僕の問題提起は、ある意味非常にシンプルで、今、インターネットを見ればわかる通り、とにかく自分の間違いを絶対認めないと。ちょっとでも認めたらもうアウトっていう、すごい防衛的になってる人が多いので、
そういう中で、間違いを認めて正すっていうことが大事なんだよっていうメッセージは、多くの人に痺れたんじゃないかなと思いますね。
さあ、今日はですね、言論カフェにお邪魔して、批評家の東浩紀さんにお話を伺います。東さん、よろしくお願いします。
さあ、インタビューさせていただくことは、実はですね、3年前にオンラインで、東さんに、その時はこの言論戦記でインタビューさせていただいたんですけど、その時は場所がですね、
もうちょっとわいざつって言ったらちょっと失礼かもしれないですけど、なんか部屋みたいなところに、後ろに本棚がいっぱいあったんですけど、どこだったんですかね?
あ、それは多分自宅じゃないかな。
あ、ご自宅ですかね。ちょうど2021年の、たぶんそうですね。
Zoomの画面ですよね。
そうですそうですそうです。
後ろに全部本棚があって、あれは自宅ですね。
それでその時に、なんか最近のベストバージョン何ですかって聞かれたら、いやー、なんかあの新エヴァの、なんかこんな杖みたいなやつだなって言ってたから、じゃあご自宅ですかね。
はいはいはい。
わかりました。はい。そういうわけでですね、僕はもう今日ね、オフラインは初めてなので非常に緊張してるんですけども、今日はですね、この言論カフェ、逆にお借りしていますが、
こういった形で、あずまさんが当然主催のイベントで、ここをもちろん使うと思うんですけど、僕のように外部の人間を取材させていただくっていう形で、ここを使うこともあるんですか?
僕が本の観光で取材を受ける時は結構ここを使ってますね。
あ、そうなんですね。そういう意味で今日ね、僕も普段外から見ていて、こういう感じなんだってことで、このカメラの逆側なんかにもね、結構いろんなサインとか絵があるんですけど、これゲストで来た方はどうですか?
そうです。基本的には登壇された方に、最初にここを出た時に一回お願いしてるって言ったらしいですね。
これ、こんなこと言ったらあれですけど、ここ絶対、場所を移ったり壊せないんですよね。
そうなんですよね。だから、この壁…
バンクシーみたいに壁剥がすのかみたいな。
壁取り外せるんですけど、でも取り外してもね、これどうやってもう一回建てるかって言ったら、ちょっと難しいですからね。
なかなかここから引っ越す時にこれどうするんだとは、時々思い出してます。
ちょうど前回にお話が上がった時には、たぶん、ゲンロンという会社が10年だったと思うんですけど、このゲンロンカフェは、それから少しずれてますよね。
ずれてます。ゲンロンカフェが去年10年かな。
そうですよね。ということでね、今、そういう節目で今日お話を伺いたいんですけど、これ、バーもあるじゃないですか。
バーというかドリンカー。ここ、もともとどういう場所だったんですか?
いや、僕たち借りる前ですか?
このためにこういうのを作ったんですか?
そうですそうです。だから、借りる前は単なるオフィス用のビルですよ、ここは。
もとはバーロッドとかじゃないんですかね。
ないないない。
いや、すごいですね。そんな中でね、今日お話を伺うんですが、
アズマさんに忖度するわけじゃないんですけど、今回のこの『訂正可能性の哲学』、去年それぞれ出て、
本屋さんって、めちゃくちゃ、特にこの訂正する力、平積みとか、コーナーすごいんですけど、ここまでの売れてるというか、その辺でご自身で言うのですけど、予測してました?
いや、そこそこ売れるものを書くつもりではやったので、これくらいの反響はあるだろうとは思ってました。
これ、今どのくらい差し支えなければ売れてるんですか?
僕がここで数を言っていいのかな?
とりあえず、この間、スポーツ新聞の記事に出た段階では6万部を超えてたんですね。
すごいなあ。そうなんですね。
そうなので、今日ちょっとね、いろいろお話伺いたいんですけど、でも、売れる本ってことはあると思うんですけど、なんででもこのくらい売れたと思います?
