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2020-09-22 20:06

「かのように」第1回:森鴎外の名作を。

これから全3回の森鴎外「かのように」をお届けします!

みき(@miki_apreciar) のぞみ(@CobeAssocie

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書籍紹介(Amazonより) 明治・大正期の文学者、森鴎外の短編小説。初出は中央公論で1912(明治45)年。五条秀磨は歴史学者である。その良心にそって神話と歴史を分離して論じたいと願っているが、そのためには古い権威と葛藤することになる。やがて、秀磨はドイツの哲学者であるファイヒンガアの「かのやうに」の哲学を応用することを思いつく。大正三年、天皇制を人々が公に論じ始めた時代に、鴎外が一つの方向を示唆した作品。

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しっかり振り返りにしようと思って、振り返りやろうと思って、近くのバーにノートを持って入って、
1人で粛々とこの1年間の日記を見返しながら思ったことを書くっていうのを1人でずっとやってたんですよ。
楽しそうだね。
これがですね、振り返りじゃなくて、バーに入って1人で飲みながら書くってめっちゃ楽しいなってことに気づいてしまって。
振り返ったことそのものより、その状況がめっちゃいいじゃんみたいな。
酒もあるし、喉乾いたらちょっと酒を飲みながら。
音楽のテンションもいいし、周りのざわざわ感も心地いいし、
カフェでやること、ハンドライティングとはまた違う大向きがそこにあって、それが発見でしたね。
活用していこうと思ってます、この1年。
いいですね。私、家の近くに行きつけのバーあったんですけど、
マスターが終わっちゃってからすごい行きづらくなっちゃって、そういう場所をもう1回探さなきゃって思っているままでした。
行きやすかったらマスターとの距離感がいい感じだったんですか?
そうなんですよ。1人の時もいい感じにしてくれるし、どの友達連れてってもいい感じに接してくれるし、
コミュニケーションもいいっていうのと、あと普通にお酒が美味しいっていうのがあって、
しかも場所もスカイツリーが窓から見える良い場所だったんですけど。
そのマスターはどこに行っちゃったんですか?
別の店、新橋の店に行っちゃって。
あらま。
そうなんですよ。
その人の懐ですね。
でもわざわざ新橋まで飲み行ったりとかしてますけど。
ファンだ、ファンがいる。
確かにマスターに連れて行っていくのありますよね。
全然関係ないかもしれないんですけど、病院の先生のリュウマチとかいう病気、
手首が固くなっちゃったりとかっていう病気があるんですけど、
結構その先生もクリニックを移るわけじゃないですか。
患者さん結構ついてくるんですよ、リュウマチの患者さん。
そうなんですね。やっぱりそういう体に関わるものっていうのは相性とかありますよね。
あるんだと思うんですよね。
3ヶ月に1回くらい病院クリニックに行くような患者さんだと、
東京のクリニックに北海道から患者さんが来てるとかあるんですよ。
飛行機に乗って病院に行きますみたいな。
しかもそれは大病院じゃなくて、
なんとかリュウマチクリニックのあの先生に会いたくてみたいな感じに行ったりするんですよ。
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そうなんですよ。
だからそのクリニックの門前にある薬局は、その日に来る患者さんが多いと、
今日あの先生いるんだとか、
今日少ないと人気ないあの先生なんだねみたいなことが間接的に分かるっていうのが非常に厳しい競争の社会だと思います。
でも確かにケアってやっぱりその人っていう相性のいい人を見つけたなんぼみたいなとこありますよね。
サイズとかもそうですもんね。
あるわー。相性っすよねー。
あれですよ。お医者さんですよ、今日。やる本の。
そうですね。すごい繋げたと思ってた。
ランボーにすっごい頑張ってましたね。
いつもなんかいい感じに繋げてくださってるなって思ってる。
必死に努力してると思ってます。
私がいつもフリートークしてる中、それを考えてくださってます。
今日の著者はお医者さん、お医者さんでもあるし、エリート軍人でもあったしっていう、
イギリス時代の賢者って感じの方ですね。
本も書いてるってことは、文筆か作家でもあるもの。
もちろん作家でもあるというの。
森鴎外先生ですね。
森鴎外先生ですねー。
はい。
今回、森鴎外先生もいろんな多作な先生ですが、
今回、みきさんおすすめの本ということで。
そうですね。今回私は森鴎外の「蚊のように」っていう小説をちょっとチョイスしてみました。
蚊の?これイントネーション的には蚊のように?蚊のように?
