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或る母の話 後編
2026-01-10 16:50

或る母の話 後編

0168 260110 渡辺温 或る母の話 後編 朗読:井口謙
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おしゃべり本棚。
この時間は、福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
渡辺恩。
ある母の話。後編。秋になって。
友子から、彼女が朝原と婚約したという話を唐突に聞かされた時に、母はさすがに驚いた。
娘の利発な資料深い性質を十分信じていたので、その恋愛についても危惧する必要はほとんどないわけだったが、
不運な思い出を持った母親にしてみれば、やはり心もとなく思われたのであろう。
とにかく一度お会いになってください。お母さんだってきっとお気に入りことと思うわ。
そりゃあお前がいいと考えた人なら間違いはないに違いないけれど。
でもついこないだまでやんちゃで私をさんざん困らしていたお前が、もうお嫁さんになるなんて、
とても本当とは考えられないほどだよ。
お嫁さんになって赤ちゃんを産んで、そうすれば私はおばあさんなのかしら。おかしいわね。
母親はため息のように笑った。その普段はどうかするとひどく子供っぽくすんで見える瞳にさみしげな影がさしていた。
ともこは母親の気持がわからなかったわけではないのである。しかしそのために彼女の新しい正しい愛が不当にゆがめられなければならぬ理由はどこにもなかった。
そうしてある土曜日の夕刻からともこは初めて朝原を晩餐に招いて母親と引き合わせた。
おおよそ朝原ならば誰の目にも申し分のない向こと見えていいはずだった。
だが恋人と優しい母親と一緒に並べて精一杯幸福だったともこは、その母親の優秀の色が一層深くなっていたのには心づかなかった。
「ねえお母さんお父さんに似ていると思いにならなくって?」とともこが母親に言った。
本当にそっくりでいらっしゃること。
母親の声はうつろにひびいた。
お母さんせいぜい懐かしがってちょうだい。
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そんなに似ていますかなあ。
朝原は照れくさそうに顎のあたりを撫で回した。
いろいろ娘からうかがっておりますが、
お父様はお亡くなりになったのでございますってね。
ええ僕が中学校を出た年、もう九年からになります。
アメリカで死にました。
おやアメリカへ行っていらしたのですか。
ええこのことは話す必要もないし、
あんまり話したくなかったのでともこさんにはまだ言わずにいました。
お父さんのお名字はもとから朝原とおっしゃいましたか。
いいえ朝原というのは僕の母方のせいです。
父は松岡という家から養子に来たのです。
松岡。
ともこの母親はのどをひきずらせた。
ご存じでいらっしゃいますか。
朝原がびっくりして聞き返した。
いいえいいえ。
それであなたもアメリカでお育ちになったのですか。
ええ生まれたのはあちらです。
でも小学校に入る年頃になるとすぐに母方の祖父の意見で
母と一緒に日本へ呼び戻されて、
それからずっと母の実家で育ちました。
父だけは何といってもこちらへ帰ることを承知しなかったそうです。
なぜでしょう。
知りませんがともこはこのときようやく
母親の顔色がひどく青ざめているのに気がついた。
お母さんご気分が悪いのじゃなくて。
そう言いながらその手を握ると冷たく汗ばんでふるえていた。
ほんの少し頭痛がするだけなんだけれど
ちょっと休ませていただこうかね。
母親は朝原にえしゃくしてから
娘に肩を支えられて力ない足取りで出て行った。
ともこが一人で部屋へ戻ってくると
朝原は思い切ったようにともこに言った。
ともこさんあなたのお父さんの写真というのを見せてください。
ともこはすぐに立ってアルバムを出してきた。
彼女も何かしらただならぬ不安を感じて
アルバムをめくる指先がおののいた。
ああ!