やっぱり、僕の問題提起っていうのは、ある意味、非常にシンプルで、
今、インターネットを見ればわかる通り、とにかく自分の間違いを絶対認めないと。
ちょっとでも認めたらもうアウトっていう、すごい防衛的になってる人が多いので、
そういう中で、間違いを認めて正すっていうことが大事なんだよっていうメッセージは、多くの人に響いたんじゃないかなと思いますね。
その中でですね、その間違い、謝罪するものの誤る、ミスティックの誤るも、両方かかってると思いますけど。
これ、今日見てる方でね、訂正する力、当然読んでいただきたいんですけど、
ざっくり定義のところで、ちょうどこの本の1章のところで、訂正する力っていうのはいくつか、僕なりにこれ定義として書かれてるんじゃないかなってことか。
やっぱり過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力、
持続する力、聞く力、老いる力、記憶する力、読み返る力といろいろありますが、
せっかくなんで、この定義も大事なんですけど、事例っていうことで、できれば本書に書いていないタイムリーなことで、
訂正する力が最近働いてるなと思った、できればポジティブなこと。
ネガティブなことはすごい思いつくんですけど。
そういう質問されると思ってなかったので、ちょっと今思いつきませんが、
本当は訂正する力って、僕たち日常的に常に働かしてるもので、
どっちかっていうと、この本の主張は、
訂正する力を持ちなさいっていうよりも、僕たちが日常的にみんな訂正してるってことに気づきなさいなんですよね。
ネガティブなことは、ずっと一貫してますとか、同じことやってますっていうふうに自分で思い込んでても、実は変わってるんですよ。
で、そのことに気がついて欲しいわけ。だから、僕たちは実はずっと訂正し続けてるんですよね。
自分は全然そんなことやってない。昔から一貫したこと言ってるし、主張は全くブレてないって思ってる人でも、
いろいろ見てみると、時代時代で少しずつ修正してるはずなんですよ。
そのことに気がついて欲しいっていうのが僕の考えなんで。
だから、訂正する力は、むしろ、あちこちで働いてて、大抵の場合は上手くいってるというか、
大抵の場合は、それを使いながらみんな生きてると思いますね。
そうすると、使いながらだし、僕もこういう質問をするってことは、意識すらされてないことが日常?
ところが、むしろ、議論とかしようとすると、それを忘れちゃうわけですよ。
自分がいろいろ変化してきたってことを忘れて議論を立てて、絶対的な正しさがあって、急にすごく固くなりになるわけですよね。
で、議論がどんどんこじれていくということが多い。
だから、もっと自分たちが常に訂正してるっていうことに、みんな気がついたら、議論も豊かになるし、トラブルも少なくなるんじゃないですか?ってのが僕が言いたいことですね。
平成する力を身につけようというよりも、気づこうってことですね。
じゃあ、そういう意味で、ここのカバーにもね。
やっぱり先生ですけど、私が自分でずっとこの番組をやっていて、ライフアップデートっていう概念がすごい大事だなと思っていて。
やっぱり人生って、個人的な考えですけど、20世紀的な感じだとライフアップグレード、どんどん積み上げていけば成長していくだろうみたいな概念だったと思うんですけど。
やっぱりこれからはそうじゃなくて、どんどん更新していかないと、やっぱりいけないっていう。
まあ、ポジティブでもあるし、やっぱりちょっと恐れてみたいなところもあるんですけど。
でも今の話でいくと、今日、平成する力とアップデートって一緒だなっていうふうには思ってたんですけど。
安田さんがおっしゃってるのは、今後のアップデートっていう意味では重なるんですけど。
やっぱり、すみません、繰り返しになっちゃうんですけど、そういうふうに変わろうよじゃなくて、気づく。
というか、僕たちは、そもそもアップデートし続けてるわけですよ。
だって、体だって変わってるし、歳もとってるし、新しい情報を毎日入れてるわけでしょ?
