仕事と私の関係性
こんにちは、いろどりです。今日は、あるドラマのセリフに心を動かされたという話をしたくて収録しています。
前にも話した船をあむっていうNHKのドラマなんですけど、辞書を作っていく方たちのお話ですね。
その中で、わたしと仕事、どっちが大事?って聞かれたときに、その辞書を作っている方ですね、
レジェンド的な人が、若い時にそれを奥さんから言われたっていう時の話だったんだけど、
その、わたしと仕事、どっちが大事?って聞かれた時に、その人、こう答えるんですね。
それは君、靴の右と左、どちらが大切か?と問うのと同義だよ。
で、この言葉をね、聞いた奥さんは、こう感じたそうです。
この人の全部にならなくてもいいし、この人のすべてを自分のものにしなくていいって、むしろ、あ、なるほどって、安心したって。
で、さらに、どんな時でも、どちらかがいない時でも裸足にはならない。
けんけんぱでも前に進んでいけるでしょ?っていう風に話をしていました。
このやりとりにね、私はもう深く、深く、共感っていうか、なんか、ふって、なんか、気持ちが軽くなるっていうか、一瞬ね、あの時が止まりましたね。はい。
で、靴の右と左っていう、こう、比喩ね、どちらかっていうのを比べるのに、靴の右と左っていうのを出したっていうのは、こう、
靴って右と左絶対一緒に履くじゃないですか。必ず対等で、どちらかが補っていくっていう関係性がある。
で、どちらかかけても裸足にはならないっていうのは、その、片方がいなくても、片方がその負罪を抱えて進んでいくっていうことだと思うんですよね。
裸足にならないでしょって言ってたけど、私はね、ここ裸足になってもいいじゃんって、裸足になるときがあってもいいじゃんとは思うんですけど、
でも、そうやってけんけんぱでも進めるっていうのは、お互いを補っていって、とっても素敵だなって思いました。
で、このやりとりって、どちらかに依存とか所有するってことでもなくて、共にいるっていう、なんかこう、そういう美しさを描いてるなっていうふうに感じました。
全部を手に入れなくても、全部にならなくても、安心していられる関係。
それって、今私が看護師の働き方を提案していきたいっていう、その世界観にも通ずるものがあるっていうふうな気がしました。
誰かの人生を支えるけど、支配はしたくないし、こっちがいいよっていうふうにはなりたくないんですよね。
一緒に歩くけど、同じ靴じゃなくてもいいし、雨の日に長靴って決めなくてもいいじゃないですか。
晴れの日に長靴でもいいし、片方違う靴でもいいし、それぞれの靴で、それぞれの歩幅で、でも隣にいる。
そんな関係性を私は大切にしたいなっていうふうに感じました。
私自身の人生にも置き換えて、重ねて考えてみると、母である自分も妻である自分も、仕事をしている自分も、夢を描いている自分も、どれもどれかを選ばなくていいのかなっていうふうに思いました。
靴の比喩
どれも私で、どれも私の靴なんだなって思いました。
片方が脱げてもけんけんぱで進めるし、止まらなくていいし、でも逆にもう裸足になって止まってしまってもいい、そういう時があってもいい。
もうすごく自由で、すごく優しい生き方なんだなっていうふうに思いました。
聞いてくれているあなたにとっての靴の右と左って何ですか?
母としての自分、仕事をする自分、夢を描く自分、どれかを選ばなくてもいいって思った瞬間ありましたか?
私は今やっている看護師の新しい働き方に向けての支援を通して、誰かの靴になるような言葉を編んでいきたいなというふうに思いました。
そのためにはまず自分の靴を大切に選んで履いていきたいなってそう思えた出来事でした。
今日も聞いてくださってありがとうございました。
もしよかったらあなたの靴の話も聞かせてください。
それではまた。