蚊のようにか。
蚊のように。
蚊のようにって呼んでた。
蚊のようにだとモスキーとかありますよね。
蚊のようにですね。
蚊のように。
これ初めて、正直、不勉強で非常に教養がないところを提出して恥ずかしいんですが、初めて。
何言ってるんですか。
初めて森鴎外の作品ってこんなのあるんだっていう。
私もすっごい久しぶりに読みました。
初めてこの蚊のようにっていう本を読んだの、みきさんはいつだったんですか?
高校生だったと思いますね。
高校生の時に、のどみさんもメモに書いてますけど、まず舞姫をみんな通るじゃないですか。
クソ男やなーっていうのをみんな思う。
そうそうそうそう。なんだこのクズはーって思う、あの舞姫。
石炭王が早摘み果てつって。
早摘み。
そこから始まるやつですね。
音画を払わせて捨てながらも別に自分は悪くないですよみたいな話でした。
森鴎外ってこういうのを書く人なんだっていう、そのイメージと写真しか私はなかったんですけど。
その舞姫を読んだ時に森鴎外のやつちょっと読んでみようかなってなって、
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で、すごい短いやつがあったので読んでみた。
なんか灰人みたいな、灰人って読むのかなっていう短ページがあったと思うんですけど、その中に入ってたような気がします。
へー。
その時のこの、かのようにっていうこの、なんていうんですか。
印象というか、10代後半の時のこの本を読んだ、さっきのあの舞姫で言うとこのクソ男やなーって言うと、どんなことを思った?
で、この時はなんか全部難しくて、なんか森鴎外の日本語が明治の日本語だからそもそも語彙が難しいじゃないですか。
で、なんか難しいなって思ってたのと、なんか前半の印象がすごい強くて、なんかすっごいいろいろ考えてるなーみたいな。
この人考えてばっかりだなーぐらいな印象だったんですけど、なんか今回なんでこの小説をピックしたのかっていうのとか、
私が先月演劇制作の仕事をしてる時に、テーマがなんていうかこう、自分をもう一度取り出して客観視してみるみたいなことを観客にも与えたいみたいなテーマで演劇制作とかを作品作りをずっとしてて、
そのポンポン主導としては人間って結局なんか社会っていう舞台の上で役を演じているようなものなんだから、なんかそういうみんなおのおの演技してるようなものなんだ生きてるだけで、みたいなことをそういうベースのもとに、
お客さんとかも展示品として、なんかちょっと客観視できるような、自分を客観視できるような体験を与えられたろうかっていうのをずっと話している中で、なんかその森養飼の飼のようにっていう話が出てきて、なんかここにも書いてあるようなことなんですけど、みたいな感じでちょっとリファレンスされて、なんか懐かしいって思ったんですよ。
それはその演出家の方が森養飼が、みたいな感じで出てくるんですか?
あ、そう。飼のようにの一節が今のコンセプトに結構近いことを言ってるような気がするので、引用しますねって言ってLINEにポンって来てて。
どんなハードなLINEですか?