1年前の僕と今の僕では、多分微妙に考えも変わってるだろうし、
世の中に対する認識とか、例えば何が正しいことで間違ってることかっていう軸なんかも変わってるはずなんですよね。
人間みんな変化しながら生きてるわけであって、変化してるっていうことを
転校したとか、変設したとか、一貫してないとかって言って、
攻め合うのは意味がないんじゃないですか?っていうのが僕の考えなわけ。
だから、アップデートは考えなくてもみんなしてる。大丈夫。
確かに。パソコンでアップデートしますかじゃなくて、もう自動でしてるってことですね。
安田 そうね。だから、自動でしてるのに気がつかないと、
アップデートなんかしてねーよとか言って、いらねーよ、そんなの。っていう話になっちゃう。
いや、そんなこと言ってもしてんですよ、実はと。
どんどん環境って変わってくんで、
環境が変われば、同じことを言ったり、同じことを行動してても、効果って変わってるわけですよ。
そしたら、その結果の変化に応じて、自分のほうの振る舞い方も変えなきゃいけない。
これ、かなり普通の話で。
ところが、それが政治とかの議論になると、そういう議論が急にできなくなるんですよね。
ここで挙げてるのは、例えば憲法を改正するかどうかとかですけど、
もう憲法を一軸でも変えたら終わりだ、みたいなね。
でも、憲法を作って、もうすごい時間が経っていて、
今の日本語憲法を作ったときとは、安全保障だけじゃなくて、いろんなものの考え方が変わってるわけですよね、世の中。
そしたら、憲法の政治を守ろうとするんだったら、もちろん文章を書いてもいいはずなわけですよ。
ところが、守るために変わるっていうことに対しても、すごく恐怖を覚えたり、反発を言ったりする人たちっていうのが多くて、
そういうことが、さまざまな議論の出口をなくしてるなっていうふうに感じるんです。
今、憲法の話があったんで、ちょうど触れたいんですけど、この本の59ページのところで、
訂正する力は、記憶する力でもあるっていうところで、いろいろ読んでたときに、
日本人の国民性として、やっぱり手のひら返しというか、熱しやすく冷めやすいみたいなものを書いてあって、
やっぱり、100・0、今、憲法が変えるか変えないか。
たまたま、こないだ、日本保守党か、百田さんの書いた本も読んで、
あの中で、どちらかと言うと、個人的には、日本保守党とか百田さんっていうだけで、僕は勝手に構えてたところなんですけど、
意外と読んだら、移民政策に関して、やっぱり、イエスかノーかっていう質問自体は、ちょっと乱暴だっていう。
それはその通りだなと思って、その中で、移民政策の中で、こういう部分はいいんじゃないかみたいな。
次回も込めてですけど、どうして、僕たちというか、ちょっと日本は、01というか100・0なんでしょうね、こういう風土っていうのがなんかあるのかなって思ったんですけど。
いやー、わかんないな。それに、日本が元々100・0の国だったのかどうかもわかんないし、とにかくSNSが100・0の議論に向いてるのは間違いない。
あと、日本は、明治維新と敗戦の2回の、ある意味での成功体験っていうのがあって、1回、過去を全部否定すると。
それも、江戸幕府全否定、近代化、開国。そして次は、明治維新体制全否定、民主化、アメリカ化。
過去の全否定、方針全面展開によって成功したっていう記憶があるので、どうしても今も、日本の未来を考えると、もうリセットというか、
もう1回、とことんぶっ壊れちゃったらいいんだよ、みたいな議論が、結構インテリの方なんかもしますよね。
だから、ああいうロマンチックな議論は、僕はやめたほうがいいと思うんですよ。
1回壊れたら終わりですって、壊れないほうがいいですよね。
だから、やっぱり、1回、とことんぶっ壊れちゃうよ、希望が出てくるんだ、みたいなのは、物語としてはいいけど、現実はやっぱりそうじゃないと思うんで。
やっぱり、そこそこいろんなものを引き継ぎながら前に進んでいくしかないわけですよ。
それに、実際、明治維新とか敗戦にしても、全部壊れてるわけじゃないんですよね。
かなり様々なものが引き継がれているわけですよ。
だから、これから日本を変わりにしたって、今の日本が持ってるものを全部壊して、新しくリセットなんかできるわけないわけで、