ともこに示された写真を見て朝原が鋭い叫び声を立てた。
僕のお父さんだ。
いや少なくともこの写真はそうです。
僕はこれと同じ写真を家から持ってきて
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お見せすることができます。
そんなばかな。
ともこはいきなり真っ暗な
底の知れない穴の中へ転落していくような
激しいめまいを感じた。
恋人同士が同じ一人の父親を持っていたとすれば
これ以上みじめなロマンスの破綻はない。
男は畳の上につっぷしたまま
絶望のあまり気を失いかけている女を後に残して
逃れるように戸外へ飛び出して行った。
あくる朝、まだ明け切らないうちに朝原が再び訪ねてきた。
ともこは一晩中泣き明かして眠らずにいた。
どうしてもがてんのいかない節があるのです。
と朝原は白けた唇をわななかせながら
せき込んだ調子で言うのであった。
僕の父はあなたが生まれる五六年も前に
アメリカへ渡ったのですがそれ以来ただの一度も
日本へ帰らなかったことは私の母をはじめ
誰に聞き合わせてみても確かな事実らしいのです。
あなたのお母さんに本当のことをお尋ねしなければなりません。
お母さんはどこにいらっしゃいますか。
母は昨夜からあの時きり二階のお部屋から出てまいりませんの。
あれっきり朝原はぎょっとしたらしかった。
すぐにお母さんにお目にかからなくちゃ。
朝原はともこの腕をつかんで階段をかけあがった。
二階の廊下へ出ると激しいガスの匂いが鼻をついた。
そして寝室の扉には鍵がおりていた。
まことにおあつらい向きにも郊外風の
割にがっしりした和洋節中の建築だったのである。
朝原ががんじょうなからだごとぶつけて扉を押し破って入ってみると
はたしてガスストーブ用のガスの線を開き放したまま
ともこの母親は寝床の中で白狼のように冷たく眠っていた。
枕もとに書き置きがのせてあって
次のようなことがたどたどしく記されてあった。
ともこあなたと礼介さんはけして兄弟ではありません。
安心して結婚していいのですよ。
つまりあの写真の人があなたのお父さんだといったのは
まるっきり嘘だったのです。
そして実をいえば私があの人と結婚したというのも嘘なのです。
09:02
ただ私たちは私と松岡とは田舎にいた自分いい名付けだったのです。
そのころ私はようやく物心がつき始めたくらいの子供でしたが
それでもゆくゆく自分の一生をまかせる夫は
あの人以外にないものと信じていました。
あの人も私を誰よりも愛してくれました。
松岡は大学を出るとアメリカへ行きました。
ほんの一年か二年という約束だったのにもかかわらず
三年たっても五年たっても一向戻ってきませんでした。
それでもなお私は変わらぬ愛情をあの人の上に捧げていたのですが
そのうちに風の頼りに
あの人がどうやらアメリカで結婚したらしいという噂を聞きました。
それで私の周囲の人々は私にあの人をあきらめるようにと
いろいろといて聞かせ始めました。
しかし私はやっぱり
例えばペアギュントの帰りを頭が白くなるまでも
辛抱強く待っていたソルベジのように
どんなに寂しく長い間置き去りにされていようとも
一生のうちにはいつか帰ってきてくれる日があるような気がして
甲斐なく望みをかけていました。
しかしやがて両親が次々に死んで
私は本当にたった一人で暮らさなければならなかったのですが
それではあまり寂しすぎたので
ちょうど知り合いの貧しい学校の先生の家で
七人目の赤ん坊が生まれて育て兼ねていたのをもらって
養うことにしたのです。
その赤ん坊があなただったのです。
私はそれから何かと面倒な田舎を捨てて
あなたと二人きりでこの都へ出てきました。
私はあなたが大きくなるにつれ
あの人を父親であるようにあなたに信じさせることによって
だんだん私自身もそんな風な夢や錯覚の中で
慰められようと努めました。
そして十年も十五年も経つうちに
あなたに感じる愛情がいつとはなく
あの人への因果な志望をあきらめさせたほど
根強い神秘なものとなってしまったのです。
それにしてもそのあなたがあの人の息子と結婚するなどとは
何という不思議な巡り合わせなのでしょう。
私の不運のかわりにあなたの声には
神様のおめぐみがありあまることと信じます。
12:03
私が死ぬのは死ななくともよかりそうなものにと
あなたは思うかもしれませんが
あの人が死んでしまって
そして子を打ち明けてしまえば
かわいいあなたとも
やっぱり他人同士に帰らなければならないし
これ以上年寄りの寂しさを我慢して
望み少ない世の中を生き延びていくのには
疲れすぎてしまいました。
それでは
誰よりも幸せに
お暮らしなさい。
一生意地らしい処女であった母
友子はかきおきを信ずることができた。
そして20年の長い間
慈愛深い母親として自分を育てあげてくれた
清らかな童女の死に顔の上に
長いこと涙にくれていたのであった。
次回はポッドキャストでもお楽しみいただけます。
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