えー。
で、なんか、すごい久しぶりに読んで面白いなって思ったっていう。結構、ちゃんと読んだのはなんだよ、私も初めてな気がします。
難しいなー、なんやこれって思ってた高校生から、一周この演劇っていう場を入った時にもう一回出てきたのがこの小説でしたと。
そうそうそうそう、なんかすごい懐かしいし、なんか結構短いけどすごいいろんなことが詰まってる小説だなって思って、なんか少し感想を話し合えたらなって思ったのでした。
なるほど。
じゃあ乱暴に、みきさんちょっと1分ぐらいでどんな話かを。
はい、まずは飼のようにのあらすじを説明しましょう。
お願いします。
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時代は明治なんですけど、司釈の息子であって、歴史部学校を学んでいる秀室っていう人が主人公。
なんか、いいとこの家の子っぽいですね、司釈の。
そうそう、秀。
名前秀室ですもんね。
たぶんお金持ちの家の息子さんで、大学とか行かせてるんだけど、別に親もそんなに息子に期待せないっていうか、ゆっくゆく社交界で恥ずかしくないように振る舞えるぐらいの教養を身につけておいてくれたらいいよ、ぐらいの気持ちでふんわり育った秀室。
で、卒業後に勉強してる時に神経衰弱っぽくなってたっていうのもあって、ちょっとドイツに羽根でも伸ばしてきなさいよっていうことでドイツに行きました。
そこで留学中に宗教についていろいろ考えたりとかもしてたんですけど、基本的には楽しく過ごして帰ってきますと。
ただ帰ってきても大学生の時にあったようなずっと物を考えてるような感じが全然抜けてないなってお母さんとかは心配しながら過ごしてて、
帰国した後も秀室はずっと家で本を読んだりとかして引きこもって過ごしてます。
で、そのまま1年経っても結局あんまり変わらないままずっと退屈そうに本を読んでるばっかりみたいな。
で、そんな時に綾香寺っていう友達がやってきて、「こんな日は外にでも出たらいいんじゃない?」みたいな感じで言ったら、
秀室がドイツに行った後とかからずっと考えてたことを綾香寺に討論するんですね。
何でも物事っていうのは全然事実とかがないのに、それがまるであるかのように振る舞っている。
そういうすべての物事にはそのかのようにっていうものが土台に横たわってて、それで世界ができてるんだみたいなことを気づいた。
ただそれをそんなこと言ったら危険しそうだって思われるかもしれないし、お父さんとかにも言えないんだみたいなことを言って、
で、綾香寺が何言ってんだよ、そんなこと気にせずにどんどん前に行ったらいいじゃないみたいなことを言って、
終わるっていう、そういう短い小説なんですよ。
なんかうまく説明できてるかな?
かのようにっていうのは、かのようにってタイトルになってるやつっていうのは、
この秀丸の思想のコアに何かあるかのように、現代語っぽく言うと、さもそうであるかのように仮定をしてみんな生きてるんだなーみたいなことを秀丸としてはうーんって考えてる。
この小説すごい長々喋ってるけど、マジで言ったら秀丸が、かのように、物事って全部かのようにを土台にしてできてるんだなーってことに気づいて悶々としている以上っていう小説なんですよ。
なるほど、めっちゃ勉強から真面目なやつが、ドイツに行って、現地の宗教の思想とかに触れたら、かのようにっていう思想でみんな考えてるんだ、
でも日本だとこれ言うとなー、どうかなーってなった時に友人が来て、何考えてるんだ、大丈夫、大丈夫って話して、よしってなる。
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終わるっていう。
なるほど。
うーんって考えてる時間が1年以上あるっていう。
真面目、真面目ね。
そう、っていう話なんですよね。すごい長々話しちゃった。
展開とかもなくて、終わり方も本当に、たたずんで終わるっていう。友人と秀丸がたたずんで終わるっていう。
うーん、この、さっきユインさんが言ってた、その、舞台のテーマである客観視してみようっていうことと、この森上が言ってるかのようにっていうのは、どんなところでガチャッと紐づいてたんですか?
あ、だからその、私がすごい思った、改めて思ったのが当たり前なんです。
私たちって基本的にいろんな役っていうか社会的な身分っていうものを身につけて生きてるわけじゃないですか。
その社会のルールとか正義とかっていうのはなくて、ただなんとなくそういうものがあるかのように振る舞って、自然とこう社会的な役割を身につけてるなーって思って。
そういう役が、みんな各々自分の中のかのようにに基づいて、私はきっとこういう役なんだろうって思って過ごしているところがあるよなって思ったんですよね。
うーん、自分が思っている役割。
普通に社会と接続する上で。
普通に例えば私とのぞみさんが話す上でも、プロトコルが今あっているのは、お互い大人の男女が話すときにはこういうふうなコミュニケーションをとるものみたいな。
そんな正解とかないけど、そういうのがあるかのように思って、プロトコルをインストールしてそれを表出しているというか。
ご飯を食べに行く時の振る舞いとか細かいところで言ったら。
知らない人に対してどう接するかとか、友達とどう接するかとか、そういうのも含めて全部。