そういう点で議論するときに、古いもの全部ダメとか、あと老害全部ダメとか、そういうのは僕はあんまり好きじゃないんですよね。
やっぱり、いろいろ引き継いでなかなきゃいけない。
その中で、今日ね、やっぱり個人的には一番、訂正する力、その発動できるか、気づかないかの鍵かなと思ったのはですね。
やっぱり、触れないわけにはいかないと思うんですけど、今日インタビューする、ちょうど1週間くらい前ですかね、
猪瀬直樹さんとの対談を僕も見させていただいて、おそまきながらギリギリ、この昭和16年の夏の敗戦も読ませていただいたんですけど。
その中で、その中身を云々と言うより、この訂正する力の中に、立場と固有名っていうことを2つ書かれてると思うんですけど、
その訂正する力を発動できる鍵っていうのは個人的にはですね、立場と固有名に書いてるんじゃないかなと思ってて。
っていうのも、まあまあ、ご本人に言うのもあれですけど、僕なりに勝手に読み取ったのが、
立場っていうところでいくと、読んでない方もいらっしゃると思うんで、
この本の中で、猪瀬さんが、昭和16年の夏の敗戦という名著について、
アズマさんが触れられてて、その内容は去っておいてですけど、
その本で、猪瀬さんがジャーナリストとして、きちんと日本の必ず戦争に負けるっていうことがわかってたのに、
日本がなぜ戦争に走ってしまったのかっていう、その辺の組織のいろんな問題なんかを鋭く切り込んでいてですね、
そういったものを猪瀬さんがきちんと書いたジャーナリストとして、素晴らしいブームがあったにもかかわらず、
猪瀬さんが逆に都知事になってからは、東京の暑い夏か、おそらくわかっていたけど、訂正できなかったというか、
その辺に関して書かれてたと思うんですね。
で、その時に、アズマさんが最後にその下りのところで、ちょっとだけ引用しますけども、「猪瀬さんも東京の夏が暑いことはわかっていた。
ただ、それを一言でも言ったら批判勢力が何を得るかわからない。
今の日本である程度の影響力のある立場になってしまったら、危機管理上訂正しない人間にならざるを得ないわけです。」
ということで、ここで僕は、この猪瀬さん云々と言うより、やっぱり人が影響力のある立場になることによって、
訂正しないといけないとわかっていても、そうなってしまうのかなっていうふうに、当然読みました。
で、その逆で、この本の中に、「訂正する機会に恵まれるには、固有名になれ。」って書いてありますよね。
で、固有名になるっていうのは、この中には交換不可能な存在になるとか、その辺と連動すると思います。
ただ、どうなんでしょうね。これ、僕が勝手に猪瀬さんとの対談見てて思ったんですけど、
昭和16年、夏の敗戦を帰った時の猪瀬さんは、当然、その訂正する力、まさにそれを体現されてた方。
でも、固有名になっていた猪瀬さん自身が立場、後陣になってしまったことによって、固有名が外れちゃったんじゃないかって思ったんですけど、どう思うんですか。
全くおっしゃる通りだと思います。結局、政治家っていうのは、ある意味、立場の権限みたいな人たちですよね。
それに対して猪瀬さんは、作家が政治家になるってことが大事だとおっしゃってた。
で、それは今の話だと、固有名になっている人間が、ある立場っていうものを引き受けることによって、
政治の硬直性っていうのを揺るがすことができるんだよというふうに猪瀬さんはおっしゃってたんだと思うけど、
先日ここに来て、大阪万博について話されたときに猪瀬さんは、もう完全に立場からしか話されてないので、
いや猪瀬さん、そうは言っても僕の質問の意味わかってるでしょって言っても、全然わかんないよっていうことだけだったから。
そういう意味で、ある意味、作家の部分っていうか、まさにその固有名として立ち現れた部分っていうのが、
猪瀬さんからちょっとそぎ落ちてってるのかなと思いました。そこは残念に思いましたね。
これ僕の深読みしすぎかもしれないですけど、あの場に出て、猪瀬さんも、いろいろ多分当然ですけど、言われることは多分わかってらっしゃるじゃないですか。
でも出て、会場から来た方とか、僕もやっぱりちょっと残念ではあったんですけど、
でもその残念だって思われるっていうことは、それも訂正する力が働いてるってことなんですかね。
固有名の猪瀬直樹をみんなもう一回見てるみたいな。
そうですね。ただあの番組は、そもそも大阪万博がテーマではなかったんですよね。