文家なんでね もともとは
ですから そこの持ち主になるというより その家業を継ぐという定めだったものですから
300年あたまり続いている手蔵でずっと見送っていうのが なんとなく
いやとは言えないけどこう定められた自分の運命みたいなね 感じの中にいたのかなというふうに感じました
表向きは家業を継ぐという約束に従いながらも 心のどこかで竹原という小さな町で生涯を得ることに窮屈さを抱えていた
正高は来学卒業後 漁種メーカーセッツ酒造で働き始めます
スコットランド留学
当初は日本酒の仕込みが始まる冬までの短い間の修行のつもりでした それがなぜスコットランド留学へつながったのでしょうか
その鍵を握っていたのはセッツ酒造の社長 安倍喜平でした
安倍さんという社長が気に入って正社員にしちゃったんですね 役職までつけちゃった
どんどんどんどん話が進んじゃって ういつきやりたいんでお前どうだって言われて
断りようがないですよね だから当時留学をさせるっていうのは大変なことですから
今とはちょっと違うと だから安倍さんという方は自分のお嬢さんをお嫁さんにして
正高を安倍家に迎えるということだったんじゃないかと 母も言ってましたし父も言ってました
気がついてたのか気がついてないのかおじいさんはそういうことをほったらかして 海外に遊行してしまうわけですね
入社数年でスコットランド留学という破格の待遇の背景には セッツ酒造の社長安倍氏が
将来性のある正高を娘婿として迎えるという思いも潜んでいたのですね 一方竹鶴家は
日本酒作りをする跡継が 養子を作るためにスコットランド留学すると聞かされて
どれほど驚いたことでしょう
安倍さんというセッツの社長はですね まずは竹原まで行って
家業を継ぐということからですね 預かりしている息子さんを違うところに行かせてしまうので
随分行ってお詫びしたらしいです 結局渋々竹鶴家は離して
結局セッツ酒造の社員として スコットランドに留学するということになったわけです
両親を説得してスコットランド留学を後押ししてくれた セッツ酒造の社長安倍喜平は
竹鶴正高の人生の恩人というだけでなく ジャパニーズウィスキーという新しい種を
あちこちに撒いた人でもあったようです
後にですねそのセッツのお嬢さんが結婚されて その息子さんとうちの祖父が対談しているテープとかもありますので
そういうのはすごい興味深いなと思いますけどね その後
右予曲折の末 セッツ酒造は宝オーディング末と形を変えますが
正高との交流は生涯にわたって続いたようです
人生は万事才夫が馬偶然の重なりによってウイスキー作りへの道が開けた竹鶴 正高
明治時代の鬼骨と大正時代のロマンをウイスキー作りに込めた正高の冒険はこれからも 続きます
ご案内役は私早見健太郎でした 出演
竹鶴正高坂本ゆうま 竹鶴リタ
北条真央 竹鶴慶次郎早見健太郎
竹鶴長宇藤しより 阿部機兵
田辺雅樹 イネス博士
平塚レン 男性1外国人に菊川秀樹
男性に外国人1 大東秀文
コンドラの歌 高いマイナ
タイトルコール 平塚レン
ナレーション萩原和羽 スペシャルサンクス
朝日ビール株式会社 佐藤はじめ
ザ スコッチモルトウイスキーソサエティ
福田茂雄 脚本
斉藤智子 演出
岡田康史 選挙区
効果 章佐子
プロデューサー 富山正明
制作 株式会社ピトパ
制作葬式 監修
竹鶴慶太郎
42:14

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