まるでそこにみんなが共有している前提があるかのようにして、私たちはそういう振る舞いを身につけている。
改めて思ったんですよね。
もし間違っていたら教えて欲しいんですけど、こういうことなのかなと思ったのは、
かのようにっていうのは、自分で認識しているものもそうじゃないものもあって、
客観視するっていうのは、ちょっと立ち止まって、ふと自分の立場であるとか振る舞いっていうのを観察したときに、
自分ってこういうかのようにっていう前提を持って振る舞っているんだなぁ、みたいなことが理解できるようになるといいねってことですかね。
はい、そうなんです。
なるほど、なるほど、なるほどですね。
かのようにっていうのは、今、みきちゃんと私の間である暗黙のプロトコルみたいなことが、ある種のかのようにっていう風になっている。
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なるほど、なるほど、なるほど。
ひでまろくんはドイツでそういうことに気づいちゃったんですよね。
そうですね、私、小説の前半がずっとドイツで考えたことを長々書かれているんですけど、
それすごい、全然、その内容自体は全然理解できなかったんです。
ドイツで気づいた。よくわかんない、何言ってるんだろうと思っちゃった。
お父さんへの手紙、お父さん視点で書かれている部分結構ありますよね、前半の方は。
そうですね。
手紙を読んで、息子はこう考えているのではなかろうかみたいなことを、もくもく考えるみたいなやつですよね。
なるほどな、かのように。
で、これが1912年に発行された小説っていうのも、そんな、もう100年以上前、108年前ですよね。
108年前から書かれていることで、今でもすごいグッとくるものがあるっていうことになった。
ウィキペディアとかでさっと見てみると、この森鴎外がこの小説を通じて伝えたかったこと、
というか世の中に発信したかったことみたいなのも出てきますよね。
ありますよね。
大学実験の後に書かれたとか、森鴎外自身が結構政治的な中枢のブレイン的なこともやっていたから、
明治維新というか、どんどん時代が変わっていかなきゃいけない。
日本の天皇ありきの社会からもっと開けた思想に変わっていかなきゃいけないっていう、
もともとアイデンティティとしていた考え方を変えなきゃいけない時の苦しみとかを小説の形で表した、みたいなことは私も読んでいた。
そういう見方をすると確かに、全てが森鴎外の頭の中のような気もしてきます。
天皇制みたいなことが語られるときに、出てきました、みたいなことが。
なるほどですね、みたいなことは思ったんだよな、なるほどね。
美紀さん的には、かのようにっていう考え方が、すごいちょっと安直な聞き方をすると、
ポジティブ、ネガティブ、いや別にどっちでもないニュートラルで言うと、
かのようにって良いことだよな、悪いことだよな、とかっていうのは何かあったりするんですか?
ニュートラルなんですけど、それがないと、小説でもあったんですけど、
どんなものも、芸術でも政治でも何でも、かのようにが土台にないと何にも始まらない、みたいなことが書かれていて、
それは本当にそうだなって思っていて、結局私たちは同じものを見ているっていうつもりで話してますけど、
本当に同じものを見ているのかっていうのを証明することってできなくて、
結局全てはかのようにの前提で生きているって言いだそうだよなと。
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確かにな。見てて、中でかのようにっていうのがどういうものかの説明で、
すごい個人的に分かりやすかったのが、何て言うんですか、
気化学でいうところの点と線みたいな話が出てて、
中学高校ぐらいの数学をやると、点と線の概念として、点って面積を持たないし、線って面積を持たないみたいな話があるじゃないですか。
もしノートの上に線を書いてくださいって言って、鉛筆ぶーっと横に線を引いたとすると、
それって面積を持っちゃってるじゃないですか。
面積を持たない線というものは実在しないのじゃないかみたいなことは確かにそうだなと思ったりもして、
点も同じように点を打つとそこには面積があるじゃないですか。
それはないことに一回してみましょうやとか、あるいは数字でいうとこのゼロみたいな、
ないっていう状態は数字をあるってことにするんですか、それって何でしょうかみたいなときに、
ゼロっていうものをとりあえず置いてみましょうみたいな、あるかのようにゼロというものがあるかのように振る舞ってみましょう。
あるいは面積がないかのように振る舞ってみましょうっていうことをやったことによって、
前に進みますからね。
前に進みますよね。
あんだけ高校数学のときには、それなんだよって思ってた巨数が、
それを考えることによって半導体を考えるときにめちゃくちゃいい感じになったりとかするわけですよね。
かのようにって思っても役立つこともあれば、
一方でみひさんと私って同じ土台に立っているかのように話すけど実際には違うってところを、
そうそうそう、そうなんですよ。
やるとミスマッチがあったり、
20:06

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